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第三章:秋の風が刻む、失われし旋律

秋が深まり、町の街路樹から枯れ葉が舞い落ち、病院の正面玄関付近にも薄い落ち葉の層ができつつある。

莉緒は日に一度、湊斗の病室を訪れているが、彼の容態は相変わらず不安定なまま。術後に一度目覚めたものの、再び深い眠りに沈んだり、時々わずかな意識を取り戻す程度の状態が続く。


「湊斗さん……もう秋だよ。夏が終わっちゃったね……」


莉緒は病室の窓から見える紅葉しかけの木々を見やりながら、感情を抑えきれずに呟く。隣にはフルートのケースがあり、いつでも音を届けられるようにと思って持ち歩いているが、実際に吹く機会はほとんどない。

母を失った夏に続き、今度は湊斗まで失ってしまうのか――絶望を拭えないまま、落ち葉を踏んで病院を出ると、ふわりと紅葉が宙を舞う。その光景はあまりに切なく、莉緒は視界を潤ませる。


一方、琴音は開店して2週間ほどが経つカフェの店主として、忙しい日々を送っている。秋のメニューとしてパンプキンスープや秋の果物を使ったパフェなどを用意し、店内を落ち葉のモチーフで飾り付けている。

だが、その華やかさとは裏腹に、琴音の心は沈んだまま。湊斗の状態を聞くために度々病院へ足を運ぶが、いつも中途半端なタイミングで、すれ違うように莉緒がいたり、拓海と鉢合わせして不毛な会話になったりする。


(どうして私は、こんなにも報われないんだろう……。湊斗さんが戻ってきてくれても、きっと莉緒のもとへ行くんじゃないか……)


そんなネガティブな思考が止まらない。秋の穏やかな陽射しがカフェのガラスを通して差し込んでいるが、琴音には何故かそれが薄暗い影のように見える。


拓海は大手出版社での企画を無難にこなしつつ、湊斗の病状と莉緒の動向に注目している。鳴海が意識不明に近い状態にあっても、莉緒は彼を慕い続け、フルートに励む――そうした現実が拓海を苛立たせる。

一方で、琴音が湊斗に思いを寄せていることも薄々感じ取り、複雑な気分を抱いていた。


(いま、あいつが消えれば、莉緒は俺を振り向くのか、それとも……。琴音はあいつを失いたくないと言ってたが、結局どうしたいんだ?)


自分は“残酷な人間”だろうかと自問するが、嫉妬や焦りは消えない。

秋の冷たい風を感じながら、拓海は「次の企画を成功させたら、再び莉緒にアプローチできるかもしれない」と考え、仕事に打ち込むが、心が落ち着くことはなかった。


街では、秋祭りが最盛期を迎えている。紗英先輩が所属する文化施設や地元ボランティアの手で盛り上げようと努力しており、境内に仮設ステージが作られている。

莉緒はフルートで一曲だけ演奏する予定だが、湊斗がいないステージに立つ自信はあまりない。彼女にとって、鳴海の存在こそが“音を取り戻す”原動力だったからだ。


「でも、約束したから……。聴いてほしいって言った。彼が戻らなくても、せめて音を届けたい」


母を失った頃の自分とは違う――そう言い聞かせながら、莉緒はフルートを携えてリハーサルに向かう。秋の空はどこまでも高く澄んでいるが、その澄んだ色合いが彼女の胸に痛みをもたらす。


病室のベッドで眠り続ける湊斗。意識が朧なまま、幼少期の風景や夏の光景が断続的にフラッシュバックする。

そこでしばしば現れるのは、二人の少女――一人は長い髪でフルートを抱える莉緒のイメージ、もう一人は短めの髪で明るく笑う琴音らしき姿。どちらが本当の秘密基地の相手か分からないまま、湊斗は汗を流してうなされる。


(俺……死ぬ前に、どちらかを選ばなきゃならないのか? いや、そんなことより、このまま死ぬかもしれない……)


秋の音が遠くから聴こえるような幻聴に包まれ、意識の狭間を漂う湊斗。その胸には「何もかも中途半端で終わるのか」という絶望がたゆたう。

呼吸器をつけた苦しい呼吸の中で、朧な自分の声が耳に響く――「助けて……」――ただそれだけの願いが、消えかかる灯火を支えている。


秋祭り当日の朝、莉緒はステージの最終確認をしていたが、楽屋裏で琴音とばったり鉢合わせる。

実は琴音も「カフェのPRを兼ねて出店しないか」と誘われており、軽食のブースを出すことになっていた。二人は気まずい沈黙の後、先に口を開いたのは琴音だった。


「湊斗さんの様子、どうかな……。昨日も行ったけど、眠ってた」

「私もさっき見舞いに行ったけど、相変わらず……。でも先生は『少しずつ回復してる』って言ってた……信じたい」


交差する視線。琴音は言うべきか迷うが、あえて踏み込んで尋ねる。「莉緒は、湊斗さんが戻ってきたら……どうするの?」

莉緒は困惑しながら、「どうするって……生きてさえいてくれれば、私はそれだけで……」と弱々しく笑う。琴音は胸が痛む。自分の想いはここに割り込む余地があるのか、と。

結局、二人の会話はかみ合わないまま終わり、秋祭りの喧騒にのみ込まれる形となる。


夕方、秋祭りのステージが始まり、地元の演奏者が次々に音楽を披露していく。紗英先輩のMCでスムーズに進行する中、莉緒のフルート演奏の順番が近づいていた。

そこへ、拓海が裏口からひょいと顔を出し、莉緒の姿を捉えて近づく。莉緒は緊張と湊斗の不在で精神的に余裕がなく、拓海を迎える気力がない。


「莉緒……今日、演奏するんだってな。鳴海は見に来られそうにないが、頑張れよ」

「……拓海先輩……来てたんだ……。湊斗さんのこと、馬鹿にするつもりなら、今はやめて……」


莉緒の口調は震えを含み、守勢を取る。拓海は苦い表情を浮かべ「馬鹿にするつもりはない。ただ……本当に鳴海がいなくなっても、フルートを続けるのかと思って」と鋭い言葉を投げかける。

莉緒は「そんなの……わからない。でも、母の死を乗り越えるためにフルートを再開して、湊斗さんにも聴いてほしい。そう思ってるだけ」と俯く。


「そうか。ま、お前がどう生きようと勝手だが、鳴海がいなくなったとき、お前は誰を頼るんだ?」


拓海の問に、莉緒は何も答えられない。すでに呼び出しがかかり、ステージに向かわなければならない時間が迫っていた。

歪な笑みを残して拓海は立ち去り、莉緒は一人、フルートを手にステージ袖へ向かう。秋の空気がひどく冷たく感じられ、彼女の心に暗い影を落としていく。


満席とは言えないが、そこそこの観客がステージ前で見守る中、MCが「次の演奏はフルートソロ、莉緒さんです」と紹介する。莉緒は緊張で足が震え、唇が乾くのを感じる。

「湊斗さん……見てる……? お母さんも……」


心の中で自問しながら、フルートを構える。夕陽が落ちかけ、紅に染まる空を背景にして、静かな息を吹き込む。――最初は音がかすれたが、徐々に安定してクリアな旋律が境内に響き渡る。

観客は息を呑み、しんと耳を傾ける。秋の黄昏に溶けるようなフルートの音色――それは、莉緒が“死”を超えて取り戻そうとしている音でもあり、湊斗へ向けた祈りのメッセージでもある。


演奏が終わる頃、莉緒の目には涙が溢れていた。客席から拍手が起こるが、彼女にとっては「湊斗不在の中で演奏した」むなしさしか残らない。

ステージを降りた瞬間、ぐらりとめまいを覚え、紗英先輩が駆け寄って支える。拍手の残響の中、莉緒は膝をつきかけながら秋の冷気を吸い込み、「生きて……湊斗さん……」と心の底で叫ぶ。


同じ会場で出店していた琴音は、客の対応をしながらも莉緒のフルート演奏を耳にしていた。美しい旋律が秋の風に乗り、胸を震わせる――しかし同時に、自分はあの音にはなれないという劣等感に苛まれる。


(私が“莉緒”になりたいと願っても、あのフルートの音は出せないし、湊斗さんとの絆も築けない。結局、私が湊斗さんを取り戻すには……どうしたらいいの?)


たまらない思いで視線を上げると、ステージ横で崩れかける莉緒の姿が見え、その近くには拓海が冷たい目で見つめているのが遠目に見える。

観客の拍手に合わせ、琴音は店頭で笑顔を作るが、その内面では“フルートの音色”が琴音の心を深く抉り、空虚な痛みが広がっていた。


翌朝、病院では湊斗が少しだけ意識を取り戻し、看護師から「フルート演奏があったみたいですよ、莉緒さんが頑張ってた」と聞かされる。本人は声が出しづらいが、瞳にわずかな光を宿す。

“いつか聴きたい”と願っていた音色が、秋祭りで響いたのだ。自分はその場にいられなかったが、命が続いている限りチャンスはある……そう思うと、微かな希望が湧き上がる。


(俺は、まだ死ねない……。このまま消えていいはずがない……)


しかし、脳腫瘍は残っている部分があるらしく、再手術や放射線治療など、険しい道のりが待っていると医師は言う。湊斗はそれを受け止める力がまだ足りないが、眠りの中で「生きる」ことを念じる。

秋の音が窓の外にこだまするように聞こえる。――このまま朧な記憶とともに灯火が消えるのか、それともまだ希望があるのか。


秋の空は高く澄み、朝夕の冷え込みがいっそう増してきた。病院の一室、湊斗は淡い意識の海を漂いながら、いまだにベッドの上に横たわっている。

手術後に一度覚醒したが、その後は混濁状態が続き、ほとんどは寝ている時間が長い。それでも、断続的に意識が浮上し、看護師が呼びかければ弱々しく目を開ける程度だ。


朝の回診が終わり、莉緒が面会に訪れる頃――湊斗はいつものように眠りに落ちていた。しかし、その表情にはわずかな動きがあり、苦しそうに眉をひそめる。

莉緒はそっと椅子を引き寄せ、フルートケースを膝に置いて静かに溜息をつく。先日の秋祭りでの演奏は、湊斗に直接聴かせることができなかった。早く回復して、自分の音色を届けたい――その一心だ。


(湊斗さん……もう一度だけでも、私の音を聴いてほしい。生きてさえいてくれれば、それだけでいいのに……)


枯葉色の光が差す病室の窓辺で、莉緒は湊斗の顔を見つめ、静かに手を握る。消えかけた灯火がかすかに揺れるように、彼のまぶたが震えたが、まだ現実の世界に戻ってくることはない。

この空気の重さが、彼女の胸をひたすらに押しつぶしていた。


同じ頃、琴音のカフェは予想外に盛況だった。秋の限定メニューや地元の雑誌で紹介された効果もあり、平日にもかかわらず客足が途切れない。

店内は落ち着いた木目調に仕上げており、紅葉をモチーフにした装飾が温かさを演出する。その雰囲気に惹かれ、若いカップルや地元の主婦らがのんびりティータイムを楽しんでいる。


しかし、その表の賑わいとは裏腹に、琴音の心は深い闇を宿したままだ。

閉店後のスタッフ打ち合わせが終わってから、一人カウンターに座り込み、湊斗の名刺を見つめるのが日課になっていた。彼が手術前に置いていったかもしれない、あるいは琴音が勝手に保管しているものか――とにかくそれは、湊斗との唯一の“形ある繋がり”に思えた。


(これほど願っても、彼は眠り続けてる。私の想いは全く届かなくて……。もしこのまま、私のせいで苦しんでるなら……私はどう償えばいいの?)


思わず涙がこぼれそうになる。スタッフがまだ残っていないか確かめるが、どうやら誰もいないようだ。琴音は声を殺して泣き、夜の冷え込みを感じながら「自分の存在意義って何だろう……」と呟く。

かつては莉緒を応援する立場が心地よかったが、今は「湊斗が好き」という事実が彼女の中で大きく膨れすぎ、罪悪感と苦しみで押し潰されそうだった。


一方、拓海は大手出版社の地方支社で、上司から「老舗特集の第二弾が好調だ。お前なりに結果を出せているな」と評価を受けたところだった。

かつて湊斗と競った“白川屋”の大企画は頓挫しているが、紳士服店や古くからある和菓子屋、伝統工芸店などを着実に取材し、地道な特集を組んでいる。会社内での評価は回復しつつある。

だが、拓海の表情は晴れない。彼の中では、湊斗が意識不明に近い状態というのは、“莉緒を自分に振り向かせるチャンス”だと計算している自分と、そう考える自分への嫌悪感がせめぎ合っていた。


(鳴海がこのまま意識を失っていれば、莉緒は絶望し……そこに俺がそばにいる。そんな状況を、俺は望んでるのか?)


苦い思いでペンを放り投げ、机に突っ伏す。ふと目に入ったのは、琴音のカフェが取り上げられた地元フリーペーパーの記事だった。新しい店として話題になっているらしい。

(鳴海がいない今、琴音は何を考えてる? まさか、あいつを想って苦しんでるのか……何か利用できるかもしれないな)

そんな冷徹な計算が頭をよぎり、拓海は“ある狡猾な一手”を思いつく。もし琴音を通じて、莉緒や湊斗の状況をコントロールできるなら――彼の暗い狙いは静かに動き出そうとしていた。


湊斗の病室。夜間、看護師が見回りをした後、静かな照明の下で湊斗はまた意識の狭間に落ちていた。

まぶたの裏には、幼い頃の記憶が薄いフィルムのように流れている。――秘密基地、黒い小屋、誰かの笑い声、誰かの泣き声……。そして、走り回る足音。

そこに二人の女の子が存在するイメージがかすかに重なる。一人はフルートを抱え、もう一人は紙に絵を描いている。だが、どちらが莉緒で、どちらが琴音か――湊斗は認識できず、頭痛だけがこみ上げる。


(俺は……何を勘違いしてきた? 本当に秘密基地にいたのは誰……?)


