160th BASE
お読みいただきありがとうございます。
最近県外に出ることが多くなり、地元の蒸し暑さがどれだけ独特なのかがよく分かるようになってきました(笑)
七回表の亀ヶ崎は三者凡退で攻撃を終える。自軍がスリーアウト目を取られたのを見届け、祥はマウンドへと駆け出した。この回の先頭は三番の錦野。課題の左打者からの対戦となる。
「よろしくお願いします」
錦野が打席に入る。祥は一旦ロジンバックを触れてから、顔を上げて錦野と対峙する。
「う……」
密かに眉を顰める祥。市岐阜戦での悪夢の記憶が蘇り、胸がざわつき出す。
(やっぱり怖いな……。けど練習ではストライクを取れるようになってるんだ。できると信じて投げ込むのみ)
恐怖に抗いつつ、祥が錦野への初球を投じる。六回表と同じように、優築のミットに向かって大きく左腕を振る。
「ボ―ル」
アウトコースに僅かに外れた。だが置きにいった感じは無い。ボールにも力は伝わっている。
二球目。祥は外角へのストレートを続ける。これも怖じけることなく腕を振った。錦野は見逃したが、球審はストライクをコールする。
「お……」
遂にストライクを取ることができた。祥は一瞬口を開けて固まり、その後すぐ口元に小さな笑みを溢す。
(やった。練習した甲斐があった)
三球目は高めのストレート。錦野は打って出る。
「ファール」
打球はバックネットに当たる。これでツーストライクとなった。
(いける。いけるぞ)
胸騒ぎが徐々に小さくなり、祥は期待感を膨らませる。このまま錦野を抑えきることができれば、彼女には大きな自信となるはずだ。
「ふう……」
祥は一つ深い呼吸をし、気合を入れながらセットポジションに入る。四球目、祥の投球は内角低めに行く。見送れば間違いなくストライク。錦野は苦し紛れのスイングを強いられる。
(よし。アウトになれ!)
そう祥が願う中、錦野は何とかバットに当てる。詰まった小飛球が三遊間に飛んだ。
「サード!」
「く……」
杏玖がジャンプしてダイレクトで捕ろうとするも、僅かに届かない。バックアップに入った京子がワンバウンドで掴み、歯を食いしばって一塁へ投げる。
「おりゃあ!」
遠投になる。打った錦野も必死で走る。タイミングは際どい。
「セーフ、セーフ!」
間一髪で錦野の足が勝った。内野安打だ。
「まじか……」
祥はがっくりと肩を落とす。収まりかけていた胸のざわめきが、再び彼女の中に渦巻く。
「ごめん祥。もう少し早く送球に移れていれば……。そっちはナイスピッチだったよ」
「分かった。次は頼むね」
詫びを入れる京子に対し、祥は微笑を作って言葉を返す。打ち取ったと思われたが、残念ながらアウトにはならなかった。
(京子がああ言ってくれてるってことは、勝負には勝ってたってことなんだ。大丈夫だ。私は抑えられる……はず)
祥は前向きに考えようとする。しかし今のプレーでアウトを取れなかったという事実が、見えないプレッシャーとなって彼女に重くのしかかることになる。
《四番ファースト、宇野さん》
ノーアウトでのランナーを置き、四番の宇野に打順が回る。この試合ではまだヒットは出ていない。
(とりあえずこの人を抑えるんだ。そうすればそこから立て直せる)
早くワンナウトが取りたい。そんな欲求が、無意識の内に祥の心に芽生える。だがそれは焦りとほぼ同じものであり、彼女の投球を狂わせていく。
「ボ―ルツー」
「あ、やべ」
初球、二球目と抜け球になる。外に大きく外れているので、宇野はバットを振ろうとする素振りすら見せない。
(ここでフォアボールは駄目だ。前と一緒になっちゃう)
自らを律しつつ、祥は宇野への三球目を投じる。指に掛かったストレートが内角高めへ。コースは悪くない。
「ボ―ル」
しかしストライクは取ってもらえなかった。これでボールが三つ先行してしまう。
(えー? そこ外れてるの?)
祥は渋い表情を露わにする。ここから三球連続でストライクを投げなければならない。それが彼女にとってどれだけの難題なのかは論ずるまでもないだろう。
「ボ―ル、フォア」
この後祥は一球ストライクを入れられたものの、五球目は見極められて宇野を歩かせる。彼女にとっては痛い四球となる。
「タイム」
同点のランナーが出たということで、亀ヶ崎内野陣はマウンドに集まる。杏玖はベンチの指示を確認し、どういう守備隊形をするのか他の選手と共有する。
「極端なバントシフトは敷かないって感じだね。バッターは五番だし、もしもバントしてきたら確実に一つアウトにしよう」
「はい!」
「ピンチではあるけど、祥は気楽に投げれば良いからね。打たせてくれたら私たちが守るよ」
「は、はい」
杏玖が祥にリラックスすることを促し、マウンドの輪が解けていく。打席に入った五番の小和泉は、予めバントの構えをしていた。
(二点ビハインドで五番にバント? 最終回だし、それは無いと思うけど……)
消極的とも取れる楽師館の作戦に、優築は懐疑の念を持つ。一方、祥の方は小和泉がバントしてくれるものだと思い込み、若干の安堵感を抱く。
(バントしてくれるのかな。これでワンナウト貰える。良かった)
だがこうした決めつけは、重大な危険を招くことが非常に多い。小和泉への初球、バントをさせようと思った祥は、気の抜けたストレートをストライクゾーンに通す。小和泉はボールが祥の左腕から離れるのを見計らってバットを引き、スイングしてきた。
「え?」
鋭い打球が祥の頭上を越え、センター前に弾む。二塁ランナーは三塁でストップ。アウトのランプが一つも灯らないまま全ての塁が埋まった。
「祥、慌てないで。やれることやろう」
「は、はい」
優築がホームから祥を宥める。祥も何とか騒ぐ心を沈めようと、ロジンバックを触って態勢を整える。
(まさか打ってくるなんて……。けどもうなってしまったことはどうしようもない。私はやれることをやらないと)
二塁ランナーが還れば同点、一塁ランナーまで還ればサヨナラ。この局面を、祥は切り抜けられるのか。
See you next base……
WORDFILE.61:バスター
バントの構えをしている打者が、投球に合わせてヒッティングに切り替えること。和製英語であり、英語では“slash bunt”、“slug bunt”、“fake bunt and swing”などという。
相手を欺くための作戦として使われることが基本だが、フォームの矯正やタイミングの微調整を目的に用いられることも多い。スイングをコンパクトにしたり、ボールを長く見られるようにしたりすることに有効である。




