第四章:終焉に射す水色
あれから数年――
あのクリスマスで、鳴海湊斗は琴音との関係を選び、短期退院ののちに再入院して大きな手術や放射線治療を受けた。結果的には脳腫瘍が完治し、医師から「経過観察は続くが、日常生活に支障はない」と太鼓判をもらうまでに回復を遂げていた。
季節は冬、風の冷たさは変わらないが、湊斗の体はかつてのような衰弱から解放され、足取りも安定し、朝の散歩で雪景色を楽しむ余裕さえある。
「おはよう、湊斗。朝ごはんどうする?」
声をかけるのは雨宮琴音――彼女は相変わらずカフェを続け、念願の“将来の形”を掴みかけている。二人は同居しているわけではないが、朝の散歩で合流する習慣がある。
湊斗は「少し外を歩いてきたけど、寒くて鼻が真っ赤」と冗談を言い、元気な笑みを見せる。かつての儚さは消え、「死の影」はもう遠ざかったように見える。
――しかし、彼らの胸には微かな痛みが残っている。莉緒との決裂や、拓海のその後、そして秘密基地の記憶が完全に幸福な形で回収されたかどうかは定かでないまま、淡々と日々は過ぎていく。
それから少し後の昼下がり、琴音のカフェで湊斗はコーヒーを飲みながら新聞を眺めている。店内はあの頃よりも広く改装され、落ち着いた常連客が食事を楽しむほどの賑わいがある。
湊斗はまだライターの仕事を続けており、地元記事の執筆や編集に携わっている。脳腫瘍を乗り越えた後、文章や地域密着メディアへの想いがさらに強くなった。秘密基地で誓った“創作”と、“カフェで一緒に何かを作る”という夢が、形を変えて現実になりつつあるとも言える。
だが、ふとした瞬間に湊斗は「もしあのとき、莉緒と別の道を歩んでいたら……」という想像をしてしまう。愛するということは、同時に何かを喪った事実――心のどこかに残る後悔や切なさを拭えないまま、ただ穏やかな日々を受け入れている。
(莉緒は今、どこで何をしてるんだろう……フルートは続けているのかな。拓海は……もう音信不通になってしまった)
琴音は客席を回りつつ、湊斗の横顔を盗み見る。微かな不安が胸をよぎるが、声には出さず「うちのランチ、今日のスープはどう? 味見してほしい」と話を振って日常の会話に戻る。歯車が一度崩れたまま、それでも二人は新しい歯車を噛み合わせようとしている雰囲気があった。
しかし、ある日の午後、思いもよらない出来事が起こる。
空は晴天だが、冬の冷たい風が吹く中、湊斗がカフェの外で仕入れの荷物を運んでいると、ふわりと何かが落ちてきた。初めはゴミが風で飛んできたのかと思ったが、紙がひらひらと舞い降り、湊斗の足元に引っかかる。
拾い上げると、それは水色の封筒。宛名も切手もなく、不自然な形で風に乗っていたらしい。まるで空から“舞い落ちた”かのように見えた。
何気なく中を開けてみると、そこには紙が一枚。日付の欄には「3年後○○月○○日」とあり、筆跡はどこか琴音に似ているようだが、同時に少し違う気もする。
内容は衝撃的な文言が並んでいた。「愛してる」「あなたの死を見届ける日が来るなんて……」「ごめん、私があのときこうしていれば……」――まるで湊斗が亡くなった未来を前提に書かれた手紙だった。
(なんだ、これは……? 意味がわからない……俺が3年後に死ぬ? それも琴音が書いたみたい?)
寒気を覚え、心臓がドクンドクンと大きく鳴り始める。湊斗は封筒を握りしめ、青ざめた顔で店に戻るが、一瞬、琴音に見せるべきか躊躇する。あまりにも現実離れした話だ。
それとも、これは誰かの悪戯か、あるいは――“未来からの手紙”?
店内に入り、湊斗は厨房にいる琴音を探すが、ちょうどスタッフの応対中で話しづらい。とりあえずカウンターの席に座り、水色の封筒をカバンにしまう。
(これを見せたら、琴音はどう思う? 3年後、俺が死ぬなんて書いてある手紙を渡されても……不気味なだけだよな)
ほどなくして琴音が戻ってきて、「どうしたの? すごく顔色悪いよ」と心配する。湊斗は「いや、ちょっと外で変なもの拾ったけど、大丈夫」と取り繕う。
琴音は「大丈夫ならいいけど……無理しちゃだめだよ、まだ体に負担がかかると……」と優しく微笑む。
湊斗は戸惑いを隠しきれず、“こんな幸せそうな彼女に、変な手紙を見せたら、動揺させるだけだ”と判断して黙っている。しかし、胸にはモヤモヤが増していくばかりだ。
翌朝、湊斗は一人きりの時間を作り、水色の手紙を改めて読み返す。そこには断片的な文章が羅列され、「あなたの死」「3年後」「悔悟と愛情」「ごめんなさい」といった単語が並んでいる。文末には「いつかもう一度、会いに行く。もし生きていたら、そのときは……」という謎めいた言い回しがあり、署名はない。
しかし、筆跡や文体にほんの少し琴音の面影を感じる部分もあり、“未来の琴音”が書いたとしか思えない不思議な文章だ。なぜ空から落ちてきたのか、物理的に説明がつかない――まるで“時間の歪み”か何かのようで、現実離れしている。
(3年後、俺は死ぬ……? でも、俺の病は完治したんじゃ……? それとも、再発すると書いてあるのか?)
湊斗の呼吸が乱れ、頭がクラクラしてくる。つい先日までは“脳腫瘍を乗り越えた”はずなのに、再び死の予感が迫るなんてあり得るのか。
文字には“琴音の愛”と“後悔”がにじんでいて、「あのとき私がこうしていれば、あなたは生きていたのに」といった文脈がある。つまり、未来の琴音は自分の行動が湊斗の死を招いたと悔やんでいるらしい。
この現実を受け入れるべきか――それとも荒唐無稽な紙切れだと断じるべきか。湊斗は混乱し、ついに誰にも言えず手紙を隠し持ったまま日々を過ごし始める。
そんなある日、湊斗は街中で偶然、白川莉緒と再会する。久々に見る莉緒の姿は、フルートケースを抱えて小さな発表会帰りのような装い。お互い目が合い、一瞬気まずい空気が流れる。
しかし、湊斗は心に決めていた。「いつかちゃんと会って話したい」と莉緒に言ったままだったから、ここで逃げるわけにはいかない。
「やあ……久しぶり。元気そうで……」
「……うん、湊斗さんこそ、もう完治したと聞いたよ。よかった……本当に、よかった……」
表面的には穏やかだが、どこかぎこちない微笑みを交わす。二人は近くの小さな公園のベンチに移動し、短く近況報告をし合う。莉緒はフルート演奏に力を注ぎ、時々小さなステージに立っているという。湊斗は琴音と共にカフェの運営を手伝う形で文章を書いているらしい。
わずかな沈黙の後、莉緒が勇気を出して切り出す。「……琴音と、仲良くやってるんだよね。私はそれでいい……あのとき電話で聞いて、覚悟はしてた。でも、本当に……それがあなたの幸せなら、それで……」
湊斗は胸を痛めつつ、「うん……ごめん。でも、俺は莉緒さんのフルートに支えられた時期がある。感謝してるし、否定なんかしない……」と語る。お互いを傷つけた事実は拭えないが、今はただ謝罪と感謝を交わすのみ。
そして、別れ際に莉緒が微笑み、「私、あなたにフルートを捧げようとしたけど……それも叶わなかった。だけど、もう一度だけ言わせて。ありがとう、湊斗さん。私、今もフルートが大好きだし、あなたを救いたかった想いは嘘じゃない」と、涙を一筋こぼす。
湊斗も言葉が出ず、ただ小さく頭を下げる。そうして二人は別々の方向へ歩き出す。愛するということは、同時に何かを喪う――二人はそれを痛感しながら、もう戻れない時間を静かに受け止めている。
夜、湊斗は耐えきれず、ついに琴音に“水色の手紙”を見せる決心をする。もしもこれは未来の琴音が書いたもので、3年後に湊斗が死ぬと書いてあるなら、彼女にも知る権利がある。
カフェの閉店後、二人きりの時間を作り、湊斗は鞄から例の手紙を取り出す。「実は……これ、空から降ってきたんだ。信じられないかもしれないけど……」
琴音は怪訝そうにしながら手紙を読むと、顔が青ざめ、涙が止まらなくなる。「なに……これ……私が書いたような文体だけど、全然覚えがないし、3年後……? あなたの死って……?」
二人は互いに混乱し、「こんなの嘘だよね」「でも、もし未来で俺が死ぬ運命なら……?」とパニックになりかける。琴音は「そんなの嫌……私、あなたを失いたくない。大手術だって乗り越えたのに、また?」と震える声で叫ぶ。
湊斗も苦い表情で「そうだよな……。でも、もしかすると再発のリスクがあるかもしれないし……。これは、俺への警告なのか……?」と頭を抱える。愛を掴んだと思った矢先に突きつけられた“死”の暗示――まるで未来が再び崩れ去る悪夢に思えた。
翌日、琴音と湊斗は藁にもすがる思いで莉緒に連絡を取り、水色の手紙の存在を打ち明ける。偶然か必然か、莉緒は「私も彼の病が再発したりするんじゃないかと不安だった。それなら、協力する」と応じる。
三人は落ち着いて話せる場所として、ある小さな喫茶店(琴音の知り合いの店)を借り切り、夕方に顔を合わせる。久々に揃った三人だが、空気は重い。
湊斗がテーブルに手紙を広げ、「これが空から落ちてきた。どう思う?」と問いかける。莉緒は驚きつつ、「筆跡は確かに琴音っぽいけど、微妙に違う……未来からって、そんなSFみたいな……」と困惑。琴音は俯いたまま泣きそうな顔をしている。
(愛することは、誰かを傷つける。けれど、さらに“死”をも呼び寄せるのか……?)
