Episode3.存在の懐疑
その瞬間は、まるで地を這い爪先から脳天まで一気に突き抜けるような衝撃だった。
黒板の前に怯えるように立つ大人しそうな少女。衝撃に固まったまま、その姿から目が逸らせない。これが運命というものなのだろうか、と幼いながらに思った。
「岩崎葛咲さんです。みなさんの小学校生活もあと3ヶ月ですが、同じ中学校に行くもの同士、仲良くしましょうね」
「岩崎……葛咲です。父の都合で引っ越してきました」
果たして教室の後ろまで届いたか分からないほど、か細い声。お調子者の男子が何かからかう言葉を言っては担任の叱責を受けていたが、そんなことすら気にならない。
――岩崎葛咲。
何度かその言葉を胸の中で反復すると、じゅわっと身体に溶けて満たされるような気分になった。他人にこんな気持ちを抱いたのは初めてである。
それまで男友達とは喧嘩ばかり、女友達ともなかなか馴染めず、休み時間は教室の隅で一人、絵を書いているのが常だった。
担任からは手は掛からないのに酷く心配され、学校の頭も家庭の頭も悩ませた。それくらい他人との関わり方に問題があるとされて来たのに、少女との出会いは周囲を安堵させるほどの衝撃だった。
「あの……よろしく、お願いします」
少女はもじもじと肩をすぼめて言ってから、深く深く頭を下げる。
これが、少女葛咲と黒川千鶴子の出会いだった。
* * *
「ちずちゃんは、私が変だとは思わないの?」
葛咲のローファーに、蛙が入れられていた。おっとりとそのまま足を押し込み絶叫した彼女から咄嗟に靴を引き剥がし、自分の上履きを履かせて手を引いた。
小学校の終わりに越してきた葛咲は、中学に上がっても馴染めず、その上大人しい優等生なものだから、度々いじめのターゲットとなっていた。その度に隣で千鶴子が助け、影で笑う同級生を――時には上級生や後輩までを――睨めつける。
その日もそうして学校を出て、比較的家に近い公園のベンチで葛咲が泣き止むのを待っていた。
「みんな、私を変だと言っていたずらをするの。優しくしてくれるのは、ちずちゃんだけよ」
睫毛の長い、大きな瞳に涙を一杯に浮かべ、葛咲は千鶴子を見つめた。顔の上部を真っ赤に泣きはらし、鼻の頭に出来たニキビが一層痛そうに見える。
「変だとは思わない。それに、あたしはかずちゃんが好きだよ」
「ちずちゃん……」
「かずちゃんは優しい、かわいい、あたしのアイドルなんだから」
「……嬉しい。私も、ちずちゃんが好きよ」
千鶴子は腕っ節には自信があった。小学校の頃は男の子に負けたことはないんだから、と、葛咲に笑いかける。
「だからあたしが、かずちゃんを守るよ」
やがて同級生の男の子との喧嘩も絶え、いざ喧嘩をすれば勝てないであろうほどに体格差が生じることなど忘れたように、自信に満ちた気分だった。
笑った瞬間すこんと何かが胸をすき、清々しい気分で葛咲の手を取る。
「だからさ、今日は家に来な」
空にはじんわりと橙が滲み、雲を黄金に輝かせながらゆったりと流れている。
それでも父子家庭である葛咲の家人は、まだ帰らないだろう。
「かずちゃんは泣き虫だから、一緒にいてあげるよ」
千鶴子も葛咲も、どこかしら人と変わっていた。
だから惹かれるのかはわからないが、思春期の心にほんのりゆらゆらと浮かんだ気持ちは若い脳を恍惚とさせ、背景の夕焼けのように純粋で温かい。まるで世界に二人だけと錯覚するくらい、二人の時間は居心地が良い。
ふと、自分たちはどこからきてどこへゆくのかと疑問に思うことがある。家族や周りの友人、すれ違う他人まで、自分たちと同じ見た目であるはずの者たちが、姿形も異なって見えるのだ。
千鶴子がそう感じているときは、決まって葛咲も同じように思っているらしく、よく首を傾げている。
ともすると自分たちは、本当に二人だけなのかしら、と思うことが何度もあった。
すべて葛咲と出会ってからのことである。
ともすると、自分と同じような「ちょっとばかり変な人間」を人生で初めて見つけたからかもしれない。人は古来から多くの場合、異端を嫌い、差別し、異端と呼ばれた者達は身を寄せ合って救世主を待つものであった。そんな感覚だったのではなかろうか。
千鶴子も葛咲も周囲と同じ人間で、少し感性が違って異端と蔑まれ続けてきたから、そうとも異端だ、自分達以外に構うまいと捻くれただけなのかもしれない。
――それでもいい。あたしは、葛咲が好き。
思春期なりの心が少数派に開かれ、千鶴子はさらに「普通」から遠ざかったと錯覚した。
Next.
――異端であることに、逃げてきた。
小説の特性上、「他人と少し違う感覚」「少数派」の表現として、転校生、同性愛を異端としている場面があります。
それらに対する偏見などはございませんが、気分を悪くされたら申し訳ございません。
デリケートなことですので不適切な表現がありましたら、いつでも一報ください。確認し次第、訂正させていただきます。
それではまた次回。