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第二章:夏の光が照らす、新たな一歩

初夏を迎えた街には、梅雨ならではの湿った空気が漂っていた。朝から降ったり止んだりを繰り返す雨のなか、莉緒はコンビニで買い物を済ませ、自宅へ戻ろうとしている。



母の四十九日が終わったばかり。葬儀や法要を取り仕切ってくれた人々へのお礼も大体済んだ。


店をどうするかは「しばらく休業」のまま置いているが、それでも膨大な遺品整理や事務処理が山積みで、心身の疲労はまだ抜けない。


(母さん……もう天国から私を見てるのかな……)


帰り道、ふとビルの窓ガラスに自分の姿が映り、やつれた顔をしていることに驚く。ほんの数か月前までは、母の看病や店の悩みで「しっかりしなきゃ」と思っていたのに、今は心に空虚さが広がり、力が入らない。


「このままじゃダメだよね……」


呟きながら、右手には母の手紙を常に入れているショルダーバッグの感触を確かめる。あの言葉があるから、いまの自分はぎりぎり踏みとどまっている――そう思うと、一歩でも前に進みたい気持ちが微かに芽生えた。


(もしかして、フルート……うん……もう一度だけ吹いてみようかな……)


この考えが頭に浮かんだとき、莉緒の胸に小さな痛みが走る。


事故の記憶と重なり、湊斗を傷つけてしまった罪悪感が再び甦るからだ。だが、その苦しみを乗り越えてこそ、母の言葉に報いることになるのではないか――小さな確信の芽が生まれはじめる。




翌日、地元出版社では湊斗が新たな記事の原稿をチェックしていた。第一部のフリーペーパー特集からしばらく経ち、今度は地元の若い作家や音楽家を紹介する企画が立ち上がっている。


「鳴海くん、こっちは順調か?」



先輩の川瀬がデスクに寄ってくる。


湊斗は「はい、今月末には形にできそうです」と答え、パソコン画面を見せる。地方のミュージシャンやアーティストのインタビュー記事が並んでいる。


(音楽……)


幼少期の事故以来、音楽への想いは封印気味だった湊斗だが、最近はむしろ音楽に興味を持ち直し始めている。


莉緒がフルートを嫌った原因を知り、自分の記憶障害と彼女の罪悪感が繋がっていると知ってから、音楽が二人にとって大きなキーワードになると感じているのだ。


「いずれ、莉緒さんがフルートを再び手にしたとき、俺は彼女を支えてやりたい……」


心の中でそう誓いながら作業を進める。


ところが、スマホにメール着信があり、画面を見ると拓海の名前がある。


内容は「新しい企画を起こしたから、もしお前が協力したいなら連絡しろ」というもの。

湊斗は「またあの人、何を企んでるんだ……」と眉をひそめるが、莉緒を絡ませる可能性がある以上、無視もできない。


かつての衝突以来、完全に絶縁というわけにはいかないのだ。


同じ頃、琴音は銀行の休憩室で先輩行員と打ち合わせをしていた。


かねてから探していたカフェの物件が見つかり、ついに契約寸前までこぎつけたのだ。

スモールローンを組み、親の援助も多少受ける形で、こぢんまりとしたスペースを借りる予定。場所は商店街から少し離れた静かな路地だが、ゆくゆくは客足が増える余地があるという。


「本当にやるんだね、琴音。大丈夫? 銀行の仕事は辞めるの?」

先輩が心配そうに尋ねる。


琴音は少し考え込むが、意を決して答える。


「当面は両立しながら準備を進めて、いよいよオープンとなったら退職しようかと……。でも、まだ先は長いですよ。内装工事とか色々あるので……」


しかし、琴音の胸にはもう一つの不安がある。莉緒のことと、湊斗への微妙な感情。


親友があんな悲しみを抱え、やっと少しずつ立ち直りそうなタイミングで、自分だけが新たな夢へ走り出していいのか――。



迷いながらも、人生にそう何度も訪れないチャンスを逃したくない気持ちが勝っている。銀行員としてのキャリアを捨てることにリスクはあるが、それでも「いつかカフェを持ちたい」と強く思ってきたのだ。


「……莉緒も元気になったら、お店に招待したいな。鳴海さんも……あ、いえ……」


自分で言いながら頬を赤らめる。湊斗と二人きりでカフェを営む想像をしたわけではないが、うっかり口が滑りそうになって心臓がドキリとする。



迷いながらも止まらない夢。琴音は一歩ずつ行動を進めていく決意を固めるのだった。


夕方、北園拓海は地方支社からの帰りに、白川屋へと向かった。フリーペーパーの次号で音楽特集があると聞き、自分もなにか企画を絡められないかと考えているらしい。

扉を軽くノックすると、奥から莉緒の「どうぞ……」という声がする。




どうやら退院後は店に一度戻って、残った荷物を整理しているようだ。


拓海「莉緒……少しは元気になったのか?」



莉緒「まぁ……まだ完全じゃないけど。薬のおかげで眠れるようになったし……ありがとう」


二人の会話には、かつてのような激しい感情衝突はないが、どこかよそよそしさが残る。

拓海はカバンから書類を取り出し、「実は、新しい企画の候補を練ってるんだ」と切り出す。以前のように大々的にメディアを呼ぶ話ではなく、小さな音楽イベントを商店街で開催し、その中で文房具と音楽をコラボさせるようなイメージらしい。