誰も答えを出せない。やがて莉緒が意を決して「病院で再度検査するしかないかも。もし腫瘍が完全に消えていなかったら、早めに治療を……」と提案する。
湊斗も「そうだね、もう一度しっかり診てもらう」と頷き、琴音も青ざめながら「うん、私も一緒に行く」と答える。こうして、未来の死を暗示する手紙に対抗するかのように、三人で再検査を計画するに至った。
年末、湊斗は再入院して精密検査を受けることになった。莉緒と琴音はどちらも駆けつけ、待合室で時々言葉を交わしながら不安を共有する。ここにはもう対立的な空気はない。むしろ同じ“湊斗を救いたい”想いが三人を結びつけている。
数時間後、医師が重い口を開く。「結果として、再発の兆候は見られません。小さな影があるにはあるが、腫瘍ではない可能性が高い。経過観察を続ければ大丈夫でしょう」
安堵の息が漏れ、琴音は涙ぐむ。莉緒も「よかった……本当に……」と胸を撫で下ろす。湊斗は混乱しながらも「じゃあ、あの手紙に書かれた『3年後の俺の死』って……?」と首を傾げる。
医師は怪訝そうな顔をし、「そんなオカルトじみた話、医療では説明できません。今現在の検査結果は、命に別状ない。あとは心配しすぎず、定期的に通院を」とだけ語る。
こうして、水色の手紙に書かれた未来は“回避された”か、最初から虚偽だったのか――いずれにせよ、湊斗は生き続けられる可能性が高いと太鼓判をもらい、三人は一旦ホッとする。
病院を出たあと、湊斗・琴音・莉緒の三人は建物の外で別れの挨拶をする。白く染まった街は、年明けを迎える慌ただしさで包まれていたが、三人だけは静かに立ち尽くす。
湊斗は車椅子も歩行器も不要になり、普通に立てるまでに回復している。「ありがとう、二人とも……あの手紙は結局なんだったんだろうな。俺は死なないってわかったのに……」と苦笑する。
琴音は微笑み、「もしかしたら、誰かが伝えたかったんじゃない? “あなたの命を大事にして”って。3年前の私が書いたかどうかはわからないけど……」と彼の手を握る。
莉緒はフルートケースを抱え、「湊斗さんが生きてて本当によかった。私も吹きたい曲がまだまだある。……あなたがいる世界で私は音楽を続けたい」と言い、すがすがしい表情で彼と琴音を見つめる。
愛するということは、誰かを傷つけるかもしれないし、自分も傷つくかもしれない。だけど、その先にある“生きている奇跡”を皆が噛みしめる。
湊斗は決意に満ちた声で言う。「俺は、琴音と一緒に夢を叶える。カフェを盛り上げて、記事を書いて、秘密基地の約束を今度こそ本物にする。でも、莉緒さん……あなたのフルートも、ずっと聴いていたい……」
莉緒は微笑みながら「ありがとう。いつかステージに招待するね。あなたたちが来てくれるのなら、私は最高の音を奏でるわ」と答え、最後に静かに頭を下げる。三人がそれぞれの形で和解したわけではないが、少なくとも殺伐とした対立は薄れ、互いを認め合う空気が漂う。
夜が更け、雪が再び舞い落ちる中、三人は別々の道を歩き出す。背中越しに「またね」と小さく言葉を交わしながら――何を失うにしても、まだ先へ進む意志は残されている。そして拓海は遠くからその光景を見つめ、唇を震わせるが、一言も言葉は出ない。
ーーあの水色の手紙の騒動から半年が経過し、季節は夏に向かおうとしている。鳴海湊斗の病は完治状態を保ち、定期検査でも腫瘍の再発は見られず、「普通の生活」ができるようになっていた。
雨宮琴音はカフェを順調に運営し、拡大した座席も好評で、多くの常連客が足を運んでいる。湊斗はライターとして記事を書きながら、時々店に顔を出し、二人で仲良く休憩をとる光景が見られる。
――それはまさに穏やかな日常。湊斗が死ぬ未来など、まるで悪い夢だったかのように、半年の間は何事もなく過ぎていた。莉緒もフルート活動を続け、湊斗や琴音との直接的な接触は少ないが、SNSで互いの近況を知る程度の疎遠な安定を保っている。
拓海はどこへ行ったのか、本社異動の噂もあり、連絡が途絶えがちである。
そんなある夕方、カフェが比較的落ち着いている時間帯に、一人の不思議な少女が店を訪れる。年のころは10歳前後だろうか、淡い水色のワンピースを着て、長い髪を三つ編みにしている。店のドアを開け、物珍しそうにキョロキョロする姿が、どことなく琴音や湊斗の“幼さ”を彷彿とさせるような雰囲気。
「いらっしゃいませ……」とスタッフが声をかけると、少女は「ここ……ママが好きだった場所って聞いて……」とぼそぼそ言う。スタッフが困っていると、琴音が気づいて「どうしたの?」とやってくる。
少女は琴音の顔を見つめ、まるで似通った空気を感じるかのように目を見開く。「……あなたが……?」と謎めいた口調で言うが、それ以上は言わない。
スタッフが事情を聞くが、少女は「……ううん、なんでもない。少しここで休みたいだけ……」とだけ答え、窓際の席に座る。琴音は不審に思うが、客として接客するほかなく、コーヒーやスイーツを出すには幼すぎる年齢なので軽いジュースを用意する。
少女はジュースを飲むでもなく、ストローを弄んで時間を潰す。店内が落ち着くと、琴音は気になって「大丈夫? 誰かを待ってるの?」と声をかける。すると、少女は琴音と湊斗を見つけたらしく、二人のほうへスッと近づいてくる。
「……あなたたちが、湊斗と琴音、なんだよね……」と、はっきりと二人の名前を呼んだ。驚く湊斗と琴音は「え、どうして……知ってるの?」と問いかける。少女は答えず、何かをバッグから取り出す――それはもう一通の水色の手紙。
「これ、あなたたちに渡すように言われたの。……今、二人が別れれば、湊斗は3年後に死ななくなるって……。だから、いま別れないと、湊斗は死ぬの。」
二人は唖然とする。半年間、何も起こらなかったはずなのに、またしても“未来の死”を暗示する言葉を突きつけられる形だ。少女は淡々と、「もし別れずにこのまま続けるなら、数年後に湊斗は死んじゃう。私……それを止めに来たんだ」と続ける。
琴音は顔を青ざめ、「冗談でしょ? なにそれ……どういうこと……」と動揺し、湊斗も「もう腫瘍は完治したんだ。医者も大丈夫だって……」と否定。しかし、少女は「病気だけが原因じゃないかも。運命って複雑だから……」と謎めいた言葉を残す。
取り乱す琴音を落ち着かせようとする湊斗。店内に他の客がいない時間帯で幸いだが、あまりにも異常な状況だ。
「あなた、名前は? なんでそんなこと……」と琴音が少女に問う。すると、少女は困ったように微笑み、「名前は……いまは言えない。多分、あなたたちの選択次第で変わるの……」と不可解な回答をする。
さらに、少女は琴音と湊斗の雰囲気に似ているとも感じられる仕草を見せる。「ママが好きだった場所って言ったのは、このカフェのこと。私、ずっとここで生まれるはずだった……だけど、ママとパパが選んだ道で未来が変わって……」と、半ば意味不明な話を始める。
まるで未来から来た子供とも捉えられるが、二人はそんなこと信じられない。頭が混乱するが、少女の真剣な目つきは嘘には見えない。
「とにかく、もし二人が今すぐ別れれば、3年後の湊斗の死は起こらない。そう警告するために、私は来たの。……どうするの?」と問いかける少女の眼差しは悲しげで、しかしどこか懐かしさも帯びていた。
湊斗は「そんなの、あり得ないよ……別れれば俺が助かる? 俺はもう病気を乗り越えた。どうしていまさら俺が死ぬ……」と苛立ちと恐怖を交えた声で反論する。
琴音は少女の言葉に涙ぐみ、「私たち、やっと幸せを掴みかけてるのに……それを手放せば湊斗は生き続けるって、そんな理不尽がある?」と叫ぶ。
少女は目を伏せ、「わからない……でも、これは“もし二人が一緒にいると、運命が変わって湊斗が死んでしまう”って……。私は、あなたたちが結ばれなければ生まれてないはずの存在……だから、こうして警告する義務があるの……」と支離滅裂な説明。
まるでパラドックスだ。“少女”は自分の存在が消えるかもしれないのに、湊斗の死を回避する道を説いているとも捉えられる。もはやSFめいた話に二人は理解が追いつかず、琴音は頭を抱えて「意味がわからない……」と泣き崩れそうになり、湊斗は少女の腕を掴んで「何者なんだ……!?」と問い詰める。
そこに、莉緒が偶然訪ねてくる。半年ぶりに琴音のカフェを覗きに来たのだ。店の奥で湊斗と琴音が少女を囲むように立ち、激しいやり取りをする様子を見つけ、思わず「何……どうしたの……?」と声をかける。
湊斗はハッとして手を離し、少女を解放する。「莉緒さん……ごめん、変なタイミングで……」と口ごもり、琴音も戸惑いを隠せない。
少女は莉緒を見た途端、震えるように目を見開き、「あなたが……? フルートの人……」と呟く。莉緒は胸騒ぎを覚え、「この子……誰……?」と三人に尋ねる。
すると、少女は脇に抱えていたもう一枚の紙を取り出し、今度は莉緒に向けて差し出す。「あなたに、これを渡すように言われてたの……」
湊斗と琴音が息を呑んで見守る中、莉緒は恐る恐るそれを受け取る。封筒は再び水色で、今度は「あなたの音、届かなかった……ごめんなさい……」と書かれた文面が覗いている。半年前の悪夢がフラッシュバックする。
少女は重々しい表情で続ける。「これも“未来の手紙”だって言われてる。……もし、あのときあなたがフルートを捨ててたら、湊斗は死ななかったかもしれない。でも、あなたは続けてしまった。だから未来が変わって……」
莉緒は唇を震わせ、「何を言ってるの……? 私が湊斗さんを殺すの……?」と動揺を隠せない。これまでフルートで湊斗を救いたいと思ってきたのに、その行為が逆に運命を歪めているというのか。
湊斗と琴音は「もうやめてくれ!」と声を張り上げるが、少女は悲しげに微笑むだけで視線を落とし、「私は、ただの使い走り。あなたたちが選ぶ道次第で、未来はいくつも変わる。それを知ってほしくて来ただけ……」と言う。
三人の思考が混乱し、現実離れした言葉に怒りや恐怖を覚えるが、どこか胸の奥で“もし本当ならどうする?”という問いが生まれてしまう。店内には寒気さえ漂うような静寂が落ち、少女は「ごめんなさい……」とだけ言って店を出ようとする。
