第五章:風に揺れる君との約束
あの交通事故から既に1年が経っていた。
街には桜のつぼみがほころび始め、柔らかな春の光が大地を照らす。雨宮琴音はカフェを一人で切り盛りしながら、娘を育てている。湊斗の死から立ち直ったわけではないが、日常を必死で回すうちに月日は過ぎ、娘は少しずつ言葉を覚え、新しい笑顔を見せてくれる。
カフェのスタッフや常連客たちは、琴音に「また春が来たね」「桜がきれいだよ」と声をかけ、彼女の悲しみを気遣ってくれている。夜には娘を寝かしつけ、ソファに深く座っては、“もし湊斗が生きていたら”と想像することが習慣になった。
(あなたがいなくなって、もう1年。私はまだちゃんと笑えているのかな……)
一方、少女の姿はあの事故以来、全く見かけなくなった。まるで本当に“運命が確定”したことで干渉を終え、完全に世界から消えたかのように思える。
そんなある夜、琴音は深い眠りに落ちた中で奇妙な夢を見る。そこに、白い霧の中で立ち尽くす少女のシルエットが浮かんだのだ。
薄い靄の中、琴音は身動きが取れないような感覚を抱えながら前を見つめる。すると、水色のワンピースを着た少女が背を向けて立っている。
「……あなた、あのとき……鳴海湊斗の死を……止められないって言った子……?」
問いかける琴音の声は震えている。だが、少女はゆっくりと振り返り、悲しげな瞳で琴音を見つめ、「あれだけ忠告したのに……」と低い声で呟く。
少女「パパとママは本当に両想いだった。だから、死を回避できなかった……」
琴音「パパとママ……? あなたは、いったい……湊斗との何……?」
少女は答えず、ため息まじりに続ける。「あなたたちが別れれば、パパは死なずに済むと思った。でも、二人ともあまりに強く愛しあってたから……。運命は変わらなかった……」
琴音は胸を締め付けられる。「そう……そうよね。私たち、わがままだった。だけど、あの子を生んで、今でも二人を大事に思ってる……」と涙を零す。
少女は視線を伏せ、「だから……いまさらだけどチャンスをあげる。○月○日の夕方、“約束の秘密基地”に来て。もしそこでプレゼントを受け取れたら、何かが変わるかもしれない……」と短く告げる。
「○月○日の夕方……秘密基地……」――その言葉を聞いた琴音は戸惑う。秘密基地とは、かつて湊斗や自分が想い出を紡いだあの黒い物置小屋のことだろうか。
「プレゼントって……何を……?」と問うが、少女は答えず、「守りたい幸せがあるなら、来て……」と呟き、霧の中へ溶けるように姿を消す。
次の瞬間、琴音ははっと目覚める――自宅のベッドで、春の朝日が差し込んでいる。心臓がドキドキして汗をかき、夢の余韻が強烈に残っていた。
(いまのは夢……? でも、あんなに鮮明だなんて……。あの子が、死んだ湊斗を救う“チャンス”をくれるっていうの……?)
半ば夢うつつのまま、琴音は娘の寝顔を見下ろし、自分が掴んだはずの幸せを再確認する。「もう湊斗は帰ってこない……」――理解しているはずなのに、少女が出す“プレゼント”に心がざわつく。
その日、琴音はカフェに出勤しながらも、夢で聞いた「○月○日の夕方」という日付を忘れられずにいた。スタッフに「店長、どうしたんです? ぼーっとして」と心配されるほど上の空だ。
「ごめん、ちょっと昨夜変な夢見ちゃって……」と苦笑いするが、詳しくは話せない。湊斗を亡くしてから一年、店はスタッフの頑張りで何とか回っている。娘も店に連れてくることがあり、お客さんから可愛がられるほど明るい空間なのに――琴音の心は晴れない。
(本当にあの夢がただの妄想ならいい。だけど、もし“チャンス”なんてものがあるなら、私は逃したくない。――湊斗が死んだ事実を覆せるなら……?)
あり得ないとわかっていても、心のどこかで期待してしまう。愛する人が戻ってくるかもしれない。そんな奇跡を追い求めてはいけないと思いながら、琴音はどうしても気持ちを抑えきれない。
一方、拓海は一年の間に仕事で大きく飛躍し、地方取材や大手媒体の編集を任されるようになった。湊斗が亡くなったあと、しばらくは酒に溺れていたが、今は仕事で成果を上げるしか自身を救う術がないと割り切っている。
しかし、心の奥には「もしあのとき二人を引き離せていれば、鳴海は死ななかったかも」との自責がこびりついて離れない。“誰も救えなかった”無力感が、いまだに拓海の背中を重く圧迫している。
春の取材帰り、久々にカフェを訪れようとしたが、結局店の前で足を止め、扉を開く勇気が持てず踵を返す。扉の向こうには、琴音と娘の姿があるはず。湊斗のいない世界が現実に存在しているのを見るのが怖いのだ。
(俺はあいつの墓にすらまともに行ってない。結局、臆病なままか……)
海外でフルートに邁進する莉緒から、久しぶりに琴音のもとへメールが届く。内容は「こっちのコンクールで上位入賞ができた」「現地の音楽仲間と演奏旅行を予定している」など嬉しい近況報告。そして、何度も「そっちで大丈夫? 娘ちゃんは元気?」と気遣う言葉が並ぶ。
琴音は返信しながら、「本当は私のほうこそ大丈夫じゃない……湊斗がいない一年間、何度も夢で泣いた……でも、あなたに心配させたくない」と思い、表面上は「娘も店も順調」「あなたのフルート、聴きに行きたいな」など明るい文面を送る。
メールを送信し終えると、“○月○日の夕方”という少女の約束が脳裏を支配する。(本当に行くの……? もし行って、何が変わると言うの……?)
そして、時は流れ、ついに夢で指定された○月○日が訪れる。
前夜、琴音は眠れなかった。娘を幼稚園へ送り出し、店をスタッフに任せ、「少し出かけてくる」とだけ言い残し、昼過ぎから秘密基地のある空き地へ向かう決意をする。
(いまさら“鳴海湊斗が生き返る”なんて期待はしない……。だけど、もし何か彼からのメッセージがあるなら、受け取りたい。私が守りたいもののために……)
空き地は一年前と変わらず、雑草が生い茂っている。遠くにはあの黒い物置小屋(秘密基地)が見える。かつては湊斗と一緒に入り込んだ場所で、幼少期の約束の思い出が埋め込まれている地。
時計を見ると、もうすぐ夕方4時――まさに夢で指定された時刻。琴音の胸が高鳴る。(来るわけないのに……あの少女が現れて、プレゼントをくれる?)
