その三 勉強しよう
以前、あるラノベの新人賞の選評で、選考委員の先生の一人が言っていたことがあります。
「知らないことを調べて書くより、知ってることを調べず書く方が良い」
この言葉を読んだとき、とても拭えぬ違和感を抱きました。
その時の違和感の内容は、実は私の誤解が基であり、今ではその先生の真意を理解出来ているのですが、それでもその時思ったことは、今でも変わらず残っています。
選考委員の先生の言葉は、こういうことでした。
「高校生が小説を書くのなら、『窓際独身サラリーマンの悲哀』など全く知らないテーマではなく、『高校生の恋愛』のようなものをテーマにした方が良い」
つまり、作者と全く無縁な話に挑戦するくらいなら、まずは身近なものをテーマに選んだ方が書き易いだろう、ということなのです。
勿論、これはあくまで作家未満、作家志望者に対する、応募作を書く上でのアドバイス。プロの作家が自身の身近なテーマのモノしか書けないというのでは話にならないでしょうから。けど、切り口としては間違っていません。
が、その上で私なら、こうアドバイスするでしょう。
「知っていると思ったことを調べず書くな。知っていることを敢えて調べて書け」
「知っている」。それは一体どの程度?
通り一遍知っただけで、その全てを知っているといえる?
或いは、それは「知っているつもり」になっているだけじゃないの?
たとえば、学園物。
そこには大抵、『生徒会』なる組織が登場します。
しかし、では学園物の作者さんたちは、生徒会の業務についてどれだけ知っていますか?
私は高校時代、生徒会役員をしていました。
だから、“私の母校の”生徒会活動をモチーフにした作品を描くことは出来るかもしれません。けど、それがどこの学校の生徒会にも共通した描写になるのか。そこに自信はありません。
改めて訊きます。学園物を描く作者さんたち。貴方たちは生徒会活動というものについて、どれだけ知っていて、どれだけ調べましたか?
生徒会活動だけではありません。学園そのもの。その存在意義。それについてどれだけ調べました?
「なろう」の作品で学園生活が描かれている時。
それが異世界転生物だろうと、学園恋愛物だろうと、それは「友達と楽しい時間を過ごす場所」としてしか描写されません。或いは逆に、「陰惨ないじめが蔓延る場所」、でしょうか?
ところで、日本の学校では何故国語を学ぶのでしょう? 算数を学ぶのでしょう? 理科を、社会を、芸術を、体育を、そういった学問を何故学ぶのでしょう? それぞれを学ぶことに、一体どんな意味があるのでしょうか?
「勉強しろ」というと、「こんなこと勉強しても将来何の役にも立たないじゃないか」と多くの子供は答えるでしょう。では、学園というモチーフを描く作家さんたち。貴方たちはこの言葉にどう答えますか? その問いに対する答えを持ったうえで「学園」を描いていますか?
否。どう考えても、否。
その答えを知らないから、自分の知っている「学園」しか描けないのです。
気に入らない先生や、イジメの蔓延る教室、そして同じ生徒の筈なのに強圧的な生徒会や風紀委員。
それが悪いとは言いません。けど、生徒目線で知り得た小さな事実が、作家という物語世界の神の視点になってしまう結果、全てが陳腐なものになってしまうのです。
たとえば、先生が「これをしろ」と言う。
生徒にとってはどう考えてもそれは理不尽で、無意味。
そう感じた生徒の視点で物語を描いたら、そこに登場する先生は理不尽で無意味なことばかりを指導するでしょうし、それを打破する生徒がヒーローになるでしょう。
では、何故その先生はそれを「しろ」と言った?
前回(『その二 ……守破離?』)で、タイトルに出した『守破離』について触れました。
その通り。学校(高校まで)の教育は、『守破離』の『守』の段階なのです。だから、「何故」もへったくれもなく、師(先生)の教えを愚直に守ることを求められます。
そしてそう考えると、そういった先生を打破する生徒というのは、他の生徒にとってはヒーローかも知れませんが、教育の階梯で評価すると、その入り口でギブアップしたおちこぼれ、でしかないのです。
スクールカースト最下層の生徒がヒーローになる、のではありません。ヒーローとして描かれている主人公が、現実では堪え性もなく師匠の下を飛び出した落第生であり、その落第生を持て囃す作者の未熟さの表れなのです。
ここまで延々「学園」というモチーフを描いた場合の例を取り上げましたが、別に学園に限りません。何についてでも、です。例えば、エッセイを書くときでも。
たとえば、前回の『その二 ……守破離?』。ここで私は、「三点リーダー」のルールについてを述べました。この為に、それなりに色々調べることになりました。
三点リーダーはいつごろから使われ出した? どんな使われ方をしている? 「ルール」と言われているけどそのルールは誰が定めた? 何故そんなルールが生まれた?
調べた内容の全てがそのエッセイに描かれる訳ではないでしょう。けど、調べれば調べるほど、文章に厚みが生まれます。
たとえば、「☆☆について、○○が××だと言ったけど、私は△△だと思う」というのがそのエッセイのテーマだとしたら。
まずその「☆☆」についてを徹底的に調べる。
ついで、「○○が××だと言った」その根拠をまた調べる。
話はそれからです。
その○○さんがどんな人なのか。どんな文脈で××だと言ったのか。その○○さんは他のシチュエーションでは☆☆についてどのような言葉を残しているのか。
そして自分が「☆☆」を「△△」だと思うその根拠は何なのか。調べている過程で、自分の早とちりとか誤解とかが判明する場合もあるでしょう。それがわかればそれだけでそのテーマに斬り込んだ価値があるというものです。
調べもせずに「△△だと思う」という気持ちだけ先走って、「そうでしょ? ね? ね?」という文章になったら、はっきり言って読むに堪えません。
「これは日本語の無駄遣いの駄文です」などと予防線を敷いても、その人の不勉強さの言い訳にはなりません。
え? そんな駄文なら読まなきゃ良いだろうって?
はい、読者の立場ならそう割り切れば良いでしょう。
けど、私も今は、まがりなりにも執筆する立場。反面教師の意味も込め、無視出来ないモノがあるのです。
「文章力が無い」と嘆くなろう作家さんは多いけど、文章力などは、多く読み、多く書き、多く論じていれば自然と身に付きます。
けど、「不勉強」。これだけは、勉強しなければ克服出来ません。
勉強しましょう。
勉強とは、学校の教室で机に齧りつくことだけを指す訳ではありません。
いつでも、どこでも。
どんなタイミングでも、どんなやり方でも。
勉強は、したいと思った時に出来るんです。
たとえテストに出なくても。
自分で望んでした勉強の成果が、無駄になることは決してありません。
(2,874文字:2016/03/31初稿)