店を出ようとする少女を追おうとした瞬間、なんと拓海が店の入口から姿を現す。半年ぶりに琴音のカフェに来たらしく、少女とすれ違う形だ。
少女は拓海を見上げ、少し苦しそうな表情を浮かべると、「あなたも……変えたい運命があるなら、いま決断すべきだよ……」と囁くように言い、外へ駆け出していく。拓海は唖然とし、「誰だ、あの子……?」と問いかけるが、店内の三人も説明できない。
やがて、拓海は険しい顔で湊斗を睨み、「半年ぶりに来たらまた変な騒ぎか。何があった?」と苛立ち混じりに尋ねる。琴音や莉緒は何も答えられず、湊斗は「……ちょっとよくわからないが、未来の話をされて……」と曖昧に返す。
しかし拓海もその水色の封筒に目を留め、「またか……。半年前の水色の手紙と同じ騒ぎか」と察してしまう。これまで黙っていたが、拓海は二人のキスシーンを目撃したあの夜を思い出し、内心で怒りを押し殺す。
少女の去った後、店には4人が揃う形になってしまう。しかも、少女の言葉が頭を離れないため、四人とも落ち着かない。
拓海がついに口火を切る。「で? 鳴海が琴音を選んで、莉緒を捨てたわけだな。その結果が3年後の死を招く? 馬鹿げてるだろ……」と苦い笑みを浮かべる。
琴音は怒りで声を荒げ、「捨てたわけじゃない……! 莉緒だって、湊斗だって、お互い納得して――」と言いかけるが、莉緒は複雑な表情で首を横に振る。「私、納得したわけじゃないよ……諦めたんだよ。だけど、それが彼を救えないなら、私は何もできないじゃない……」
湊斗は「もうやめてくれ……」と頭を抱える。そこに拓海が畳みかける。「鳴海、もし本当にお前が死ぬ運命なら、いま琴音を捨てて莉緒に戻る手もある。少女が言ってたろ? 何かを変えれば回避できると……。お前はどうする?」
四人の視線が交錯し、凍える空気が店内を支配する。湊斗は「どちらを選んでも命が助かる保証はないだろう! 俺が琴音を選んだから死ぬ? そんな理不尽があるか……」と声を張り上げ、琴音は泣きそうに「私も失いたくない、でも莉緒を苦しめるなら離れたほうがいいの……?」と動揺する。
莉緒はその光景を見て耐えられなくなり、「やめて……私はもう湊斗さんを奪い返す気はない。フルートだけで生きていく覚悟を決めた。でも……死ぬなんて嫌……」と力なく呟く。拓海は苛立ちを募らせつつ「俺もお前の死を望むほど鬼じゃないが、正直、もういい加減にしろと言いたい」とため息をつく。
愛するという行為が誰かを傷つけ、あるいは命を奪う結果となるのなら、どうすればいいのか。湊斗と琴音が結ばれることが死の引き金なら、諦めて離れれば湊斗は生き続ける? そんな悲しい選択を二人ができるのか。
真実を越えたとして……――葛藤がピークに達したとき、湊斗は心の奥で決意を固める。「こんな手紙や未来の説などに屈しない。俺たちがどう生きるかは、俺たちが決める……」と。
不確実な死を恐れて別れを選ぶならば、何のために奇跡的に生還したのか。湊斗の胸には、自分の死を乗り越える術は自分で切り開くという強い意志が芽生えていた。琴音の瞳にも一筋の光が宿り、莉緒は痛みを抱えつつも、「あなたを応援する、死ぬなんて嫌だ」と小さく呟く。
「二人が別れれば、湊斗の死は回避できる」
謎の少女がカフェを去ってから、すでに一週間が経過。鳴海湊斗と雨宮琴音は、この衝撃的な言葉に振り回され、どうにも心の整理がつかないまま日々を送っていた。
湊斗は脳腫瘍を完治したはずで、医師からも「現段階では問題なし」と言われているのに、“3年後に死ぬ”という予言が頭を離れない。琴音はそんな湊斗を励ましつつも、少女の姿が忘れられない――どこか、自分と湊斗の“幼いころ”を投影したようにも見えたからだ。
(あの子はいったい誰……? どうして私たちの名前や、“水色の手紙”のことを知ってるんだろう)
店内はいつものように賑わっているが、琴音の笑顔はぎこちなく、スタッフが「店長、大丈夫ですか?」と気遣うほど。さらに、彼女の体調に些細な変化が起こり始めている――ときどき気分が悪くなったり、眠気が激しくなったり――しかし、まだそれが“命の兆し”などとは想像もしなかった。
ある日の閉店後、琴音は厨房でささやかな片づけをしている最中に突然めまいを起こし、しゃがみこむ。「うっ……」と吐き気も催す。幸いそこに湊斗が居合わせ、慌てて「大丈夫!?」と支える形に。
「なんだろ……最近、こういうの多いんだ……。疲れてるだけかな……」と琴音は頭を振る。湊斗は「休んで。俺が片付けをやるから」と優しく促すが、琴音は焦って「大丈夫、大丈夫」と平静を装う。
心当たりがまったくないわけではない。数ヶ月前、二人は“あの日の衝動”で深く結ばれ、互いの想いを確かめ合った。避妊について細かく話した記憶は曖昧で、まさかとは思いつつも「もしかして……」という疑惑が脳裏をかすめる。
(私が妊娠……? でも、そんなことが現実なら、嬉しいけど……今こんな状況で、湊斗が3年後に死ぬかもしれないって言われてて……)
湊斗に対して隠す形になってしまう罪悪感を覚えながらも、琴音は自分の体の変化をまだ受け入れきれない。「もし本当に妊娠していたら……命が繋がる」という事実が、運命の波乱をさらに加速させるとも思っている。
一方、莉緒はフルート活動が活発化し、街の小ホールや施設で演奏する機会が増えていた。そんな中、ある公園での屋外ミニコンサートを終えたあと、あの謎の少女と再会してしまう。
少女は前と同じ水色のワンピース姿で、まるで時空を超えて存在しているかのような神秘的な雰囲気を醸している。周囲の人混みに紛れながら、莉緒のもとへ近づき、「やっぱり、あなたの音は綺麗……」とつぶやく。
「あなた……この前、琴音の店に来た子だよね? どうしてここに……」
「私、あなたがフルートを吹く姿が好き。だから見に来た。……湊斗はまだ死の運命を回避してないよ」と、またしても衝撃的な言葉を放つ。
莉緒は思わず「どういう意味? 湊斗の病気は治ったのに……」と反論するが、少女は首を横に振り、「病気だけが原因とは限らない。彼が“誰と一緒に生きるか”で運命が変わるから……。それに、あなたももう少しで大事な役割があるんだよ」と謎を深めるばかり。
(大事な役割‥‥‥‥?)
莉緒は苛立ちを抑えつつ、「いい加減にして……私はもう、湊斗さんを諦めて、フルートを続けていくだけ。どうして私が関係あるの?」と声を上げる。少女は静かに微笑み、「あなたの音が、未来を変えるかもしれないんだよ」とだけ残し、人混みの中へ消えていく。
莉緒は混乱のまま、そっとフルートケースを抱きしめる。愛すること、命を繋ぐこと、死を回避すること――一体何を信じればいいのか。夏の強い陽射しが背を焼くように感じられた。
その頃、北園拓海は編集の仕事で多忙ながらも、頭の中はずっと「3年後に湊斗が死ぬ」という話でいっぱいだった。少女の出現により、湊斗と琴音の関係はまだ危機にさらされており、莉緒も巻き込まれている。
(俺はもう何もできないのか……。鳴海が死ぬ運命なら、放っておけばいずれ琴音も空くだろう? いや、それは最低の発想だ……。俺は……)
彼は自問自答しながら、ふいに“水色の手紙”を思い出す。自分のもとには届かなかったが、過去にその存在を知った。そして、あの少女に言われた「あなたも運命を変える決断をすべき」という言葉が胸を刺す。
拓海は考え込む。「もし昔、鳴海を救うチャンスがあったのに逃したのが俺なら……? いや、そんなわけ……」と混乱する。過去や未来、あるいは時空が歪んだような感覚に飲み込まれ、彼の内面は再び荒れ狂い始めた。
数日後、琴音はついに産婦人科を受診する。何度か自宅で検査薬を試してみようかとも思ったが、正面から向き合うには病院が確実だと決断したのだ。
結果はすぐには出ないが、医師は「超音波で見た感じ、まだはっきり言えないけど、可能性は高いですね。来週もう一度来ていただければ確定できるかもしれない」と言う。
琴音の胸は高鳴り、恐怖と喜びが入り混じった複雑な感情が渦巻く。
(もし私が妊娠してるなら、二人の子供が宿ったということ。でも、その“二人が一緒にいると湊斗が死ぬ”って言われてるのに、私がお腹に命を宿してるなんて……皮肉すぎるよ……)
カフェに戻っても落ち着かず、スタッフに任せて早退させてもらう。アパートで一人きり、ベッドに身体を横たえ、手をそっとお腹に添えながら涙が零れる。「運命を蹴飛ばしてでも、掴みたいものがある」――それがこの子の命なのか、もしくは湊斗の未来なのか、思考がまとまらないまま日が暮れていく。
翌朝、琴音は意を決して湊斗を呼び出し、自宅に招く。まだ確定診断ではないが、隠すわけにはいかない――そう感じたのだ。
玄関先で湊斗が「急に呼び出して……どうしたの?」と不安げな表情。琴音は姿勢を正し、うつむいたままぽつぽつと話し始める。「もしかしたら、私……妊娠してるかもしれない……」
湊斗は驚き、一歩下がる。「そ、それって……俺の子?」と混乱するが、琴音は顔を赤らめながら「当たり前でしょ? 鳴海さん以外いないんだから……」と答える。
喜ぶべき事態なのに、二人の表情には希望よりも不安が色濃い。なぜなら少女の警告が頭を離れないのだ。この子が生まれる未来こそが、湊斗を死へ導く可能性があるのでは――そんな根拠のない恐怖が募る。
湊斗「そんな……俺、嬉しいはずなのに、どうすればいいんだろう。もし“別れれば助かる”のが本当なら、子供はどうなるんだ……」
琴音「私もわからない……でも、この命を“運命がどうだから”って諦めるなんて、いやだよ……」
二人は抱き合って泣き、愛し合う気持ちを再確認するが、運命に対する恐怖を払拭できずにいる。愛するということが、また誰かを傷つけることになるのか――命の重みが彼らを追い詰めるばかりであった。
同じ頃、莉緒はフルート活動をしながらも、少女の言葉「あなたも大事な役割がある」という記憶に囚われていた。自分の音が未来を変えるのか、あるいは湊斗の死を招くのか、わからないままだ。
実は最近、彼女の演奏に注目する業界関係者が増え、海外のマスタークラスへの招待が届くなど大きなステップアップのチャンスが訪れている。もし受ければ数年は日本を離れることも考えられる。
(ここで日本を離れてしまったら、湊斗さんや琴音のためにできることはなくなる。でも、もしかしたら私が離れれば、彼らの運命は好転するのかな‥‥)
