102th BASE
お読みいただきありがとうございます。
一月も中旬に差し掛かり、新年ボケも徐々に治ってきた気がします(多分)。
《七回表、亀ヶ崎高校の攻撃は、七番ピッチャー、武田さん》
グラブからバットに持ち替え、葛葉が打席に入る。花月のピッチャーは島田にスイッチしていた。
(さっき素振りしても何ともなかった。大丈夫、振れる。この回点取って、裏を抑えて終わりにするんだ)
初球、葛葉は真ん中低めのストレートを見送る。判定はボールだ。
マウンド上の島田は辻本と同じ右投げだが、直球を主体としており、投球スタイルは全く異なる。辻本が捉えられ始めていただけに、この交代は必然と言える。ただし状況は同点の最終回。島田に掛かる精神的なプレッシャーは大きいはずだ。それは葛葉も身に染みて理解していた。
(同じ立場だから分かるけど、こういう場面で登板すると一つのストライク、一つのアウトを取るまではとてつもない不安に駆られる。そこを突いていかなきゃ)
二球目、島田はまたもストレートを投げてきたが、これも外れた。
(ストライクを取るのに苦労してる。少し揺さぶってみるか)
三球目、島田が投げるのに合わせ、葛葉はバントの構えをする。それが気になったのか、島田の投球は高めに浮いた。
「ボールスリー」
ストライクが入らないまま、ボールが三つ先行。チャンスの香りが仄かに漂い始める。そして……。
「ボール、フォア」
結局四球目も外れ、ストレートのフォアボールとなる。願ってもない形で、ノーアウトのランナーが出た。
「おし!」
葛葉はなるべく腰に響かないよう、負荷の少ない走り方で一塁に向かう。その姿を見つめながら、監督の隆浯はここからの攻め方を思案する。
(相手の投手はコントロールに苦しんでる。けれども俺たちは先攻。下手に待って失敗すれば一気に流れを持っていかれる。ここはどんどん仕掛けていこう。まずはランナーを得点圏に置く。それから勝負を掛ける)
バッターは八番の優築。隆浯は送りバントを指示すると、前の回にベンチ裏から戻ってきていた洋子の名を呼ぶ。
「洋子、空のところ、代打行くぞ」
「はい!」
隆浯からの命を受け、洋子はヘルメットを被ってネクストバッターズサークルに入る。その際、交代する空は彼女に激励の言葉を送る。
「ほんとは私が決めたかったけど、お前に譲ってやるよ。ヒーローになってこい」
「分かりました。ちゃんと目に焼き付けてくださいね」
優築がきっちりと送りバントを成功させ、ワンナウト二塁の局面が出来上がる。そして予定通り、洋子の代打が告げられる。勝ち越し点を挙げるべく、亀ヶ崎がジョーカーを切った。
《九番、天寺さんに代わりまして、バッター、増川さん》
「よろしくお願いします」
バットの重み、相手投手との距離、自身の呼吸の荒さ、それら一つ一つをつぶさに確かめながら、洋子が打席で構える。緊張こそしていたが、頭の中はすっきりとしていた。
(代打は消極的になったら負け。一球目から臆せず振っていく)
初球。洋子は真ん中やや内寄りに来た球に手を出す。しかしボールはベースの手前で斜めに滑っていき、洋子のバットは空を切る。スライダーだった。
(初めて変化球を使ってきた。意外と良いものを持ってる)
二球目は外角低めのストレート。島田はほぼ捕手の構えた位置に投げ切ったが、球審の手は上がらない。ワンボールワンストライクとなる。
(真っ直ぐも操れるようになってきてるみたいね。けどこれで腹を括って打ちにいける。こんなに良い場面で出してもらってるんだ。監督の期待に応えたい!)
実はこの大会を迎えるにあたって、洋子は隆浯とある話し合いをしていた。彼女はそのことについて思い出す――。
背番号発表の控えたある日の練習前、隆浯は洋子を職員室に呼び出した。夏の大会のレギュラーについて話すためだ。
「失礼します」
練習着姿で職員室に入ってきた洋子を、隆浯は個別で話ができる場所へと案内する。
「悪いな、態々呼び出して」
「いえ、気にしないでください」
洋子は普段と変わらぬ口調で応答する。ただ勘の鋭い彼女は、これからどんなことを言われるのか大方見当が付いていた。隆浯は若干の躊躇いを見せながら、話を切り出す。
「洋子、お前には申し訳ないが、夏の大会は紗愛蘭をライトのレギュラーに据えようと思ってる」
「……そうですか」
非情な通告に、洋子は唇を噛みしめる。教知大学との練習試合の結果からこうなることを覚悟していたが、改めて突きつけられると胸に重たくのしかかってくるものがあった。
しかし、隆浯の話はここで終わらなかった。
「ただしお前にはレギュラーと同じぐらい、いや、それ以上に重要な役目を任せたいとも思ってる」
「え? どういうことですか?」
戸惑いを露わにする洋子。隆浯は諭すような口調で彼女に語りかける。
「夏の大会の優勝は、レギュラーだけでは絶対に勝ち取れない。必ず控えのメンバーの力が必要になる時が来る。それはもしかしたら試合の行方を左右する場面になるかもしれない。だからお前には、勝負所での切り札になってもらいたいんだ」
「切り札……ですか?」
「ああ。代打、代走、守備固め、起用の仕方は色々だ。正直、傍から見れば地味な役回りだし、にも関わらず結果を出すのが難しい。かなりしんどい思いをさせてしまうだろう。でも俺は、洋子ならできると思ってる。お前がこれを熟してくれれば、俺たちは優勝にグッと近づける。やってもらえるか?」
「監督……」
こんな風に隆浯が直々にお願いしてきたことに、洋子は驚きを隠せなかった。と同時に、彼女の胸は急激に熱くなる。監督にここまでしてもらって、断る理由などあるはずがない。
「分かりました。やります」
洋子は快く首を縦に振る。こうして彼女は勝負所での切り札として、新たな境地への挑戦を決意したのだった――。
(レギュラー落ちは悔しい。けれど私の実力が踽々莉に及んでいないことは事実。それでもチームの優勝のために働けるなら、私はどんな役割だって厭わない。そして結果を残してみせる)
三球目、洋子は内角のストレートを引っ張る。良い当たりだったが、打球は三塁側のスタンドに消えていった。ランナーの葛葉はリタッチのために二塁ベースに戻る。
(打ってくれ洋子。私を還してくれ)
葛葉は洋子に念じる。だが今のファールで、洋子はツーストライクと追い込まれる。
(一球目みたいなスライダーが投げられるなら、決め球はそれにするんじゃないだろうか。ひとまず外角に意識をおいて、内の球はカットしよう)
洋子は決め球がアウトコースに来ると読んだ。グラウンド全体の緊迫感が増す中、花月バッテリーがサイン交換を終える。
迎えた四球目。島田が投げ込んできたのは、インコースへストレートだ。
(む……)
完全に裏を掻かれた。洋子は反応するもバットを出せず、ボールがミットに収まるのを見届けてしまうのだった。
See you next base……
WORDFILE.40:代打
代打で結果を残すのは非常に難しい。通常、打者は打席を重ねていくことにタイミングを掴んでいくものだが、一打席しかチャンスが無い代打はそれができず、その場で対処するしかない。野球では打率三割で一流とされるが、代打の場合は二割五分、即ち四回に一回の割合で打てれば一流と言われている。
代打の一振りで生き抜いていくためには、勝負強さと失敗を恐れない強靭な度胸が必要不可欠である。