「以前は無茶をしてすまなかった。けど、今度はちゃんと莉緒の意見を聞きたい。もし嫌なら断ってくれていい。だけど、僕としては“音楽”で街を盛り上げたいんだ。お前も……昔は音楽が好きだったはずだろう?」


拓海の目には真剣な光がある。しかし、莉緒は戸惑いを隠せず、視線をそらす。


「私……フルートを吹く気にはなれないよ。母が死んだからってわけじゃなく、そもそもあの事故以来、ずっと触れてないんだし……」



「わかってる。無理に演奏しろとは言わない。ただ、この街にはいろんな奏者やアーティストがいるし、僕が知り合ったピアニストもいる。お前が少しでも“音”に触れる機会があれば、何か変わるんじゃないかと思うんだ」


かつてのような強引さではないが、拓海の熱意が莉緒を困惑させる。そこで扉の方から声が聞こえた。


「こんにちは……お邪魔してもいいですか?」


入ってきたのは湊斗だった。タイミング悪く二人の会話に割り込む形となり、店内が再び張り詰めた空気に包まれる。


莉緒は「もう……二人ともケンカしないで」と呆れた様子だが、湊斗は険悪になるつもりはないらしく、「取材帰りに寄っただけです」と穏やかに頭を下げる。

拓海と湊斗、二人の編集者が再び交差する瞬間。奇妙な三角形の緊張感が漂うが、その結末は――まだ誰にもわからない。




翌朝、莉緒は家の収納を整理していて、昔のフルートケースを引っ張り出した。高校時代に使っていたもので、あの事故やトラウマとは直接関係ないが、吹奏楽部を辞めるきっかけになったのは事故の記憶が再燃したからだ。



ケースを開けてみると、楽器は少し錆びかけている。長年放置していたため手入れもされず、磨けば復活できるかどうか微妙な状態だった。


「……本当に、もう吹けないんだろうか……」


試しに構えてみようとするが、息の入れ方を忘れてしまっている。唇を当てた瞬間、心臓がバクバクと高鳴り、手が震えてケースを落としそうになる。



事故の断片が蘇り、湊斗が苦しそうに倒れこんだ光景――まだ幼かった莉緒が「ごめんね、ごめんね」と泣きじゃくっていた映像がフラッシュバックする。


「やっぱり無理……」


勢いでフルートケースを閉じ、タオルで包んで奥にしまい込んでしまう。母の遺言で「音楽をもう一度好きになれたら……」と書いてあったが、そう簡単に乗り越えられるほど浅い傷ではないと痛感する。



それでも、心のどこかで「いつか吹ける日が来るのかもしれない」と信じたい自分もいる。まるで二人の自分がせめぎ合うように、莉緒の胸は重苦しく波打っていた。


数日後の昼下がり、琴音が莉緒の家を訪れた。カフェ開業の件で少し相談があるという。

テーブルに資料を広げ、「これ、実は商店街のイベントとのタイアップを考えてるんだ。小さな音楽コーナーを設けて、そこに……」と紙を指差す。




そこには“フルート演奏会”の文字が書かれていた。


「わ、私……フルートは……」



「わかってる。無理にとは言わない。でも、莉緒がもし吹いてくれたら、絶対に素敵なイベントになるよ。小さくていいの。お店を開くまでのプレ企画として、仲間うちで音楽を楽しむ感じで……」