夕刻、空き地の空には茜色の光が広がり、雑草の先端が風にそよぐ。琴音は物置小屋の前で立ち尽くす。ちょうど春から初夏へ向かう時期で、陽射しはやわらかく、虫の声も聞こえる。
ふと、視線の端に水色のワンピースが揺れた。
「……来たの……?」
琴音が振り向くと、やはりあの少女が少し離れた地点に立っている。1年前の事故以来、姿を消していたはずだが、まるで時空を超えるように現れたかのようだ。
少女は相変わらず悲しげな瞳で琴音を見つめる。「約束どおり、来てくれたんだね。……ありがとう。あれだけ忠告して、結果はこんな形になってごめんね」
琴音は息が詰まるような衝動に駆られ、「湊斗は……死んだわ……」と訴える。少女は頷きながら「うん……運命は止められなかった。でも、“もう一度だけ”、チャンスをあげると言ったよね。覚えてる?」と静かに言う。
少女が少し近づいてくると、琴音は緊張で体が強張る。(何? また私が湊斗を手放せば……って話? 私にはもう何もできないのに……)と脳内で混乱する。
すると、少女はバッグから小箱を取り出す。淡い水色のリボンがかかっており、中を覗くときらりと光る何かが見える。
「これは……“時間を巻き戻す”わけでも、“魂を蘇らせる”わけでもない。だけど、あなたの想いを形にする“鍵”になるかもしれない」と少女は言葉を選ぶように伝える。
琴音は息を呑み、「鍵……? 私は湊斗に会えるの……?」と問い詰める。少女は首を振り、「会えるかどうかはわからない。でも、守りたいものがあるなら、使うかどうか選んで。……これは“代償”も大きいから」と意味深に呟く。
少女「パパとママの愛は本物だった。それを否定した私が悪いの。だから、最期にチャンスをあげたい。でも、どんな形であれ、誰かが“わがまま”を通すなら、別の代償を払うことになる」
琴音は頭が混乱し、「代償って……何? 私はもう湊斗を失ったのよ。これ以上失うものなんて……」と涙ぐむ。少女は微笑みながら「そんなはずないよ。あなたには娘がいるんだもの……」と続ける。
冷たい風が吹き、物置小屋の扉がキィと軋む。夕陽が深く染まり、空気が薄暗く変化する。まるで“運命”がここで再び動き出すかのようだ。
少女は小箱を琴音へ差し出し、「これが私の“プレゼント”。もしあなたが本気で“湊斗にもう一度だけ会いたい”と願うなら、これを使って。だけど、その先に幸せがあるかどうかはわからない」と慎重な口調で言う。
琴音は視線を落とし、箱を受け取ろうとするが、腕が震える。“娘”を失うかもしれない, あるいは違う何かを失うかもしれない――そんな漠然とした恐怖が込み上げる。
「私は……どうしたら……」
少女はそっと琴音の手を包む。「あなた次第だよ。でも、パパとママは本当に両想いだった。私がそれを否定したのが間違いだったかもしれない……だから、もう一度だけ、ね」
夕陽が地平線に沈みかけ、辺りが茜色から紺色に移り変わる。少女の姿が次第に霞み始め、彼女は苦しそうに胸を抑えながら、「もう限界……。あなたが“鍵”を使うなら急いで。……失くしたくない大切なものがあるなら……」と呟き、消えていく。
琴音は茫然としながら、小箱を握りしめたまま立ち尽くす。“会えるかもしれない――湊斗に”。だけど、その代わり別の大切な何かを失うリスクがあるのだろうか。運命とはこれほど酷いものなのか。
夕暮れに染まる空き地。黒い物置小屋の前で、雨宮琴音は水色のリボンをかけられた小箱を握りしめていた。
あの謎の少女が「これが最後のチャンス……あなたが使うかどうかは自由」と残し、姿を消してしまった箱。中を覗くと、中には小さなオルゴールが収められている。淡い木目と、ぜんまいを巻くためのネジが付いたシンプルな形。
琴音は息をのんで、そのオルゴールをそっと取り出す。
(なんだろう、ただの音楽が流れるだけの玩具? でも、少女が“代償も大きい”と言ってた……何か怖い予感もする。でも、湊斗に……会いたい。今度こそ……)
胸がざわつく。もしこのオルゴールが“奇跡”の鍵なら、ぜひ使いたい。でも、娘や現在の生活を失うかもしれないという漠然とした不安が琴音を縛る。
震える指でオルゴールのねじをつまみ、少しだけ回してみる。――カチ、カチ……。
すると、どこか懐かしいようなメロディーが静かに流れ始めた。幼い日のオルゴール音を思わせる、優しくて切ない旋律。
くるくるとぜんまいを回すたび、オルゴールはぎぃ……ひぃん……というか細い音を震わせながら、ゆっくりと音色を奏で始める。
琴音は耳を澄まし、「どこかで聴いたことあるような……」と呟く。まるで昔、湊斗と秘密基地で遊んでいた頃の風の音や、かすかなフルートのような音色が混ざっているように感じられる。
やがて、頭がクラクラと揺れる感覚が押し寄せ、体温が一気に奪われるかのように膝が折れそうになる。意識が遠のいていく――倒れるまいと踏ん張るが、視界がにじんでオルゴールが二重に見え始めた。
(な、なにこれ……っ……少女は言ってた……“使えば代償があるかも”って……)
足元がグラリと沈んだように感じ、思わず地面に手をつく。しかし、物置小屋の土の匂いも、雑草に触れる感覚もどこか現実感が薄い。周囲の風景が歪んで、夕焼けの色味が白く弾けるように光を放つ。
「湊斗……会いたい……」――最後に心の中でそう呟いた瞬間、琴音の意識はふっと闇に落ちた。
長いような短いような夢の闇を抜けると、琴音はパッと目を開いた。そこには――秘密基地があった。
だが、さっきの荒れ果てた空き地ではなく、まだ雑草が少なく、物置小屋の壁もそこまで傷んでいない様子。昼下がりの柔らかい陽射しが小屋の脇に差し込んでいる。
「え……? なんで……」
自分の姿を確かめようとすると、視線がやけに低い。手を見ると、細く小さな指。服装も、どこか幼稚園児の頃を思わせる半ズボンとTシャツ――まるで“幼い自分”に戻っているかのようだ。
鳥が鳴く音、かすかに遠くから聞こえる子供の声。この空き地はまだ誰にも荒らされていない状態で、まさに昔の“秘密基地”がそこにある。
「ここ……いつの日かの……?」
戸惑う琴音。周囲を見回すと、空き地の向こうには昔住んでいた家が見える気がする。頭が混乱し、思わず口を押さえる。(オルゴールを回したら……まさか、“過去”に戻ったってことなの……!?)