朦朧とする意識の中、灯火がまた消えかかる。苦しげに息を吐き、モニターの数値が一瞬乱れるが、すぐに安定する。

彼はまだ生きている。だが、この先どうなるかは誰もわからない。秋の夜風が窓ガラスを揺らし、病室の小さな灯りを陰らせるように見えた。


翌日、莉緒は思い切って病院の談話室で小さなミニ演奏を試みることを決めた。看護師長に頼み込み、「患者さんたちの気分転換にぜひ」と企画したのだ。

莉緒はフルートを構え、数曲だけ静かに吹く。笑顔になってくれる患者がいる一方、個室にいる湊斗まで音が届いているかはわからない。

演奏を終えて談話室を出ると、数人の看護師が莉緒を呼び止め、「あなたの演奏、すごく綺麗でした。湊斗さんにも聴かせてあげたいですね」と言葉をかけてくれる。莉緒は複雑な笑みを浮かべ、「いつか直接、彼に……」とだけ返す。


(彼が意識を取り戻したら、すぐそばで吹いてあげる。それが私の願い……)


だが現実は厳しい。医師が警告するように「容体が安定しているわけではない」と繰り返す。看護師も「今はリハビリが必要になってからが本番ですよ」と言う。

秋が日に日に深まるなか、時間だけが切なく過ぎていく。


その夜、カフェの閉店後に拓海が「仕事の打ち合わせ」と称して来店した。スタッフが帰ったあとで、琴音は戸惑いながら「私一人ですが……」と対応する。

拓海は「地元のカフェ特集」を近々やる予定だとかで、記事にしたいと切り出した。琴音は商売のためにありがたい話かと思いきや、拓海の瞳には冷ややかな光が宿っている。


「実は、莉緒がフルート演奏を続けてるらしい。もし君の店で音楽イベントを開くなら、彼女を呼ぶのはどうだ?」

「莉緒を……うちの店で……?」


琴音は言葉を失う。確かに小さなステージスペースを考えたこともあったが、そこに莉緒を呼ぶのは、琴音の心情的に複雑すぎる。

しかし、拓海はさらに続ける。「鳴海が退院して意識が戻る頃、もし“音楽イベントで莉緒が演奏する”となれば美談になるだろう。地元のフリーペーパーも取り上げるし、店の宣伝にもなるかもしれないな……」と、狡猾な笑みを浮かべる。


(この人は……何を考えてるの……!?)


琴音は胸の奥に不安と苛立ちを感じながら、はっきりと否定できない自分にも嫌気が差す。湊斗がいない今、莉緒が注目されるほど「自分には勝ち目がない」と感じるからだ。

結局「少し考えます……」とだけ答え、拓海を見送る。秋の冷たい夜風がドアから入り込み、琴音は自身の心がずっと寒さに震えているのを痛感する。


病室では、湊斗の容態が夜中に急変し、再度激しい痙攣と頭痛に襲われる。ナースコールを受け、医師が駆けつけ、即座に処置を施すが、腫瘍の一部が神経を圧迫している可能性があるという。

莉緒は深夜の呼び出しで病院に駆けつけ、集中治療室に戻された湊斗を見て絶句する。呼吸器の音が機械的に鳴り、彼の顔は苦痛に歪んでいる。


「湊斗さん……もう、やめて……苦しまないで……」


心の底から叫ぶが、どうすることもできない。秋の夜は深く、廊下は薄暗い。命の灯火がまさに消えようとしているように思え、莉緒はうずくまって泣き崩れる。

明日になれば状況が好転するのか、それとも終わりが来るのか――恐怖に足がすくむまま、彼女は祈り続けるしかなかった。


同じ夜、琴音はカフェを閉めたあと、車を走らせて病院へ向かおうとするが、途中で携帯に拓海からのメッセージが来る。「鳴海が危ないらしい。今夜山場かもしれない」と。

琴音は胸が凍りつくような感覚を覚え、道路を必死に飛ばす。夜の街灯が雨に濡れて揺れる中、雨粒がフロントガラスを叩き始める。

――そう、またしても夕立のような秋雨が襲ってきたのだ。


(湊斗さん、死なないで……私、あなたに言わなきゃいけないことがまだある……!)


涙で視界が滲む。もはや夏の終わりから続く歪な愛を懺悔するよりも、ただ生きていてほしいという祈りが勝る。

だが、病院の駐車場に着く頃には面会時間を過ぎており、警備員に止められる。琴音は懇願するが、「緊急以外は入れません」と断られ、雨の中で呆然と立ち尽くすしかなかった。


秋の雨音が深夜の病院周辺を叩く頃、莉緒は集中治療室の前で座り込んでいた。すると、傘を差して近づく人影――それは拓海だった。

「……こんな夜中まで付き添いか。お前も疲れてるだろう」と近寄る拓海に、莉緒は顔を上げる。「先輩……どうしてここに……?」

拓海は「出張帰りに様子を見に寄っただけ」と言いながら、わざとらしく莉緒にコートをかける。が、その手つきに“思惑”が感じられて、莉緒は後ずさる。


「湊斗がこのまま危ないかもしれない。もしそうなったら、莉緒……お前はどうする?」

「あの……やめてください、そんなこと聞きたくない……」


莉緒の声はかすれ、涙が溢れそうになる。拓海は冷たい目で「俺なら、お前を支えてやれる。もう苦しまなくていいんじゃないか?」と囁く。――まるで命の瀬戸際にある湊斗を見捨てろと言わんばかりだ。

莉緒は震える声で「そんなの……できるわけない……」と拒絶を示し、拓海は苦々しい表情で踵を返す。雨の中、彼の足音が去っていくが、その背中は確かな暗い影を引きずっていた。


夜が明け、朝日が差し込む頃、病院の中庭には落ち葉が積もっている。湊斗の容体は依然として危険な段階だが、奇跡的に命はつながっていた。医師は「まだ峠は越えていないが、この数日が山になる」と繰り返す。

莉緒はフルートを握りしめ、琴音はカフェを閉めるたびに病院へ通う日々。二人とももう限界に近いが、それでも湊斗が生きていてくれるだけで踏ん張ろうとしている。

拓海はそんな三人の“交差しない視線”を遠巻きに見据え、さらなる計略を練っている気配がある。彼自身も鬱屈した愛情を抱え、「いつか“俺”が報われるはずだ」と心の奥で毒づく。


そして、ある夕暮れ。莉緒がコートを羽織って湊斗の病室に入ると、彼がかすかに目を開けていた。意識がまだはっきりしないが、弱々しく「フ……ルート……」と唇を震わせたのだ。

「湊斗さん……! フルート……吹こうか……?」

莉緒の問いに、湊斗は微かに頷くように見えた。医師や看護師には迷惑がかかるかもしれないが、莉緒はそっとフルートを取り出して息を吹き込み始める。初秋の涼しげな風とともに、病室に柔らかい旋律が流れ――まるでかすかな光が差し込むかのように湊斗の瞳が潤んだ。


空は鉛色の雲に覆われ、冷たい風が肌を刺すようになった。木々の葉も多くが散り、街路樹にはわずかな色づきが残る程度。

莉緒は、いつも通り湊斗の病室へ向かっていた。入口の自動ドアが開くと、暖房の効いた空気が微かに暖かいが、心はまるで寒風にさらされているかのように冷えたままだ。


(秋が終わろうとしてる……。夏の終わりからずっと、湊斗さんは眠りがちで……私、何もできてない)


フルートのケースを持ったままエレベーターに乗り、湊斗の病室へ。医師の説明によれば、「手術自体は成功範囲だが、脳に負担が大きかったため長期的なリハビリが必要」だという。

まだ完全に意識が戻らない時間も多く、声をかけても明確な返答は得られない。しかし、数日前に一瞬だけ起きて、フルートを聴きたいと囁いてくれた――その記憶だけが、莉緒の支えだった。


病室に入ると、空っぽだった。看護師に尋ねると「今、検査のためにICUへ移動してます。時間がかかりそうなので、廊下でお待ちいただくか、後ほど来ていただくか……」と言われる。

莉緒は立ち尽くす。検査が長引くということは、それだけ状態が不安定なのかもしれない。冷たい不安が胸に押し寄せ、「私、どうすれば……」と呟きそうになる。


(フルート、聴かせてあげたかったのに。私の音を……少しでも力になればいいのに)


仕方なく待合室に腰掛け、こっそりフルートを取り出してマウスピースを確認する。冷えた金属が手に触れ、冬のような温度を感じた。

このまま湊斗が冬まで眠り続けたら、どうなるのか――いや、それ以前に彼の命が冬まで持つかどうかすらわからない現実が、莉緒を蝕んでいく。


一方、琴音はカフェを回す日々の中で、客足が次第に増え続けていた。地元情報サイトやSNSで評判が広がり、休日には列ができるほどの盛況に。ただし本人は心から喜べず、湊斗の面会に行く時間が取りづらくなっている。

スタッフから「店長、最近寝る時間ないんじゃないですか?」と心配されるほど働き詰め。閉店後に車で病院へ行き、面会時間ギリギリに滑り込んでも、湊斗は眠ったままだ。


「……湊斗さん……目覚めても、私が来たとは知らないよね。こんなんじゃダメか……」


夜のカフェで一人、カウンターに腰掛けて空気を吐き出す。温かいハーブティーを淹れても、心を温めることはできない。**“湊斗さんがいない秋”**に、琴音は何を求めているのかわからなくなっていた。

彼女の中では、もう一度あの“甘い唇”に触れたいという欲望が燻っているが、同時に「そんなこと考えてる自分は最低だ」と自罰的になる。歪んだ愛と後悔が複雑に混じり合う晩秋の夜だった。


大手出版社の拓海は、別の老舗特集をまとめ終え、社内でも「落ち着いた企画力が戻った」と評価されている。だが、その心は濁ったまま。

(鳴海がいない今、莉緒は俺に助けを求めるかもしれない――そう思ってたのに、あいつは結局、病院に張り付いてるし、琴音もカフェで忙殺されてる。)


苛立ちを抱えながら、拓海は琴音のカフェでの音楽イベント企画を「仕事のネタ」と称して進めようとする。電話をかけ、「店の新しい宣伝として莉緒を招くのはどうか。俺も記事にできるかもしれない」としつこくプッシュする。

琴音は曖昧に答える。「まだ湊斗さんが意識不明で……私も余裕ないです」と言い訳するが、拓海は「そんなの関係ないだろう。店は店、プライベートはプライベート」と冷たく突き放す。


(この人、何を狙ってるの? 本気で応援してるわけじゃないのに)


琴音は嫌悪感を覚えながらも、強い拒否ができない。湊斗を失うかもしれない恐怖と、カフェ経営の忙しさに翻弄され、心が弱っているのだ。拓海はそんな彼女の心情を冷静に見透かしつつ、微笑んでいるかのように感じられる。


そんな晩秋のある夜、莉緒が病室を訪れると、ベッドに横たわる湊斗が微かに目を開けていた。今度はしっかり覚醒しているようで、看護師が「今日は調子がいい」と伝えてくれる。

莉緒は涙を浮かべながら駆け寄り、「湊斗さん……よかった、意識が戻ったんだね……」と声をかける。湊斗は苦しそうに呼吸しながらも、かすれ声で答える。


「…ごめん…心配かけた…」

「いいんだよ、謝らなくて。生きててくれて、それだけで……」


莉緒は湯水のように溢れる感情を抑えきれずに泣く。湊斗も弱々しく微笑むが、そこには疲れきった表情が見え隠れする。

そこで看護師が「お体に触れない程度でお願いしますね」と注意し、莉緒は焦って距離をとる。だが、一瞬だけ、湊斗の指先が彼女の手を探るように動いていた――。秋の冷たい空気が、二人の間を悲しく切なく漂う。


翌日、琴音も湊斗の覚醒を知って病室へ向かう。しかし、面会に行った時間帯には医師の回診や検査で騒がしく、ほとんど話せずじまい。

ベッドの横には莉緒が座っていて、琴音は戸惑いながら「こんにちは、湊斗さん」と短く挨拶するが、湊斗は咳き込み、声にならない。医師がすぐに来て「看護師に任せて廊下でお待ちください」と指示。

結果、琴音はわずか1〜2分しか湊斗の顔を見られず、会話もできずに追い出されてしまう。廊下で鉢合わせた莉緒も事情を聞かれ、「ううん、まだ辛そうだけど、命に別状はないかもしれない……」と答えるに留まる。


(私も、ちゃんと“好き”って言いたいのに。あの未遂のキス以来、こんな状態って……)


帰り道、琴音は車のハンドルを握りしめ、泣きながら運転する。夜の秋風が激しく吹く中、誰もいない路地に車を停めて号泣し、「どうして私ばかり……」と呟くが、答えはどこにもない。


秋も深まり、冬の気配が近づく夕方。琴音がカフェで閉店作業をしていると、拓海がまたやって来た。彼は仕事が終わってかららしくスーツ姿で、落ち着いた笑みを浮かべている。

今回は「カフェのPR企画で、東京の本社が面白がってる」と言い、「サンプルとして何枚か写真を撮らせてもらえないか」と申し出る。琴音は客がいない時間帯であれば構わないと承諾するが、内心は警戒している。


写真撮影が終わったあと、拓海は「そうだ、君に提案がある」と切り出す。

「今度、小規模だけど記事の連動企画で音楽イベントをするかもしれないんだ。そこに莉緒を呼んでフルートを演奏してもらう。店の名前もアピールになるし、どうかな?」

琴音は気が重い。フルートを演奏する莉緒を店に呼び、客を集める――そんな光景を想像すると、湊斗がいないまま盛り上がるのは複雑すぎる。


(でも、ビジネス的にはプラスかも……。湊斗さんも、もし少し元気になったら来てくれるかもしれないし……)


葛藤を抱えながら、結局は「検討します……」としか言えない。拓海は琴音の迷いを見透かし、「君が困っているなら、俺がいくらでも手伝ってやる」と甘い言葉をささやく。琴音は苦笑いを浮かべるしかない。


一方、湊斗の体調はわずかに回復を見せ、痛み止めや抗腫瘍薬の効果で意識がはっきりしている時間が少し長くなってきた。医師は「このまま順調にいけば、リハビリを始められる」と述べるが、油断は禁物だという。