琴音はあくまで控えめだが、心から「莉緒に吹いてほしい」と願っていることが伝わってくる。


幼馴染として、かつての彼女の演奏をよく知っているからこそ、フルートが莉緒にとって大きな意味を持つと確信しているのだ。



しかし、莉緒は肩をすくめて首を横に振るばかり。


「ごめん……まだ怖いんだ。あの事故のことも、母を失った悲しみも、ぜんぜん整理できなくて……」



「うん……わかった。無理しないで。でも、いつでも待ってるからね。莉緒が吹こうと思ったとき、私がサポートするから」


琴音は微笑みながら莉緒の手を包み込む。震える指先を感じるが、それでも温もりを伝えたい――それが琴音の思いだった。



そこに湊斗からメッセージが届き、莉緒がスマホを覗くと「今日の夕方、店に寄っていいですか? 話したいことがあるので」と書かれている。



フルートを抱える自分、そして湊斗――いまの彼女にとっては、過去と未来の狭間に立つような要求だ。莉緒の胸はまた波立ち始める。


夕方、白川屋に来た湊斗は、重そうな鞄を提げていた。中には地元ミュージシャンの音源やフリーペーパーの企画資料が入っているらしい。

莉緒を店に案内し、「これ、聴いてみませんか?」と一枚のCDを取り出す。地元の若者バンドのインスト曲で、フルートがメインとして使われているという。


「実は取材していて、フルートの音がすごく綺麗だと思ったんです。聴くだけでいいから、もし莉緒さんがよければ……」


湊斗の表情は緊張している。あまりにも唐突にフルートを聴かせるのはトラウマを刺激する可能性があるとわかっているからだ。



だが、莉緒はゆっくりと頷き、「……いいよ。ちょっとだけなら」とCDを手に取る。店の奥にある古いプレイヤーを探し出し、なんとか動かして再生する。


スピーカーから流れる旋律は、どこか幻想的で穏やか。フルートの高音が柔らかく空間を満たし、抑えきれない切なさが胸を締めつける。

莉緒は顔を伏せ、手をぎゅっと握りしめる。湊斗は「大丈夫?」と声をかけるが、彼女はかすれた声で答える。


「……綺麗。こんな音が出せたら、きっと気持ちいいだろうな……」


その言葉を聞いて、湊斗は目を見開く。莉緒がフルートの音を否定せず、むしろ肯定的に受け止めているからだ。

事故以来、フルートの音色に触れたのは初めてだろう――彼女の瞳に、かすかな光が宿っているように見える。


「莉緒さん……いつか、あなたもまた吹いてみようと思える日が来たら……その時は俺に教えてください。全力で応援しますから」



「うん……ありがと。まだ勇気は出ないけど、ちょっとだけ、フルートの音ってやっぱり綺麗だなって思えた……」


二人の会話は短いが、確実に心の距離が縮まった瞬間だ。母の死に囚われていた莉緒が、ようやく音楽の世界をもう一度見つめようとし始めている。



その一方で、湊斗自身も事故の真相や記憶障害を抱える身として、“共犯”のようにこの音色を分かち合いたいと感じていた。


翌朝、大手出版社の地方支社オフィスで、北園拓海は湊斗が仕掛けている「音楽家紹介フリーペーパー企画」が何かと盛り上がっていると知る。SNSでも評判になり始めているらしく、街の若者たちが注目しているとか。



拓海は苛立ちを噛み殺しながらも、冷静を装って同僚に尋ねる。


「……そんなに話題になってるのか。まあ、地方の小規模企画だろう?」



「でも、音楽と地元を結ぶアイデアってのは受けがいいみたいだよ。ファン交流イベントとかも開催するらしいし、参加アーティストも増えてるんだって」


同僚は特に悪意なく報告しているが、拓海の胸にチクリと刺さる。自分があれだけ構想してもうまくいかなかったのに、湊斗は地元の支持を着々と集めているようだ。

しかも莉緒がフルートに再び興味を持ち始めたという話も小耳にはさんでおり、湊斗が彼女の心を動かしているのではないかと感じる。


(俺が必死で“白川屋再生”をやろうとしたときはあんなに反発されたのに……何が違うんだ……)


煮え切らない思いに苛まれながら、拓海は「地方の老舗特集」の第二弾をどうするか頭を抱える。自分にしかできない切り口で成果を出し、莉緒に振り向いてもらう――そんな考えが捨てきれない。

しかし、以前のような強引なメディア戦略はもう使えないと悟っており、結果として焦りだけが募るのだった。


一方、琴音は銀行での仕事を続けながら、カフェ開業に向けた本格的な準備を進めていた。物件の契約を済ませ、内装工事の見積もりを業者と話し合う段階に入っている。

周囲には「辞めるの? 本当に大丈夫?」と心配されるが、琴音は微笑みを崩さず「ちゃんとプランがありますから」と答える。


そんな彼女の耳にも、最近街で盛り上がっている音楽企画の噂が届いている。湊斗が積極的に動いていること、莉緒が少しずつ音に心を開き始めたこと――



琴音は喜ばしく思う一方、どこか胸が疼く感覚がある。湊斗と莉緒が音楽という共通の過去を取り戻そうとしている姿は、とても尊いものに見えるからだ。


(私も、莉緒がフルートを吹けるようになったら嬉しい。でも、湊斗さんがそれに力を貸すなら、二人はますます特別な絆で結ばれるんだろうな……)