フルートを捨てる気はないが、この地を離れ、新しい道に進む選択が一つの解決になるのかもしれないという思いが頭を過る。
夜、部屋で一人考え込み、「もしかすると、これが私の“役割”なのかもしれない。湊斗さんと琴音が苦しむなら、私がもう関与しない道を選ぶべきなのかな……」と苦悩しながら、海外行きの書類を見つめる。
一方、北園拓海は決断を迫られていた。少女の言う“運命を変える決断”とは何か。鳴海が死ぬ未来を望むわけではないが、結局誰もそれを回避できる方法がわからずにいる。
苛立ちを抑えきれなくなった彼は、仕事を早退し、半年前に少女が現れたあたりの街を探し回る。もし見つけて問い質すことができれば、何かが変わるかもしれない――そう信じて。
運よく夕暮れ時、人通りの少ない路地であの少女を見つけ出す。拓海は荒い呼吸で少女を呼び止め、「お前……どうやって未来を知ったんだ。鳴海を本当に救う方法はないのか?」と問い詰める。
少女は怯むことなく、「あなたもまた、運命を変えられる一人なのに……まだ迷ってるんだね。もしあなたが、莉緒を愛して、湊斗と琴音を分かつなら、それも一つの可能性かもしれない」と冷たく言う。
拓海はカッと目を見開き、「ふざけるな……そんな形で鳴海を殺すくらいなら、俺だって覚悟が……」と食い下がろうとするが、少女は静かに首を振り、「誰も死なない未来を望むなら、あの二人の絆を壊さないといけない場合もある。選ぶのはあなたたち次第……」と謎の言葉を残して姿を消す。
拓海はその場に呆然と立ち尽くし、拳を握りしめる。“愛するがゆえに壊す”という暗示に、かつての破滅衝動が呼び起こされそうになる。
もしこのまま二人が添い遂げ、子を成す未来を続ければ、本当に湊斗は3年後に死ぬのか? 本当に回避できないのか? その真偽を確かめる術は見つからないまま、夏の陽射しが街を照りつけ始める。
数日後、琴音は産婦人科で再検査を受け、正式に妊娠が確定した。小さな胎芽がエコー画面に映し出され、医師から「あまり無理しないように」と言われ、琴音は高揚感と不安で涙ぐむ。
店に戻って湊斗に報告すると、彼も思わず抱き寄せ、「……おめでとう」と震える声で祝福するが、同時に“3年後の死”が脳裏にちらつき唇を噛む。
その夜、二人は真剣に話し合う。「もし本当に俺が死ぬ運命でも、この子を産んでくれる?」と湊斗が問うと、琴音は「あなたの命が短いなら、なおさらこの子を遺してほしい……私、絶対に守るから」と答える。
湊斗は苦しい笑みを浮かべ、「そうか……なら、俺も逃げたりしない。少女がどう言おうと、二人で生きて、この子を育てるよ……」と力強い声で誓う。たとえ何を失うことになっても、最後まで抗う――それが彼らの選択だった。
この事実は琴音にとって待ち望んだ喜びでもあるし、湊斗との愛の結晶と呼べるもの。けれど、謎の少女の言葉「二人が一緒にいると湊斗は3年後に死ぬ」を思い出すたびに、己の幸せが彼を死に追いやるのでは、と怖くなる。
(私は引き下がらない。もし運命がどうなろうと、この子を産むし、湊斗を救いたい)
そう胸に決めても、夜の静寂が不安を増幅させる。店のイルミネーションが揺れ、ガラスに映った琴音の表情はどこか怯えている。――「未来の死」をどう乗り越えるか、まだ何も見えないままだ。
一方、鳴海湊斗は“二人が別れれば死は回避できる”という条件をどうしても受け入れられず、少女を探し出して直接問い質そうと決心する。
あの少女が最初に現れたのは琴音のカフェ。次に現れたのは街の公園や路地裏。湊斗は体力が戻ったといってもまだ万全ではなく、車椅子や歩行器なしで長時間外を彷徨うのはリスクがあるが、焦る気持ちが勝る。
ある夕方、ひとりで街を歩き回り、同じエリアを行き来するが、容易に見つかるはずもない。むしろ疲労が蓄積し、足取りが重くなる。ふと、拓海が前方からやってくる姿が見え、思わず声をかける。
湊斗「先輩……こんなところで……」
拓海「俺こそ聞きたいよ。お前こそこんな顔色で外を彷徨って、まさか“少女”を探してるのか?」
二人はぎこちなく顔を合わせる。湊斗は溜息をつき、「あの子を捕まえて、話をはっきり聞きたいんだ……“俺が死ぬ”って、本当なのか、それともただの悪戯か……」と弱々しく言う。
拓海は唇を噛み、「本気か? お前まだ体力ないだろう。言っとくが、あの子の言うことを真に受けたところで何が変わる?」と苛立ちをあらわにするが、湊斗の表情を見て胸の奥が揺れる。結局、二人は協力して少女を探そうかという流れになる。かつては対立ばかりだったが、ここにきて共通の目的が生まれたかもしれない。
一方、莉緒は海外留学プログラムの締め切りが迫っていた。あの謎の少女から「あなたにも役割がある」と言われたものの、具体的には何を指すのか未だに掴めない。
もし海外に行けば、湊斗や琴音とは距離が生まれて関与しなくなる。けれど、少女の言う“役割”を放棄することにも繋がる気がして踏み切れずにいる。
(私がフルートを辞めれば湊斗が助かるという話が一時あったけど、それを選ばなかった。いま、このまま海外に行くのは違うのか……)
葛藤を抱えながら、莉緒はフルートケースを抱きしめ、頭を抱える。
夜、疲れ果ててソファに沈み込むと、携帯には海外プログラム事務局からの催促メールが届いていた。「最終回答は明日までに」と書かれ、莉緒は唇を噛む。まるで運命の締め切りが迫っているかのようだ。
翌夕、湊斗と拓海が再び街を歩いていると、偶然にもあの少女が路地を曲がっていく姿を捉える。二人は急いで追いかけるが、少女は驚くほど足が速く、一度見失いかける。
拓海が「お前はここで待ってろ、俺が捕まえる」と叫び、湊斗を安全な場所に残して自分が先行する形になる。湊斗は「でも……」と不安を抱えつつ、歩行器に寄りかかりながら拓海を見送る。
拓海は必死に追いかけ、やっと少女を路地の角で取り押さえるように腕を掴む。「待ちやがれ……あんたが言ってること、ちゃんと説明してもらうぞ……」
少女は苦しそうに拓海を睨み、「痛い……わかった、離して。私に何を聞きたいの?」と静かに言う。拓海は乱れた息のまま、「どうすれば鳴海を死なせずに済む? “二人が別れれば”なんて無茶な話、他に方法はないのか?」と怒りを滲ませる。
少女は腕を解放されると、拓海をじっと見つめ、「鳴海と琴音が“命”を紡ぐなら、3年後の死は確定しちゃう。あの手紙に書かれてた通り、運命が変わってしまうの。もしそれを回避したいなら、二人を離れ離れにするしかない」と主張。
拓海は荒い呼吸で、「そんな理屈があるか……じゃあ、もしこっちが動いて2人を妨害すれば、鳴海は助かるのか?」と思わず吐露し、少女は深刻な顔で頷く。「そう。あなたが決断して実行すれば、運命は変わるかも。だけど、あなたが本当にそれを望むの?」
二人が対峙する背後から、湊斗が必死に追いついてくる。「はあ……はあ……拓海さん、やめて……彼女を乱暴に扱わないで……」と声を荒げる。
少女は湊斗を見るや否や、再び悲しい笑みを浮かべ、「あなたは、どう足掻いても3年後に死ぬ運命が強い。でも、運命の分岐点はあちこちにあるから……もしここで“何か”を変えれば、助かる余地も残る。私がこうやって警告してるのは、みんなに可能性を与えるためだよ」と静かに言う。
湊斗は「ふざけるな……俺は琴音と共に生きるって決めたんだ。子供だって……!」と声を張り上げ、少女は一瞬目を丸くする。「そう……子供まで。なら、なおさら死の確率は上がる」と断言。湊斗は頭を抱え、怒りと苦悩で唇を噛む。
一方、拓海はこのやり取りを見て揺れていた。もし少女の言うことが真実なら、いま湊斗と琴音を強引にでも引き裂けば、湊斗は生き延びるのだろうか。そうすれば莉緒が救われるかもしれないし、自分が手に入る可能性は別として、破滅を避けたいという気持ちが強くなっている。
しかし、そんな考えが頭をよぎった瞬間、湊斗が決意を込めて「どんな運命でも、俺は負けない。琴音と子供を守る。お前(少女)が何者でも関係ない……!」と声を張り上げ、歩行器を握りしめる。その姿に拓海は衝撃を受け、「こいつは本気で闘うのか」と驚く。
少女はため息交じりに微笑み、「そう……あなたがそう決めるなら、もう止められない。だから、少なくとも莉緒や拓海がどう動くかが最後のカギになるかも……」と示唆して、またしても足早に路地を曲がり姿を消してしまう。
同じ夜、琴音は産婦人科にて検査を受け、「おめでとうございます。妊娠8週程度でしょう」と正式に告げられる。同時に医師は「これからつわりが本格化する可能性があるから無理をせずに」とアドバイスする。
帰宅した琴音は湊斗へ電話で報告し、「……私、どうしよう……」と声を震わせる。湊斗は「……ありがとう。俺は、ほんとに嬉しいよ」と率直に応えた後、「あの少女の話は気にしなくていいよ。生き続けるために、俺たちは結ばれたんだ」と力強く言う。
琴音は泣き笑いで、「うん……私もそう思う。この子とあなたを守りたい……」と決意を新たにする。愛と生命を優先し、警告を無視して突き進む――それが二人の答えだった。
翌週、白川莉緒は海外音楽留学プログラムの最終回答の期限を迎えた。散々悩んだ末、「私は行く」と返信メールを送り、航空チケット手配も済ませる。フルートを捨てず、日本を一度離れるという選択肢だ。
湊斗や琴音に直接報告するべきか迷うが、二人を余計に動揺させたくないという思いが強く、黙って出発するつもりで準備を進める。
(私がここを去れば、あの少女の言葉とは逆方向だけど、もしかして湊斗さんが救われる未来に繋がるかもしれない……私の役割が“この場から退く”ことなら、それでいい。フルートを極める道だし、湊斗さんへの負い目も減るのかも)
旅立ちの日、莉緒は空港で一人きりチェックインを済ませ、搭乗口へ向かう。ふと、フルートケースを抱く手が震えるが、「もう迷わない」と呟く。こうして莉緒は静かに日本を去り、海外の舞台で音を鳴らす新たな道を選んだ。
莉緒が旅立ったことを知らず、拓海は水色の手紙や少女の言葉を反芻し続けていた。結局、鳴海を引き離すことができなければ、湊斗の死は避けられないのか? 本当にそんな未来が来るのか?
