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推しの声は、いつも隣に。

掲載日:2026/07/24

「私、声優になる!」


スミレが片田舎の両親を説得して進学した、都会の専門学校。卒業してから丸一年という月日が流れ21歳になった今も、声優への夢は少しも色褪せることはなかった。


しかし、目指す世界は残酷なまでに狭く、険しい。都内の小さなアパートの机には、数え切れないほど送ったオーディションの書類や、返却されたボイスサンプルが積み重ねられている。


「はぁ……また落選通知。実技まで進めても、最後の壁が越えられないな……」


自分の声には価値がないのではないかという不安が、夜になると黒い霧のように心を覆い尽くす。それでも、スミレは夢を諦めることができなかった。


そんなスミレの生活を支えているのが、繁華街の少し裏手に位置するカフェでのアルバイトだった。アンティーク調の木製家具と、豆を挽く香ばしい匂いに包まれた落ち着いた店内は、常連客に愛される憩いの場だ。


紫のインナーカラーが入ったロングヘア。初老のオーナーは、仕事中は髪を結ぶことを条件に、派手な髪色のスミレを雇ってくれた。


だが、そのカフェで働くスミレの姿は、決して要領の良いものではなかった。


元々そそっかしい性格に加えて、オーディションへの不安と落選のショック、そして夜の活動による寝不足がたたり、勤務中の彼女は常におっちょこちょいな一面を晒していた。


オーダーのメモを取り違え、洗い場ではグラスから手を滑らせて大きな音を立て、あるいはピーク時にレジの操作を間違えてオロオロ。そんなミスを繰り返すスミレを、いつも絶妙なタイミングで救ってくれる存在があった。


それが、同じシフトで働く高校三年生の男の子、ソウタだった。黒髪で切れ長の目の、ちょっとクールに見える彼は、まだ18歳にもかかわらず驚くほど落ち着きがあり、仕事の手際も完璧だった。


スミレがコーヒーの入ったカップをトレイの上で揺らしてしまい、液面が今にも縁を越えそうになった瞬間、隣からすっと伸びてきた手が、何気ない仕草でトレイの端を支えた。


「あ、ありがとう……」 


「大丈夫ですよ、先輩。僕もよくやりますから」


そう言って、穏やかな笑顔でいつも失敗をスマートにカバーしてくれる。彼はスミレにとって、ただの年下の後輩ではなく、アルバイト先における唯一にして最大の、密かな心の拠り所となっていた。


しかし、いつもそつなく完璧に仕事をこなすソウタもまた、誰にも打ち明けられない不安を抱えながら毎日を懸命に生きていた。


「ソウタくん、新聞配達もしてるって聞いたけど、大丈夫?」


「まあ、ちょっと進路のことで家と色々あって…。行きたい大学に行くなら、自分でお金を何とかしないといけなくて。朝早いから、毎日バタバタですね。でも、自分で決めたことなんで」


さらに、ソウタはバイトが終わった後の深夜には、眠気に耐えながら受験勉強をこなさなければならない。息をつく暇もない過密スケジュールの中、彼はその疲弊や苦悩を一切表に出さず、カフェの店頭では気丈に、そして完璧に振る舞い続けていたのだ。


そんな過酷で孤独な日々を送るソウタにとって、世界で唯一、心からの安らぎを得られる楽しみがあった。


それは、自分が推しているVtuber『紫めろでぃ』の配信を見ることだった。


『紫めろでぃ』は毎晩動画配信サイトで活動しており、画面の向こう側から優しく語りかけてくれる存在だ。ソウタは夜、勉強机に突っ伏しそうになる重い頭を支えながら、スマホの画面に映る推しの配信を開くことだけを心の頼りにしていた。




――「お疲れ様でしたー」


夜、スミレはカフェでのバイトを終えてアパートに帰宅すると、簡単な食事をすませ、パソコンのモニターの前に座る。マイクのミキサーに電源を入れ、配信ソフトを起動すると、彼女は深く息を吸い込んで声のスイッチを切り替える。


オーディションに向けて磨き続けてきた技術と、地声を少しだけ高くアレンジした特別なトーン、そして少し快活で愛らしい喋り方を作ることで、スミレは昼間の自信なさげなアルバイト店員から、多くのリスナーを魅了するVtuber『紫めろでぃ』へと変貌を遂げるのだ。


