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第三章-序-

夏の終わりをもって、蝉の声は途絶え、代わりに秋の虫の鳴き声が夜を包む季節。病院の廊下にも、冷房の効いた空気の中にわずかに外の涼しさが混じり、外気の変化を感じさせる。

鳴海湊斗は脳の手術を終え、集中治療室から一般病棟へ移されたが、まだ意識が朧で、完全には覚醒していない状態。

白川莉緒は病室の傍らでフルートケースを抱え、目を閉じたままベッドに横たわる湊斗の顔を見つめていた。


(夏が……終わってしまった。でも、湊斗さんの命は、これからどうなるの……)


看護師に聴いたところ、手術自体は「成功の可能性」を残しているが、まだ予断を許さない。もし脳の腫瘍が悪化すれば再手術もあり得るし、目覚めても後遺症が残るかもしれないという。

莉緒は唇を噛み、母を失った時の恐怖と絶望を思い返していた。――これ以上、大切な人を失うなんて耐えられない。


雨宮琴音は、開店したばかりのカフェを必死に切り盛りしている。まだ慣れない部分も多く、スタッフとの連携を学びながら日々改善を重ねているが、肝心の自分の心が整わない。

湊斗の容態が気にかかり、仕事中も時々思考が止まってしまう。お客の前では笑顔を作って接客するが、バックヤードに入ると深いため息がこぼれる。


(私、夏の終わりに“好き”を伝えた。けど、あの瞬間、彼は激しい頭痛に襲われ、今はこんな状態……)


店先には秋らしい装飾を施し、紅葉をイメージした飾りを置いているが、心から秋の季節を楽しめる余裕はない。むしろ「湊斗さんがこの秋を生きられるか分からない」と思うと、恐怖で夜も眠れなくなっていた。


北園拓海は仕事に没頭し、地道に老舗特集の第二弾をまとめあげていた。かつての強引なやり方で信用を落とした分、今回は慎重に行動している。

とはいえ、湊斗が入院しているという事実は頭の片隅から離れない。もし鳴海湊斗が意識不明のままなら、莉緒や琴音はどうするのか――また、拓海自身はチャンスなのかと暗い思考を巡らせる自分に嫌悪感を抱いている。


(あいつがいなくなれば、莉緒は俺を見てくれるのか? それとももう何もかも手遅れなのか……)


秋の深い空気が窓の外に漂い、拓海はデスクでペンを走らせながら青ざめた顔を映す。何か大きな波が迫っている気がするが、今はどう動けばいいか分からない。


病室で、湊斗の呼吸が少しだけ安定してきた。医師曰く「脳腫瘍の切除はまだ完璧ではないが、危機を乗り越えた可能性がある」という。

莉緒と琴音は交代で見舞いに来て、彼の枕元に座っている。ふと、琴音が昼休みの時間を利用して病院へ駆けつけたとき、莉緒がフルートケースを開いたまま眠り込んでいる光景を目にする。

二人が同じ空間で湊斗を看病している――しかし、その視線はほとんど交わらず、言葉も少ない。


(私と莉緒は、同じ人を想っている。二人が同じ場所で、でも心は遠い……)


琴音の胸に再び苛立ち混じりの苦しさが湧き上がるが、それを抑え込み「湊斗さんが少しでも良くなれば……」と願ってやまない。


街では秋祭りの準備が進んでいる。夏祭りよりも落ち着いた雰囲気で、神社の境内で小さな舞台を設置し、地域の人々が収穫感謝や文化交流を楽しむ催しだ。

紗英先輩から「莉緒、もしフルートが吹けるなら、秋祭りのステージで演奏しない?」と声がかかるが、莉緒は迷う。湊斗がまだ意識不明のままでは、心が晴れないし、ステージに立つ勇気も湧かないのだ。


「でも……湊斗さんが目覚めたら、聴いてほしい……」


フルートと共に秋祭りの舞台へ立つかどうか――莉緒は決断できずに、時だけが過ぎる。母の面影と湊斗の命、二つの重圧が彼女にのしかかる。


カフェは開店一週間が経ち、口コミで評判が広まりつつある。琴音はスタッフの前では笑顔だが、その実態はストレスの限界に近づいていた。

閉店後、カウンターに一人座っていると、手元にある湊斗の名刺を指でなぞりながら涙が滲む。


(夏が終わって、秋になって……湊斗さんがいない未来に、私は何を求めるんだろう……)


外の風が強まり、店のドアがガタリと鳴ると、琴音はびくりと身体を震わせる。まるでいつか湊斗が帰ってきて、「ただいま」と言ってくれる気がして――でも、彼は今、病室で眠り続けている。