莉緒はできる限り付き添い、フルートで数分だけ静かに演奏し、湊斗が嬉しそうに聞いてくれる姿を見ると、少し希望を感じる。

だが、時折湊斗の目には“何か言いたそうな沈黙”が漂い、「俺……ごめん、事故……」とか「秘密基地……琴音が……」などと断片的に呟いて意識を手放してしまう。


(秘密基地? 琴音が? どういうこと……)


莉緒は疑問を抱きながらも、湊斗の体調を優先して深くは追及しない。心の中では、不安がじわじわと広がり始めていた。


その後、琴音は閉店後のカフェでスタッフに任せ、もう一度病院へ向かった。夜の面会ギリギリの時間、幸運にも湊斗が浅い眠りから目覚めたタイミングに間に合う。

彼はマスク越しに苦しそうな呼吸をしながら、「琴音さん……来てくれたんだ……」と囁く。琴音は震える声で「嬉しい……会いたかった……」と応える。

そして、いつか伝えようとしていた“秘密基地の女の子は私かもしれない”という真実を話そうか、迷う。もしそれを口にしたら、湊斗はどう反応するのか――莉緒との関係はどうなるのか。


(でも、もう時間がないかもしれない。湊斗さんがもしまた倒れたら……)


喉の奥まで上り詰めた言葉を吐き出そうとする琴音。だが、湊斗が突然息を詰まらせて咳き込み、看護師が「すみません、今は休ませてあげてください!」とベッド周りを整えるために緊急介入。

結局、琴音は何も告げられず、「頑張って……絶対に生きて……」とだけ言い残して病室を後にする。廊下の暖房が効いていても、身体は冷えきったままだった。




秋の終わりが近づき、空気が一段と冷たくなってきた。空を見上げれば、鈍色の雲が低く垂れ込み、冬の気配が目前に迫っている。

湊斗はリハビリを始めるための準備を医師から提示され、莉緒や琴音は手伝いを申し出ようとするが、日程や手順は医療スタッフに委ねることになる。

拓海はそれを横目に見ながら、いつ仕掛けるか、そのタイミングを計っているようだった。三人の視線は未だに噛み合わないまま、それぞれが“湊斗の命”に繋がる思いを抱いている。

曇り空が広がり、冷気が人々の心を凍らせようとするが、まだ誰も結論を出せずに彷徨っている。――この先、湊斗が生き残り、記憶の真実を取り戻すのか、それとも大切なものを失ってしまうのか。秋から冬への季節の変わり目は、四人の運命をさらに過酷な方向へと導こうとしていた。


しばらく続いていた不安定な状態を超え、湊斗は少しずつ「意識がはっきりしている時間」が増えていた。医師が言うには、「腫瘍の切除はまだ完璧ではないが、急性期は脱した」とのこと。ただし、再発や後遺症のリスクは残る。

ベッドでうつろに天井を見つめる湊斗。かつてのようにパソコンを叩いて仕事をすることはまだ難しそうだが、看護師に支えられて起き上がったり、会話ができる程度には回復している。


(俺……まだ生きてる。だけど、意識を失ってたときに見た夢の断片が頭に残って、スッキリしない。琴音さんや莉緒さんに謝らなくちゃ……)


焦りと安堵が入り混じる心境。湊斗は集中治療室を出て一般病棟へ移り、面会の制限も緩和され始めた。外は晩秋の冷たい空気が流れているが、病室の中は暖房が効きすぎてむしろ熱っぽい。

穏やかな呼吸を取り戻しながら、彼はまずは“この状態”を家族や近しい人々に知らせなければと思う。しかし、その「近しい人々」が多すぎる――莉緒、琴音、そして拓海の存在までも頭をよぎり、胸がざわつく。


数日後、莉緒が病室へ行くと、湊斗は看護師に支えられながらリハビリ用の車椅子に座っていた。少し痩せた顔には疲労感が残るが、どこか安堵の色も漂う。

莉緒が思わず駆け寄ろうとすると、看護師が「慌てずに、静かにね。まだ転倒のリスクがありますから」と優しく制止する。莉緒は胸の高鳴りを抑えながら声をかける。


「湊斗さん……! 動けるようになったんですね。ほんとによかった……」

「少しだけ、ね。まだ頭がグラグラするけど……ありがとう、来てくれて……」


湊斗はかすれた声でそう答え、ぎこちなく微笑む。それは、手術後に初めて見せる笑顔だった。莉緒はそれを見て目尻が熱くなる。

しばしの沈黙が二人を包む。心が浮き立つ半面、なぜか言いたいことが多すぎて言葉にできない。そのとき、莉緒はかばんからフルートケースを取り出し、「少しだけ音を聴いてもらっていいですか……?」と恐る恐る尋ねる。

湊斗は弱々しく頷き、「うん……ぜひ……聴かせて」と答える。晩秋の窓辺から薄い光が射し込み、莉緒は息を整え、そっとフルートを唇に当てた。


柔らかい旋律が狭い病室に広がる。はじめは控えめな音量だが、次第に安定し、メロディが秋の寂寥感をまとって優しく流れ続ける。湊斗は瞳を閉じ、その音に耳を傾ける。

すると、脳裏にまた“秘密基地”の光景がフラッシュする。黒い小屋、手をつないで走る幼子、書きかけのイラスト、フルートのような笛の音?――どうも記憶が錯綜している。

終わるころ、湊斗は軽く息をのむ。「すごく……綺麗な音だね。ありがとう……」と囁くが、その瞳には未解決の違和感が揺らめいていた。

莉緒は照れ隠しに「下手だよ。緊張してたし……でも、聴いてもらえてよかった」と笑みを浮かべる。看護師が「時間ですよ。車椅子の練習はここまでで」と声をかけ、湊斗はまたベッドに戻される。

見送る莉緒の背中を見つめながら、湊斗は心の声で問いかける。(秘密基地でフルートを持ってたのは、莉緒さん……でいいんだよな……? でも、なぜ琴音さんの影も思い出すんだ……?)




その日の夕方、琴音も病室を訪れようとしたが、看護師から「鳴海さんは今、検査に行かれてます。おそらく戻るのは夜でしょう」と説明される。

疲れた身体で店を閉めて急いで来たのに、すれ違いという現実が琴音の心をえぐる。――結局、湊斗が意識ある状態でまともに話したのは、ずいぶん前のことだ。


(一度キス未遂をして、私なりに思いを伝えたけど……もう彼の中には、私の存在なんて残ってないかもしれない。莉緒ばかり……)


ふらふらと病院の廊下を歩き、外へ出ると、冷たい風が髪を撫でる。駐車場へ向かう途中、頭痛を覚え、座り込んでしまう。周囲に人影はなく、琴音は静かに震える。

もう秋が終わる。冬の入り口が見えている。そうなる前に湊斗に自分の気持ちをもう一度きちんと伝えたい――しかし、彼を困らせるだけかもしれないと思うと、言葉が出ない。

「秘密基地で遊んだのは私じゃないか……」――という想像も、正直確信があるわけではない。むしろ本当に莉緒だった可能性も捨てきれず、琴音の心は千々に乱れる。


しばらくして、琴音が駐車場で寒さに耐えていると、意外な人物から声をかけられた。――拓海だ。彼もまた仕事終わりに病院へ情報収集しに来ていたらしい。

「おい、琴音。こんなところで何してるんだ? 具合悪いのか?」

彼の声には普段の冷酷さが薄れ、多少の心配が滲んでいる。琴音は驚きつつ「ちょっと……立ちくらみが……」と目を伏せる。


拓海は無言でコートを脱ぎ、琴音の肩に掛けてやる。いつもは嫌悪していたその仕草が、今日に限ってはありがたく感じられる。不意に琴音は涙が込み上げ、「ありがとう……」と小声で漏らす。

(この人も、本当は苦しんでるのかもしれない。鳴海さんがいなくなる可能性があるって、思ってる……?)


二人は秋の冷たい夜風の中、数秒だけ視線を交わすが、会話はほとんどない。拓海が淡々と「早く帰って休め」とだけ言い、琴音はうなずく。

車に乗り込んでエンジンをかけると、拓海はふと何かを言いかけてやめ、遠ざかっていく。ほんの一瞬の優しさが、かえって琴音の胸を苦しくする。


翌朝、莉緒が湊斗の病室を訪れると、看護師が「昨夜、鳴海さんが紙切れを握りしめていました。落としたかもしれないので」とメモ用紙を渡してくれる。

そこには湊斗の殴り書きがあり、まだ意識がはっきりしない中で書いたのか、文字が乱れている。ところどころ読めるのは、「きみは りお? こと?」というフレーズだ。

莉緒は思わず息を呑む。「きみはりお? こと?」――まるで湊斗が“フルートの相手”が莉緒なのか琴音なのか混乱している様子がうかがえる書き方。


(やっぱり、秘密基地の相手として湊斗さんは私をイメージしてた。でも、最近は琴音のことを思い出してるんだろうか……)


胸がざわめく。“琴音=秘密基地の女の子?”という説は彼女にも届いていないが、湊斗の意識の中で二人の記憶が錯綜しているのは確か。

「どうして……どうしてこんな、曖昧なまま……」と泣きそうになりながら、莉緒はメモを握りしめる。秋の終わりの空が病室の窓から射す光に色をなくし、まるで冬の冷気がそこまで迫っているかのようだ。


カフェ閉店後、琴音はスタッフを早めに帰し、一人暗い店内で深く呼吸をする。ライトは消し、落ち着いた照明だけを残し、冷たい夜気を感じる。

(もう我慢できない。もし湊斗さんの記憶が混乱してるなら、私が“あの頃の女の子”だったと伝えれば、彼は私を選んでくれるかもしれない。だって、私がずっと彼を愛してるんだもの……)


しかし同時に、「そんなのは卑怯」「莉緒への背信だ」という理性が頭をもたげる。葛藤が激しすぎて、指先が震える。

カウンターの奥から紙とペンを取り出し、「鳴海さんへ」と題した手紙を書き始める。想いのすべてを文字に託そうとするが、涙でインクが滲み、字がまともに書けない。

半ば狂おしいほどに愛を伝えたくて、でもそれが間違いかもしれないと分かっていて。秋の終わりの冷たい風が看板を揺らし、店の扉を微かに鳴らす音が琴音の心をチクリと痛ませる。


その夜、拓海は珍しく早く帰宅し、布団に倒れ込む。東京本社から評価を得つつあるが、心は全く満たされていない。莉緒との関係は一歩も進まず、むしろ湊斗に感情移入している部分すらあるのかもしれない。

まどろみに落ちる直前、夢の中に浮かぶのは、湊斗が意識不明で横たわり、莉緒が泣きながらフルートを吹いている光景。それを遠巻きに見る琴音と、自分――まるで“四角形”の図形が歪んでいくかのようだ。


(俺は……いったい何がしたいんだ……。本当に莉緒を愛してるのか、それともただ鳴海に勝ちたいだけなのか……)


悪夢の映像が頭をぐるぐる駆け巡り、拓海は寝苦しそうに唸る。秋の冷たい月光が窓辺から差し込むが、それは温もりにはならない。夜明けまで続く悪夢のなかで、彼の自尊心と嫉妬はさらに捻じれていった。


翌日、莉緒は“秘密基地は本当に自分だったのか?”という疑問を抱えつつ、湊斗にとってのフルートが救いになると信じて「演奏を届ける」ことを目標に定める。

医師に相談し、リハビリや院内コンサートの許可を徐々にもらう形で、病院のホールを借りられるかもしれないという話を取りつける。湊斗が少しでも回復すれば、そこで短いライブを開くことが可能らしい。

(湊斗さんがはっきり目覚めて、私のフルートを聴いてくれれば、もしかしたら記憶の混乱も解けるかも。事故も秘密基地も、全部“意味がない”なんてことはないはず……)


覚悟を決めた莉緒は、寒さに耐えながら毎朝ジョギングをして体力を高め、フルートの練習をさらに熱心に続ける。気分は“試験前の受験生”さながらだが、失敗は許されない。

秋ももう終わり、冬がやってくる。この短い移り変わりに、彼女は命がけの思いを乗せて楽器に向き合っていた。




そして、秋の終わりを告げる氷雨が降る夜。琴音と莉緒が偶然、病院の廊下で鉢合わせする。どちらも仕事を終え、湊斗の様子を見に来たのだが、病室から戻ってきた看護師が「彼は眠ってしまいました。面会はまた明日のほうがいいです」と制止。

二人はやむなく廊下の端で顔を合わせ、ぎこちなく会話する。琴音が声を震わせながら「莉緒、湊斗さんは……少しずつ良くなってるんだよね?」と尋ねると、莉緒は頷くが口数が少ない。

その時、冷たい足音が響き、拓海が姿を見せる。三人が狭い廊下で睨み合う形となり、空気が凍りついたように感じられる。


拓海「もう遅いぞ。面会時間も過ぎてる。お前ら、帰ったらどうだ?」

琴音「……拓海さんこそ何をしに……」

莉緒「湊斗さんは休んでます。そっとしてあげて……」


三者三様の想いがぶつかり合いかけた刹那、突如ドアが開き、看護師が「あ……北園さん、彼が呼んでます」と言う。「彼」とは湊斗のことか――三人は驚き、視線が交差するが、看護師は「いえ、勘違い? 名前が明確ではないんですが……何か『たくみ……』と呼んでるような……」と困惑顔。

険悪な空気が走る中、湊斗が“たくみ”と呼んだらしい。なぜ拓海を呼んだのか――その理由は不明だが、琴音も莉緒も動揺が走る。ドアの向こうには、まだ未解の事実が待ち受けているのだ。

深まる闇、氷雨の降る夜――三人が交差する視線は火花を散らし、やがて外から風が入り込んで冷たい空気が一層濃くなるかのように感じられる。




季節はさらに進み、冷たい雨がしとしとと降り続いている。湊斗の病室がある病院の廊下は暖房が効いているものの、出入り口から吹き込む空気が身を刺すように冷たい。

莉緒はマフラーを外しながら、湊斗の病室へ向かう。今日こそ、もう少し話ができるかもしれない――そう期待していた。医師からは「意識が安定してきた」と聞いているが、いつまた容体が変化するか分からないのが現実だ。


廊下を歩いていると、視線の端に琴音の姿が見えた。琴音もまた、店を早めに閉めて駆けつけたらしい。二人は気まずい空気を共有したまま、短く会釈を交わす。いつもなら少しぎこちない笑顔を作るところだが、どちらもそんな余裕がなく、ただ無言で通り過ぎていく。