酔いに任せ、深夜に琴音のカフェへ突撃しようとする衝動が再び湧き、「俺が二人を壊すしかない……」とドアに手をかけるが、鍵が閉まっている。店内には誰もいない。
腹立ちまぎれに壁を殴りそうになるが、思いとどまり、“優しい嘘”を吐くことを思いつく。例えば「莉緒が戻ってきて、鳴海と結婚するらしい」という捏造を流布すれば、琴音が別れるかもしれない。だが、それは無理があるか……。
結局、拓海は頭を抱え、「やっぱり俺にはできないな……」と虚空に呟く。破滅的な策を講じる勇気もなく、ただ夜風に当たってさまようばかり。彼は鳴海の死を喜びたくなどないのだ――それが救いなのか、それとも徒労かはわからない。
妊娠が判明してから数週間が経ち、雨宮琴音のお腹には確かな胎動の気配が芽生え始めていた。まだ外からは分からない程度だが、医師の診察では「順調に育っている」と評価され、琴音と鳴海湊斗は胸を撫で下ろす。
湊斗の病状も安定しており、医師から「経過観察は続けるが、普段通りの生活を大きく制限する必要はない」と言われている。半年前に脅かされた“3年後の死”の話は、いまは2人の意志で押し返そうとしていた。
ある日、琴音が「この子が生まれる前に、ちゃんと形にしたい……」と、小さく呟く。湊斗はすぐに意味を察して、微笑み返す。「……結婚式、どこで挙げよっか」
琴音は頷き、「ありがとう‥‥ここから近いところでいいよ。‥‥‥‥あとね‥‥もし私たちに運命があるのなら、あなたを喪うかもしれない怖さはあるけど、それでも私は一緒にいたい……」
湊斗は苦しそうな笑みを浮かべ、琴音を抱き寄せる。
その夜、二人のカフェが閉店間際になっても客が残っていたが、スタッフが対応している隙に、あの少女がふらりと姿を現す。ちょうど湊斗と琴音がレジ付近で話しているところへ近づき、静かに見つめる。
「結婚、するんだ……。そうなると、もう止められないね……」
少女の声にはどこか寂しげな響きがあり、琴音は身構える。「やめて……私たち、もう決めたの。あなたがどう言おうと、別れないし、子供も産む」
少女は視線を落とし、「私があなたたちに伝えたかったのは“死を回避する最後のチャンス”……。でも、あなたたちが選ぶなら、もういいの。私は……ただ、あなたたちが大切にしてるものを失くしてほしくないと思ってるだけだから……」と呟く。
湊斗は苦しげに「そもそも、君は何者なんだ。いつも警告だけして消えていく……。大切なものを失くしたくないって、君自身にも“失くしたくないもの”があるのか?」と問いかける。
しかし、少女は答えず、またしても「ごめんなさい……」とだけ残して店を出ようとする。琴音が引き止めようとすると、まるで空気が歪むように、一瞬の隙で姿が消えてしまう。この世界の存在ではないかのような佇まいに、二人は寒気を覚える。
謎の少女の警告を無視する形で、湊斗と琴音は結婚式の準備を本格化させる。できれば子供がお腹にいる間に挙げたいという意向で、カフェの常連客やスタッフにも祝福ムードが漂う。
式場のブライダルフェアに足を運んだり、神社や教会を検討したり――湊斗の体調を考慮して大規模にはしない予定だが、永遠の契りを形にする儀式を二人とも大切に考えている。
湊斗は時々頭痛やめまいを起こすことはあるが、医師に相談しながら薬でコントロールしていた。
店のスタッフも「ぜひカフェでお祝いパーティーをやりましょう!」と提案するなど、周囲は温かい。しかし、二人の心の奥底には少女の憂いが焼き付いており、完全な安心には至らないまま日々が過ぎる。
海外へ旅立った莉緒は、新天地での音楽留学生活に突入し、語学やフルートの高度なレッスンに追われる日々を送っていた。SNSを通じて漠然とした近況を伝えてはいるが、湊斗や琴音との直接のやり取りはほとんどない。
それでも、ある夜にフルートの自主練をしていると、不意にあの少女の顔が浮かぶ。半年前、少女は「あなたにも役割がある」と言った。「私がここにいることで、湊斗さんを救えないなら……」と落ち込む瞬間もあるが、一方で新しい知識や演奏技術を得ることで、フルートの世界が広がっている手応えもある。
(湊斗さんと琴音が結婚して、子供が生まれて……きっと幸せになるんだろう。それで彼の死が回避できるなら、私がここでフルートを極める意味もある。でも、実際どうなるのかな……)
夜の寮の部屋で、莉緒は窓の外の星空を見上げる。運命を蹴飛ばす術などわからないが、自分が音楽と向き合い続けることが、いつか“役割”を果たすことになるのかもしれない――そう信じた。
そして同じ頃、拓海は少女から「湊斗と琴音を離すことで死を回避できる」と示唆されて以来、頭の中で様々な策を巡らせ、最終的に挙式直前で二人を引き裂く計画を思いつく。
式の準備が進んでいると聞き、式場や日程を嗅ぎつけ、ある日そのスタッフに対して「新郎に緊急連絡があるので、連絡先を教えてほしい」と嘘をつきかけるなど、破滅的な行動を取り始める。
しかし、店の人やスタッフから「個人情報は教えられない」と断られ、プランがうまくいかない。焦りが募る拓海は、酔った勢いで拳を固め、最悪のケースでは暴力や脅迫に至る可能性すら匂わせる。
愛する人を救うために“破滅”を誘う――それが正しいとは思わないが、ほかに方法が見つからず、自分を止められなくなりそうだった。
湊斗と琴音は結婚指輪の試着に訪れ、シンプルながら二人のイニシャルを刻んだリングをオーダーする。店員が「出産前に挙式されるなら、ぜひお早めに日取りを決めてね」とアドバイス。
琴音はお腹を軽く撫でながら微笑み、「この子が生まれるまでに式を挙げたい……。私たち、ずっと一緒にいたいから、誓いを形にしたいんです」と幸せそうに話す。その眼差しには強固な意志が宿っている。
湊斗も内心、「もし本当に未来に死が待っていても、この決意は曲げたくない」と思っている。愛を選ぶ以上、それがどんな結果を招いても仕方がない‥‥。
その帰り道、琴音はお腹にわずかな動きを感じ、湊斗に「ほら、今……赤ちゃん、動いた気がする……!」と興奮気味に伝える。二人の顔がほころび、“新しい命”を共有する喜びが一瞬、不安を塗り潰すかのように輝いた。
だが、そんな二人の幸福を見つめる影があった。少女が街角から二人を遠目に見つめ、涙を浮かべながら震えている。
「どうして……私はあなたたちがずっと幸せでいてほしいのに、運命が変わってしまう。私の大切なものを失くしたくないのに……」と小声で呟く。
まるで少女自身が“愛する者”を失う運命を抱えているかのよう。“この子は未来から来た湊斗と琴音の子”という仮説さえ浮かぶが、真相は不明。
少女は「あの人(拓海)がどう動くかで、未来が変わるかもしれない。でも、暴力や悲劇は望んでない……。私ができることは……」と苦悩しつつ、黙って姿を消す。何もかもが噛み合わないまま、運命の歯車が軋む音だけが聞こえてくるようだ。
ある夜、海外で暮らす莉緒のもとに、琴音からメールならぬ手紙が届く。国際便であり、パソコンやSNSではなくあえて直接ペンで書かれたもの。
文面は「久しぶり。実は私、妊娠がわかったの。湊斗さんと一緒になる覚悟を決めた……。でも、もし今でもあなたに恨まれてたらどうしよう、許してなんて言えないけど、私はあなたのフルートをずっと応援してる。いつか大きなステージで会いたい」といった内容。
莉緒はそれを読み、涙が止まらなくなる。琴音が申し訳なさを抱えながらも“自分の幸せ”を守ろうとしていると感じ、自分の夢を胸に抱いて留学を続けるしかないと再確認する。
(二人が結婚するなんて……私には何もできないけど、祝福できるかどうかもわからない。でも、せめて彼が死なないように、心から祈るしかない……)
そう思いつつ、手紙を胸に当てて震える。愛するということは、痛みを抱えながらも、相手を心底願うこと――莉緒はそれを噛み締める夜を過ごす。
いよいよ挙式当日が迫る――式は小さな教会で行われ、親しい友人や家族、スタッフを招くだけの小規模なもの。琴音はドレス試着を終え、湊斗もタキシードを準備して万全にしている。
しかし、当日の朝、教会の控室にまさかの拓海が乱入してくる。スタッフが「すみません、突然押し入って……!」と慌てるが、拓海は「湊斗、少し話せ!」と大声を上げる。
湊斗は驚き、「先輩、何を……いま俺たち結婚式なんだよ」と困惑。琴音も怯えた様子で「やめてください、どうして……」と声を上げる。
拓海は少女の言葉を思い出しながら、「お前、本当にこれでいいのか? 今二人が一緒になれば、お前は3年後に死ぬかもしれないんだぞ。どうしても辞めないのか?」と最終確認を迫る。湊斗は「何度も言ってる、俺は諦めない……」と即答し、琴音も「私たちの子もいるし、離れるわけない。邪魔しないで……」と反論。
拓海は苦渋の表情を浮かべ、拳を震わせる。
然しそれも束の間、拓海は観念したように力を抜き、「……わかった。もう止めない」と呟く。視線を床に落とし、「お前が死ぬことになっても、俺は関与しない……俺にできるのは、せめて式をぶち壊さないことぐらいだ」と苦笑する。
琴音は涙目で「ありがとうございます……」と頭を下げ、湊斗もほっと胸を撫で下ろす。拓海は憎まれ口を叩きながらも立ち去り、静かに式が始まる運びとなる。
教会に集まった少人数の参列者――スタッフや家族が見守る中、湊斗と琴音はバージンロードを歩き、永遠の契りを交わす。湊斗はタキシード姿で少し痩せた身体を支え、琴音は純白のドレスでお腹をかばいつつも微笑んでいる。指輪の交換が終わり、「ずっと一緒に……」とお互いが誓い合う瞬間、参列者から拍手が沸き起こる。
外は夏の日差しが強く、青空に小さな雲が浮かぶ中、挙式が終了したあとの教会脇――。そこにはドレス姿の琴音とタキシードの湊斗が並び、幸せそうに笑っている。ところが、少し離れた植え込みの陰にあの少女が佇んでおり、“憂いの瞳”で二人を見つめている。
「おめでとう……でも、このままじゃ……」と呟き、一筋の涙をこぼす。
しかし、その姿に気づく人は誰一人いない。こうして、湊斗と琴音は結婚式を挙げ、運命の死など意に介さず“これから”に踏み出した。
結婚式から数週間が経過したある夕暮れ。鳴海湊斗と雨宮琴音は、カフェの営業時間を終えて静まり返った店内に二人きりで佇んでいた。
花嫁姿の余韻も、祝福の歓声も、一通り落ち着き、あの特別な一日が終わった後には、穏やかな日常が戻ってくる。しかし、琴音のお腹の中には確かな“生命”が育ち、毎日少しずつ変化を感じている。
「最近、胎動がだいぶはっきりしてきたよ。あなたが手を当てると……ほら、ちょっと動いた」
「ほんとだ……すごい………」
湊斗は微笑みながらも、心の奥底に不安が灯り続けている。少女が残した「3年後の死」という呪いにも似た言葉は、意識しないようにしていても、ふとした拍子に胸を締め付ける。
だが、いまは琴音を安心させたい一心で笑顔を作り、膨らむお腹を優しく撫でている。運命は止められないかもしれないが、2人にはどうしても掴みたい幸せがある。そんな決意だけが支えだった。
数日後、湊斗は「また少女が現れるかもしれない」と街を歩き回ってみるが、結局見つからない。琴音のカフェや以前目撃した路地、公園、どこにも姿はなく、誰も少女の特徴を覚えていないという。
まるで、歯車に押し潰され、粉微塵になったかのように――この世界から少女は消え去ったのかもしれない。
湊斗は安堵半分、寂しさ半分の複雑な気持ちを抱える。「俺を救おうとして警告してくれたのか、壊そうとしていたのか、結局わからないまま……」という思いが頭を離れない。それでも、このまま二人の道を邪魔する存在が消えたのなら、それは少なくとも“平穏”を取り戻せる兆しだとも言える。
