二学期の始まり
今日は二学期初日。
午前七時。開始には早い学校にたどり着くと部室へと向かい、袴に着替える。
向かった先は学校内の弓道場。既に三年生は部活を引退していて、他に誰もいない静かな道場に一人でいるのはなかなか気分がいいものだった。
一応、説明言っておくと部員が一人しかいないということではない。全国大会を目指して朝錬するために、俺は特別に部室の鍵のスペアを作ってもらって自主練習として月水金だけ朝錬をしている。
晴れ渡る空、生徒のいない学校、ただ一人、他に誰もいない道場で部活をする俺……
……さ、寂しくないし!
邪念をはらい、気を取り直して安土に金的を取り付ける。安土とは的の後ろにある盛り土の事で、金的とは通常の的よりもかなり小さく、俺達では正月のときなどのイベントで使う的。その金的は、扇子などを順に置き、先着で射抜いた人が貰うことがで、この金的は初めての初射会で射抜いて手に入れた物だった。
それ以来、朝錬に使っていて、金的に一本当てることを朝錬目標とし、当てたらその日の朝錬は終了、当たらなかったら八時までずっと矢を放ち続けるということをしている。
「ああ、今日も朝の空気は美味しいなぁ」
俺は深呼吸をして気持ちを落ち着ける。閑静な住宅街、森の中でもないので空気の味なんてわからないが、それでも道場で深呼吸をすると不思議と清々しい気持ちになれた。
心も落ち着き、準備がすべて整うと早速弓と矢を持つ。そして道場に礼をして、立ち位置に入って弓を持ち上げる。そして、的を睨みながら弓を引き、最大まで弓を引くと的に狙いを定め、息を止めて願う。
――当たれ!
その気持ちが解き放たれるかのように矢はまっすぐと的へと向かい――
六時(的の下)の方向へと刺さる。
「……知ってた」
気を取り直し、残り三本も同じように矢を放っていく。そして、一通り矢を射終えると礼をし、退出してから弓を置くと、先ほど弓を引いた位置から正座で改めて的を見る。
今度は目を閉じて、先ほどの射形で悪いところがなかったか考えてみる。
射形、狙いは悪くなかった。通常の的だったら当たっているのは間違いない。
ただ、的を狙っているときに妙な雑念が心の中で引っかかっているような感覚がした。
目を開けて黄金色に光る金的をじっと眺める。
「そう、この光景」
じっと見つめながらしばらく考える。
「……思い出した」
夢に見た月の光景だった。そしてふとあのとき夢に現れた銀色の髪をなびかせた女性のほほ笑みを思い出す。
「きれいだったなあ……じゃない!」
慌てて両手で頬を叩き、目を何度か瞬きする。
「よしっ!大丈夫!次こそ的中させるぞ!」
誰も聞いていない道場でそう決意を呟く……ことを後で後悔する。
その後の朝錬は散々だった。一度思い出すと忘れられなくなるもので、その後的を見るたびに夢の女性のことを思い出してしまい、集中が途切れた。こうなると通常的よりもかなり小さい金的に当たるはずもなく、終了時刻の午前八時までの間、結局一本も矢が金的に当たることなく終わった。
意気消沈しながらも片付けをし、部室に戻って制服に着替える。そして、俺はまだ誰もいない教室に入り、机にうつ伏せになった。
「最悪だぁ……」
ぐったりとしながら目を瞑り、再び夢に見た女性を思い出す。
夢の世界とは言え、出会ったときに感じた好きという感情はそうやすやすと消えなかった。
「もう一回会いたいなあ……」
「誰に会いたいのかしら?」
聞き覚えの有るような無いような声が聞こえ、顔を声がする方に向ける。
そこには見たことがある女子がこちらを見て、手を組みながら立っていた。
「ああ、佐山嬢」
そこにいたのは佐山舞だった。俺が名前を言うとニッコリする。
なお、嬢と呼んでいるのは、昔一緒に遊んだときにお嬢様役が好きだった佐山を皮肉って呼んだら当人が思いのほか喜んで逆に強要されてしまったのがきっかけだ。それが今に至るまで続いている。なお、当人も憧れがあるのか言葉遣いや仕草、見た目の髪型髪で巻きを入れ、ご令嬢風にしているものの、裕福家庭ということではない。もっとも、周囲からはそのせいで誤解を受けて本当のことが言えなくなっているような気もするが俺の知ったこっちゃ無い。