(こうして私たちは、“湊斗さん”という同じ存在を想いながら、まるで違う道を歩いているみたい……)


莉緒は胸の奥でそう呟きつつ、足早に病室へ向かう。すると、看護師が「すみません、ちょうどリハビリのために歩行練習に出たところです」と教えてくれた。廊下の奥を見やると、車椅子から歩行器へ移ろうとしている湊斗の姿が見える。

思わず駆け寄りそうになったが、看護師たちが集まってサポートしているため、近寄るタイミングがない。さらにその後ろに琴音も駆けてきて、二人は同じく足を止める格好となる。氷雨が窓を叩く音だけが静かに響き、廊下には微妙な張り詰めた空気が漂った。


看護師に支えられ、湊斗はぎこちなく歩行器を使って数歩進む。額には汗がにじみ、呼吸も荒いが、それでも自力で歩こうとしている。小さな拍手が起こり、看護師が「頑張りましたね」と笑みを浮かべる。

莉緒と琴音は少し離れた位置から見守る形だが、湊斗も彼女たちの姿に気づき、目で追いかける。看護師の制止が解けると、二人は同時に駆け寄ろうとするが、またしてもタイミングが被る。

結局、琴音が先に声をかけ、「鳴海さん、調子はどう? 本当によかった……歩けるようになって……」と涙目で訴える。湊斗は息切れしながら微笑み、「ありがとう……まだ少しだけだけど……」と答える。


莉緒もその場へ近づき、「湊斗さん、無理しないでね。でも、すごい……歩けてる……!」と瞳を潤ませている。湊斗は「ああ……もっと、歩けるようになったら、色々……」と呟いたところで咳き込み、看護師が「今日の訓練はここまでにしましょう」と声をかける。

三人は会話らしい会話ができないまま、わずかな時間だけ言葉を交わして終わる。氷雨の窓越しに外の景色が歪んで見え、秋が終わりを告げる季節の冷たさが肌を凍らせるようだ。


その夜、拓海が残業を終えて病院へ足を運ぶ。看護師に「面会時間ギリギリですが、あの人が“たくみ”と呼んだのかもしれないと聞いたので……」と説明すると、空気が張り詰める。

「では、短時間だけ……」と案内され、拓海は車椅子に座る湊斗の元へ。薄暗い病室で、湊斗は心電図のモニター音を背景に目を閉じているが、拓海が名前を呼ぶと、わずかに反応が返ってきた。

「……たくみ、さん……?」

「そうだ。俺だよ。覚えているか?」


湊斗は朧げな視線を拓海に向け、「……あの日……きみが……」と断片的に言いかける。拓海は息をのむ。二人の間には大学時代からの因縁があったが、湊斗は事故や記憶障害だけでなく、脳腫瘍の影響もあってその辺りが錯綜している可能性がある。

本当に呼ばれた理由は何なのか。湊斗が何を知り、何を思い出そうとしているのか――拓海は不安と興味を入り混ぜた表情で、湊斗の次の言葉を待つ。しかし、湊斗は再び息を荒くし、頭を抱えるような仕草を見せ、「わからない……ごめん……」と震える声で言った。

医師や看護師が駆け寄り、再度「面会はここまで」と告げられる。拓海はわだかまりを抱えたまま、「また来る」とだけ告げて病室を出る。廊下には凍えるような風が吹き、拓海の頭にさまざまな思惑が渦巻いていた。


翌日、莉緒はふとしたきっかけで「湊斗さんの秘密基地をもう一度自分の目で見てみよう」と考える。どうやら昔、空き地の物置小屋を基地にして遊んでいたらしいが、その相手が本当に自分だったのか確信が持てないままだからだ。

看護師から「今日は湊斗さんが検査で夕方まで戻らない」と聞き、時間ができたので、莉緒は思い切ってその空き地へ向かった。鬱蒼とした雑草の中にある黒い物置――以前、湊斗と一緒に訪れた場所だ。

錆びた扉を引き開けると、冷たい空気が鼻を突く。壁には幼い字で書かれた落書きが微かに残っており、「なるみ みなと」「りお…?」など文字の断片が確認できる。しかし、別の箇所には「こ…と…?」とも読めそうな傷跡があり、混沌とした印象。


(やっぱり、どっちが本当か……これだけではわからない)


手掛かりになりそうな紙切れやスケッチブックを探してみるが、長い年月と雨風でほとんど崩れている。落ちていた紙を拾い上げても文字は滲んで判読不能だ。

結局、何も得られないまま、冷たい秋風にあおられて扉がギイと鳴り、莉緒は外へ出る。空は夕刻の暗い雲に包まれ、今にも雨が降りそうだ。「秘密基地」の真相は依然として闇の中で、莉緒の不安は深まるばかり。


同じ夕方、琴音のカフェでは、常連客が増えて忙しい時間帯を迎えていた。接客をこなしつつ、胸の奥は常に重苦しく、湊斗のことばかり考えてしまう。

「私がもし“幼い頃の約束の相手”だったなら、それを言えば湊斗さんは私を見てくれるの? いや、それは卑怯すぎる……」――揺れる感情に飲まれながらも、笑顔で仕事を続ける。

閉店後、キッチンで片づけをしていると、スタッフが「店長、これ差し入れです」と秋の果物が入った籠を渡してくる。どうやら地元の常連が感謝の気持ちとして持ってきたらしい。琴音は「わあ、嬉しい」と微笑むが、なぜか涙が零れそうになる。

(そう……私はお客様に支えられ、スタッフに支えられてる。でも、湊斗さんはまだ戻ってこない……)


絶望に沈みかけたとき、スタッフから「鳴海さんの容態、少し良くなったみたいですね」と朗報を聞かされる。どうやら看護師との雑談で知ったらしい。琴音は思わず胸が熱くなり、「本当……? よかった」と口にしながら、心の中でひそかに希望の火が灯るのを感じる。

しかし、彼女はまだ自分の“本音”を湊斗に告げられていない。このまま冬を迎えたら、すべてが終わってしまうかもしれない――そんな焦燥を抱えながら、一筋の光にすがる想いで店を後にする。


数日後、医師が「回復が順調なら、もう少しでリハビリ専門施設へ移動できるかもしれない」と話を持ち出す。いわゆる転院の打診だ。完全退院はまだ先だが、一般病棟でも長くいる必要はないかもしれないとのこと。

このニュースは莉緒や琴音にも伝わり、二人とも「よかったね」「これで湊斗さん、少しずつ社会復帰できるかも……」と喜びつつ、同時に不安も大きい。なぜなら、彼の記憶障害や幼い頃の約束の問題がまだ解決していないからだ。

湊斗も複雑な表情を浮かべ、「退院……できるかもって聞くと嬉しいけど、まだ頭が混乱してるんだ。事故の記憶や、子供の頃に誰と遊んでたのか、はっきりしなくて……」と莉緒に打ち明ける。

莉緒は胸が痛むものの、「無理に思い出さなくてもいいよ。あなたが生きていてくれるだけで……」と微笑む。だが、その一方で琴音の顔が脳裏をかすめ、“本当に秘密基地の女の子は誰だったのか”という疑問が拭えない。




拓海は、湊斗が転院する可能性を耳にし、(鳴海が移動すれば、莉緒も離れるかもしれない。逆に言えば、手出ししやすいかもしれない……)と計算を巡らす。

一方、琴音のカフェでは秋を通り越し、そろそろ冬仕様のメニューに変える準備をしており、拓海は「そのタイミングで音楽イベントを仕掛けて記事にしたい」と再び提案してくる。

「フルート奏者の莉緒も呼べば、地元誌も取り上げるし……。君は店を売り出せるし、莉緒も演奏の場が増えるし。鳴海が見に来られれば最高の絵になるんじゃないか?」と巧みに説得。琴音は「あの人が退院してくれれば……」と弱々しく返答する。

内心、琴音は「本当にそんなイベントをやっていいのか?」と自問するが、拓海の言葉を断る強さも持ち合わせていない。湊斗の容態次第で破談になる可能性もあるが、一方で「彼が来られるように回復したら素敵……」という希望が捨てられない。




ある晩、湊斗の病室を莉緒が訪れていると、琴音も遅れてやって来た。湊斗はベッドの背もたれを起こして座れる状態で、会話をする余裕が少しだけある。

三人が同じ部屋に揃うのは久々で、最初こそ緊張した空気が走るが、湊斗が「二人とも……色々ありがとう。俺、生きてるよ」と苦笑し、空気を和ませようとする。

しかし、莉緒は「良くなってきたのは嬉しいけど、無理はしないで……」と少し厳しめに言い、琴音は琴音で「もう少し休んでから退院でもいいんじゃない?」と違う提案をする。

言葉尻がぶつかり、どうしても嫉妬や遠慮などの感情が浮き彫りになる。湊斗は苦しそうに笑うが、内心では(二人とも俺を大事に想ってくれてるのに、なんでこんなに噛み合わないんだろう……)と胸を痛める。


看護師が来て「そろそろ就寝時刻です」と促し、三人は結局気まずいまま言葉を切り上げる。廊下に出たところで琴音と莉緒の視線が交わるが、どちらも何も言えずにすれ違っていく。秋の終焉が迫る冷たい空気が、三人の関係をますますこじれさせているように思われた。


師が最終的な判断を下し、「年内に一度、外泊か短期退院の形で社会に戻るリハビリを試してみてはどうか」と提案する。腫瘍が完全に消えたわけではないが、長期入院で体力が落ちすぎるより、自宅療養や外泊訓練を挟むほうが患者にメリットがあるという見解だ。

湊斗は戸惑いながらも、「外の空気をもう一度味わえるなら……」と希望を感じる。莉緒と琴音も「本当に大丈夫?」と心配しつつ、彼が少しでも元気になってくれるなら協力したいと思う。

冬が目前まで迫り、街にはクリスマスの飾りがちらほら見られるようになっていた。秋の落ち葉が完全に散り、冷たい北風が吹く日が増えている。――この移ろいの中、湊斗はどんな形で“外の世界”に帰るのか。






晩秋の終わり。天気予報には「今夜、平地でも初雪が降るかもしれない」と報じられ、街は急に冬の訪れを感じさせるムードに包まれる。

莉緒はフルートと共に病院へ。琴音はカフェを切り上げて急ぎ車で病院へ。拓海は仕事を終えてまた何か企んでいる――四人の足取りが同じ病院を目指す中、天気が急変し、氷雨からみぞれへと変わり始める。

湊斗は車椅子でロビーに出る練習をしていたところ、突然看護師が「鳴海さん、外に誰か来てますよ」と知らせる。窓越しには、莉緒と琴音がほぼ同時に到着し、拓海らしき人影も遠くに見える。

雪の予感――冷たい空気が病院のガラスを曇らせ、外の街灯が白い雪に反射し始める。まるで、今までの“秋の曇り”がさらに一段、冬の暗いトーンを帯びて三人(+拓海)の運命を締め付けるかのようだ。


初雪が降った翌日、街には薄っすらと雪が残り、吐く息が白く見えるほどの寒さになっていた。病院の窓から見下ろす景色は、秋の名残が完全に消え去り、冬の風景に変わりつつある。

湊斗はベッドに腰掛け、看護師のサポートで簡単なストレッチをしている。ここ数日で歩行器を使って移動できるまで回復したが、まだフラつくことも多く、医師からは「退院は慎重に」と釘を刺されている。


(でも……いずれは退院しないと。冬が来て、今年が終わってしまう……)


湊斗はかすかな痛みが頭の奥を刺すのを感じながら、記憶の不安定さに苛まれる。“秘密基地で遊んでいた相手”が本当に莉緒だったのか、それとも琴音なのか――脳裏には断片的なイメージが混在し、はっきりとした結論に至らない。

ただ一つ、彼の心には「このまま曖昧にしておけない」という決断が芽生え始めていた。闇雲に引き伸ばすより、誰かに真実を問いただす必要があるかもしれない――そう思い始めていた。


午後、湊斗が歩行訓練から戻ると、看護師が「琴音さんがお見えです」と知らせてくれる。莉緒が来る時間帯とはズレており、どうやら入れ違いのタイミングだ。

簡易の面会室へ移動して待っていると、琴音が少し遅れて到着した。相変わらず疲れ気味の顔だが、カフェの制服から冬用のコートに着替え、少しだけメイクもしているようだ。


「……湊斗さん、また少し元気になったんだって聞いて……よかった……」

「うん、なんとか歩けるようになってきた。ごめん、なかなか話せなくて……」


二人はテーブル越しに向かい合う。琴音の瞳には切なげな潤みがあり、湊斗はそれを見て胸が痛む。以前のように“キス未遂”という衝動に走るほどの体力はないものの、琴音の想いを感じ取ってしまうからだ。

琴音は心を決めたように深呼吸し、「……ねぇ、私、いまカフェで音楽イベントをやるかもって話があって……もし退院したら、鳴海さん、来てくれますか?」と問いかける。

湊斗は一瞬言葉に詰まるが、「もちろん、行ける状態なら……。でも俺、まだ退院できるかどうか……」と弱々しく笑う。内心、琴音が自分を求めてくれているのを感じながらも、どこか申し訳なさが勝ってしまう。


面会室の空気が重くなりかけた瞬間、湊斗は意を決したように口を開く。「琴音さん……もし、昔の話だけど……君が子供の頃、近所の空き地で遊んだ記憶とか、ないかな?」

琴音の背筋がピンと強張り、動揺が走る。まさに“秘密基地”の記憶を湊斗が切り出すなんて、予想外だったのだ。彼女は何と答えるか迷い、視線を床に落とす。

本当なら「実は、私が幼少期に湊斗さんと遊んでたかもしれない」と伝えたい。けれど、莉緒を思うと、それを口にするのが恐ろしく感じられる。もし湊斗がその真実を受け入れたら、莉緒はどうなるのか――自責と欲望が交錯する。


「……わかんない……もしかしたら、遊んだことあるかもしれない。けど、私もあんまり覚えてなくて……あ、あの頃は引っ越しが多かったし……」

琴音は苦しい言い訳を重ねる。湊斗は微妙な歯がゆさを覚えたが、無理はさせまいと「そっか、気にしないで。俺が事故の影響もあって混乱してるだけかもしれないから」と笑顔で締めくくる。

