1/妄想癖
・・・2014/9/21修正
・・・2015/7/4修正
何もない週末が終わった。パソコンに張り付いて生産性の無い時間を過ごしたり、昔からずっと続けている妄想に耽った週末だった。二十七歳になっても友達はいないし、恋人もできたことが無い。そして趣味は妄想。見ず知らずの他人に「お前、何が楽しくて生きてるの?」と聞かれても怒る気力も出ない。きっと口が回らなくどもって会話は終わり、下を向いてそそくさと逃げるように消えていくだけなのだろう。回りからの評価はつまらない奴。
『……朝から、君はマイナスにしか考えないんだねぇ。朝日でも浴びて、しっかり元気になったほうがいいんじゃない?』
「朝日を浴びても元気はでないよ。由井と話していた方が、まだ元気が出る」
狭いワンルームの部屋の中、そんな俺に聞こえたのは女の声だった。何十年も声変わりしていない、聞き慣れた、けれどどこかぼやけて輪郭を持たない女の声。彼女の名前は神埼由井。もうずっと昔から妄想癖をこじらせている俺の頭の中だけの住人である。美しい白の髪はまるで雪のよう、触れると絹のようにするりとした感覚が伝わり、指からこぼれていく。そして整った顔立ち、深い海のようで吸い込まれそうなブルーの瞳。文句なしの美少女だ。
妄想だけど。
『髪の毛触るの好きだね、君は。……ふふ、こういう時間も好きだけど君には仕事があるでしょ、急がないと遅刻するよ?』
「分かってるよ。行ってくるよ由井、留守の間は頼んだぞ」
『はいはーい。頑張ってね、旦那様!』
無邪気な笑顔に、思わず俺まで頬が緩んでしまった。ちくしょう、可愛いな。
・・・
スーツにネクタイを着て駅へ向かう。
冬も過ぎ去りこれから段々と暑くなってくる。四月頃に駅でよく見かけた、元気とやる気に満ち溢れています! ってな風の新卒君たちも自分が入った会社が黒か白かを知り、それが如実に表情に出る頃だ。俺が通勤してるのはどちらかといえば黒い方だろう――そうため息をついたところで、ふと俺の妄想の中の住人――瑞葉に似たような人が視界を掠めて、思わず振り向く。が、そこにいたのはスーツを着た髪をひとつにまとめただけの女性。ああ、妄想もついに通勤中にまで幻覚を見せるまでになったか。
ずっと前から使っている音楽プレイヤーから、週末に新しく入れた曲を流しながら、俺は人に溢れた駅のホームに立つ。起きてすぐ由井の笑顔に癒されたにも関わらず、俺の心は早くもこの人ごみと、会社に残してきた仕事のせいで憂鬱になってきている。辞めようかな、会社。でも辞めたら生活はすぐに破綻する。お給料がないとお金は入らない、お金がないと生活はできないのだ。
『ったくもー、朝からネガティブになんないでよ。こっちまで辛気臭いのが移るわ』
(ごめん。でも仕事の繰り返ししてると、ほんと気が滅入るんだよ、許してくれ)
『元気だしなさい元気。昨日は由井とシてたでしょ、それでも出ないの?』
隣から声を掛けてきたのは、艶のある黒髪を一つに括り、ポニーテールにしている女の子矢島瑞葉だ。黒の髪に黒真珠のような瞳。意思の篭った力強い目だ、眩しくて俺には直視できないな。自分の妄想なのにまっすぐ見れないってどうなんだこれ。
由井とシてた、というも妄想の産物である。現実は右手が動いていただけだ。
『こ、今夜はあたしが相手してあげるわよ。ほら、元気出しなさい!』
とん、と背中が叩かれる。顔を赤くしてそっぽを向く彼女は相変わらず可愛いな。二回目の癒しを受けたら、今日も頑張るかという気持ちが沸いてくるものだ。彼女とは由井と同時期からの付き合いであり、長い長い妄想の中で深い思い入れのある子だ。
(背中叩くなよ、路線に落ちたらどうするんだ)
俺の靴の先は黄色の線に揃えられている。もちろん冗談のつもりで瑞葉にはいっている、妄想に突き飛ばされるなんて有り得ない。
『あ、ごめんなさい。でもそんな強く叩いてないでしょ。触った、に近いわ』
目を細めてくしゃっと笑う。子供っぽい笑顔が素敵です。
ちなみに妄想では一夫多妻性であり由井も瑞葉も承認済みだ。決して浮気ではない。
妄想に耽っていると電車が来ることを知らせるベルの音がイヤホン越しに聞こえてきた。この電車はここには止まらない。どうせ止まっても人が多すぎて乗れないだろう……。
それと同時に曲が入れ替わり、週末に纏めてプレーヤーに入れたトラックへと移り変わる。ピー、ギガガ、というとてつもない不協和音が両耳から脳を揺さぶり、思わず身をすくめてしまった。なんだ、この雑音は。ぼーっとしながら作業していたから変な効果音集でも間違えて入れたのか?
『――あなたは自分の世界でやり直したいですか?』
不意に俺の耳に割り込んできたのは高い、女のような声。こういうのは中性的というのか。……ああ、そうか。これは誰かの悪戯だ。こんなヘンなのを入れるわけが無いし、そもそも昨日入れた曲は全て部屋で垂れ流してた。その中にこんなものはなかったしな。
由井か、瑞葉か、それとも俺が妄想の中で作り上げたまた別の誰かか。
(ああ、出来る事ならやり直したいよ)
そうだな、もしやり直せるなら最強プレイがしたい。ファンタジーな世界観の中で、俺は選ばれしもので、人望もあるようなプレイがいい。ハーレムものだとなお素晴らしいな。こんな妄想の中でだけじゃなくて、現実でだ。
『――承認しました。貴方に栄光あらんことを』
……不意に背筋が冷たくなった。俺はこんな声をした妄想の住人を知らない。思わず声が出そうになるが、ここは駅のホームだ。慌ててでかかった声を飲み込む。
――そして俺は後ろから誰かに突き飛ばされた。余りにも一瞬のことで、後ろを振り返る時間さえも与えられなかった。歪な音を立てて迫る電車が止まることは無い。鋼鉄の塊が俺を蹂躙する。そして俺は、妄想の中の俺のように超人的能力を発揮できたりもせず、いとも簡単に死んだ。
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