「こんばんめろでぃー。みんな、今日も来てくれてありがとう!」


スミレが配信を行う上で、常に心がけている大きなテーマがあった。それは、リスナーに対して常に前向きで、温かい言葉を語りかけることだった。なぜならスミレの胸の中には、常にカフェで一緒に働くあのソウタの存在があったからだ。


いつも失敗ばかりしてしまう私を、ソウタくんは笑わずに支えてくれる。


落ち込んでいる時は、何気ない一言で元気をくれる。


あの優しさに、私は何度救われてきたんだろう。


だから私も、マイクを通して誰かに言葉を届けたい。


あの日の私みたいに、どこかで傷ついている誰かへ。


「きっと大丈夫」って、少しでも思ってもらえるような言葉を。


その強い思いが、スミレの言葉に力を与えていた。


作られたキャラクターでありながらも、根底にある優しさと前向きなメッセージは本物であり、その明るいトークは少しずつネット上で話題を呼び、着実にファンと同時接続数を増やし始めていた。


オーディションに落ち続けるスミレにとって、配信で届くリスナーからの温かい言葉や応援は、声優という夢を追い続けるための最大の支えとなっていた。




一方、ソウタは深夜の短い休憩時間や、疲労で体が動かなくなった夜に、推しである『紫めろでぃ』、いや、スミレの配信を聴くことで、また明日を生きるための活力を得ていた。


冷たい雨のなか新聞配達をした日も、親の言葉に傷ついた日も、学校の模試の成績に不安になった日も、画面の向こうから聞こえてくるスミレの明るい笑い声と前向きなメッセージだけが、彼のすり減った心を癒してくれた。


ソウタが少しだけ勇気を出してチャット欄に書き込んだコメントは、時折スミレに拾われた。


自分が送ったメッセージを、紫めろでぃは笑顔で拾ってくれた。


たったそれだけのことなのに、胸が熱くなる。



「頑張ってね」



その一言が、まるで自分だけに向けられた応援みたいに聞こえた。


ちゃんと自分のことを見つけてくれた。


それだけで、ソウタは救われた気がした。


コメントを拾われるたび、彼の心は言葉では言い表せないほどの喜びで満たされた。


その気持ちがあるからこそ、彼はどれほど過酷な現実であっても、歯を食いしばって前を向き、乗り越えていく勇気を持つことができたのだ。


カフェという現実の空間では、そつなく仕事をこなすソウタが「助ける側」であり、おっちょこちょいでミスが多いスミレが「助けられる側」だった。


しかし、インターネットの配信の空間では、常に前向きな言葉を紡ぐスミレが「元気づける側」であり、日々の疲弊に打ち勝つためにその声にすがるソウタが「元気づけられる側」となっていた。


二人は互いの正体を一切知らないまま、昼と夜で完全に役割を逆転させて、深く心を通わせていたのである。


しかし、人の体力と精神には限界がある。季節が進み、受験本番が少しずつ視野に入ってくるにつれて、ソウタのプレッシャーと過労はピークに達していた。


進路のことで親と口論を繰り返し、家の中は居心地の良い場所ではなくなっていた。学費を稼ぐためのバイトの掛け持ちと受験勉強は一日の休息も許さず、睡眠時間は毎日わずか3〜4時間にまで削られていた。



――



ある午後のカフェでのことだった。


その日の店内は普段よりも混雑しており、客足が途絶える気配がなかった。いつもなら周囲の状況を冷静に把握し、まるで機械のように正確かつスピーディーにオーダーをこなし、スミレのフォローまでこなしてみせるソウタの様子が、どこかおかしかった。


彼の手元が、ほんのわずかに震えていたのだ。洗い場でマグカップを洗っている時、彼の動きが一瞬だけ完全に止まり、虚空を見つめてボーッとしてしまう瞬間があった。


さらには、出来上がったアイスコーヒーをテーブルへ運ぶ際、トレイを持つ指先から力が抜けたように傾きかけ、すんでのところで気付いて踏みとどまるという、普段の彼からは考えられない危うさが見え隠れしていた。


