Episode.2 静かなる侵食
「なんだか今日は、空が白んで眩しくて。外に出るのが嫌になりますね」
今日というより、ここ数日だけれども。
千鶴子が図書館の司書に何気なく呟いた言葉を聞いてか、周りの数名が眉を顰めた。ここのところ、なぜだかこのようなことが多い。
普段通り、当たり障りのない会話で、と発する言葉が、悉く障りある言葉となる。今では、すっかり変なもの扱いだ。
「ええと、いいお天気ですわよね」
大人しそうな司書が、貼り付けたような笑みを見せる。
「女神さまがお見えになるんですわ。こんなにも、太陽が近い」
「はぁ、女神さま……?」
そして、この司書のように、時折耳馴染のない単語を呟くのだ。尊び、敬愛するような、うっとりとした笑顔を浮かべて。
初めは司書がファンタジーか何かに没頭していて、その影響を受けているのかと思っていた。だがこうも続き、他のスタッフや利用者も賛同する、どうやら体系も基盤のしっかりしたものである、となれば、話は変わる。やはり、奇妙だ。
「そんな、神が本当にいるみたいに言われても。新興宗教か何かに……」
言いかけて、続けようとした言葉を飲んだ。
千鶴子に集まる視線。まるで汚いものを忌み嫌うかのような、酷く冷たいそれが突き刺さる。
――禁句だ。
もっと早くに気づいてもよかったはずなのに、不覚だった。
ここにいる人々の目は異常だ。目に見えて千鶴子を敵視する視線は、今までどんな軽蔑を受けた時よりも冷たく突き刺さり、本能的な恐怖を呼び起こす。危険だ、と、本能が叫んでいる。
睨む瞳はまるで獣のようで――ギラリと金色に光り、瞳の形すら人のそれとは違って見えた。――今にも敵を狩り殺さんとしているようだった。
「……あの、やっぱり貸出、大丈夫です」
千鶴子は酷く気分が悪くなって、半ば強引に本を押し返して図書館を飛び出した。
俯いて早足で図書館を離れ、砂利道を蹴りながら進む。
もう8月も終わるというのに、真っ白な太陽の日差しはチリチリと暑く皮膚を焼く。長い黒髪を掻き揚げ高い位置で括ると、項を汗が伝った。
夕立に襲われ、親友をくだらない色恋のゴタゴタで失ったあの日から、道のアスファルトは悉く姿を消した。そして思い返せば、今は空が異常だ。
毎日雲はなく、水に青をほんの少し溶かして紙に撒いたような、極薄い青空が延々と続く。ほとんど白だとも思えるような空には、それよりも遥かに白く、強い輝きを放つ異様に大きな太陽がぽっかりと浮かんでいて、千鶴子は到底瞼を上げてなど歩けない。
俯いていれば幾分か楽で、薄目を開けていられたが、やはりぐにゃりと目眩がして、慌ててサングラスをかけた。
異変はおそらく徐々に徐々にとやってきて、気づいた時には既に異常である。
この異常な空も、2週間前は確かに普通だったとはっきり思い出せるが、それからは一体いつからおかしくなったのか分からない。初めて首を傾げたのは、1週間ほど前だっただろうか。
何かおかしなことが日本で――あるいは世界で起こっている。
今となっては確信を持って言えるのに、緊急ニュースはおろか、毎日のワイドショーですら何も取り上げられてはくれない。突然土になった道も、白い空も白い太陽も、その肥大化も。
代わりに聞くようになったのは、『神』という単語だ。
何らかの新興宗教が広まったのか、この謎の天変地異を神の御業だと口々に言う。なまじそれが体系立っているものだから薄気味悪く、ただでさえ一人の千鶴子はさらに孤立した。
何かおかしなものに、世界中が巻き込まれている。何年か前に聞いた、宇宙の光の帯に地球が本当に突入でもしたのか。得体の知れない電磁波のようなものが、人々の意識を洗脳でもしているのか。
とにかく、意識レベルでおかしい。もともと生きにくい世の中ではあったが、それでも折り合いは付けられたはずだ。
千鶴子の視界が白む。人の輪だけでなく、自然までもが自分を拒むのか。
焼くような白い陽光を浴びていると酷く気分が悪く、よろめきながら軒下のに転がり込んだ。
(どうして、急に……)
いつからおかしくなってしまったのだろう。
目の前がぐらぐらと歪む。原色のスプレーで施された品のない落書きの横には、抽象化された女性が描かれていた。見覚えのあるシャッターだ、と意識の奥の方で思いながら、千鶴子は意識を手放した。
Next.
――それは音も立てず、気づけばそこにいた。
表現力不足でじわり表現が難しい。
お話も進めながら、精進します。