151th BASE
お読みいただきありがとうございます。
先日は人生初めて本格的な健康診断に行ってまいりました。
終始緊張しつつも無事終了。
果たして結果は……。
夕陽が沈み、辺りは灰色と化してきている合宿から帰ってきた私は、京子ちゃんたちいつもの三人と共に帰り路を歩いていた。
普段ならその日にあったことを話して盛り上がるのだが、今日はほとんど誰も話そうとせず、専ら重苦しい空気が流れている。その原因を作っているのは言うまでもない。私と祥ちゃんである。
私は今日の市岐阜との試合に先発し、五回四失点だった。これに関しては良い結果とは言えないが、決して酷くはない。問題はその内訳だ。喫した四失点は、全部スライダーを打たれてのもの。失投だけでなく、きっちりと投げ切った球も捉えられた。
夏大が終わってから、私はお兄ちゃんのスライダーを受け継ぎ、誰にも打たれない球種にすることを目指して磨いてきた。だが思うようには上手くいかず、今日の試合ではあっさりと攻略された。
降板後から現在まで、私の頭の中では紗愛蘭ちゃんや高島さんに言われたことが止まることなく渦巻いている。今日の試合で、二人の言葉が正しいと証明されてしまった気がする。私には、お兄ちゃんのスライダーを投げられないのだろうか。だとすればここまでやってきたことも、ほとんど無駄だったということだろうか。
「あ……、私こっちだから。お疲れ」
分かれ道に差し掛かり、祥ちゃんが立ち止まって私たちに別れを告げようとする。その表情には生気が無く、このまま一人にするのが怖くなる。
「さ、祥」
私と同じことを感じたのか、紗愛蘭ちゃんが咄嗟に祥ちゃんを呼び止める。
「何?」
「えっと……、こういうのも、良い経験になるから。明日はしっかり休養して疲れ取って、また明後日から頑張ろ」
「ありがと……。ふふっ、私は大丈夫だよ」
祥ちゃんは仄かな笑みを浮かべて言う。けれどもそれは明らかな偽物。私はすぐに気付いたが、かといってどうすることもできない。
今日の試合は祥ちゃんのデビュー戦でもあった。私の後を受けて六回から登板し、最初のイニングは無失点に抑えた。ところがその次の回に悲劇が起こる。突如ストライクが入らなくなり、四死球を連発。最後は投げることすら儘ならなくなって交代した。
初めての登板なので、こうしたことが起きるのも不思議ではない。実際一イニングはきっちり抑えたわけだし、祥ちゃんにはその点を自信にしてほしいと思う。
「じゃあ行くね。真裕たちは電車に乗り損ねないようにしなよ」
祥ちゃんが自転車を漕ぎ出す。私たちは何か言葉を掛けることはせず、ただただ手を振っていた。
それから私は京子ちゃんと電車に乗り、家に帰ってきた。時刻は既に七時を回っており、仕事を終えたであろうお母さんが夕食の準備をしている。
「ただいま」
「あ、おかえり。久しぶりだね」
「そうだね。お風呂入れる?」
「うん。大丈夫だよ」
お母さんは陽気に出迎えてくれる。私はそれに安心感を覚える一方で、今の陰鬱な気分を悟られたくなく、そそくさと脱衣所へと向かった。
風呂から上がると夕食が出来上がっていた。久しぶりのお母さんの手料理は美味しかったが、残念ながらそれで気持ちが晴れるわけではない。
食事を済ませた私は一旦自分の部屋に戻り、合宿で使った荷物を片付ける。その後、今日の合宿での出来事を相談したいと思い、お兄ちゃんの部屋をノックする。
「何?」
「ちょっと聞いてほしいことがあって。入っても良い?」
「勝手にしろ」
私はドアを開ける。部屋の中では、お兄ちゃんが床に座ってグラブの手入れをしていた。その光景に私は嬉しさを抱きつつ、お兄ちゃんの向かいに腰を下ろす。
「あのね、私今日の試合で先発して、スライダーを試したんだ」
「ふーん。それで?」
「……打たれた。初回からどんどん使ってったんだけど、四回に捉えられて、一気に四点取られた」
「そうなんか。まあずっと使ってりゃ相手も慣れてくるわな」
淡々と作業を続けながら、お兄ちゃんはさも当たり前であるかのような受け答えをする。グラブオイルの匂いが、ほんのりと私の鼻に入ってくる。
「でも、あんなに打たれるとは思ってなかった。お兄ちゃんのスライダーが使いこなせたら、市岐阜くらいならすんなり抑えられるはずなのに」
「甘いな。スライダー一つで抑えられるわけないだろ。ていうかお前さ、何でそんなに俺のスライダーに拘ってんの?」
「だってお兄ちゃんのスライダーは誰にも打たれない最強のボ―ルじゃん。あれを手に入れられれば、私は絶対に日本一になれるはずなんだ」
「は?」
お兄ちゃんが手を止めて私を見る。その眼差しは刺々しく、込められた怒気が犇と伝わってきた。
「お前さ、舐めてんの?」
「え?」
「俺のスライダーがあれば誰にも打たれないとか、勘違いも甚だしいな。野球はそんなに簡単なもんじゃないんだよ。別に俺のスライダーなんて、最強でも何でもない」
「けどお兄ちゃんのスライダーは本当に誰にも打たれないじゃん!」
「それはお前が見たことないだけだろ。前も言ったけど、俺のスライダーは何度も試行錯誤を重ねてきた。当然、試合で打たれた経験を活かしてな」
左手の親指で人差指と中指の先を摩り、お兄ちゃんは昔のことを回想しているかのような口ぶりで話す。お兄ちゃんの過去の苦労が私に分かるはずがない。それでも私は、お兄ちゃんのスライダーに対する幻想を捨てられなかった。
「だけど……、だけど最後は、お兄ちゃんのスライダーは打たれなかった。最強のウイニングショットになったんだよ!」
私は頑なに訴える。ここまで意固地になる必要など本当にあるのだろうか。おそらくこの時点でその答えは出ていたが、私は素直に認めることができなかった。そんな私の気持ちを慮ってか、お兄ちゃんはある提案をする。
「分かったよ。そこまで言うなら、明日の試合観に来いよ。俺も投げる予定だから」
「え? そうなの?」
「ああ。お前も部活休みなんだし、ちょうど良いだろ。どうする?」
「行くよ。行くに決まってるじゃん」
断る理由など無い。私は即応で行くことを決めた。お兄ちゃんは表情を変えず「分かった」とだけ言い、グラブの手入れを再開する。
またお兄ちゃんの投げる姿が見られる。それだけで自然と私の胸は弾む。そこで見せつけられる現実がどれほど衝撃的で、それを通してお兄ちゃんが何を私に訓示しようとしていたかを、考えようともせずに。
See you next base……
WORDFILE.59:グラブの手入れ
グラブは定期的に手入れをしなければならない。基本的には土や泥などの汚れを拭き取ってから、専用のオイルを薄く塗る。塗り過ぎると極端にグラブが重くなったり、型崩れをしたりしてしまう。使用前よりも使用後に手入れをするのがポイント。
またグラブの中を湿らせると臭いが発生してしまうため、普段から風通しの良い場所に置いとかなければならない。