二人の間に、沈黙が落ちる。すぐに看護師が「そろそろリハビリのお時間です」と声をかけ、面会室での会話は終わりを迎えた。


一方、莉緒は病院の空きホール(談話室と兼用の簡易ステージ)を使って、年末に小さな演奏会を開けないかと医師や看護師長と交渉していた。クリスマスシーズンには院内でも催しがあるため、そこにフルート演奏を組み込んで湊斗を含めた患者の皆を励ましたいという狙いだ。

院内コンサートの話は看護師たちの支持を得て、とんとん拍子に進む。問題は、湊斗の体調が間に合うか――それと、指が覚束ない湊斗が車椅子や歩行器で会場に来られるのか。

(でも、私は信じてる。湊斗さん、頑張ってリハビリしてるし、きっとクリスマスまでには来られるはず……)


莉緒の瞳には決意が宿る。夏の頃は自分のフルートを嫌っていたが、今は「音楽で誰かを救いたい」と本気で思っている。もう母はいないが、湊斗を救うために楽器を吹く――それが自分の生き方だと考えるようになっていた。


カフェもクリスマスシーズンの飾り付けに入り、赤と緑のリースやオーナメントが店内を彩り始めた。客足はさらに増え、休日には行列ができるほど盛況だ。

しかし、琴音は浮かない顔。クリスマスまでに湊斗が退院するかもしれないと聞き、嬉しさと同時に「莉緒と過ごすのでは」といった嫉妬心が湧いて止まらない。

そんなところへ拓海から電話が入り、「店のクリスマスイベントと音楽企画を連動させよう。記事も書ける」と執拗に勧誘してくる。琴音は内心、莉緒と湊斗のための演奏を自分の店でやられるのは複雑だと感じるが、ビジネスチャンスを断る勇気もない。

拓海は「どうせ鳴海が来ても莉緒を選ぶんだから、君は君で店を盛り上げればいいんだよ」という、ある種の唆しをする。琴音は混乱しつつも、「そう……かもしれない。けど……」と曖昧に応じるだけ。冷たい冬の風が電話越しに胸を締めつけるようだ。




入院から長い月日が経ち、術後の経過が安定してきた湊斗は、医師との面談で「短期退院かリハビリ施設への転院か、どうするかをそろそろ決めましょう」と促される。

本人は当初、自宅には帰りづらいと思っていたが、医師が「家での生活を体験してみることで、意欲が高まるケースも多い」と説明し、莉緒や琴音も応援してくれるなら心強い――という流れに。

湊斗は悩んだ末、「年末までに、1〜2週間だけ退院しようと思います……。家の中でどこまで動けるか試してみたい」と答える。医師も「あくまで試験的だから、無理は禁物です」と注意し、退院の日程はクリスマスの少し前あたりに設定される見通しとなる。


(俺、まだフラつくし頭痛も時々ある。でも、このまま病院で年を越すのは嫌だ。外に出て……ちゃんと確かめたいことがある)


具体的には**“秘密基地の記憶”や“秘密基地の相手が誰だったのか”――そして莉緒や琴音への想いを整理すること――が彼の頭に浮かぶ。冬が来る前に、いや冬が来ても時間はあまり残されていないかもしれない。湊斗は“決断”**を固め始める。




翌日、莉緒が病室を訪れた際、湊斗は先の医師との面談を報告する。「クリスマス前に、短期間だけ退院するかも」と。莉緒は目を輝かせ、「そっか……よかった。じゃあ、私……院内コンサートをやる予定なんだけど、湊斗さんが退院するなら……」と声を弾ませかけるが、ふと気づく。

退院するということは院内コンサートに湊斗は参加できないかもしれない。あるいは逆に、退院後もリハビリで外出が難しく病院へ来られないかもしれない。

それでも莉緒は笑顔を作り、「そうだ……もしよければ、退院の日に私がフルートを吹きながらお見送りとか……!」と冗談めかして提案し、湊斗も苦笑い。「それは面白いかもね」と返す。

不安は拭えないが、**“湊斗が外へ出る”**という事実が莉緒には一筋の光に思えた。命を繋ぎ止めたまま、外の世界で過ごせるなら、彼との“これから”に希望を見いだせる……そう感じたからだ。


同日夕方、湊斗はベッドで休んでいると、不意に頭の奥が軽く疼く感覚に襲われる。以前のような激痛ではないが、まぶたの裏で“子供の頃のイメージ”がはっきりしてきた。

秘密基地――黒い物置小屋――大きな紙に落書きする子供――そして、小さな手を繋ぎ「いつか大人になったらカフェをやろう」「一緒に何かを作ろう」と語り合った記憶がぼんやり蘇る。

(カフェ……? 莉緒じゃない。あのとき、あの子はカフェみたいな場所を作りたいと言ってた……)


この瞬間、琴音がカフェを経営している事実と、幼い頃の約束が重なる。――まさか、秘密基地で遊んでたのは琴音だった……?

湊斗の鼓動が早まるが、痛みは軽く、その代わり呼吸が苦しくなる。もしこれが真実なら、今まで莉緒こそが秘密基地の相手と思い込んできたことは何だったのか。じゃあ、莉緒が抱えていた事故の罪悪感やフルートへの想いは……?

頭の中に渦巻く疑問を抱えつつ、湊斗は動揺を押さえきれないままベッドに崩れ落ちる。すべてが繋がったわけではないが、**“琴音との記憶が甦る”**予兆に彼の心は大きく揺さぶられた。


湊斗の退院日が正式に“クリスマス前日”に設定される。医師は「無理のない範囲で、自宅で数日過ごし、年内には再度検査を受けに来てください」と指示。周囲も応援するが、まだリスクがあるため、外出や長時間の外泊は控えるようにと注意される。

そんな中、琴音は思い切って行動に出る。店を早めに閉め、病院の面会時間ギリギリに駆けつけると、湊斗にこう提案する。


「鳴海さん……クリスマス前日に退院って聞いた。もしよかったら、その足でうちの店に寄れないかな? 夜は無理しない範囲で……私、久々に鳴海さんと二人きりで話がしたい」

言いづらそうにしたが、最後はほぼ“誘い”と言っていい内容。湊斗は戸惑うが、心の奥で「琴音との記憶が蘇り始めている今、彼女と話す必要がある」と感じていた。

「……わかった。まだ先生に許可を取らなきゃだけど、外来で来る日がクリスマス前日なら……その帰りに少し寄るくらいなら大丈夫かも」

琴音はほっとしたように微笑むが、その表情には泣きそうな陰が差している。**“二人きりのクリスマス”**が訪れるかもしれない——そこに希望と恐怖が混じっていた。


冬の冷たい風が街を吹き抜け、イルミネーションがちらほら点灯し始めた。カフェにもクリスマスツリーを飾り、色とりどりの光が店内を彩っている。一方、病院でも小さなデコレーションが施され、看護師たちがサンタ帽をかぶるなど雰囲気を出している。

湊斗はリハビリを続け、何とか院外へ出る準備を整え始める。退院といっても仮退院に近い形で、いつまた再入院になるか分からない状態だが、彼の気持ちは前向きになっていた。――しかし、琴音とのクリスマスに踏み出すことに躊躇がないわけでもない。なぜなら莉緒がどう思うか、彼自身まだ答えを見出せていないからだ。


(俺は……記憶が曖昧で、誰が秘密基地の相手だったのかもはっきりしない。莉緒を支えてきた時間も本物だし、琴音への感情もある。こんな形でクリスマスを迎えて大丈夫なのか……)


“この愛に希望はあるのか、それとも破滅か”――湊斗は悩むが、琴音の誘いを断ることもできない。二人きりのクリスマスなら、記憶の真相が分かるかもしれないし、琴音の“本当の気持ち”を受け止められるかもしれない。

こうして、秋から冬への移ろいの中、三人の運命がまた大きく動き出そうとしていた。愛は彼らを救うのか、あるいはさらなる悲劇へ導くのか。クリスマスの夜に再会する湊斗と琴音——その先に待つのは光か闇か。


短期退院が決まった湊斗は、医師や看護師の協力で退院日を12月23日に設定し、クリスマスイブには自宅で過ごすというプランが固まりつつあった。

ほんの1〜2週間程度の“試験的な外泊”に近いが、それでも病院の白い壁を抜け出して、外の世界で自由に動ける日が来る――彼にとっては大きな前進だった。

病室の窓から見える風景には、街のビルや商店街にクリスマスの飾りが点在し、カラフルな電飾が夜を照らしている。わずかな光が、湊斗の心に小さな希望を与えていた。


(まだ体は万全じゃない。でも、あの日々に戻るために、そして“秘密基地の相手”の真実をはっきりさせるためにも、外へ出たい……)


看護師に支えられながら散歩がてら院内を回る湊斗。すでに冷たい空気がガラス越しにひんやりと伝わり、クリスマスムードの陽気とは裏腹に身体の奥が疼く。

朝晩のリハビリをこなしながら、彼は心に決めていた――この冬が勝負。自分自身の記憶、そして莉緒や琴音への想いを、はっきりと形にしたい。気づけば、退院まで残り数日しかなかった。


「ほら、ツリーはここに置いて。明日にはお客様がいっぱい撮影してくれるんじゃない?」

琴音はスタッフに声をかけながら、店の中央へ背丈ほどのクリスマスツリーを設置する。カラフルなオーナメントや星形のトップを付け、イルミネーションを点灯すると、一気に華やかな空間が生まれた。

カフェの入り口にもリースを飾り、BGMにはクリスマスソングを流し始めている。客の反応は上々で、「冬らしい雰囲気があって素敵ですね」と好評だ。しかし、琴音の表情には陰りが残る。


(楽しい想い出にしようねって、誰かと語り合ったのはいつだっただろう……。子供の頃かな。あの秘密基地で、一緒にツリーを飾る約束をしたような気がする……)


頭の片隅で蘇る“幼い記憶”。それが本当に湊斗との約束なのか、確証はないが、なぜか心臓がきゅっと締め付けられる。

ふと、スタッフの一人が「店長、このツリーで願い事が叶う伝説とか作りません? メッセージカードでも付けたら面白そう」と提案する。琴音は「いいかもね」と賛同しつつ、イブにこのツリーでお願いをすると、願いが叶うかもしれない――そんなアイデアが浮かぶが、その願いが“何”なのかを思うと胸が切なくなる。


一方、莉緒は院内でのクリスマスコンサートが正式に決まり、看護師長や同僚たちと準備を始めていた。小さいステージといっても、入院患者や外来の人たちに向けて15分ほど演奏する短い時間。

ただ、問題は湊斗がそのイブには退院するという予定。つまり、院内コンサートにはいないかもしれない。看護師が「ご都合どうです?」と確認するが、莉緒は「大丈夫ですよ……もし湊斗さんが退院していなくても、私は演奏します」と答える。

正直、湊斗が見られないステージにどれほど気力を注げるかわからないが、彼女自身もフルートを通じて他の患者やスタッフを支えたいと考えている。


(“願いが叶うツリー”があるなら、私はここで“湊斗が良くなりますように”と願うよ。どんな形になってもいい……。彼の命と笑顔が戻れば、それだけで……)


そんな思いを胸に、莉緒は毎晩フルートの練習を続けている。今度こそ、自分を責め続けた過去から飛び出し、誰かを救うための音を響かせたいと願うばかりだった。


そして、12月23日。ついに湊斗が病院を出る日がやってきた。医師や看護師が「焦らず無理せずに」と口々に言い、次の検査日を確認。湊斗は車椅子で玄関へ移動する。

そこには莉緒と琴音が顔を揃えていた。莉緒は院内コンサートが明日に控えているので、そのリハーサルがある合間を縫って駆けつけた。一方、琴音は車で湊斗を迎えに行こうと思っており、「家まで送りますよ?」と提案している。

どちらも湊斗を支えたいが、状況としては少しバツの悪い雰囲気。湊斗は「ごめん、家まで車で送ってもらいたいけど……莉緒さんも来る?」などと余計な気遣いをしてしまい、かえって混乱を深める。


琴音「え、私は全然構わない……けど、莉緒は?」

莉緒「私はこのあとコンサートの準備があるから……。湊斗さん、気をつけてね。また顔を見せてくれれば嬉しい……」


そうして結論は「琴音が車で送る」という形に落ち着いた。莉緒は笑顔で「おめでとう、退院おめでとう……」と見送るが、その瞳にはうっすら涙が浮かんでいるようにも見える。冬の冷たい空気が、三人の心を刺すように冷やしていた。


湊斗は実家の家族と合流し、ひとまず様子を見る形で午後を過ごした。夕方になり、医師から許可を得て外出し、琴音のカフェへと向かう。

もともと「退院の日に少しだけでも店に寄る」という約束をしていたため、琴音はイブの飾り付けをさらに豪華にし、客を早めに帰し、スタッフも先に帰宅させている。閉店後のカフェは、ツリーやキャンドルの灯りが幻想的な雰囲気を醸し出していた。


店に入ると、琴音は湊斗を温かく迎え、「待ってたよ……夜の空気、冷えたでしょ。大丈夫?」と心配そうに声をかける。湊斗はまだ歩行器を使うが、なんとか店内に入れる程度には回復している。

「すごい……クリスマス仕様だね。こんなに大きなツリーが……」と湊斗が目を丸くすると、琴音は少し照れくさそうに笑う。そこにはカードやオーナメントが付けられていて、客が願い事を書いて結びつける形になっているらしい。


琴音「ここにお願いを書くと、叶うって噂を作ったの。ほんとは子供向けの企画だけど……鳴海さんも、もしよかったら……」

湊斗「願いが叶う……か。なら、俺も……」


二人きりのカフェには静かなBGMと、微かなコーヒーの香り。まるで外の世界から切り離されたような空間で、湊斗は車椅子に移り、琴音が用意したブランケットを膝に掛ける。二人の距離は、あの夏の頃よりはるかに近い。