夢の中で聞いた少女の声が、何度も頭の中でリフレインする。
「パパとママが本当に両想いだったから、運命を変えられなかった……もう一度だけチャンスをあげる……代償も大きいけど……」
今の自分は確かに幼い姿――つまり、湊斗と初めて秘密基地で出会うよりも前か、それとも出会った直後か。
(もし、本当にこの過去を改変できるなら、湊斗をあの交通事故で死なせないようにできる……? でも、どうすれば……)
胸がドキドキし、頭が痛いほどに回転するが、琴音は“今、望む結末”を得るために走り出すべきだと決意する。たとえ少女が言う“代償”が何か分からなくても、湊斗を救えるなら、とにかく行動しなければ。
ふと、空き地の奥から足音が聞こえる。琴音が振り向くと、幼い湊斗が興奮したように走ってくる姿が見えた。フルネームで紹介されたわけではないが、その顔立ちは間違いなく“昔の鳴海湊斗”だ。
「あれ……君、知らない子だ。ここで遊んでるの?」と湊斗が首を傾げる。琴音は思わず涙が出そうになるが、今は“同じくらいの子供”として振る舞うしかない。
「え、えっと……うん……ここ、私の大好きな場所だから……」とぎこちなく答えるが、幼い湊斗は目を輝かせ、「じゃあ、一緒に基地作らない? 俺、秘密の落書きとかしてるんだ」と無邪気に提案する。
(そうだ……私と湊斗は、こんな風に意気投合して秘密基地で遊んだんだ……)と琴音は思い出し、同時に大切なものを取り戻したような嬉しさを感じる。けれど、ここは過去。どう行動すれば“事故死”を避けられる未来に繋がるのだろう――頭が混乱する中、まずは幼い湊斗と会話を進めるしかない。
幼い湊斗は物置小屋の扉をガラリと開け、中で石や木片を並べ、落書きや手製の旗を立てて“秘密基地”を作っている。琴音は懐かしさと戸惑いで胸がいっぱい。
実際、何を話せばいいのか分からず、湊斗が「ねえ、君の名前教えてよ!」と笑顔を向けてくるたび、琴音は戸惑う。(自分の名前は琴音だけど、今の私は幼稚園くらいの姿……今さら『雨宮琴音』と言ってもおかしくないかな……?)
記憶と実際の状況が幾重にも重なる。走馬灯が逆流しているかのように、心が追いつかない。けれど、このまま流れに身を任せれば、いずれ“悲劇の未来”に辿り着いてしまうはず。
数日が過ぎる。どうやらこの“世界”の時間が流れているらしく、琴音は昼間は幼い湊斗と一緒に秘密基地を整備し、夕方になると元の家へ帰り、幼稚園児として暮らしている。周囲の家族や友達は、“自分がいきなり中身は大人”だとは気付いていない様子。
(こんな風に日々を過ごしてたんだ、私……。でも、いずれ私たちは離れ離れになり、事故や病気で苦しむ道を歩む……それを変えたいから、この世界に来たんだよね……)
少女が告げた「プレゼントをあげる」という言葉の意味は何か。小箱を持っていない今の幼い姿では使えないのかもしれないが、“過去の自分の行動”を変えれば未来も変わるのかもしれない。
“自分が望む結末へ走り出す”――琴音はそう決意しながら、幼い湊斗に何を伝えれば交通事故を防げるのか、必死に考える。
やがて季節が少し巡り、秘密基地での冒険が本格化する。幼い湊斗が「ねえ、将来は俺、いろんな仕事したいんだ。カフェを作るとか……一緒に夢叶えよう!」と無邪気に笑う姿を見るたびに、琴音の胸は痛む。(本当に未来ではあなたは死んでしまうのに……)
(どうすれば、トラック事故の瞬間を回避させられる……? もしかして、あの信号交差点での出来事に事前に注意するよう、湊斗に言い含めればいい? でも、当時の大人の湊斗に伝わるのか……)
頭を抱える琴音。時間の流れが幼少期から成人期へ大きく飛躍するとして、まだ十数年の歳月がある。この“過去”に居続ければ、それを続けて成長し、再びあの日に到達できるかもしれない。しかし、その間に娘は……現代の琴音が消えた世界でどうなっている?