(だけど、本当にこれで運命は変わるのかな……? 少女が消えたからって、3年後の死が消えるわけじゃないかもしれない)
琴音の笑顔を見ている限り、不安を表に出したくない湊斗。「同時に何かを喪う」運命がもし訪れるとしても、それを跳ね返すだけの覚悟を貫きたいと思っている。
季節は夏から初秋へ移り変わる頃。カフェでは秋メニューに切り替える準備が進み、店内のディスプレイも少しずつ紅葉やパンプキンモチーフに変わり始める。
琴音のお腹はさらに大きくなり、スタッフたちが「店長、もう重い荷物は運ばないでくださいね」とか「そろそろ産休を視野に」と助言してくれる。琴音は「みんな、ありがとう……」と微笑み、湊斗も「何かあったらすぐ俺に言ってくれ」とフォローする形だ。
「穏やかな日常」――結婚した二人にとっては、何もかもが順調に見える。街ゆく人も「ああ、湊斗さんたち、いい感じだね」と好意的に囁く。
しかし、琴音自身は“少女”の姿が消えたことで“嵐の前の静けさ”を感じていた。運命を蹴飛ばすという強い決意を胸に秘める一方、時々夜中に目が覚め、「本当に大丈夫だろうか」とお腹を撫でながら涙する日もある。
拓海は、結婚式以降は姿を消していた。会社の業務に没頭し、新たなプロジェクトで地方を飛び回る日々を送りながら、鳴海湊斗に関する噂を遠巻きに耳にしている。
「あいつ、結婚したんだろう? 子供ができるとか……」
人づてにそんな話を聞くたび、拓海は胸を締め付けられる。一方で、少女が消えたという話も耳にしており、いてもたっても居られなかった。
(だけど、いまさら何をすればいいのか……運命がどうとか、もう関係ない。あとはあいつが死ぬか生き延びるか……見守るしかないか)
拓海は鬱屈を抱えつつ、攻撃性を失ってしまった自分を呆れながら認めている。もし本当に湊斗が死ぬ運命なら、それを救おうという意欲すら薄れ、“誰か”に預けるしかないと諦観しているかのようだった。
海外の寮に暮らす莉緒は、忙しいレッスンの合間を縫って、琴音へ手紙を出した――「結婚おめでとう。私も少しだけど心から祝福してる。フルートを頑張るから、いつかまた再会できたら嬉しい」と書き添えた。
カフェに届いた手紙を読み、琴音は涙ぐむ。「ほんとに……ありがとう、莉緒……」
湊斗も手紙を見て微笑み、「あいつも前に進んでるんだな。よかった……」と安堵する。三人の関係はもう戻らないが、少なくとも憎しみ合わずに各々の道を歩んでいる――それが今の平穏の大きな柱になっているかもしれない。
二人は手を取り合い、空の彼方に向けて「ありがとう、莉緒……」と心の中で呟く。
あれ以来、謎の少女の姿を誰も見ていない。
湊斗は時折、不意に街角や店の裏手で少女の姿を幻視するが、振り返れば誰もいない。それが本当に未来から来た存在だったのか、悪戯な幽霊のようなものだったのか、今となっては確かめるすべもない。
琴音はあの子が憂いた瞳で「二人が別れれば……」と囁いた瞬間を思い出すたび、切なくなる。(もしかして、あの子は私たちの子供だったんじゃないか、なんて考えすぎか……)――頭を振って雑念を払うが、心にはかすかな影が残り続ける。
季節は冬から再び春へ移ろい、琴音のお腹はすっかり大きくなった。いよいよ出産が間近という時期に入り、医師からも「そろそろ安静を優先してください」と指示がある。
カフェはスタッフに大部分の業務を任せ、琴音は補助的に指示を出すだけ。湊斗も体調を考慮しながら店に立つが、昔と違って病気の不安もだいぶ薄れていて、元気に仕事ができている。
「あと数週間以内に生まれるね……」
ある夜、ソファでくつろぎながら湊斗が琴音のお腹に手を当て、胎動を感じる。感動と緊張が入り混じった時間だが、まるで運命の死など存在しないかのように暖かい一瞬が流れる。
琴音は微笑み、「私たちの子が生まれたら、もっと幸せになれるよ……。あの子の警告はもう関係ない…よね……?」と囁く。湊斗も「うん、俺もそう信じたい…」と頷き合う。もはや誰にも邪魔はされないと思っていた。
しかし、静寂が長く続かないのが運命の皮肉――拓海が再び暗い決断を固めていた。
深夜に一人バーで飲みながら、あの少女の警告を思い返す。「二人を分かつ形にしないと鳴海は死ぬ……」――すでに結婚した二人がすぐに離婚などするはずがない。だとすれば、最後の手段しかない――何かしらの大きな衝撃を与えて“別れざるを得ない状況”を作るという破滅的プランだ。
酔いに溺れて拳を握り、「俺が……やるしかないのか……あいつらを……どうにか……」と口走る。まるで闇に飲まれた瞳は、かつての理性をかなぐり捨てたように見える。
そんなタイミングで、窓の外に光る稲妻が走り、激しい雷鳴と共に大雨が降り出す。まさに“嵐の夜”が拓海の心の中とシンクロするように、破滅へのカウントダウンが始まるのかもしれない――。
翌日、琴音は昼過ぎに突然軽い陣痛のような痛みを感じる。「え……もう、そんなタイミング?」と戸惑いながら、慌てて湊斗に連絡すると、彼は急いで車で迎えに来て病院へ移動する。
医師がチェックし、「まだ前駆陣痛かもしれないが、来週にも本格的に出産になる可能性があるから入院を視野に入れましょう」と説明。二人はひとまず落ち着き、病院の個室で待機する形になる。
湊斗は震える手で琴音をさすり、「大丈夫だよ……俺がついてるから……」と笑みを作るが、脳裏には“万が一この出産が引き金となって自分の死が訪れるのか?”という馬鹿げた想像もちらつく。
琴音は痛みに耐えつつ「ほんと馬鹿げてるよね……出産がどう湊斗の死に繋がるのか、何も理由はない。でも怖い……」と肩を落とす。二人は“少女の警告”を振り切ったはずなのに、不安を完全には拭えないまま、病院の夜を過ごすことになる。
そんな夜更け、陣痛室で少し痛みが落ち着き仮眠をとる琴音。その傍らで湊斗は病院の廊下を行き来し、ナースステーションにも顔を出す。外はまたしても嵐のような荒天で雷鳴が轟く。
(まるで運命があざ笑ってるみたいだ……でも俺は負けない。琴音も、この子も守りたい)
そこへ、拓海が病院の玄関から姿を現す。雨に濡れた姿で、湊斗を見つけると、鋭い視線で睨んでくる。看護師が制止するが、拓海は「鳴海、少し外で話そう。大事な用がある」と迫る。
湊斗は戸惑うが、「いいですよ、少しだけなら」と外へ出る。院内の軒下で雨の中、拓海が低い声で切り出す。「お前、本当にこんな形で子供を迎えるのか? お前が死ぬ未来があるかもしれないのに……」
湊斗は歯を食いしばり、「そうだ。運命は止められないかもしれない。それでも掴みたい幸せがある。琴音と俺の子だ。俺はこの命を選ぶよ」と答える。
拓海は拳を握り、「馬鹿だな……ほんとに死んでもいいのかよ。俺が本気を出して二人を離そうと思えば……」と脅しめいた言葉を吐く。だが、湊斗は毅然とした眼差しで「やれるもんなら、やってみろ。そんなやり方で回避するくらいなら、死んだほうがマシだ」と返す。
雷鳴が轟く中、二人の言葉がぶつかり合い、運命の歯車が軋む音が鳴り響いているかのようだ。
そして、病院内から看護師が慌てて駆け寄る。「ご家族の方ですか!? 琴音さんが急に痛みが強まって……!」と湊斗を呼ぶ。湊斗は「くそ……」と吐き捨てるように声を出し、拓海を振り切って院内へ戻る。拓海はその背中を見ながら、雨の中に立ち尽くしていた。
病院の一室、夜明け前。雨宮琴音は陣痛の波に苦しみながらも、医師と助産師の声援に応え、必死にいきむ。隣には湊斗が付き添い、汗ばんだ手で琴音の手を握りしめている。
「……琴音、がんばれ……! 大丈夫、絶対に産める……!」
「うん……ああぁ……痛い……でも……がんばる……!」
やがて、何度かの激痛の末、一際大きな産声が病室に響き渡る。医師が「おめでとうございます。元気な女の子です」と告げ、琴音は号泣するように微笑み、湊斗も涙を浮かべて「よかった……本当によかった……」と呟く。
出産は無事成功――湊斗と琴音にとっては人生最大の喜び。医師は「母子ともに健康そうだが、しばらく安静を優先してください」と告げ、スタッフからも温かい拍手が起こる。
湊斗は琴音の髪をそっと撫で、「ありがとう……ありがとう、本当に……」と繰り返す。琴音はまだ息も整わないまま、「あなたも……ありがとう……生きて……くれて……」と震える声で返す。
だが、心の奥にはある恐怖が拭いきれない。“この子が誕生したことで、3年後の死の運命が確定してしまうのかもしれない”――そんな少女の警告を思い出すが、いまはそれよりも生まれた命の奇跡が勝っていた。
出産の報せを聞きつけて、店のスタッフや家族・友人が続々と病院を訪れて祝福する。琴音は体力を消耗しているため長時間の面会は控えるが、それでも多くの人が笑顔を見せてくれる。
しかし、肝心の謎の少女は姿を現さない。干渉を終えて去ったのか――湊斗も琴音も、少し気がかりに思いつつ、いまは新生児の世話に集中している。
湊斗は医師から「再度検査しても、腫瘍の再発兆候は見当たらない。ただし、次の定期診察は忘れずに」と念押しされるが、日常生活には問題ないと保障される。赤ちゃんも初めての検診で健康状態が良好とわかり、まさに一家の“平穏な日常”が始まろうとしていた。
意外な人物からも祝いの言葉が届いた。拓海が控えめに病室の前で現れ、スタッフを通じて「出産おめでとう、と伝えてくれ」と一言残しただけで立ち去ったというのだ。
琴音は驚き、「拓海さんが……?」と信じられない思い。湊斗も少し呆然としながら、「あの人も、最後に壊すのをやめてくれたんだな……」と安堵する。
それから程なくして、拓海は仕事の都合で再び長期出張へ発つと噂される。彼の中の内なる破滅衝動を振り切り、二人を祝福し去っていく――運命を変える一手を放棄し、自分の道を歩み始めたようにも見えた。
こうして、脅威は消え、鳴海湊斗は新たな家族を迎えて穏やかに日々を過ごす準備が整った――と思われた。
それから一年近くが過ぎ、湊斗と琴音の娘は順調に成長している。初めての子育てに苦戦しつつも、二人で協力して睡眠不足に耐えながらも笑顔で育児をする姿が周囲から“微笑ましい”と評判だ。
店のスタッフも「赤ちゃん見せてください!」と抱っこを交代し、店自体が家族的な雰囲気を帯びる。湊斗はライターの仕事を続けながら育児に参加し、琴音は体調が安定した頃に店へ復帰。幸せな親子がそこにある。
あの少女や水色の手紙の呪いは、すでに誰の口にも上らない。まるで遠い夢のように、時間が平穏を塗り込めているかのようだ。愛することは同時に何かを喪うと言われたが、実際は何も失わずに済んだかのように見える。
海外にいる莉緒からは、定期的に手紙や写真が届くようになった。フルート留学先でのコンクールに入賞したり、現地の音楽仲間とコンサートを開いたりと、充実した日々を送っているらしい。
最新の手紙には「いつか帰国するけど、まだ時間がかかるかも。鳴海さんと琴音さん、お子さんは元気かな? たまに写真でも送ってくれたら嬉しい」と書いてあり、湊斗は琴音にそれを読み聞かせながら微笑む。三人の関係は、互いに穏やかな距離感を保ち続けている。
「嬉しいね。莉緒も頑張ってるんだ……」
「うん。俺たちも娘を連れて海外に行けるようになったら、コンサートを見に行きたいね……」
そんな未来図を語り合いながら、愛と幸せを噛みしめる二人。まだ“3年後”の期限まで時間はあるが、死の影など感じさせないほど充実した毎日が流れていく。
しかし、時というのは無情に過ぎる。結婚式から2年が経ち、娘は2歳を迎えて可愛らしい仕草で言葉を覚え始めた。湊斗の体調も安定し、定期検診で「今のところ異常なし」を繰り返している。