今は別クラスとなっているものの、小学生からの幼馴染だと俺は思っている。
「久しぶりに話してその態度は酷くないかな。でも、今も私を佐山嬢と呼んでくれるのはあなたくらいよね」
「ふーん、で、何か用?お嬢とは別のクラスだったと思うんだけど」
朝錬の不調に打ちのめされていた俺は、面倒くさそうに用件を聞く。
佐山嬢は文句を言いたそうな顔をしたが、考え直したのか、人差し指を顎に当てたかと思うと考えた素振りをする。そして言葉を選ぶように俺に尋ねた。
「今日はたまたま前の廊下を歩いていたら教室でぐったりしているあなたを見かけたから声をかけたのよ。で、会いたいって誰のこと?」
どうやら俺の独り言を聞いてしまったらしい。
あまりに興味津々にこっちを見ていたので仕方なく答える。
「月が綺麗だなあって」
「月が……綺麗?」
佐山嬢はキョトンとした後、急に顔を赤くしてわなわなとしだしだす。そして急にもじもじしだす。
俺は話の続きをしようとしていたのだが、あまりの急激な態度の変化に一旦話をやめ、様子をうかがう。
トイレにでも行きたくなったのだろうか。
「し、しししし、死んで……」
佐山嬢が顔を真っ赤にして何か言い出したとき、教室に誰かが入ってくる。
おそらく今日の日直だろう。俺がそちらにちらりと目をやると佐山嬢も気づいたらしい。
「ば、バカ!」
「ふぁっ!?」
佐山嬢は怒鳴り出したかと思うと顔を赤くさせてそそくさと教室を出て行った。
トイレに行きたかったのだろうか。察しが悪い俺がいけないのかもしれないが、久しぶりに話して死んでバカと罵るのはさすがにどうかと思う。
俺は首を傾げたがその後に佐山嬢が戻ってくることはなかった。
「な、なんだったんだろう……」
夢の話をしようとしたら突然罵られ、すっかり目が覚めてしまったので仕方なく手者にあった小説を読み時間をつぶすことにした。
それからすっかり小説に集中してしまったらしい。
「おはよう!」
小説に手で塞ぎ、話しかけてきたのは友達の三笠夜気だった。
「あ、おはよう夜気」
夜気とは中学からの同級生だった。俺とは違い活発で男子となら誰とでも話せる。ただ、少々チャライのか女性には賛否両論があるらしい。男にも関わらず、愛嬌のある笑顔がよく似合う気さくな奴だった。
「どうしたんだよ。今日はいつもより早いし居眠りもしていないじゃないか」
「お前の俺に対するキャラ設定に異議を唱えたいのですが……」
ジト目で夜気を見ると、夜気はにっこりと微笑む。訂正、愛嬌あるほほ笑みを見せられるとイラッとしてもついつい許してしまいそうになる癪な奴かもしれない。
「ま、そんなことはどうでもいいじゃないか」
「いや、俺はよくないんだけど、てかその話をしてきたのは夜気の方だよな」
夜気は再びにっこりと微笑むと口元が更に緩み、ニヤリとした。この表情は何か面白そうなことを見つけたときの表情だった。
「で、何があったんだよ?」
「……何でわかるんだよ」
「まあ、話してごらんなさい」
そういうと夜気は俺にウインクした。その姿に思わず身震する。普通は同性に対してしない行為に、思いっきりため息をつく。そして、気を取り直すと夜気に話すことにした。
「実は夢を見てしまって――……」
佐山嬢には夢で見たと言い忘れていた事を思い出しながら、夜気に夢で見た内容を詳細に話す。
「……ということがあったんだ」
「つまり、夢で見た月夜の女神に恋をしたと……て乙女かっ!!」
夜気のツッコミに周囲の注目が集まる。いつの間にか教室にクラスの人がほとんどいた。
「ば、バカ!」
俺は慌てて止めに入り、夜気もようやく気づいたらしい。
「あ、わりいわりい」
そう言って頭を掻く。しかし、既に手遅れで何人かはこちらをちらりと見ながらひそひそ話をしている。
その状況に居た堪れない気持ちになっているとチャイム鳴った。
「「あっ……」」
「ま、まあ、今日はどうせ授業もないんだし。始業式後にゆっくり話そうや」
「お、おう」
夜気が席に戻るのを眺めながら呟く。
「……俺は始業式の後に部活があるんだけどな」
こうして俺の高校二年生の始業式は散々な状況で始まった。