少女の言葉「代償は大きいかも」を思い出す。もしかすると、“娘”を失う形で湊斗を救うことになるかもしれない。それでも琴音が本当に望むのは何なのか——葛藤が深まる一方だ。
ある日、秘密基地に幼い湊斗が来るのを待っていた琴音は、草むらの奥にもう一人の少女がしゃがんでいるのに気づく。
近づいてみると、その少女は“自分自身の幼い姿”そっくりだが、髪型や表情が違う――つまり、この時代の“本物の幼い琴音”とバッティングしてしまったのだ。
「あなた……誰?」と向こうの“琴音”が警戒する。今の琴音(大人の意識を持つ子ども)とは別人であり、二人の存在が同時にあるのはおかしい事態だ。
(こんな……過去に来たら、本来の私とバッティングしちゃう……!? どうすれば……)
突き刺さるような危機感。もしこの状況がバレると“時間の破綻”が起こるかもしれないし、自分がこの世界に居続けることもできなくなるかも。これが少女の言う“代償”なのか――分からない。
過去の世界で奇妙な二重存在となってしまった“二人の琴音”。しかも、幼い湊斗は今は「将来カフェを作ろう」と言い、あの時代通りの歩みを踏み出してしまえば、やがて交通事故を回避できない未来が待つ。
一方、大人の意識を持つ“琴音”は、「このままじゃ湊斗が死ぬのをまた繰り返すだけ……」と焦り、走り出さねばと思う。
(少女は最後に「君が決めて」と言った。私は本当に娘との日々を捨て、湊斗を救うためにこの過去で生きるの? それとも、何か他の方法が……)
夕闇が迫る秘密基地。二つの時代の琴音と幼い湊斗という、決して同居し得ない存在が一堂に揃い、運命の綻びがますます広がっていく。
「今、走り出す……私が望む結末へ」――そう決心しながらも、琴音は“自分が娘を失うかもしれない危険”を思い、一歩踏み出すごとに苦しくなる。
金色の夕陽が小屋の壁を染め、かつての秘密基地が生き生きと蘇る――時の歯車が狂い始めたこの世界で、琴音はどんな結末を求めるのか。もし交通事故を防ぎ、湊斗を生かしてしまったら、“娘が存在しない未来”になる可能性も否定できない。
子供の姿になった琴音は、幼い湊斗と秘密基地で遊んでいる。だが、本来ここには“幼い琴音”もいるはず。二人の琴音が同時に存在しては時空が狂う。
ある日、湊斗が片膝をついて、楽しそうに木を削りながら「そういえば、まだ君の名前をちゃんと聞いてなかったよね。なんて呼べばいい?」と問いかけてきた。
(本当は“雨宮琴音”だけど、ここにもう一人“琴音”がいたら破綻する。どうしよう……)
そんな時、琴音は咄嗟に「……わたし、……莉、莉緒……」と偽名を口にしてしまう。自分でも驚くが、彼が将来“莉緒”として関係を結んでくれれば、この時間軸で“琴音”は登場しなくなるかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。
湊斗「莉緒……? いい名前じゃん。じゃあこれから“りお”って呼ぶね!」
“莉緒”「う、うん……よろしく……」
この瞬間、琴音の胸に強烈な痛みが走る。“雨宮琴音”として湊斗と本来結ばれたはずが、今は“莉緒”と名乗ってしまった。この偽りが運命を変えるかもしれないが、同時に自分は湊斗から完全に消えてしまうのでは、という恐怖が湧き上がる。
こうして“莉緒”として湊斗に接する日々が始まる。幼い湊斗は素直に心を開き、まるで本当に“将来のフルートが好きな少女”がここにいるかのように扱う。そして“琴音”という存在には興味を持たない世界線を作るのが狙いだ。
(私が本物の“琴音”なのに……。湊斗にとっては、これで私が消えて“莉緒”が彼と将来を結ぶ運命に変わるかもしれない。そうすれば、過去の事故や病気も別の道に……?)
だけど、罪悪感が琴音の胸を痛める。湊斗のキラキラした瞳を見つめるたび、(私はあなたの本当の“琴音”なのに……!)と叫びたくなる。
(湊斗を幸せにしたいのに、私が大好きだったはずの“琴音”という名すら捨てて、彼を遠ざけるなんて……苦しい……嫌だ……でも、やらなきゃいけない……)
問題なのは、“本物の幼い琴音”が別の場所で同じ秘密基地を時々訪れることだ。だが、“偽の莉緒”が先に湊斗を独占してしまうため、結局本物の琴音はタイミングを外し、湊斗に会えないらしい。
ある夕方、琴音が小屋から出ると、もう一人の琴音が茂みの影で拗ねた表情をしていた。「最近、湊斗くんと全然遊べない……なんで、知らない子がいるんだろう……」と呟くのが聞こえる。
(ごめん……私があなたから湊斗を奪ってる。だけど、これは運命を変えるため……)
琴音は涙をこらえながら物陰を通りすぎる。自分が行動するたびに、本来の琴音が湊斗の人生から外れていく――それが狙いではあるが、心は酷くえぐられる。
ある日、小屋の中で湊斗が誇らしげに手作りの旗を立て、「“りお”専用の場所を作ってあげた! 君が将来フルートを吹くかはわからないけど、もし音楽とかやってくれたらいいな……」と少年らしい笑顔を向けてくる。
“莉緒”(琴音)「……ありがとう、でも私、まだ何も……」
湊斗「きっとできるよ。君はすごく不思議だし、優しいし。将来、大切な人になりそうな気がするんだ」
胸が苦しい。“フルート”は本来、莉緒が歩む道。こうして湊斗が“莉緒”を意識してくれれば、本来の時間軸とは違った未来が開けるかもしれない――交通事故を避ける可能性に賭けているのだ。
でも、「湊斗から自分を無くす」という行為の重みを改めて思い知る。彼の優しさや笑顔を見れば見るほど、“琴音”として愛された時間が消えていくようで、琴音の心は毎晩泣きたくなるほど苦しい。
夜、帰宅した琴音は、この時代の自宅でもう一度認識を確かめる。自分の家族は本来の幼い琴音を娘として扱い、彼女はただ“親戚の子”という曖昧な嘘の説明で厄介になっている形だ。どこか歪んだ時間が流れている証拠だ。
(本当にこのまま時が進めば、湊斗は“莉緒”を選んで未来を築き、あの交通事故すら起こらない世界になる……のかもしれない。けど私は……娘がいた世界線を全部捨てることになるの?)