そして、3年目の結婚記念日がいよいよ視界に入る頃――“3年後に死ぬ”という予言がもし本物なら、その日はもう間もなく訪れる。
琴音はこっそりカレンダーの日付を見つめ、鳥肌が立つ。「まさか……本当にそんなこと……」と何度も胸を押さえるが、少女の言葉が頭をよぎる。
一方湊斗も、最近になって漠然とした不安な夢を見るようになった。暗い闇の中で、謎の声が「いま二人が別れれば……」と囁く悪夢。目覚めると汗びっしょりで、隣で寝ている琴音に悟られないように呼吸を整える。運命のカウントダウンが水面下で進行しているかのようだ。
結婚から数年が経ち、娘は日に日に活発に成長する。ある夜、湊斗と琴音はリビングで娘と遊んでいると、「パパ、ママ、だいしゅき!」と幼い舌で可愛く言われ、二人はメロメロになる。
「こんなに幸せなのに、どうして死ぬ運命があるなんて信じられるだろう……」と湊斗は呟き、琴音も「そうだよ、私たちもう何も失わないよ……」と笑い合う。
しかし、次の定期検診で医師が重々しい表情を浮かべ、「鳴海さん、念のためMRI検査をしておきましょう。数値にわずかな誤差があるかもしれません」と言い出す。腫瘍の再発兆候ではないかという疑いが一瞬湧き上がり、湊斗は背筋が凍る。
琴音は「大丈夫‥‥..だよね」と震え声で問いかけ、湊斗も苦笑いで「大丈夫さ、念のためだろう……」と返すが、言葉とは裏腹に心はざわつく。運命の日が近づいている――その事実が重くのしかかるのを抑えきれない。
ある夜、二人が店を閉めたあと、何気なく倉庫の片づけをしていた湊斗が、かすかな水色の光を見た気がする。振り返ると誰の姿もないが、懐かしいような切ない気配が空気を揺らしているように感じられた。
「もしかして、あの子がまた……?」と一瞬思うが、しんとした倉庫には何もない。湊斗は首を振り、「気のせいだ……もう彼女は消えたんだ……」と呟く。
しかし、不安が再燃し、「やっぱり俺は死ぬのか……」という恐怖が頭をもたげる。少女は姿を現さず、ただ季節が流れて“3年目の結婚記念日”が迫る。
迎えた結婚3周年記念日――湊斗は本来なら琴音と娘と三人で祝いをしたいと思っていたが、その前日に医師から「MRI検査をもう一度やらないか」と電話が入り、「記念日当日しかスケジュールが空いていない」と言われる。湊斗は仕方なくその日を検査に充てる形となる。
朝、琴音が「検査が終わったらお祝いしようね! ケーキ買って待ってるから……」と笑顔で送り出すが、湊斗は娘を抱いて頬ずりし、「ごめんな、すぐ帰ってくるよ」と小さく囁く。
病院へ向かう車の中で、湊斗は頭が痛いような気がしてならない。本当に“今日”が命の節目なのか――ゾッと、背筋が凍る。
MRI検査を受け、待合室で結果を待つ間の時間が恐ろしく長く感じられる。壁の時計が音を立てて時を刻むたび、押し潰されるような圧迫感を覚え、呼吸が浅くなる。まさに運命の日が目の前にあるとしか思えなかった。
検査結果を告げる医師が、ややこわばった表情で湊斗を呼ぶ。「鳴海さん、こちらへ……」。
ーー季節は、鳴海湊斗と雨宮琴音が結婚してからちょうど3年目の結婚記念日――。
短期入院の検査を終えて、病院の廊下を歩く鳴海湊斗。
主治医からの診断結果は上々で、「再発の兆候は見当たりませんね。半年後の定期検診だけ受けてください」と笑顔で送り出されていた。かつて“3年後の死”を警告されたがんなど嘘のようだ。
湊斗は心が弾む。病院を出ると、新緑の街並みが見渡せて、春の陽ざしが柔らかく背中を温める。
(やった……これで本当に大丈夫だ。琴音と結婚して娘も生まれて……“水色の手紙”や“少女の警告”なんて、どこか遠い過去の幻想だったんだな。はーあ、馬鹿らしいったらありゃしないね)
ふとスマホを取り出し、店にいる琴音へ連絡しようかと思ったが、“驚かせたほうが楽しい”と考えてやめる。今日は結婚3周年の記念日だし、娘にもお土産を買って帰ろう。
ウキウキした気持ちで足を進める湊斗。過去には歩行器が必要だったのが嘘のように、すっかり体は軽い。まるで重荷を下ろした天真爛漫な子供のように、足取りが弾む。
ショッピング街の雑踏は平日の昼下がりでそこそこ賑わっている。湊斗は娘が喜びそうなぬいぐるみを品定めし、琴音にも似合うアクセサリーを選ぶ。
「よし、これでOK。きっと喜んでくれる……早く会いたいな、あの二人に……」
鼻歌まじりで店を出る。青空に浮かぶ雲がのどかで、まさに平和な日常の風景――ほんの少し先まで。
横断歩道の信号が青に変わり、人々が一斉に渡り始める。湊斗もプレゼントの袋を右手に、少し速めの歩調で横断歩道を渡る。
――その刹那。
ズオオォォォンッという轟音と、甲高いクラクションが重なって響いた。背後から突き抜けるような風圧を感じる。
「え……?」と湊斗は瞬時に足を止め、振り返ると、猛スピードのトラックが横断歩道へ突っ込もうとしている光景が目に飛び込む。運転手がハンドルを握りしめ、パニックに陥った顔が見えた。
「信号……無視……!?」
一瞬、脳内が真っ白になる。周囲の歩行者が悲鳴を上げて逃げ散り、カバンを放り出す人もいる。湊斗は足を引こうとするが、わずかな遅れが命取り。トラックの速さは常軌を逸している。
通り過ぎる景色がスローモーションになる。耳鳴りが起こり、心臓が一気に冷える。まさか、こんなタイミングで……!
「逃げろ!!!」
誰かの声が聞こえるが、湊斗の足がもつれてしまい、踏み出そうとした方向に別の人が流れ込んでくる。トラックの音が耳を裂き、衝突する前の轟音だけで頭が割れるように痛い。
次の瞬間、ドガァンッという凄まじい衝撃。湊斗の身体は地面から浮き上がるような感覚を覚え、視界が一瞬消失する。
ふと宙を舞うプレゼントの袋が目に映る。中から転がり出る可愛いぬいぐるみと、小さなアクセサリーケースがまばゆく光っている。それは娘と琴音への贈り物――その瞬間、湊斗の意識は一気に遠のいていく。
(ああ……そんな…………こんな…あっけなく………終わった……)
周囲の悲鳴や金属音が混ざり合い、頭がガンガンする。まるで重たいハンマーで殴られたように全身が痛い。血の匂いが、微かに鼻を刺している。
意識が薄れゆく中、湊斗の脳裏に“走馬灯”が現れる――。
そこには琴音の笑顔、娘の笑顔、そして二人と過ごしたカフェの日々、夏祭り、秘密基地の回想、病気と闘った記憶……走馬灯は次々に切り替わりながら鮮やかに再生される。
やがて、最後に現れたのは、琴音がドレス姿で微笑むウェディングの日。そして、あの夜、琴音が打ち明けた悩み――「あなたが死ぬとか、耐えられないよ……私、わがままだった……ごめん……」という涙混じりの琴音の声。
「ごめん……わがままだった……」
まるで耳元で囁かれているように鮮明だ。“わがままであなたを愛してしまった。あなたを手放さなかったせいで、こうなるんじゃないか……”という叫びが湊斗に突き刺さる。
(そんなこと……ないよ。俺は……幸せだった……ごめんな……)
現実か幻覚かもわからないが、何か透明な涙のようなものが湊斗の頬を滑っていく。血か、それとも琴音の声を追う涙か――自分でも区別がつかない。
「大丈夫ですか!? 意識ありますか!」
誰かが湊斗の肩を揺らす。薄れゆく視界の端に、真っ赤な血が路面に散っているのが見える。周囲の歩行者が「救急車、早く!」と叫ぶ声、トラックの運転手が取り乱して呻く声。
数分もしないうちに、救急隊のサイレンが鳴り響き、白い救急車が交差点の脇に止まる。隊員が駆け寄り、ストレッチャーと医療キットを持ち、必死の処置を試みる。
「鳴海さん……! しっかりして……」と名前を呼ばれる。免許証か何かで本人確認がされたのだろう。応答したくても声が出ない。耳鳴りがやまないまま、意識がぐにゃりと歪んでいく。
(琴音……ごめん……)
救急車の中で、湊斗はわずかに意識を取り戻しかけるが、血の喪失と内臓への衝撃が大きいのか、呼吸が浅く、朦朧としている。救急隊が「出血が多い! 開胸止血の準備を……」と緊迫した声を上げ、サイレンの音が甲高く響く。
(ふざけるな……腫瘍が再発しなくて、俺は助かったと思ったのに……こんな……交通事故なんて……)
走馬灯の後遺症なのか、少女の顔が一瞬目に浮かぶ。彼女が泣きながら、「ごめん、止められなかった……。私も、わがままだった……」と琴音の言葉と重なるような感覚がする。
「運命は止められなかった」――もう一度脳内で繰り返し、湊斗の心が沈んでいく。救急隊が「心拍数……! CPR準備!」と激しい声を張り上げた瞬間、湊斗は暗い闇に呑まれていく。
知らせを受けた琴音は、店のスタッフに娘を託し、タクシーで病院へ向かう。車内でいてもたってもいられず、「湊斗さん……大丈夫だよね……」と何度も自分に言い聞かせる。
到着すると、すでに手術室に運ばれたらしい。看護師に状況を尋ねると、「まだ詳細はわからないですが、容態はかなり重篤です。すぐに手術が行われています」と重い口調で答えられる。
廊下には血の付いた湊斗の私物らしき袋や、買ったばかりのぬいぐるみが無造作に置かれている。琴音はそれを見た瞬間、涙が噴き出しそうになりながら震える声で「どうして……どうしてこんなことに……」と呟く。
周囲の視線も気にならず、廊下に崩れ落ちるように座り込み、はしゃいでプレゼントを買ってきてくれるはずだった湊斗の姿を思い描く――「ごめん……私が、あなたを手放さなかったから……?」と自責の念がこみ上げる。
一方、手術室で必死の処置を受ける湊斗。意識は完全に途絶えているが、身体はまだ辛うじて生きているという状態。
朦朧とした夢の中で、再び走馬灯が展開される。今度はさらに鮮明に、幼い頃から現在までの思い出が狂ったように回転し、最後に琴音の表情がアップになる。
「ごめん…………あなたを守れるはずなのに、私……」
その声が繰り返されるたび、湊斗は意識の中で叫びたい。“おまえのせいじゃない、俺は幸せだったんだ……!”と。でも声は出せない。
執刀医が「開胸する! 止血ガーゼ!」「輸血はどうなってる?」と緊迫した声を飛ばす。モニターには心拍数が急上昇から急降下を繰り返している波形が映し出され、看護師たちが真っ青な顔で必死に動き回る。
手術室はまさに修羅場だ。被害は内臓破裂か骨折か、複合的に重症である可能性が高い。呼吸器を挿管し、複数のスタッフが同時に作業を行う。心拍が乱れるたびにアラームが鳴り、医師が「ここを押さえて! 出血量が……!」と声を張り上げる。
湊斗の身体は血に染まっているが、それでも医師たちは諦めない。
(俺は……死ぬんだろうな……あいつらのために生きたいのに……)
廊下では琴音が、血色のない表情で座り込んだまま動けない。「お願い……助けて……もう何度も“死の運命”を叫ばれてきたのに、ここで本当に連れていかれるなんて……」
通りかかったスタッフがブランケットを肩にかけ、「少し落ち着きましょう。医師たちが全力で救命しています。鳴海さんは強い人ですよ」と励ます。
しかし琴音の瞳には絶望しか映らない。「ごめん……私のせいで………もしかしたら……あなたは死なずに済んだかもしれないのに……」と自責の声が零れ落ちる。
大きくなった娘の顔を思い浮かべ、「あの子から父親を奪うなんて、そんなの駄目……!」と心の中で叫ぶが、誰も答えられない。手術室のドアには赤いランプがともり、激しい雑音が内部から漏れてくるだけ。外から祈るしかない。
やがて、医師が青ざめた表情でドアを開け、看護師に何かを指示し、また閉める。琴音は立ち上がろうとするが膝が震えて動かない。スタッフがその姿を支えながら、「先生……湊斗さんは……」と声をかけるが、医師は「まだ救命処置中です」と首を振るだけ。
(もうダメなの……?)