店内を暖房が包み、ツリーの灯りが柔らかい陰影を生んでいる。琴音はコーヒーや軽いスイーツを用意し、「一緒に乾杯しよう」と勧める。湊斗はアルコールは禁止されているが、ノンアルコールのスパークリングでささやかな乾杯をする。

「こうして二人きりのイブなんて、ちょっと不思議な感じ……」と琴音が微笑み、湊斗も「うん……。ありがとう、ほんとに……」と感謝を述べる。

だが、その言葉に彼女は首を振り、「私のほうこそ……会いたかった。ずっと、あの日から……」と弱々しく告白めいた言葉を漏らす。


そして、琴音はテーブル越しにそっと手を伸ばし、湊斗の指先を絡める。湊斗は一瞬、事故の後遺症で手が思うように動かないが、それでも彼女の手の温もりを感じ取る。

「……ごめん、私、わがままかもしれない。でも、今夜だけは、二人きりの想い出にさせて。湊斗さんと……楽しいクリスマスにしたい……」

湊斗も胸が熱くなり、「……うん、俺も、せっかく外に出られたんだし……一緒に過ごしたい」と微笑む。二人の指先が強く絡まり、**“絡み合う肢体”**と呼べるほど急激に近づく雰囲気が立ちこめるが、湊斗は身体が弱っている。

それでも、琴音はそっと彼の肩に身体を預け、唇が触れ合いそうな距離にまで接近する。微睡みの中で甘い衝動が走り、二人はふわりと気持ちがとろけるような感覚に包まれる。




琴音が「ずっと一緒にいよう……いいよね……?」と囁くと、湊斗はドキリとする。夏の頃は未遂で終わったキスが蘇り、今はもう誰にも邪魔されない空間。

しかし、その瞬間、湊斗の頭にまた秘密基地のフラッシュが走る。短いめまいに襲われ、彼は「……あ、痛っ……」と眉を歪める。琴音は驚き、慌てて身体を離す。

「ご、ごめん! 私、また……無理させた……?」

「い、いや、大丈夫……。ちょっと頭がくらっと……」と湊斗は苦笑しつつ、自分が“どんな記憶”を見たのか思い出せない。琴音が幼い頃の姿で笑っているようなイメージがほんの一瞬浮かんだが、形にならないまま消えてしまう。


二人は申し訳なさそうに離れ、ソファに並んで座る形となる。琴音は顔を赤らめ、「ごめん……でも、私、ずっとあなたを想ってて……」と声を落とす。湊斗は「俺も、ありがたいんだけど……まだ整理がついてなくて、記憶も混乱してるし……」と返す。

“絡み合う肢体”は未遂に留まり、二人は切ない距離感のまま夜が深まる。どこか“次の一歩”を踏み出せないまま、愛情と罪悪感、そして記憶の断片が交差している状態だ。


時間はすでに深夜に近い。琴音が「こんな遅くまで、大丈夫? ご家族が心配するよ」と言い、湊斗は「ちょっと遅くなるって伝えといた。明日は病院に検査で行くけど……」と応える。

お互い疲れが出始め、ソファで寄り添うように座っていると、琴音の目に涙が浮かぶ。「……もし、私と一緒にいたら……あなたを苦しめることになる? そんな気がして、怖い……」

湊斗は弱々しく首を振り、「そんなことないよ。むしろ支えてくれてる。でも……俺、まだ莉緒さんとのこともちゃんと整理できてないんだ」と本音を漏らす。

「琴音さんを大事に思う気持ちはある。だけど、莉緒さんに対しても……俺を支えてくれた時間があって、事故の記憶とかフルートのこともあって……」と混乱を打ち明ける。


琴音は唇を結び、「うん……知ってる。私も、あの子を……莉緒を傷つけたくない。でも、もう一度、いやずっとあなたと一緒にいたい……私、どうしたらいいの?」と涙声で問う。

湊斗は何も答えられない。しかし、その沈黙が、**“必ず何かを決めなければいけない”**という決意を二人に意識させていた。まるで深い霧の中にいるように行き場を見失うが、とにかく今は一緒にいるしかない。


微睡みの中で行き場をなくし、切なさと愛しさが錯綜したまま、クリスマスのツリーだけが幻想的に瞬いている。


夜が更け、二人はカフェのソファで寄り添ったまま眠りに落ちていた。琴音が先に目を覚まし、眠っている湊斗の顔を見つめる。短くなった髪、少しやつれた頬――それでも愛おしさが湧いて止まらない。

(ただ...一緒にいたい……私の願いはそれだけ。でも、彼の命はいつどうなるかわからないし、記憶も曖昧なまま……)

彼女はテーブルに置いた紙片に“私の願い”と書き付け、ツリーの枝に結びつける。






「あなたが生きて、私を想ってくれますように」――そんな一途な想いだった。





やがて朝の光が差し込み、湊斗がうっすらと目を開く。二人とも身体が痛そうだが、どこか甘い余韻が漂う。琴音は恥ずかしそうに「ごめん、つい寝ちゃった」と笑い、湊斗は「俺も……。でも、なんか落ち着いたよ」と返す。



そこに携帯のバイブが鳴り、湊斗が確認すると病院から着信。検査の時間が迫っており、早急に戻る必要があるらしい。二人は慌てて準備をし、互いに「また……あとで……」と別れを名残惜しそうに交わす。夜の余韻は朝の光のなかでふわりと消え、まるで夢から醒めたような切なさが残った。




一方、莉緒は院内コンサートの最終リハーサルをする朝を迎えていた。もし湊斗が来られなくても、彼のために演奏を捧げる――その決意を胸に、フルートの手入れを入念に行う。

拓海は仕事の都合で朝早くから出社し、新聞雑誌への記事の段取りを進めつつ、「クリスマス企画」で琴音のカフェを載せる手筈を整えている。心の片隅で、湊斗と琴音の関係がどう変化するかを冷ややかに予想しながら……。

こうして、湊斗の決断した“短期退院”は、琴音との二人きりのクリスマスを実現させた。そこには確かに甘い温もりがあり、微睡みの中で身体が近づいたが、まだ完全に結ばれたわけではない。

湊斗の命はどうなるのか。記憶はいつ甦るのか。莉緒のフルート演奏と拓海の暗い計略が交錯する中――冬の冷たい風が、四人の運命をさらに切なく、痛ましく弄びながら吹き抜けていく。




12月24日、クリスマスイブを迎えた朝。

湊斗は短期退院の初日を琴音のカフェで過ごしたまま迎え、どうにか体を休めていた。前夜の微睡みの中で、身体を寄せ合ったが“最後の一線”は越えなかった。

一方、莉緒は病院の会議室で軽い朝食をとりながら、院内コンサートの最終チェックを行う。昼過ぎには簡単なリハーサルをして、本番は夕方から。もし湊斗が体調を許して外来訪問できるなら来てほしいと願っているが、連絡はない。


外は一面の雪化粧。昨夜から降り続いた雪がうっすらと地面を覆い、冬本番の冷たさを突きつける。この愛に本当に希望があるのか、彼らの胸にちらつく不安はさらに増している。


午前中、湊斗は琴音の車でカフェを後にし、自宅に戻る予定だった。だが、外は雪道で危険ということもあり、琴音が途中まで付き添ってサポートすることになった。

車椅子を使わず、歩行器で数歩進む湊斗の姿はまだぎこちなく、琴音がそっと腕を支える――手術前に比べるとずいぶん回復したが、フラつくときに身体が密着して鼓動が高まる瞬間がある。


「……昨日はごめん。いろいろ気を遣わせたよね」

「ううん、私も……。でも、無理させちゃいけないと思いつつ、嬉しかったの……二人きりで過ごせたから」


二人は笑顔を交わすが、その背後には一抹の影。琴音は“このままでは莉緒を裏切る形だ”と思いながらも、湊斗と過ごした夜が尊くて手放せない。



車に乗り込み、自宅に到着すると家族が出迎え、琴音は「よろしくお願いします」と頭を下げてその場を後にする。湊斗は彼女の去り際に、「後で連絡するね」と手を振るが、胸にどこか罪悪感が残っている。


クリスマスイブの夕方、病院の談話室兼ホールには入院患者や外来の人々、スタッフが集まっており、簡単なクリスマス会がスタートしていた。看護師たちが歌を披露し、サンタのコスプレで笑いを誘う場面もある。

そして、メインイベントの一つとして莉緒のフルート演奏が始まる。




ピアノ伴奏を紗英先輩が務め、温かい拍手に包まれる中、莉緒は最初に“きよしこの夜”を静かに吹き始める。



(湊斗さん……私はここで待ってるよ。もし来られるなら、あなたに聴いてほしい。でも、もし来なくても……この音はあなたのために吹いてるんだよ)


音は柔らかく澄んだ響きを持ち、患者たちがうっとりと耳を傾ける。なかには目を閉じて涙を浮かべる人もいる。


莉緒自身も胸が締め付けられそうな感情を抑えつつ、“湊斗の魂に届くかもしれない”と信じて吹き続ける。


その頃、拓海が病院のホールにふらりと姿を現す。彼は仕事帰りでスーツのまま、手には小さな袋を持っている。周囲はクリスマス会の熱気に包まれており、そこにまぎれて莉緒の演奏を聞く形だ。

フルートが一曲終わって、莉緒が休憩に入ったとき、拓海は彼女に近づく。




「……いい演奏だったよ。鳴海は...来なかったみたいだな。」




と冷ややかに言うが、その瞳にはどこか孤独の色が浮かんでいる。



莉緒は厳しい表情を浮かべ、「今日は退院して自宅に戻るって言ってたし……。彼を責めないで、まだ体も本調子じゃないんだから」と返す。



拓海は肩をすくめ、「彼がいないのに頑張るのか。お前のフルートは誰のためだ?」と挑発的に尋ねる。莉緒は唇を噛み、「私のフルートは、湊斗さんのため。彼が聴けないなら、他の患者さんのためにも吹いてる。……愛するってことは、もしかしたら、同時に何かを失うのかもしれないけど、私にはこれしかない」と力強く返答。


拓海は驚いた顔を見せ、「……そうか」とだけつぶやいて去る。


莉緒の瞳には決意と不安の入り混じった光が宿っていた。




同じ頃、湊斗は家族とのクリスマスイブを過ごしていた。頭の片隅には“琴音との約束”と“莉緒のコンサート”が同時にちらついていて落ち着かない。



食欲もあまりなく、身体も思うように動かず、家族が用意した小さなケーキを少し食べただけでソファに倒れ込む。


気づけばマフラーを取るのも億劫で、携帯にメッセージが来ているかどうかもチェックする元気が湧かない。


(俺は何をしてるんだ……。琴音さんにも莉緒さんにも、何一つ返事をしてない。結局、どちらのステージにも行けないまま……)


医師からは「外出は短時間に留めること」と言われており、リハビリがまだ十分ではない以上、夜に遠出するのはリスクが高い。湊斗は結果的にどちらにも行けず、ベッドで息を乱している。



祖母が心配そうに覗き込み、「大丈夫? 寒いし、病院に戻る?」と言うが、湊斗は「まだ家にいたい……」と苦い笑みを返す。苦しげにまぶたを閉じ、深い孤独を感じながらクリスマスの夜を迎える。


夜。琴音のカフェはクリスマス営業を早めに切り上げ、スタッフを返していた。外の雪は再び強まり、イルミネーションが白い結晶に反射してキラキラと幻想的に光っている。



心ここにあらずの琴音は、もしかしたら湊斗がまた店に顔を出してくれるかもしれないと期待半分で待っていた。




だが、待てど連絡は来ない。



闇夜に雪が舞う光景を眺め、ツリーの下に貼り付けたカードを見やる。そこには自分の手で書いた**「一緒にいたい…...」**という願い。

(愛することは、何かを失うことなのかもしれない。でも私は……失うのが怖いからこそ、こうして待ち続けるしかない)




カフェのドアがガタリと鳴ったが、風が吹いただけで客の来店ではなかった。


琴音は溜息を吐きつつ、このまま夜が更けていくのかと胸を痛める。




ヒーターの効いた店内にもかかわらず、心は雪に閉ざされたように冷たく感じられた。


院内コンサートは無事に終わり、患者やスタッフから拍手喝采を受ける形となった。


莉緒は微笑みで応じつつも、湊斗の姿を探してしまうが、当然そこに彼はいない。

紗英先輩が「お疲れー」と声をかけ、「いい音だったよ。あのフルート、鳴海くんにも聴いてほしかったね」と肩を叩く。




莉緒は「うん……でも仕方ない。退院したばかりだし、無理はできないもん」と自分を納得させるように答える。



莉緒は振り切るようにフルートケースを握りしめ、密かに決意する。




真実を越えて、私は私の音を続けるだけ。......そう信じ込まなければ、心が崩れてしまいそうだった。




その夜、湊斗は家族と静かなクリスマスイブを過ごしたあと、一人ベッドに横になっていると、再び秘密基地の記憶がフラッシュバックしてきた。

桜の花が舞い散る黒い小屋。


子供の頃の湊斗が、短めの髪の女の子と遊んでいる。


彼女と共にカフェへの憧れを語り、「いつか大人になったら、お店開こうよ」「絶対、ずっと一緒にいようね」と笑っている。



その顔は、...琴音...に重なっているように感じられる。激しい頭痛はなく、むしろ穏やかな温かさが胸に広がる。



(やっぱり……秘密基地での思い出は、琴音さんとの約束だったのか。莉緒さんじゃなかった……)


湊斗は頭を抱えるが、不思議と痛みはない。この愛に希望があるなら、琴音に真実を伝えるべきだろうし、莉緒にも謝罪や説明が必要だ。だが、同時に恐れも大きい。



それでも、湊斗は**“記憶が甦る”**心地よさと切なさに浸りながら、“明日にでも琴音に会おう”と決意を固める。夜空にはまた雪が降り始め、外の景色が音もなく白く染まっていく。




クリスマス当日の朝。雪が再び勢いを増し、街はホワイトクリスマスの光景となっていた。



湊斗は早速家を出ようとするが、家族が「危険だからやめてくれ。検査日までは安静にしてほしい」と止める。彼は迷いながらも「大丈夫、慎重に動く。どうしても確かめたいことがあるんだ」と押し切る形となる。