心が叫んでいる。「やっぱり嫌だ……」と。ただ、“湊斗が生きて幸せになってくれるなら”という念が、それに勝るかどうか。悪夢と現実が混じり合うような日々が進む。
睡眠中、琴音は再びあの日の走馬灯を見る。交通事故で湊斗が血を流し、病院で亡くなった映像――そのとき自分は「ごめん……私がわがままで離さなかったせいだ……」と泣き叫んでいた。
この世界では、湊斗が死なないかもしれない。でも、“琴音”という存在が彼の人生から消えている。
夢の中で声が聞こえる。「愛することは、誰かを傷つける。でも、湊斗には幸せになってほしい……」という琴音自身の叫びが重なり、少女の声と混ざっている。
目を開けると、朝の光が差し込み、周囲は幼い子供部屋。琴音ははっと身を起こして、「やっぱり嫌だ……」と唇をかむ。だが、引き返すことは難しい。すでに湊斗は“莉緒”と絆を育んでいる。
時が流れ、“幼い湊斗”は“莉緒”を深く信頼するようになった。二人で秘密基地を拡張し、「将来は絶対フルートを聴かせて!」などと語り合い、まるで最初から“莉緒”こそが秘密基地の相手だったかのように歴史が書き換えられていく。
その一方、本来の幼い琴音は湊斗と距離を置き、この町から引っ越していく運命にあるらしい。こうして時間が進めば、成人した湊斗は病気や事故を免れる可能性が高い。まさに運命が大きく変化しているのだろう。
しかし、この頃から琴音は体調不良や頭痛に悩まされる。“時空の矛盾”が肉体を蝕んでいるのかもしれない。ある夕方、秘密基地で湊斗と向き合い、「私……このまま一緒にいられないかも……」と涙目で呟く。
湊斗「え、どうして……? 俺、りおがいないと寂しいよ。絶対にどこにも行かないで」
“莉緒”(琴音)「……ごめん、私……わがままだった……でも、あなたを……救いたいの……」
湊斗は困惑し、「何言ってるの?」と苦笑するが、琴音の胸には“もう限界”の感覚が募る。時間が破綻しかけているのか、身体が重く震え出し、涙が頬を伝う。
「湊斗を救うために私は“琴音”を捨てて“莉緒”を演じる」と決めたはずなのに、日を追うごとに激しい寂しさと痛みが増していく。
「湊斗から私を無くす」――つまり、将来、彼が“琴音”を知らないまま成長し、事故の日を回避し、安泰な未来に進むというシナりおだ。しかし、その分“偽莉緒”が大人になる前に消えるなら、湊斗は救われる? もうわけがわからない。
(湊斗が幸せになるなら、私は何だってする……でも、やっぱり嫌だ……私だって彼の笑顔を見たい……。でも、この世界の私がそれを奪っちゃうなら……)
夜な夜な、心が壊れそうなほど揺れる。“もう少しで運命が変わりそうなのに、私は耐えられるのか?”——そう自問する琴音。涙が止まらないまま、幼い身体で布団に包まって眠れない日々を送る。
ある晩、夢の中であの水色ワンピースの少女がふわりと姿を見せる。
「……あなた、よく頑張ったね。湊斗は確かに“莉緒”と秘密基地を作り、もう琴音が入り込む余地はなくなっている。これで将来の事故も起きない可能性が高いわ……」
琴音は涙を零しながら、「じゃあ、私はここで消えるの……? それでも、湊斗が死なないならいい。だけど、私……本当にそれでいいの?」と詰め寄る。
少女は複雑な表情で、「愛する人から自分を無くす……それがあなたの選んだ道なんでしょ? けれど、まだ終わらないよ。このままじゃ、あなたは時空の崩壊で存在そのものが消えるかもしれない……」と重い言葉を落とす。
「どうする? まだ“書き換え”の最終段階だけど、引き返すなら今しかない。娘がいる世界線へ戻るか、湊斗をこの世界線で救うか、どちらかしか選べない……」
夢から覚めた琴音は、朝の光を浴びながら膝を抱え込む。もう時間がない。もしこのまま湊斗を“私なし”で幸せに導くなら、自分の存在が消えてしまうかもしれない。娘を産んだ未来も無くなるだろう。
「どっちにしても、私はわがままだ……。湊斗を救いたいのに、娘も手放せない……。もう嫌だ……でも、でも、やらなきゃいけないことがある……!」
そう心で叫び、琴音は「私は“莉緒”として湊斗に最後の言葉を伝えよう」と立ち上がる。この道を進むなら、“琴音”は永久に封印され、彼の記憶から消えることになるのだろう。
「湊斗には幸せになって欲しい……でも、やっぱり嫌だ……こんなの、苦しい……」
涙を拭きながら、琴音は小さな身体で走り出す。約束の秘密基地で湊斗に別れを告げるのか、それとも最後にもう一度だけ“琴音”だと名乗ってしまうのか――その選択が運命の決着となる。
「このまま、湊斗から離れて、娘を守る世界に戻ろう」――そう何度も考えた。琴音は“少女”の最後の言葉を思い出し、ベッドの上で頭を抱える。
過去の世界に飛ばされ、“莉緒”として幼い湊斗の運命を改変するはずだった。彼を“琴音”から遠ざけることで交通事故の未来を消し去り、湊斗を生かす道を選ぶ――それが本来の狙い。
だが、月日が経つにつれ、幼い湊斗の無邪気さや優しさに触れるたび、琴音の心は軋む。彼を愛おしく思う感情は、どれだけ封じ込めようとしても暴れ出し、「結局、私は湊斗を選んでしまう…」という結論に向かってしまうのだ。
(私には大事な娘がいる……。あの子を守るなら、私はもう湊斗と過去で結ばれちゃいけない。それでも……駄目だ、やっぱり捨てられない)
激しい葛藤に苛まれながらも、心は湊斗へと走る。あの交通事故の結末をどう変えればいいのか、娘を失わずに済む奇跡があるのか――結論は出ないまま、琴音は今いる過去世界で「もう一度だけ湊斗と生きてみたい」という願いに引きずられるように決意する。
夜が明け、琴音は胸が苦しいほどに早足で秘密基地へ向かう。今日が最後の日だと直感で感じていたからだ。――時空がねじれているせいか、身体の倦怠感や頭痛も悪化し、何かが崩壊しようとしている。
(もう限界だ。これ以上、この世界に存在し続けるのは無理かもしれない。でも、最後に湊斗へ想いを伝えたい……)
そして、物置小屋へ入り込むと、すでに幼い湊斗が待っていた。彼の目がキラキラ輝いて、「りお、遅かったじゃん」と笑顔を向ける。だが、琴音の表情は曇ったままだ。
「……ごめん。ねえ、湊斗……私、今日で……」と言いかけると、湊斗が「え、どうしたの? また変なこと言う」と不安そうに眉を寄せる。
琴音は唇を噛み、「大好きだよ……湊斗」といきなり直球の言葉を発する。“幼い姿で告白”という奇妙な状況だが、彼女はもう迷っていられない。心の奥に溜まった想いが溢れ出す。
湊斗は赤面しながら、「え……急にどうしたの?」と戸惑う。琴音の瞳には涙が滲み、「本当は……あなたを救うために、ここに来た。でも、私もあなたと……離れたくない……!」と声を震わせる。
「駄目だ、やっぱり捨てられない……!」
思わず地面に膝をつき、肩を震わせる。未来で死んだ湊斗を救うはずが、結局、愛しさに飲まれてしまう。もともと自分は“琴音”であり、“莉緒”を演じるのは嘘。娘を失うかもしれないし、この世界も壊れるかもしれない。
(でも、私は何度やり直しても、何度繰り返しても、あなたが好きなんだ……!)