心拍が再び落ちたのか、中でアラームが鳴り響き、医師たちの怒号が聞こえる。
「いま、二人が別れれば……」という少女の言葉が、琴音の頭をよぎる。でももう手遅れだ。別れる以前に湊斗が命を失えば、何もかも崩壊する。
「止められなかった……」――自分のわがままで彼を引き留めたせいで、こうなっているのか。ギリギリのところで湊斗はまだ闘っているが、助かる保証などない。琴音の瞳からはもう涙さえ出ず、ただ呆然とドアのランプを見つめ続ける。
数十分が何時間にも感じられるほど長く、廊下には重苦しい沈黙が漂う。遠くで看護師の靴音と、ビニールが擦れる音だけが耳を刺す。琴音はブランケットを握りしめ、力尽きたように腰を下ろしたまま、か細い声で繰り返す。
「ごめん……あなたを、死なせたくないのに……」
ふと、視界が霞んでいく感覚を覚え、彼女は倒れそうになる。スタッフが慌てて支える中、何とか意識を保つ。湊斗が勝手にいなくなったら、娘をどう育てればいいのか、想像すらできない。
――足音が近づき、医師が手術室のドアを開く。血の付いた手袋を外し、深いため息をついて「いま、一応安定しました。でも、まだ予断は許しません……」と伝える。琴音は顔を上げ、「助かったってこと……!?」と明るい声を出しかけるが、医師の表情は重いままだ。
「一応、心拍は維持しましたが、意識が戻るかは分からない。内部にダメージが大きい。もう少し集中治療室で様子を見ます」
医師がそう言い残し、看護師を連れて再び戻っていく。廊下には安堵と絶望がないまぜの空気が漂う。死んでいないが、生きているとも言えない――運命はまだ凍りついたまま続いている。
結婚3周年記念日に発生した信号無視のトラック事故で、鳴海湊斗は大量出血と内臓破裂により、緊急手術に入った。医師と看護師が全力を尽くして救命処置を行うが、そのダメージはあまりに大きかった。
手術室のモニターには不規則な波形が映り、電気ショックやマッサージを繰り返しても反応は微弱。数時間に及ぶ集中治療の末、医師が肩を落とすように一言「……もう、無理だ……」と呟き、看護師が嗚咽をこらえる。
廊下で待つ琴音へ、医師が出てきて首を振りながら頭を下げる瞬間――病院に深い沈黙が落ち、「鳴海湊斗、死亡」という宣告がなされる。
医師「午前○時、心停止を確認。申し訳ありません……私たちもできる限り……」
琴音「……嘘、嘘、嘘……! やだ……死んでない、死んでないでしょ……!」
琴音は取り乱して叫ぶが、スタッフが支え、看護師が「申し訳ありません……」と涙ながらに繰り返す。こうして湊斗の命は儚く消え、長い死闘の末に灯火は途絶えた。病気ではなく、交通事故で――まさに運命は避けられなかった形だ。
死後処置を施された湊斗の遺体は、病室のベッドに安置される。琴音は看護師の誘導でその病室へ入り、一人きりで対面する。
まだ温もりがわずかに残っている気がして、琴音は震える手で湊斗の顔を撫で、「帰ってきて……お願い……嘘だって言って……」と呟き続ける。返事はない。
プレゼントの袋は血塗れのまま医療ゴミ袋に入れられていたが、看護師の好意で中身だけ取り出してくれたらしく、ベッド脇にぬいぐるみとブレスレットが置いてあった。
「あなた……これ、私たちのために……こんなに血まみれにして……」
震える声が病室にこだまする。スタッフがそっと部屋を出て、扉を閉める。琴音は泣き崩れるように湊斗の胸にしがみつき、嗚咽を漏らした。
数日後、簡素な形ながらも葬儀が行われた。湊斗の家族や友人、カフェスタッフが集まり、みな呆然と悲しみに沈む。
葬儀の場には拓海も姿を見せ、遠巻きに立って沈痛な面持ちで棺に手を合わせる。彼の心中を知る者はいないが、かつてライバルとして競った相手の死をこんな形で見送るのは、どこか皮肉な運命を感じさせる。
琴音は喪服姿で、泣き腫らした目を隠しもせず、「ごめん……私が、あなたを引き止めたから……。結婚して、子供まで生まれて、幸せだったのに……」と泣き続ける。周囲が何度も声をかけるが、その胸の痛みは計り知れない。
最後に棺の中で安らかに眠る湊斗へ、ぬいぐるみとブレスレットをそっと添えて、琴音は「あなたの分まで娘を守る……だけど、なんでこんなに苦しいの……」と呟く。誰かがそっと琴音の背に手を当てるが、その温もりも虚しいほど、湊斗の死は現実だった。
葬儀が終わり、日常に戻るはずの世界。だが、琴音にとっては“世界が激変”してしまった。店に行けばスタッフたちが気遣ってくれるが、「いらっしゃいませ」の声が出ない。娘はまだ幼く、父親の不在を十分に理解できないが、時々「パパは?」と聞くのが胸を突き刺す。
「ごめん……ごめん……」と、琴音は何度も自分を責める。もし“あのとき湊斗を手放していれば、死なせずに済んだんじゃないか?”という言葉が頭をぐるぐる回るが、答えなど出ない。
スタッフの一人が、店の奥にクリスマスツリーのような小さな木を飾って、願い事カードを結んでいく企画を提案。「店長がいつも言ってたじゃないですか、『ツリーに願いを込めれば叶う』って……」という計らいだ。
琴音は涙ぐみながらそれを受け入れ、「ええ……そうね、願いが届くといいわ……」と淋しげに微笑む。冬が近づくにつれ、ツリーは店内を飾り、客やスタッフが願い事を結び始める。
季節は晩秋から初冬へ。もう湊斗がいない世界で、琴音は娘と二人きりの生活を必死で切り盛りしている。
一方で「こんなの幸せじゃない」と思う瞬間もあるが、“娘”という確かな命がそばにいることで、琴音は踏みとどまれる。夜中、娘の寝顔を見て、胸に手を当て、「あなたのパパは本当に優しかったのよ……」と涙を落とす日々。
スタッフや客からの励ましがある中、琴音は「今ある幸せを守りたい」と感じ始める――“娘の存在”と“店を続ける意義”。たとえ湊斗を喪っても、彼が作り上げた場所と想いはまだ消えていない。
(愛するということは、同時に何かを失うかもしれない。でも、私はこの子と生きていく。これが……私に残された道)
海外でフルートに邁進している莉緒も、湊斗の訃報を知って大きな衝撃を受ける。
日本のカフェスタッフからメールで「実は……」と報せを受け、最初は信じられず、震える手でスマホを落としかける。フルートを持つ指先が痺れるような感覚に襲われ、「もう一度だけ湊斗さんに演奏を聴かせたかったのに……」と床に崩れ落ちて泣く。
レッスン仲間が心配して声をかけても、莉緒は何も言えない。ただ声もなく泣き続け、「ごめんなさい、鳴海さん……私、何もできなかった……」と心中で叫ぶ。あの少女の警告が脳裏に蘇り、“結局止められなかった”という残酷な現実が莉緒の心を抉る。
琴音のカフェの一角、子供たちとスタッフが大きなツリーを飾り付けている。冬が近づき、客がちらほらと願い事を書いたカードを吊るす光景が生まれ始める。
ある夜、閉店後に琴音は一人でツリーを見つめる。「湊斗さん……私はあなたを死なせてしまった……だけど、娘と共に生きていくよ。あなたの残したものを守りたい……」
そう呟きながら、小さなメッセージカードにペンを走らせる。「あなたがいた世界を守りたい。娘と私で、精一杯笑って暮らすよ」と書き、そっと枝に結びつける。
まるでそれが“最後の願い”かのように、琴音は目を閉じて両手を合わせる。――喪失を乗り越えるためにも、自分が今できることは“このカフェと娘”を守ることしかないと信じている。
その夜、店の外の雪がちらつき、ライトアップが街を彩っていた。琴音が店内のライトを消し、ツリーの灯りだけが小さく輝く。すると、ふと入口の方に気配を感じる。
(まさか……またあの子が?)
だが、そこには誰もいない。ただ冷たい風が吹き込み、店のドアに取り付けた鈴がチリリン……と小さく鳴るだけ。まるで“少女の気配”が最後の合図を送り、完全にいなくなったかのように感じられた。
もうこの世界に干渉する術を失ったのかもしれない。湊斗の死が確定したことで、彼女の使命が終わったのだろうか。
琴音はドアを閉め、鍵をかけながら、「ありがとう……」と誰に向けるでもなく呟く。少女を憎む気にはなれない。運命は止められなかったが、今ある幸せを守ることはできる。そう思うと少しだけ心が軽くなる。
数日後、拓海は例の交差点に立ち寄る。信号を無視して突っ込んだトラックの痕跡は消えているが、道路の片隅には誰かが手向けた小さな花束が置いてある。
「……鳴海、悪かったな……俺がどう動いても止められなかった。お前が死なない道なんて、最初からなかったのかもしれない……」
呟いても誰も聞く人はいない。彼はポケットから煙草を取り出し、火をつけるが、深く息を吸った途端にむせて投げ捨てる。自分が存在する意味を見失ったまま、編集者としての仕事だけが彼を社会に繋ぎ止める。
“何かを守るために行動する”術を見出せなかった拓海は、いつかまた別の場所でやり直すしかない。そう覚悟して、交差点を後にする。少女の姿は見当たらず、街はただ無情に日々を流している。
カフェの閉店後の夜、琴音は娘を抱きしめながらツリーの明かりを眺める。カードにはいくつもの願いが結ばれ、お客さんの“元気になりますように”とか“試験に受かりますように”といったメッセージが揺れている。
“パパを返して”とは書かなかった。もう叶わない望みだから。けれど、娘と二人で生きるための強い決意だけは願いに込めた。
深呼吸をしてから、そっとツリーに触れる。微かな光が反射し、まるで湊斗が“頑張れ”と励ましているような錯覚を覚える。きっと願いは届く――信じなければやっていけない。
「明日からも、娘と二人で進むわ……。私たちには、未来がある」
そう心に誓い、ツリーを見上げながら瞳に涙を浮かべる。彼の死は理不尽で残酷、運命を止められなかった無力さが突き刺さる。
しかし、この命が続く限り、琴音と娘は歩みを止めない。ツリーの枝を掴んでそっと微笑み、「あなたにありがとう、と言わせて……」と呟く。いつか、この願いが天国の湊斗に届くように……。