その顔色は蒼白で、目の下には濃いクマが刻まれ、気丈に振る舞おうとする笑顔には、今にも倒れてしまいそうな気配が漂っていた。


いつも彼に助けられてばかりいるスミレは、その異変に誰よりも早く気づいた。彼がどれほど無理をして、限界の状態でここに立っているのかが、痛いほど伝わってきたのだ。


いつも自分を助けてくれる彼に、今度こそ自分がお返しをしたい。彼を支え、その重い荷物を少しでも軽くするような言葉をかけて、元気づけたい。スミレは心の底から強くそう願った。


しかし、カフェの店員仲間という関係性の中で、プライベートに深く踏み込むような言葉をどうやってかければいいのか、不器用なスミレには分からなかった。


休憩室で彼と二人きりになった時も、何か言わなければと思うばかりで、結局差し支えない業務の確認や、曖昧な気遣いしか口にすることができず、自分の無力さに歯がゆさを噛み締めることしかできなかった。




――その日の夜、スミレは重い心を抱えたままパソコンを起動し、いつものようにVtuberとしての配信を開始した。


「こんばんめろでぃー。みんな、今日も来てくれてありがとう!そうそう、今日コンビニに行った時のことなんだけど……」


マイクに向かって明るく振る舞いながらも、頭から離れないのは、昼間にカフェで見かけた、あのソウタの今にも壊れそうな笑顔だった。自分はなんて無力なんだろうか。すぐ目の前で大切な仲間が苦しんでいるのに、何も声をかけてあげられなかった。


そんな葛藤を抱えながら雑談配信を進めていると、チャットのコメント欄に、いつも見に来てくれる常連のリスナーからのコメントが書き込まれた。そのリスナーは、配信を盛り上げるような楽しいコメントをくれることが多いのだが、その夜のコメントは違っていた。少しだけ弱音が滲み出ていたのだ。



『今日はすごく疲れてしまって、先のことを考えると不安で押しつぶされそうだけれど、この配信を見る時間だけが今の救いです』



という切実なメッセージだった。


スミレはモニターに映ったそのコメントを見つめた瞬間、強く胸を打たれた。画面の向こうにいるこの常連リスナーの抱えている苦しみが、昼間にカフェで見かけたソウタの疲弊しきった姿と、自分の中で完全に重なって見えたのだ。


スミレは、予定していたトークテーマを一旦脇においた。そして、キャラクターとしての表面的な明るさだけではない、自身の心の底から湧き上がる真実の想いを、マイクに向かって一生懸命に語りかけ始めた。


「sato777さん、いつもありがとう。すっごく疲れているのに、会いに来てくれて、本当に嬉しいよ。ここの配信は、誰かをみんなで支え合う場所にしたいの」



「だから、どうか一人で抱え込まないで」



スミレの喋り方に、深い感情がこもっていく。


「生きていたら、どれだけ頑張っても先が見えなくて、つらくて、全部を投げ出しそうになる時があるよね。一人で重たい荷物を抱え込んで、誰にも弱音を吐けなくて、自分がやっていることが正しいのか分からなくなって、不安で押しつぶされそうになる夜が、誰にもきっとあると思う。でもね……」


スミレの声は、まるで画面の向こうの誰かを抱きしめるように温かく、力強かった。



「どれだけつらくて、全部投げ出したい時があっても、あなたのその努力は絶対に無駄じゃないよ。あなたが頑張っていること、ちゃんと見ている人がいるからね」



その言葉に込められた熱い想いは、電波とインターネットの回線を越えて、夜の静寂に包まれたある部屋へと届いた。


疲れ果ててベッドの端に腰掛け、スマホを握りしめていたソウタは、イヤホンから流れてくるその言葉を聞いた瞬間、何かが解放されるのを感じた。


それは、まるで自分の置かれている残酷な現状や、誰にも言えずに一人で抱え込んでいた孤独な苦しみのすべてを見透かされ、その上で自分の存在を完全に肯定してもらったかのような、奇跡のような瞬間だった。


ソウタの目から、せき止められていた熱い涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


彼はスマホを胸に抱きしめながら、声を殺して泣いた。推しの『紫めろでぃ』の心からの言葉が、乾ききった彼の心に深く滲み込み、冷え切っていた魂を温かく包み込んでくれたのだ。


どれだけつらくても、自分の頑張りを見ていてくれる人がきっといる。明日もまた、逃げずに戦い続けよう。彼はその夜の配信によって、深い絶望の淵から完全に救い出され、また歩き出すための強い勇気を得たのだった。