幼い湊斗はまだ“死”や“タイムリープ”など知らないが、目の前の少女が泣いていることだけはわかる。彼も涙ぐみながら、「わけわかんないけど、俺も大好きだよ……!」と叫ぶ。
「りおがいなくなっちゃうとか、俺は嫌だ……絶対にいなくならないで!」
その言葉が胸に刺さる。琴音は全身を震わせ、“自分が“本来の琴音”である事実を隠し続けた罪悪感”と、“幼い湊斗の純粋な想い”に打ちのめされる。こんなに愛されてしまっていいのか? 娘をどうする?
でも、今はそれを考えられない。湊斗から溢れる優しさに触れて、心が叫ぶ。「駄目だ、私……あなたを守りたいのに……でも、離れられない……!」
湊斗は彼女を慰めようとして、自分が落書きしている木の板を指さす。「ほら、ここに『みなと』『りお』って書いてあるでしょ? 二人の名前、秘密基地の印みたいにしたいんだ。さっき書き始めたんだよ」
“莉緒”(琴音)はそれを見て息が止まりそうになる。本来は“みなと、りお”という二人の未来がこの世界のメモリアルになるのか……。しかし、心の奥底で、“わたしは琴音……”と叫ぶもう一人の自分がいる。
気づけば手が板に伸び、震える指で「こと」と小さく書き足していた。
(湊斗から私を無くすはずが、最終的に私は「こと」を刻んでいる……私が嫌だと泣いている証拠……)
湊斗が「え? なんで『こと』って書いたの? りおじゃないの?」と怪訝そうに尋ねる。琴音は曖昧に笑って誤魔化す。「なんでもない……ただの落書きだよ……」と苦笑し、泣きそうな瞳を隠す。
空気が夕焼け色に染まり、秘密基地に橙色の光が差す。湊斗は「今日は帰りたくないな……りおがなんだか悲しんでるから」と甘えた声で言い、琴音の手を握りしめる。
(私は娘を失うかもしれない。湊斗を救えば、その代償として自分の生きた世界が消えるかもしれない。それでも何度繰り返しても、湊斗を愛したい。)
「湊斗、ごめん……。私、ほんとは……」と言いかけたところで、頭に激痛が走る。身体が崩れ落ちそうになり、視界がグラつく。
湊斗「りお!? 大丈夫!?」
“莉緒”(琴音)「……っ……大丈夫、たぶん。ごめん……」
このまま意識を失えば、時間軸が混乱するかもしれないし、現代に引き戻されるかもしれない。愛と運命の綻びが一気に爆発しそうな予感が走る。
痛みに耐えながら、琴音は湊斗を見つめ、「私……どんな代償を払っても、あなたが好き……何度繰り返しても、選んじゃう……」と弱々しく囁く。
湊斗が目を潤ませ、「よくわからないけど……りおがそう言うなら、俺も同じ気持ちだ……。絶対離れない!」と力を込める。幼い二人の言葉だが、そこには深い愛が宿っている。
(もう運命なんてどうでもいい。事故が起ころうが、私は湊斗を選ぶ。娘を失っても……嫌だけど、でも……私の魂はどうしてもあなたを愛しちゃうんだ……)
そして、秘密基地の板に「みなと」「りお」と大きく書かれた隣に、琴音は指先で小さく「こと」と重ね書きする。湊斗が「りお、またそれ……“こと”って何?」と不思議そうに尋ねるが、琴音は涙を浮かべて微笑むだけ。
(これが私が残せる最後のサインかもしれない。あなたに忘れられても、ここに私の名前を刻んでおきたい……)
湊斗は首をかしげながらも、「そっか……りおは、何か隠してるんだね?」と笑顔を向ける。琴音は苦笑いで視線を伏せ、「うん……本当は……」と喉の奥が詰まる。言葉にできない。“私は琴音”と叫びたいが、もうここまで来てしまった。
「愛するということは、何かを失うこと」――そんな残酷な命題を何度も突きつけられながら、琴音は最終的に湊斗との愛を捨てられなかった。
幼い湊斗が優しい瞳で手を握り、「りお、ありがとう。ずっと一緒にいようね」と囁くたび、琴音の心は深く満たされる一方、娘を失う未来を想像して血の気が引くほど怖い。
「でも、やっぱり嫌だ……」と心で叫ぶ。あれほど“交通事故を防ぐため”“湊斗を生かすため”に動いたのに、最終的には湊斗から自分が消えるどころか、今こうして大好きだと言い合っている。
(もう運命に逆らってるのか、運命通りなのか、自分でもわからない……でも、湊斗が好き……)
夕日が沈み、秘密基地が闇に包まれる頃――琴音は本格的に体調が悪化し始め、足に力が入らない。湊斗は「家まで送るよ。俺、今日は一緒にいてあげるから」と気遣ってくれるが、琴音の頭には少女の警告が鳴り響いている。
(このまま夜が明けると、私はもう二度と“現代の娘”のもとに帰れなくなるかも……。でも、それでいいの?)
