Episode.1 始まりの夜
夕立が通り過ぎ、気味が悪いほど赤い陽光が沈むのを惜しむように雲間から漏れる。
千鶴子はとぼとぼと家路を蹴る足を、ふと止めた。振り返り、シャッターに品のない落書きが施された貸店舗の軒下をじっと見つめた。
あの場所を出るとき、確かに水溜りだらけの緩くなった土を、覚悟を決めてえいっと踏んだ。
そんなことをぼんやり思いながら、不思議な感覚に襲われる。何度か瞬きをして、首を傾げ、どこか釈然としないが、だからといって何がおかしいと断定できるものもない。
(疲れてるのかな……)
軒下のコンクリートには、小一時間の雨宿りで千鶴子が作った水溜りができている。
千鶴子はもう一度貸店舗を一瞥してから、やはり奇妙な気分で家路についた。
* * *
「やだ、汚れてる」
確かな異変に気付いたのは、その夜だった。
お気に入りの白いスカートに、泥の粒が跳ねている。急な雨に慌てて走ったから、靴から水溜りから、跳ね上がったものが汚したのだろう。放っておくと染みになってしまうから、と立ち上がり、ついでに靴の様子も見に行く。
精神が疲弊し、肉体も雨水に晒されて体力が落ちていたからか、帰るなり靴も服も脱ぎ捨てて眠ってしまった。スニーカーは相当重く濡れていたから、やはり汚れているはずだ。靴もまた白地だから早く処理しなければならない。
(――……まただ)
泥だらけのスニーカーを認めて、またしてもあの不思議な感覚がやってくる。
(それに、こんなにも靴が泥で汚れるなんて……)
今までにあっただろうか。
泥だらけになった記憶を辿れば、まだ手足も短く、小さかった頃を思い出す。最近めっきり、土のある道など通らなくなった。
千鶴子ははっとして、マンションのドアをゆっくりと開けた。非常階段から下を覗き込むと、それは明らかに異常な光景だった。
「道が、ない……」
正確にはアスファルトがない。街頭にぽつりと照らされた夜道は、確かに湿った土の色をしている。中央に行くほど、まるで長年踏み固められたというより砂利を敷き、舗装を施したような道のようだ。
明らかにおかしい。困惑して見動きを忘れた千鶴子の手の中で、小さな機械が震えた。
肩を震わせて画面を覗き込むと、愛しい名前が浮かんでいる。
千鶴子は少し迷ってから、電話を取った。
「――、ちずちゃん?」
躊躇いがちに発せられた細い声は、怯えているようにも聞こえた。
「ごめんね。ちずちゃん、ごめんね。今日のこと……」
「謝るためにかけてきたの?」
なぜだか、その声を聞いたら苛立ってしまった。投げ捨てるように発した言葉には棘があり、電話口で息を飲む音さえ聞こえた気がする。
「あんたのおかげで、スカートも靴も汚れて、おまけに顔も腫れて、散々だよ」
「ちずちゃん」
「あんな男に、許すんじゃなかった。それでもあんたは、あの男がいいんでしょうね。あたしなんかより」
「ちずちゃん、私は……」
「葛咲がそれでいいならあたしはもう助けないよ。あたしは女の子が好きで、葛咲が好きで、ずっと一緒にいたんだから。あんな男と寝るわけもないから大丈夫。安心して許してやりなよ」
「ちずちゃん」
「葛咲はいつも、あたしの気持ちなんて置いてけぼりなんだ。それでもあたしを疑ってあの男といるなら、もう好きにすればいい。あたしはそんなお人好しじゃないよ」
見る、というより、もうほとんど瞳に映すだけだった湿った夜道が、じとりと滲んだ。もう熱くない腫れた頬に、また涙が伝う。電話の向こうでも鼻を啜る音が聞こえた。
「だからもう、いいよ」
また一人に戻るだけだ。
そう独りごちて、電話を切った。目の前の不思議な現象が気にもならないくらいに、今は苦しい。
千鶴子は小さい頃から、異端児だと言われていた。公園で同じ年頃の子どもとの遊びを覚えるくらいになっても積み木と絵本が好きだった。小学校に上がっても周りの子どもに馴染めず、好きな男の子の話題できゃらきゃらと笑う声が聞こえれば、尚のこと離れてゆくばかりであった。
だから、と千鶴子は思う。葛咲に出会わなければ自分は一人で生きていたのだろう。
一人で生きることを苦とも思わないし、生きるのに必要な程度には人と関われる。それで十分だと思っていたから、葛咲以外に特別な人間はいない。むしろ葛咲という親友がいることすら不思議がられたくらいだ。
喪失よりも独りになることよりも、ただただ痛かった。自分の身体を錆びたナイフで無理矢理引き裂かれたような鈍い痛みが全身に走ったようで、その身を抱えてうずくまる。
「嫌いだ。みんな、いなくなればいい」
いなくなる未来をただ、祈った。
Next.
――全てはここから始まった。
始めの話を投稿するとき、ジャンルはホラー、ミステリにしようかな、と最後まで悩みました。
でもファンタジーが書きたいの、そう、ファンタジーなの。