車椅子を使い、タクシーを呼び、向かう先は……琴音のカフェ。


幼い日の記憶と、彼女への想いを確かめるためだ。


そして、その先には莉緒へ“真実を告げる”義務があるかもしれない...。


一方、琴音は店でクリスマス当日の仕事に追われつつ、どこか落ち着かない。


昨夜は結局、湊斗が来なかったからだ。



(このまま......私はまた失うのかな……)


諦めの表情を浮かべたその瞬間、ドアが開き、車椅子に乗った湊斗が息を荒げながら現れる。


店内の客は少なく、休日の朝ゆえにゆったりムード。琴音は「え……鳴海さん!?」と驚きの声を上げる。



「……話したいことがあるんだ。昨日、思い出したんだ。君との、あの……秘密基地でのこと……」



琴音は瞳を見開き、全身が震える。「ホントに……私と……?」――そこには、**”記憶”と“想い”が交差していた。


客が少ないタイミングを見計らい、琴音はスタッフに任せて二人きりになれるスペースへ湊斗を案内する。


店の奥、クリスマス用に飾ったツリーがまだ明かりを灯している。

呼吸を整えた湊斗は、低い声で語り出す。




「……琴音さん、たぶん……俺たち、幼い頃に会ってた。秘密基地は、君との記憶だった……」



琴音の手が震え、




「やっぱり……私もそうじゃないかって思ってた。だけど、事故とか色々あって、自信がなくて……」と声を詰まらせる。



湊斗は苦しげに続ける。




「俺、莉緒さんが事故のせいでフルートを辞めたと思ってたけど、実際は別の時期の話で……全部食い違ってるんだ。莉緒さんは俺を救おうとしてくれたけど、秘密基地の相手は彼女じゃなかった……」


琴音は目に大粒の涙を浮かべながら、湊斗の言葉を聞き入る。


“ずっと一緒にいよう”と誓ったのは自分たち。


なのに、成長してから湊斗は莉緒と偶然再会し、勘違いで秘密基地が“莉緒”と思い込んでいた……その奇妙な運命のズレが、今すべてを歪ませている。



「……ごめん、私、もっと早く言うべきだったよね。でも、莉緒を裏切るようで怖くて……。あなたも事故や病気で苦しんでるし……」



湊斗は首を振る。


「愛するって、同時に何かを喪うことかもしれない。でも、俺……今は琴音さんと向き合いたい。莉緒さんにもすごく感謝してるし、申し訳ない気持ちもある……けど、この記憶は嘘じゃないと思うんだ」


彼はそう言い、車椅子から身を乗り出す。


二人の手が再び繋がり、お互いの体温を感じる瞬間、琴音は涙を零しながら、


「私も……ずっと会いたかった。あなたが失ってた記憶を、取り戻してくれて嬉しい……」と囁く。



この愛に希望はあるのか。真実を越えて、琴音は幸せになれるのか――




湊斗は弱々しく唇を合わせようとするが、そこへ突然扉が開き、客が入ってくる気配が。


「あ、ごめんなさい」とスタッフが声をかけ、二人は慌てて距離を取る。



心臓が高鳴るまま、視線を交わす。「後で、ゆっくり話を……」**と湊斗が耳打ちする。琴音は頷きつつ、失うことへの恐怖と希望の光が入り混じった表情を浮かべていた。




クリスマス当日の朝、湊斗は一夜明けて、再び軽い頭痛で目を覚ます。


薄暗い窓の外は雪景色。路面は白く染まり、屋根には小さな雪の層が積もっている。

ベッドに横になりながら昨夜のことを思い出す――琴音のカフェで「自分こそが幼い頃の秘密基地の相手だった」という確信に至った瞬間の衝撃。


夜が深まるにつれ、体力的につらくなり、互いの想いをぶつけ合いきれないまま朝を迎えた。



(俺は、事故のせいでずっと莉緒を傷つけたと思い込んでいた。それが間違いではないにしても、“秘密基地”に関しては琴音だった……。じゃあ、莉緒の抱えてきた痛みは何だったのか?)


ふと、携帯にメッセージが入っているのに気づく。開いてみると莉緒からのもので、


「昨日はお疲れさま。院内コンサート、無事に終わったよ。湊斗さんが来れなくても、私はあなたのために吹いたよ。いつか聴いてもらえたら嬉しい」という内容だ。



湊斗は胸が痛む。自分が秘密基地の相手じゃないと知ったとき、莉緒はどう思うのか――このまま彼女を傷つけたくはない。


**“愛するということは、同時に何かを喪う”**という残酷な側面が、彼の心を締め付ける。




拓海は会社に顔を出したあと、すぐに編集部の部下に連絡をして、「琴音のカフェでクリスマスイベントを記事にするプラン」を最終化するよう指示する。だが、当の琴音からはまだ決定の返事をもらっていない。

(今夜にも記事の下調べがてら店を訪ねるか……。鳴海がカフェにいる可能性もあるし、莉緒がいないところで何か“仕掛け”をするチャンスがあるかもしれない)


拓海の心には、一抹の焦りが依然としてあった。湊斗が蘇り、琴音と急接近しているのでは? となれば“莉緒を得る”ことも遠のく。


しかし、引き下がるつもりもない。

愛するがゆえに、同時に誰かを喪う――というのなら、拓海は“湊斗を喪わせて莉緒を得る”ことを暗に企んでいるのかもしれない。彼自身も明確な形で言語化できていないが、心の奥底で破滅的な衝動を感じ始めていた。




クリスマス当日の夕方、院内コンサートを終えた莉緒は大きな拍手を受けながらステージを後にする。看護師からは「とても好評でしたよ!」と声をかけられ、莉緒は「ありがとうございます」と微笑み返すものの、目はどこか曇っている。



湊斗に会えないままクリスマスを迎えた。メッセージだけじゃ物足りない。


――しかし、彼は退院して自宅療養中で、外出は厳しいかもしれない。



(せっかくクリスマスなのに、私は湊斗さんのいる場所に行けない……。いつか彼の前でもう一度演奏したいと思ってたのに)


フルートケースを抱え、肩にかけたマフラーをきつく巻き直す。


寒さが骨まで染みるほど強くなってきている。愛することで何かを喪うのかもしれない


――そう薄々感じながら、莉緒は「これからどうしよう」と足が止まる。家に帰るのが嫌に感じられ、ふと、琴音のカフェを思い出すが、今行っていいのか分からない。



“ずっと一緒にいよう”と湊斗に誓ったのは自分ではなかった


――もしかしたら、その約束は琴音だったかもしれない。


でも、だからといって湊斗への感謝と愛が消えるわけでもない。


雪がしんしんと降る中、莉緒は病院を出て、重い足取りで夜道を歩き始める。


一方、湊斗は家族を振り切る形で再びタクシーを呼び、琴音のカフェへ向かう。


午前中にも顔を出したばかりだが、夜の静かな店で落ち着いて話したいと考えたのだ。

店に着くと、すでに閉店間際で客はほとんどいない。




ツリーの灯りだけが柔らかく揺れ、琴音はレジ締めをしていた。彼女が湊斗の姿に気づき、「また来てくれたんだ……!」と目を輝かせる。



「うん……。さっきはあんまり話せなかったから。もう一度、ちゃんと話したくて……」




と湊斗は歩行器を使いながら奥の席へ向かう。琴音は慌ててブランケットを用意し、湯気の立つコーヒーを差し出す。



周囲にスタッフはおらず、二人きりの空間。クリスマスソングのBGMも消してあって、しんと静まり返っている。


湊斗「今日は……話をしたい。秘密基地のこと……それから俺と君の、これからのこと……」



琴音「……うん、私も、伝えたいことがある。けど、怖くて……」


お互い見つめ合い、胸の奥が熱くなる。




――二人の不安と期待が交錯する。






湊斗が軽く息を整え、


「あの日、子供の頃……君と“将来カフェを開こう”みたいな話をしたの、思い出したよ。ごめん、ずっと忘れてて……」と呟く。




琴音は顔を覆うように「やっぱり……私もなんとなく感じてた。言えなくてごめん……」と涙を浮かべる。



続けて、二人はお互い謝罪と感謝の言葉を交わす。




琴音は卑怯と思いながらも、


「あなたが事故や莉緒と錯覚してたことを知って、言えなかった……」と白状し、




湊斗は


「俺が悪いんだ。誰かを傷つけてしまっているかもしれない」と声を震わせる。



言葉にならない感情が溢れ、気づけば二人は再び身体を近づけ、湊斗が車椅子から上体を乗り出し、琴音の肩を抱き寄せる。






――以前は体調の不安で踏みとどまったが、今夜は多少の余裕がある。




「……私、こんな形で莉緒を裏切るのは本当は嫌だけど、それ以上にあなたを想う気持ちが止まらなくて……」



「俺だって……事故や病気に甘えて、思考を止めてた。でも、自分で選ぶ時が来たんだ……」


湊斗はそう呟いて、そっと琴音の唇に触れる。


甘く切ないキスが、まるで幼い頃の約束を今ここで回収するかのように、二人の鼓動を一つに繋げようとする。


しかし、その体勢を維持するのは彼の体力的に厳しく、息が苦しくなり、また軽いめまいが襲う。


琴音が慌てて彼を抱きしめ、「ごめん、無理しないで……」と支える形になる。








店の奥のカーテン越しから、ひっそりと拓海がその光景を見ていたとは、二人は気づかなかった。




実は編集の打ち合わせの一環で「閉店後のカフェ写真を撮らせてほしい」と偽り、スタッフから鍵を借りようとしたが断られ、裏口に回ってしまったのだ。



拓海の視線は**“湊斗と琴音がキスを交わす”**一瞬の場面を捉え、凍りつく。




――つまり、鳴海はもう琴音を選んだのか。莉緒はどうなる? 彼女の思いはどうなる? さまざまな負の感情が渦巻き、拓海は拳を握りしめて歯を食いしばる。







(おいおい、鳴海……。あれほど莉緒を支えていたのに、結局琴音かよ……。なんだよそれ……)




軽い苛立ち、いや怒りがこみ上げるが、ここでバレるわけにはいかないと考え、静かに店を後にする。


外には雪が降り積もり、凍える空気が拓海の心をさらに狂わせていく。



“愛するということは、同時に誰かを喪う”




——この言葉が頭をよぎり、拓海は唇を震わせながら闇夜を歩き去る。


莉緒への想いを捨てきれないまま、衝動が煮えたぎり始める。




同じ頃、莉緒は院内コンサートを終えて一度自宅へ戻ったが、心に穴が開いたような感覚を抱えて外へ出た。




どうしても湊斗に会いたくて連絡を入れてみるが、既読がつかない。



“もしかして、琴音のカフェにいるのでは?”という予感が胸をよぎり、バスに乗って店の近くまで向かう。




しかし、降りた頃には閉店時間を過ぎており、辺りは暗い。



店のライトがかすかに残っているのを見て、「まだいるかもしれない……」と希望を抱くが、扉には施錠されていて中に入れない。

ガラス越しに人影は見えないが、どこか奥が明るい気配があり、胸がざわつく。




寒さに震えながら、のぞき込もうとした瞬間、裏手から誰かが出てくる足音が……それは


拓海だった。




莉緒「先輩……こんなところで何を……?」



拓海「……仕事の下見だよ。編集の撮影許可を取ろうと思ったが、無理だった。お前こそ、こんな夜に……鳴海に会いにきたのか?」




莉緒は痛いところを突かれ、視線を落とす。


「うん……連絡が取れなくて。でも、ここにいるか確信はない……」と答える。


拓海の表情は一瞬歪み、まるで憐れむような声で「……もう遅いかもしれないぞ」と告げる。



「え……どういうこと……?」と問い返す莉緒に、拓海は苦しげに口を結び、


「俺も詳しくは知らないが、鳴海はもう……」と曖昧に濁す。


まるで湊斗が琴音を選んだという事実を察しているかのようだが、莉緒はその真意を掴めず胸が不安でいっぱいになる。






ーーーカフェの奥。暖かい照明の下、湊斗は琴音の手を握りしめ、はっきり言葉にしようと決める。






「俺……君のことが大好きだったんだ。子供の頃も、今も……。事故や病気で失いかけたけど、取り戻せた気がする」





琴音の目に涙が溢れる。






「私も、ずっと……あなたを想ってた。莉緒を裏切るような形になってしまったけど、この気持ちを捨てられない……」





湊斗はそれを聞き、




「莉緒さんにはすごく感謝してるし、申し訳ない。だけど、今の俺が素直に愛を選ぶなら、琴音さんだと思う……。一度きりの人生だし、やっと記憶が戻ったんだから、もう逃げるわけにはいかない」と切なげに微笑む。









二人の唇が再び重なり、長いキスへと続く。




今度は湊斗の体調も落ち着いており、深く相手を求め合うように抱き合う。






琴音は震えながらも彼を支え、店の暖かな闇の中で、互いに一つになる激情に動かされる。






鼓動が止まらない。


湊斗の呼吸は荒いが、体調の限界を超えても琴音を求める気持ちを抑えきれない。


琴音は店を完全に閉め、シャッターも降ろしており、二人きりの世界だ。



ソファに横たわるように身体を預け、互いの体温をむさぼるように求め合う。


上半身の服を乱して触れ合う肌と肌――病後で痩せた湊斗の胸元に琴音の指が走り、生々しい熱が込み上げる。



(私、こんな形で莉緒を裏切ってる……でも止められない。愛してる。ずっと一緒にいたい……)


まるで嵐のような衝動を経て、二人はやがて小さく息をつき、抱き合う姿勢で呆然と微睡みに落ちる。




一線を越えたかどうかも曖昧なほど、長いキスと愛撫が入り混じったまま、意識が朧になっていた。




この愛に希望はあるのか、それとも破滅への一歩なのか――誰も答えを出せない。





外では雪がしんしんと降り続き、街のイルミネーションが深夜の静けさを彩っているが、ここには二人の閉鎖空間があるだけ。


湊斗は胸を締め付ける痛みと優しい熱を同時に感じながら、夜が終わっていくのを微かに感じ取っていた。


翌朝、冬の朝陽が薄暗い店内を照らし、湊斗と琴音は寄り添うように横たわっている。




床やソファに散らばったブランケットやクッションが、昨夜の情を物語っていた。





琴音は湊斗の頬をそっと撫で、




「あなたが生きていてくれて嬉しい……。私、何かを失うとしても、あなたを愛せたらそれでいい」と涙ながらに呟く。



湊斗は弱々しく笑い、




「俺は莉緒さんをどう傷つければいいのか、わからない。でも……秘密基地の記憶を取り戻した以上、嘘はつけないから……」と答える。



二人は“ずっと一緒にいよう”と誓ったはずが、そこにはどうしても他人を傷つける可能性がある。――その苦い現実を抱えながら、彼らは冬の白い朝を迎えた。






クリスマス当日の夜をカフェで過ごし、翌朝を迎えた湊斗と琴音。



店のソファで目を覚ました湊斗は、まだ体力が万全ではなく、体が痛む。だが、琴音に寄り添われるまま、昨夜の「お互いを求め合った」熱い時間の余韻に包まれていた。



「大丈夫……? 無理させちゃったよね……」と琴音が囁くと、湊斗は微かに微笑み、「自分で決めたことだから……後悔はないよ」と答える。




だが、その声にはどこか苦しげな響きがある。


(莉緒さん……どう思うかな。俺は琴音さんと結ばれようとしている。いや、もう一線を越えたのかもしれない。けど、莉緒さんにはどう説明すればいい?)