涙が頬を伝う中、湊斗の手を強く握りしめ、「もし私がいなくなっても……幸せになってね……」と小さく呟く。湊斗は「何言ってるの、いなくならないでよ……!」と焦るが、琴音はたまらず抱きしめ、「大好き……ごめん……ごめん……」と繰り返す。
夜の秘密基地で「何度繰り返しても、私はあなたを選んでしまう」と泣き合った琴音と幼い湊斗。翌朝、琴音は体調不良がさらに悪化し、これ以上この時代にいるのは危険だと実感する。
(この世界で湊斗を救って、自分が“莉緒”として生きても……今の私にとって、一番大切な娘はどうなる? 事故で死んだ湊斗を救っても、私が愛したあの子の存在が消えてしまうのは嫌……)
彼を選びたい、でも守るべきものがある。「こんなもしもの世界で、愛を掴んでも……」果たしてそれは本当の幸福なのだろうか。琴音は複雑すぎる葛藤に苛まれる。
春の足音が近づき、空き地にはまだ残った枯れ草の合間から新芽が顔を出す。朝日を浴びながら、琴音は秘密基地の扉に手を添え、「奇跡なんて、ないのかもしれない」と呟く。
あの交通事故の瞬間だって、湊斗は助からなかった。いくら過去に戻っても、運命を塗り替えるには代償が大きく、救いたい人を救えば娘を失い、娘を取れば湊斗を失う——まるで“奇跡のない残酷な世界”だ。
夜に出現した少女も姿を見せないまま。まるで「これがあなたの選択」と言わんばかりに、琴音を放置している。
(残酷すぎるよ……。どっちにしても、私は誰かを捨てなきゃいけない。こんな世界で愛を得ても、あの子を失うなら、私は本当に幸せなの?)
琴音は体調を押して、昼頃秘密基地へ出向く。幼い湊斗は「りお、来た! よかった……昨日から様子変だったけど、もう大丈夫?」と笑顔を向ける。
琴音は苦しい胸の内で、彼の顔を見つめる。(これが私の最後の別れになるかもしれない)。何をどう言えばいいのか、言葉がまとまらない。
「……ごめんね。私……もう少ししたら、ここを去るよ。あなたとは……会えなくなる……」
湊斗は慌てて「なんで? 嫌だよ、行かないで!」と強い口調で叫ぶ。涙をにじませ、琴音の小さな手を掴もうとする。
それをそっと引き剥がすようにして、琴音は微笑み、「最後に、あなたに逢えてよかった……。ありがとう、湊斗……本当に、ありがとう……」と震える声で囁く。
湊斗は「やだ! りおがいなくなったら、俺どうすればいいんだよ!」と駄々をこねるように泣き出す。琴音は胸を苦しく締め付けられながらも、頭を撫でて「ごめん……私には守るものがあるの」と口をつぐむ。
(湊斗は将来、事故で死んだ——その世界線を救うために来たのに、私は結局、娘も捨てられない。だから……もういい。あなたが事故を回避できなくても、天国でまた会おう……それが結末でも、私は……)
琴音は心中で呟く。「天国でまた会おう。もし奇跡なんて存在しなくても、愛は消えないから」
幼い湊斗の涙を見て、琴音はさらに胸が切り裂かれる気持ちになるが、自分がこれ以上ここに留まると、娘の存在が完全に消える危険性を感じ取っている。
ーーー琴音が再び目を覚ますと、そこはカフェのソファ。
外の景色には桜の花びらが舞い散り、やわらかな風が店内に吹き込んでいる。
スタッフが「店長、大丈夫ですか? ちょっと顔色が悪いみたい……」と心配してくれる。時計を見ると、ほんの数分うたた寝していたかのようにも思えるが、体には冷たい汗が滲む。
(さっきまでいた世界はなんだったの……? やっぱり夢? 幻?)
それでも、“莉緒”としての記憶が鮮明に残っている。あの秘密基地で、「最後にあなたに逢えてよかった……」と泣きながら別れを告げた瞬間まで。桜の花びらがふわりと風に乗り、店先を通り過ぎていくが、その中に湊斗の姿はない。
琴音はふらつく体を支え、店の奥の小さなツリーを見やる。そこにはいくつかの願い事カードが吊られているが、もう湊斗にまつわるメッセージはない。彼は1年前に事故で亡くなっているのだ。
娘はスタッフに預けていたが、店に戻ってきて「ママー」と駆け寄ってくる。その姿を見た瞬間、琴音は涙が溢れそうになり、「うん、ママは大丈夫……」と抱きしめる。
(あなたのいない世界、私はもう馴染んでしまった。奇跡なんてないって思い知った。でも、最後にもう一度だけ、もしもの世界で逢えた……そう思ったら、心が少しだけ救われる……)
もう夕方、外の桜並木を通る風がカフェのガラスを揺らしている。店先に出てみると、舞い散る花びらがふわりと宙を踊っては地面に消える。それは“儚い愛の象徴”かのようだ。
琴音は目を閉じ、「奇跡なんてない、残酷な世界……。でも、私には守りたい娘がいるし、あなたとの思い出がある。もう十分」と小さく呟く。
さっきまで遠い夢の中で、幼い湊斗と最後の言葉を交わした記憶が脳裏を染めている。“天国でまた会おう”と心で誓った、痛ましい決別。
桜が舞い散る――そこに湊斗の姿はない。彼はもういない世界。その事実を胸に刻みながら、琴音は強く生きるしかない、と自分に言い聞かせる。遠くから風が吹き抜け、髪をなびかせて去っていく。
夜、店を閉じ、娘を寝かしつけたあと、琴音はソファで一人静かに座る。店の灯りを消し、足元に残る微かな照明が影を作り、まるで湊斗がそこに立っているような錯覚を覚える。
(何度でも伝えたい……“ありがとう”。最後に逢えてよかった……。あなたは私の一部だから、どんなに時が過ぎても想いは消えない……)
涙が溢れ、「でも、でも、やっぱり嫌だ……」と誰に言うでもなく呟く。彼を失った世界で生きる現実は痛すぎる。奇跡なんかなく、残酷な日常が続く。
しかし、娘の小さな寝息を聞いていると、同時に「守るべき幸せ」が確かにここにあると感じられる。「私は大丈夫……娘を育てながら、あなたを想い続ける」と静かに決意する。
桜の花が夜風に揺れ、ひらりひらりと舞い落ちるイメージが頭に浮かぶ。このまま風は吹き抜けていく……湊斗はいない。けれど、この世界を生きる意味はまだある。愛は止められなくても、命は続いていく。
翌朝、春の陽ざしが差し込み、琴音は眠りの中で微笑んでいた。夢の中であの子供の湊斗が「大好きだよ」と告げてくれる光景が見える。
