Episode.0 零れるもの
ぱた、と、空からこぼれた雫がアスファルトを叩いた。その初めの一滴からは、早かった。ぱた、ぱた、ぱたぱた、と、追うようにして次から次へと落ちてくる。
一瞬の後には景色を煙らせる程の雫が針のように突き刺さり、風と雨とのごう、ごうという音が耳を満たした。
千鶴子は泥跳ねで白いスカートを汚しながらも、ぴたりとシャッターが閉まった貸店舗の軒先に転がり込んだ。
盛夏の風でさえも涼しげにひらりと揺れるレーヨンのブラウスは、今はペタリと身体に貼り付いている。しかし豪雨に汗ばんだ肌を流され、雲を運ぶ生温かい風すら心地よくて目を閉じた。
(とんだ、災難だ)
ぎゅっと瞼に力を込めると、睫毛が揺れて頬を雨水が伝った。その轍を利用して、川が出来る。
まるで急に降り出した夕立のように、雫がこぼれた。涙が穿つ頬が痛い。
誰も彼も居なくなれ、というのはこういう気持ちだろうか、と千鶴子は思った。濡れて風に晒されても冷めやらない頬の熱よりも、壊れそうなほどに脈打つ胸が苦しい。心臓が熱い塊となって口から飛び出そうなほど、痛い。いや、吐き出せないから苦しいのだろう。
小学校の頃、道徳で「心はどこにあるのだろう」と聞かれて首を傾げた千鶴子は確信した。心は胸に、心臓にあるのだ。そうでなければこんなに苦しくない筈だもの。
そんなことを思いながら、ふと頬に手を添えた。指先はぬるりと滑って掌が頬を包む。やはり、まだ熱を持っている。
――ちずちゃんは、聡い子ぉやね。応援してな。
頷いたら、彼女は嬉しそうに笑った。
――応援してくれるって、言うたのに。嘘やったんや。
親友の葛咲は少々、不安定な女だった。軽い鬱で精神科を受診していたことは千鶴子にも暴露されていたし、それを知ったうえで、千鶴子は彼女が好きだった。動植物を愛でる瞳は女神と見紛うほど優しくて、愛おしい。それを自分にしか見せないものだから、周囲に過保護と言われても、終わりかけの小学校6年のクラスに彼女が転校してきてからずっと一緒にいた。
気弱で人と接するのが苦手な彼女が毎日男を見つめていると知ったときには心から喜んだのに。
――モト君、ちずちゃんといたんやって。本当?
男女関係なんて、面倒臭い。男なんていなくなればいいのに。
小さい頃から思い続けたことを、この日ほど心底願ったことはない。
幸せにすると言うから大好きな葛咲を譲ったのに、男はいとも簡単に別の女と寝たらしい。それをあろうことか千鶴子のせいにして、泣きながら問う葛咲に困惑していれば、お前は否定し続けるのかと千鶴子を殴った。
近頃、どんなに陽射しが強くとも葛咲は上着を脱ぎたがらなかった。顔ばかりは綺麗なものだったが、あの服の下には、おそらく――。
怒りを何処にぶつけていいかもわからず、葛咲の手を引けば拒まれ、胸が痛くて痛くて堪らなくなって、飛び出した。悔しくて悲しくて苦しいのと、すぐに手を上げる男のもとに愛しい親友を置き去りにした絶望感と罪悪感が痛くて、意識さえ朦朧とする。
「もう、嫌だ……」
瞼を上げれば涙で滲み、雨で霞んだ仄暗い街並みが、まるで世界の終末のようだった。
Next.
――こぼれるのは、雨粒か涙か。
はじめまして。
5年以上創作から離れていましたが、ふと世界を広げたくて登録。初めての投稿作品になります。
世界が歪んでいるのか自分が歪んでいるのか。
そんなことをテーマに、ファンタジーという衣装で執筆します。
きっと文字が多くなってしまうので、一話一話はなるべく短く、なるべく早く進められるように頑張りますね。
ここまで読んでくださりありがとうございます。また次回、お会いできることを祈って。