頭を抱えたいほどの罪悪感や葛藤が湧き上がるが、今は琴音の温もりがすべてを凌駕していた。


ただ、その一方で、「愛する」という行為の奥底にある“誰かを傷つけること”への痛みが、湊斗を内側から締め付けている。



琴音はそんな彼の迷いを感じ取りつつも、「いつか莉緒にちゃんと謝らなきゃいけないよね……」と切なげに漏らす。


湊斗は弱く頷き、「うん……でも、どうすればいいのか……」と、答えを見出せないまま冬の朝を迎えた。








一方、莉緒は院内コンサートの疲れもあって、当日の夜は早めに帰宅した。




だが、眠れずにフルートの手入れをしているうちに夜が明けてしまった。

朝日が窓を染める頃、湊斗からの連絡は一切ない。院内コンサート後、メッセージを送っても既読がつかなかった。



ふと、彼女の脳裏に琴音と湊斗が一緒にいるイメージが浮かび、胸がざわつく。




院内で何度かすれ違いの表情を見てきたが、まさか本当に“二人きり”で過ごしているのでは……と勘づく。





(私が事故やフルートの記憶で湊斗さんと結ばれていたはずなのに、なぜこんなにも虚しいんだろう……。何かが噛み合ってない。もし秘密基地で会った少女が琴音だったら……)




強い不安と、“もし彼を失ってしまうならどうしよう”という恐れが交錯する。


——耳の奥で湊斗の声や、拓海の挑発的な言葉が蘇り、胸が締め付けられる。



莉緒はフルートケースを抱え、「もう一度だけでも……湊斗さんにちゃんと聴いてもらわないと」と独り呟く。


まるで、それが最後のチャンスであるかのような決意が宿った瞳だった。






拓海は、クリスマス当日夜に二人がカフェで抱き合うのを目撃してしまい、ショックと嫉妬が頂点に達していた。

翌朝、会社へ向かう道すがら、彼の思考は混沌としている。莉緒を奪うには“湊斗の存在”が邪魔だと感じてきたが、今や湊斗は琴音に走っているかもしれない。


――ならば莉緒はどうなる?


(鳴海と琴音が結ばれるなら、莉緒は一人になる。俺が拾ってやればいいのか? でも、あいつが生きてる限り、莉緒が完全にあきらめるとも思えない)


心の奥から破滅的な衝動が込み上げ、首を振って振り払う。愛というにはあまりにも歪んだ欲求かもしれないが、拓海はもはや止まれない。



会社のデスクに着くと、同僚が声をかける。「拓海さん、大丈夫? 顔色悪いですよ」と心配するが、拓海は「平気だ」と答えるだけ。


頭の中では、“どうすれば三人をまとめて破滅に導かずに済むのか”と苦悶している。もしかしたら、自分自身も破滅するかもしれないと感じながら……。




二人きりのクリスマスの翌日、湊斗は本来の検査日で病院へ行き、結果はおおむね良好。ただし「無理は禁物」と何度も釘を刺される。



その帰り道、また琴音のカフェへ立ち寄り、ブランチを取る。店が混み合う直前のタイミングで、琴音が湊斗とささやかな時間を共有できるのはほんの数分。



しかし、その数分すら二人にはかけがえのない幸福だった。




人目を憚りつつもアイコンタクトで想いを確かめ合い、湊斗の手の震えをそっと支える琴音。短い幸福――これが本物なら、ずっと続けたい。けれど、莉緒の存在を想うと胸が痛い。





(愛することは、誰かを傷つけること……。私たち、あの子をどうすればいいの? 全部を説明して、許してもらうなんて、無理だよね)




琴音の瞳に一瞬陰りが差し、湊斗も同じように苦い顔をする。そんな二人の様子を、スタッフや客が遠巻きに「仲がいいな」と微笑ましく見ているが、その裏には深い闇が潜んでいた。




その日の午後、莉緒は思い切って琴音のカフェを訪れる。


もし湊斗が来ているなら会いたいし、万が一いなくても琴音に「湊斗と何かあった?」と聞いてみたいと思ったのだ。



ところが、ちょうど店の奥で湊斗が琴音に寄り添う形で座っている姿を、ガラス越しに目撃してしまう。




湊斗はマスクを外し、琴音が嬉しそうに微笑んでいる。




ただその姿だけで、二人の親密さを痛感するには十分だった。



莉緒は慌てて物陰に隠れ、どうしても店に入る勇気が出ない。喉がカラカラに乾いて、心臓が爆発しそうだ。ケースが肩からずり落ちそうになるほど震え、彼らを直視することができない。



(まさか、本当に二人が……? 湊斗さんが私じゃなくて、琴音を選んだの?)


想像の域を出ずとも、胸が張り裂けそうだ。確かめる勇気もなく、莉緒はその場から逃げるように走り去る。


落としそうになったフルートケースを必死に抱きしめながら、呼吸が乱れ、涙が頬を伝った。



私じゃ......なかったんだ.........


――そのことを身をもって思い知らされるように、冬の街は一層冷たく、灰色の空が覆っていた。




夜の街角。拓海は、酔いを求めるかのようにバーへ入り、ひとりグラスを傾けている。会社でも「最近おかしい」と噂されるほど苛立ちを隠せないでいた。



湊斗が秘密基地の相手に琴音を選び、莉緒を放置するような形になっている。




――ならば莉緒は孤独だ。彼女を支えられるのは俺だけかもしれない。




そんな歪んだ期待が胸にある。




一方で、「あれほど莉緒と絆があったはずの鳴海が、まさか琴音に走るなんて……」と理不尽さも感じている。



閉店間際、バーを出た拓海は足元がおぼつかないまま夜道を歩く。雪が微かに積もった歩道で滑りかけ、舌打ちをする。



(もういい……。どいつもこいつも俺を舐めてる。莉緒が孤独なら俺が救うだけだ。あいつらが崩れるのを待てばいい……)


しかし、内心で“崩れる”ことを望む自分を惨めに感じ、深く項垂れる。


彼はしかしまだ、何かを得たいと思っている。破滅を志向するのか、救いを望むのか、自分でもわからない。


雪が舞い散る暗闇の中、拓海の心は絶望の淵を揺れ動いていた。




翌日、莉緒は意を決して湊斗に電話をかける。ずっと既読がつかなかったが、今回は運良くコール音が鳴り、彼が出てくれた。




「り、莉緒さん……?」と疲れた声が応答する。



莉緒は緊張で声が震える。




「湊斗さん、ごめん、私……どうしても直接話したくて。いま、大丈夫?」



湊斗は車椅子に座ったまま電話を耳に当て、「うん……大丈夫。ちょっと頭痛があるけど、話せるよ……」と返す。

しばしの沈黙。




莉緒は意を決し、「……琴音と一緒にいるの?」と問いかける。




湊斗はドキッとするが、正直に答える。




「うん……カフェに行くことが多いから、彼女がそばにいてくれる。でも……」











それだけで十分、莉緒には伝わった。




つまり湊斗が琴音を“選んだ”かもしれないということ。


そして、彼が謝罪を口にする前に、莉緒が先に「よかったね……」とぎこちなく笑みを作る。




「あなたが幸せなら、それで……」と、震える声を押し殺す。


莉緒「......私、わかってるつもり。だから、大丈夫……」



湊斗「……ごめん、本当に……でも、いつかちゃんと会って話したい。俺も、君に伝えたいことがある……」


莉緒は涙が溢れそうになるが、「うん……待ってる」とだけ言い、通話を切る。


電話の画面を見つめながら、ケースがやけに重く感じられ、“もし真実を越えたとしても、私はもう失うだけの存在?”と自問する。



冬の風が窓を叩き、凍えるような痛みが心を襲う。しかし、彼女はまだフルートを捨てる気にはなれない。


カフェの営業を終えた夜、琴音は客の残り香を拭うようにテーブルを磨きながら、ふと呟く。




「私、本当にこのままでいいの……? 莉緒から湊斗さんを奪うみたいな形で……」



スタッフが戸を閉めて帰った後、店はしんと静まり返る。クリスマスの飾りがまだ残っているが、季節はもう年末に向かって進んでいる。




湊斗は大切な人になったが、その裏で莉緒を傷つけている確信が消えない。



ふと、残っているツリーのカードに「二人が幸せになりますように……」という他の客のメッセージが目に入り、琴音は涙が浮かぶ。




(ほんの一部だけど、こんなに人を幸せにするイベントなのに、私たちは誰かを不幸にしてるかもしれない……)


(私、莉緒とちゃんと向き合わなきゃいけない。怖いけど、逃げ続けても何も変わらない)


そう覚悟を固め、琴音はバッグから携帯を取り出し、莉緒へ連絡を試みる。あえて直接会って話そうと促すつもりだ。しかし、通話ボタンを押す前に、手が震えて「やっぱり明日にしよう……」と躊躇ってしまう。



店の奥で一人、凍える夜を迎えながら、琴音は“愛とは何か”を改めて突きつけられていると感じていた。


数日後、年末が迫る頃。湊斗は、短期退院の期限も近づき、再検査のため再び病院へ向かうことになった。医師は念のためMRIや各種検査を行い、腫瘍の再発・進行がないかチェックする。



しかし、その検査結果は芳しくない可能性を示唆していた。医師が歯切れ悪く説明する。




「完全除去は難しい場所にある腫瘍で、放射線治療か追加手術を検討する必要があるかもしれない……」



湊斗は覚悟していたとはいえ、再び死の影を意識せざるを得ない状況に陥る。


家族も動揺を隠せず、琴音や莉緒に連絡を入れるべきか逡巡するが、彼は自分で伝えたいと願う。



(愛することは、同時に何かを失うことかもしれない。俺はもしかすると、自分の命を失うかもしれないし、誰かの心を傷つけるかもしれない……)


外は年末特有の寒々しい雪雲が覆い、風が強い。


湊斗は「もう少しだけ……時間をくれ」と医師に頼み、入院の時期を年明けに延ばしてもらうことを検討する。


いずれにせよ、この年末で決着をつけなければならない問題が多すぎるのだ。


大晦日。街は正月準備と年末セールで賑わっているが、雪が舞う寒空が人々の足を早めていた。湊斗は年明けには入院かもしれないという報せを琴音と莉緒の両方に伝え、さらに「今日、時間があれば三人で会えないか」と提案していた。



――午後、静かな公園の一角。湊斗が車椅子で到着し、琴音は彼を付き添い、莉緒も少し遅れて姿を見せる。初めて三人が落ち着いて対峙する場。



冷たい風が吹き、木の枝はすっかり葉を落としている。湊斗は息を整えながら、「二人とも、集まってくれてありがとう……」と弱々しく微笑む。




琴音と莉緒は互いを意識し合い、硬い表情で頷き合う。


「俺……事故の記憶とか、秘密基地のこととか、ずっと曖昧にしてきたけど、思い出したんだ。実際に遊んでたのは…多分……琴音さんで、莉緒さんじゃなかった。ごめん……本当にごめん……」



その言葉に、莉緒は顔を歪めるが、やはりという表情で下唇を噛む。


琴音は手を合わせて「ごめん、莉緒……私、気づいてたのに何も言えなくて……」と訴える。



――まさに今、莉緒は湊斗を“失う”瞬間を確信しているように思えた。


しかし、ゆっくりと彼女はケースを握りしめ、


「そっか……琴音が相手だったんだね。じゃあ、私が抱えてた事故とか罪悪感って何だったのかな……」と、空を見上げる。


雪が一片、莉緒のフルートケースに落ちる。音もなく溶けるその様を見て、湊斗は苦しげに言葉を吐き出す。


「ごめん。俺は……命がまた危なくなるかもしれない。でも、最後の時間を、琴音と過ごしたいと思ってる。莉緒さんには感謝してるし、救われた……だけど……」



莉緒は涙をこらえながら頷く。「わかった……。湊斗さんが、そう望むなら……私はあなたにフルートを吹いてあげられなかったけど……。たくさん吹いたよ、あなたのために……」



隣で琴音が泣き出し、「私、莉緒に申し訳なくて……ごめん、でも湊斗さんを失いたくないの……」と叫ぶ。


三人の視線が交錯し、冷たい雪が上から降りかかる。まるで冬そのものが、彼らの苦しみを増幅させているかのようだった。


――しかし、莉緒はケースを開け、唇に当てる。「最後に、あなたたちに聴いてほしい」と短い旋律を吹き始める。それは決して悲しみだけでなく、祝福にも似た柔らかい音色だった。



真実を越えても、私はフルートを吹き続ける


――いつか母を失っても生きてきたように、今は湊斗を失う形になっても、音を捨てないという決意。


その音色が三人を包み込む。琴音は涙を流しながら、湊斗の手を握っている。



拓海の影はまだ完全に消えていないが、この瞬間、三人の愛は一つの頂点を迎えている。愛するということは、同時に誰かを喪うこと。


しかし、それを超えた先に、彼らは何を見出すのか――それはもう少しだけ、未来に委ねられることとなる。

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