目覚めると、娘の笑顔と重なり合い、「ああ、私には守るべきものがある。湊斗の想いを抱えながら、私は私の人生を生きるんだ……」と軽く口にする。
店に出ると、スタッフが「おはようございます!」と元気な声をかけ、琴音も微笑み返す。桜の花びらがふわりと落ちてきて、敷き詰められた花絨毯の上を歩く足取りは少し重いが、一歩一歩前へ進めると信じている。
そして、時は平々凡々に流れていく。湊斗はいないが、娘と店とスタッフがいて、琴音は決して一人ではない。季節が巡れば夏が来て、秋が訪れ、冬を越え、また春になる。
「ありがとう……ありがとう……」と、心の中で何度も湊斗に感謝を告げる。もしもの世界で再会できたことで、悔いは少しだけ癒されたし、愛を再確認できた。
だけど、奇跡は起こらない。この世界で湊斗は戻らない。天国でまた会おう……そう祈るしかない。春の桜が舞い散っても、誰の姿も浮かばない。
今日も、風は吹き抜ける――“運命は止められなかった”。湊斗を救えなかった。けれど、今ある幸せを守りたいという意志だけは琴音の胸に残っている。
エンディングを彩る桜の花びらが街を柔らかく染める中、琴音は娘の手を引き、微笑みながら「行こうか……私たちは大丈夫……」と歩き出す。何も変えられなかったかもしれないが、最後にもう一度だけ逢えて良かったと、涙混じりに思い返しながら——彼女の人生は続いていく。
あれから数年が経ち、娘は小学校に上がる年齢になった。春の陽射しがやわらかく街を照らし、桜の花がまた舞い散る季節――鳴海湊斗を失ってから、もうずいぶん時間が経った。
雨宮琴音は娘の小さな手を握り、満開の桜並木を歩く。「ママ、お花、きれいだね!」と屈託のない笑顔で娘が声を弾ませるのを見ると、胸に苦しさと温かさが同時に湧き起こる。
(あなたが見たかった景色は、きっとこんな優しい春だったよね。私はまだ、この世界で息をしてる。あなたの分まで生きて、娘を守り抜くよ……)
かつて、もしもの世界で“もう一度だけ逢えた”湊斗との記憶が、まるで朝霧のように脳裏をかすめる。夢のような、幻のような、確かに存在した時間。彼を救えたかどうかもわからない世界線――しかし、いま琴音が立っている場所は、彼のいない現実だ。
カフェは相変わらず盛況で、季節ごとにメニューや装飾を変えるのが常連客に好評。スタッフたちの成長も目覚ましく、琴音はオーナーとしてバックヤードで指示を出すだけの日々が増えた。
娘は少し前までは店にいることが多かったが、いまは学校に通っており放課後まで留守にする。帰ってくると「ママー、今日はこんなことがあったよ!」と元気に話す姿が愛おしい。
(湊斗がいてくれたら、親子三人で賑やかな家になっただろうな……)
それを想像すると胸が痛むが、もう泣き崩れるほどの悲しみではなく、むしろ懐かしい痛みになっている。きっと彼は天国から見守ってくれてるはず――そう思わなければやりきれない。
ーーーふとした瞬間の面影、追い風のように ーーー
店の片づけを終えて夜道を歩いていると、琴音はときどき風の向こうに湊斗の姿を幻視してしまう瞬間がある。
髪がふわりと揺れる夜風に「あの日の事故現場」を思い出し、足がすくむこともしばしば。だけど、娘を迎えに行く道のりは確かなものだし、生活は続いている。
(奇跡なんてなかった。この数年も、あなたは戻らないまま……。でも、私はあなたから授かった“愛し方”を胸に、娘を愛して生きてる。——ありがとう、湊斗……)
夜空には星がまたたき、風が静かに吹き抜ける。琴音は胸に手を当て、「わたしは大丈夫。娘の未来も、わたしのカフェも、これからも続いていく」と自分に言い聞かせる。痛む愛も、優しい思い出も、すべて抱えながら。
数日後、娘と一緒にカフェの脇に植えられた小さな桜の木を眺めていた。以前、スタッフや常連客と一緒に植えたものが年々育ち、今年は早めに花を咲かせた。
娘が「パパも、きっとこのお花見たかったかな……?」と幼い声で問いかける。琴音はぎくりとするが、微笑みながら「そうね……すごく見たかったと思うよ」と答える。
娘は不思議そうに、「パパは天国で見られないの?」とさらに尋ねる。琴音は困りながらも、「ううん、きっと天国から見てる。全部見守ってくれてるはずだから」と返す。心のなかで「天国でまた会おうね……」と呟く。
やがて日が暮れ、桜の花びらが舞い散る光景が街を染める。淡いピンクの花弁が地面を埋め尽くし、その上を母娘が歩く。琴音は娘と手を繋ぎ、「明日も学校がんばろうね」と声をかける。
娘は「うん!」と元気いっぱいに返事し、はしゃいで花びらを踏む。その横で琴音はふと目を伏せ、湊斗の面影を抱きしめるように息を吐く。
(最後にあなたに逢えてよかった。もしもの世界だったけど、私はそれで救われた部分がある。いま、私はきっと大丈夫。あなたの愛を覚えてる限り、娘を守って生きていける……)
頬を濡らす一筋の涙をそっと指で拭い、微笑みながら娘に声をかける。「さ、帰ろうか」。
風は今日も吹き抜ける。残酷な世界に奇跡はなかったが、愛する人の想いは心に生きている。桜の花が次々と落ちていっても、春は巡り、生命は続く。
夜、娘が寝静まった部屋で、琴音は机に向かい一枚の紙に文字を書き殴る。まるで誰宛かもわからない手紙のような形だ。
「ありがとう。奇跡なんてなかったけれど、私はあなたの笑顔に何度でも助けられた。ごめんね、わがままで。でも本当に、最後にもう一度逢えてよかった……娘と二人で生きていくね。天国でまた会おう……」
書き終えた紙は丁寧に折りたたんで、引き出しの奥にしまう。そのまま夜が更け、琴音はベッドでまどろみの中に堕ちていく。
窓の外、風がそっと吹き抜ける。何も見えないし、何も聞こえない。だが、琴音の心にはいつだって湊斗の愛がある――残酷な世界でも、守るものがあるからこそ、人は強く生きていける。
桜はもうすぐ散り、また別の季節が訪れる。
その繰り返しの中で、琴音と娘は笑顔を育み続けるだろう。
ーーー湊斗がいない世界でも、風は吹き抜け、想いは決して消えずに在り続ける。