夏の溶ける衝動はもう遠く、冷えきった秋の空気だけが琴音を包み込んでいた。


その夜、北園拓海がカフェを訪れ、閉店間際に琴音を呼び止める。無遠慮にカウンター席へ座り、「今ちょっといいかな」と声をかける。

琴音が疲れた笑みを浮かべ、「もうお客様は終わりなんですが……」とやんわり断ろうとすると、拓海は「仕事の話と、湊斗のこと……両方」と切り出す。

やむなく琴音はシャッターを半分閉め、拓海と二人きりで話をする。


「……鳴海は手術したらしいが、まだ意識が戻らないそうだな。もしあいつがもう駄目なら、莉緒も……」

「そんな言い方しないでください……。湊斗さんは絶対に戻ってくる……」


琴音の反応に、拓海は冷笑気味に「君はどうなんだ? 莉緒は鳴海を想ってる。君も同じように想ってるんだろ。あの男がいなくなったとき、莉緒は君に責任をなすりつけるかもしれないな……」などと歪んだ指摘をする。

琴音は「やめて……!」と声を荒げるが、拓海は一向に悪びれる様子がない。


「俺は、あいつがいなくなれば莉緒を救える気がするんだ。……なのに、君はどうする? 莉緒と一緒に悲しむだけか? それとも……」


言葉が突き刺さる。琴音は涙を堪えながら、「そんなの、わからない。やめてください……」と繰り返す。

拓海は立ち上がり、カップを置いて「悪かったな、脅すつもりはない。ただ、現実を見た方がいいと言いたいだけだ」と呟き、カフェを後にする。琴音は膝をついて嗚咽を漏らした。


病院の朝。湊斗が微かに目を開ける。まだ視界は朦朧としているが、ナースコールに手を伸ばせる程度には意識が戻った。

看護師が確認しに来て、急ぎ医師を呼ぶ。莉緒も駆けつけ、「よかった……!」と喜ぶが、湊斗は呼吸が浅く、声も出ない状態で、ただ目で追うだけ。

しばらくして、医師が軽くバイタルをチェックし、「意識は戻ったが安静を保つように。話すのは少しだけに」と命じる。莉緒は静かに湊斗の手を握る。


「湊斗さん……聞こえる? 私、フルート……吹くよ。秋祭りで……ちゃんと聴いてほしい……」

湊斗は弱々しく頷き、唇を震わせる。何か言おうとするが声が出ず、涙だけがこぼれる。夏が終わり、秋が訪れる――彼に残された時間はどれほどなのか、依然として不安は消えない。


その日の午後、琴音も病院に駆けつけ、湊斗が目を覚ましたことを知って安堵する。だが、病室に入ると、既に莉緒が傍にいて、穏やかな笑顔で湊斗と短い言葉を交わしている光景が目に入る。

琴音はぎくしゃくした足取りで近づき、「鳴海さん、よかった……」と声をかけるが、湊斗は声が出しづらく、首を縦に振るだけ。莉緒が「また後で来るから、今はゆっくり休んで」と言って立ち上がる。

すると琴音と目が合い、二人の間に気まずい空気が流れる。琴音の胸には「私だって湊斗さんに用があるのに、どうしてあなたがいつも先なの……?」という苛立ちが込み上げるが、言葉にはできない。


(私が“莉緒”になれば、こんな思いをせずに済むんじゃないか……)


琴音の心に再び歪んだ衝動が生まれる。――自分こそが幼少期の秘密基地の相手だったかもしれないのに、結局、湊斗を支えているのは莉緒なのだ。秋の病院の空気が、彼女の瞳に陰りを与える。


秋祭りの前日、莉緒はフルートの練習場所を探し、文化施設のリハーサル室に入る。紗英先輩が用意してくれたスペースで、明日の本番に向けて最後の調整をしているのだ。

湊斗は術後の経過でまだ長時間話せず、本人も秋祭りに行けるかは微妙。でも、「フルートを吹いて」と願ってくれた――その思いを胸に、莉緒は必死で指を動かす。


(あの人に聴いてほしい。生きて、ちゃんと感想を言ってほしい……)


外の木々は色づき、枯れ葉がふわりと舞い落ちる。まるで散りゆく想いを象徴するかのように、朽ちてゆく葉が踊りながら地面に消える。

同じ頃、琴音はカフェの閉店後、駐車場で夜空を見上げ、深くため息をつく。湊斗が回復しても、自分の想いは報われないかもしれない――それでも心が諦めきれない。

拓海は遠くから二人の動静を気にしつつ、自分のプライドと莉緒への執着に苛まれる。彼らの視線は依然として交わらないまま、秋の夜が深まる。



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