――



翌日のカフェ。新しい一日が始まった。


ソウタの体には、依然として過酷な労働と勉強による肉体的な疲労が重く残っていた。しかし、その瞳の奥には、昨日までのような今にも消え入りそうな危うさはなかった。昨夜、推しの配信からもらった言葉が胸の中で温かい光となり、彼をしっかりと支えていたからだ。彼は自らの深い疲労を周囲に悟られないよう巧みに隠しながら、いつも通りに気丈な態度で仕事をこなしていった。


そんな中、お昼のピークタイムが訪れると、店内は再び忙しさを増した。スミレはオーダーの確認とレジ業務に追われ、またしても少しパニックに陥りそうになっていた。その時、隣からすっとソウタが近づいてきて、自然な動作でスミレのフォローに入った。


「先輩、こちらの席のオーダーは僕が運んでおきますね。レジ、ゆっくりで大丈夫ですよ」


それはいつもの彼と変わらない、落ち着いた、優しさに満ちたサポートだった。




――やがてランチタイムが過ぎて客足が落ち着き、静かになった店内。


「おつかれさま、二人とも。しばらく休憩に入っていいよ」


店長からの言葉に、スミレとソウタは二人で休憩室に入った。



『だから、どうか一人で抱え込まないで』



ソウタは昨晩の『紫めろでぃ』の言葉を思い出していた。


「すみません、先輩。少し仮眠してもいいでしょうか?もし店長から声をかけられても僕が起きなかったら、起こしていただきたいんですが……」


ソウタは初めて、素直に他人に頼ってみた。


「うん、分かった。起こしてあげるからゆっくり休んで」


ソウタはその言葉の次の瞬間には、椅子に深く腰掛けたまま、寝息をたてて深い眠りに落ちていた。


スミレはソウタの寝顔を見守りながら、初めて彼から頼られたことに、胸の奥が温かい気持ちに包まれていた。




――「二人とも、そろそろお願いできるかな」


店長からの声でスミレはソウタを軽くゆすった。


「ソウタ君……」


「……ん……先輩……?あ、はい……すぐに……」


その言葉とは裏腹に、ソウタは目元を手で押さえたまま、じっとして目を開くことができない。よほど疲れていたのだろう。


スミレは立ち上がれないソウタに向け、心の底から湧き上がる衝動のままに、とっさに言葉を投げかけた。


「本当に、いつもありがとう」


突然の言葉に、ソウタが少し驚いたようにスミレを見返す中、スミレは言葉を続けた。



「でも、本当に無理しないでね。どれだけつらくて、全部投げ出したい時があっても、ソウタ君の努力は絶対に無駄じゃないよ。君が頑張っていること、ちゃんと私が見ているからね」



その言葉が休憩室の中に小さく響いた瞬間、時間が止まったかのような静けさが訪れた。


スミレが強い感謝の想いを込めて、とっさに言葉にしたことで、彼女の地声のトーンが夜の配信で少しだけ作っていた、あの高くて澄んだ、『紫めろでぃ』の声へと無意識に変化していたのだ。


「じゃあ、先に行ってるね」


ソウタは一気に眠気が吹き飛び、椅子から立ち上がった。


昨夜ベッドの中で涙を流しながら、何度も繰り返し見たあの配信アーカイブ。


休憩室を出ていくスミレの背中を見ながら、推しの『紫めろでぃ』が語りかけてくれたあの言葉が、鮮明に蘇る。



『どれだけつらくて、全部投げ出したい時があっても、あなたのその努力は絶対に無駄じゃないよ。あなたが頑張っていること、ちゃんと見ている人がいるからね』



ソウタの胸の中で、これまで別々の世界で隔てられていた二つの存在が、一つに重なっていく。


「もしかして……先輩……。いや……寝ぼけていたのか……僕は……?」


胸の鼓動が少し早くなり、顔が熱を帯びるのを感じる。


ソウタにとってスミレの存在は、今この瞬間を境に、これまでとは全く異なる色を帯びて輝き始めていた。




― Fin ―

本作を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!

もし少しでも楽しんでいただけましたら、「★」での評価や、フォロー、おすすめレビューをいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります!


長編作品も執筆しておりますので、そちらも読んでいただけると嬉しいです!

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