同時に、自分が営むカフェで演奏会を開くという妄想が膨らみ、そこに湊斗の姿が浮かんでしまうのを止められない。


恋愛感情と友情、そして店への夢が複雑に絡み合う。



「こんな気持ち、莉緒には言えないよね……」と自嘲気味に呟き、作業の手を止める琴音。淡い嫉妬と応援の狭間で揺れ動く彼女も、また試練の時を迎えている。


初夏の日差しが強まる中、白川屋の店先に立つ莉緒は、深呼吸をしてから扉を開ける。店はもう常時営業はしていないが、最低限の管理は続けている。



今日は湊斗が取材で撮った地元アーティストたちの写真を見せてくれるという約束の日。琴音も少し遅れて合流する予定だ。


「……いつか、この店で音を鳴らしてみたい。母さんがいなくなっても、何か新しい形が生まれるかもしれない……」


小さくつぶやくその言葉には、ほんの少しだけ確固たる意志が宿っている。第一部での壮絶な絶望をくぐり抜け、莉緒はまだ完全に立ち直ったわけではない。しかし、音楽に触れる勇気を持ち始めたのは大きな前進と言えるだろう。


店のドアをノックする湊斗の声が聞こえ、莉緒は振り返って「どうぞ」と答える。続けて琴音も笑顔で入ってきて、「今日はどんな写真があるの?」と質問する。

ささやかながら、新しい幕開けを予感させるひととき。彼らは再びこの街の夏を迎え、別々の苦悩を抱えながらも、一緒に何かを作り上げようとする意欲を燃やし始めている。




梅雨が明け、本格的な夏が訪れた。強い日差しが街を照らし、蒸し暑さが人々の体力を奪う。

しかし、莉緒にとっては、この暑さがむしろ心地いい。湿った暗い空気のなか苦しんでいた頃より、陽光を浴びることで少しずつ「生きている」実感を取り戻しているのだ。


「母さんのことはまだ整理がつかないけど……焦らず、ひとつずつやっていこう……」


莉緒はそう呟き、店の片づけを続ける。白川屋の再開は未定だが、店の埃を払ったり、古いレジを動かしたりと、最低限の管理は怠らないようにしている。

ふと、棚の奥から音楽関連の雑誌が出てきて、そこにはフルートの特集ページがあった。高校時代、吹奏楽部で練習に励んでいたころ、母が内緒で買っていたのかもしれない。


「……やっぱり、母さんは私がフルートを好きでいてくれるのを願ってたんだな……」


そう思うと、胸が少し温かくなり、同時にかすかな痛みも走る。いつか本当にフルートを再び吹けるようになれば、母は天国から喜んでくれるかもしれない――そんな期待と不安が入り混じったまま、莉緒は雑誌を抱きしめるように棚に戻した。


同じ昼下がり、湊斗は地元出版社の会議室で、フリーペーパーの次なる企画をプレゼンしていた。テーマは「夏休みに楽しむ地元アーティスト特集と、小さな音楽ライブ」。

地方の若者バンドや独立系のミュージシャン、さらにはアマチュア奏者を集めた夏のミニイベントを商店街近くのホールで開催し、その模様をフリーペーパーとウェブメディアで発信する構想だ。


先輩の川瀬がメモを取りつつ、「面白いな、ただ予算は大丈夫か?」と尋ねる。湊斗は「地元企業のスポンサーを探します。今のところ数社が興味を示していて……」と自信たっぷりに答える。


(もしこのライブイベントが成功すれば、莉緒さんがフルートを吹く“舞台”を用意できるかもしれない……いや、無理に誘うつもりはないけれど、選択肢を増やすことはできるはず)


湊斗は内心でそう考えている。自分が幼い頃に失った記憶や、莉緒が抱える罪悪感――それらを音楽という形で乗り越える手助けがしたい。それがいまの彼にとっての最大のモチベーションになっていた。


「じゃあ、日程はどうする? 夏休み期間中にホールを押さえるなら早めに動かないと」

「はい、早速問い合わせてみます!」




一方、琴音は大忙しだ。銀行業務の合間を縫って、自分が契約した物件の内装工事がいよいよ始まり、毎日のように施工業者と打ち合わせをしている。

床材や壁紙、カウンターの高さや照明――小さなことまで決めるのは大変だが、「自分のお店を作る」という喜びが、それ以上のエネルギーを与えてくれている。


「ここはテーブルを置いて、あちらにはちょっとしたステージを……いや、まだ早いか……。将来、音楽イベントとかできたらいいな……」


小さな声でつぶやきながら、図面に赤ペンを入れる。頭をよぎるのは、いつか莉緒がフルートを吹いてくれたらとか、湊斗を招いて読書イベントを開くとか――微笑ましい妄想だ。

しかし、それと同時に胸が痛むのは、やはり莉緒と湊斗の特別な縁を意識してしまうからだ。


「私には店がある。二人を応援する立場でいい……それでいいんだ……」


自分にそう言い聞かせるが、湊斗と顔を合わせるたびに、少しだけ嬉しくなってしまう自分がいる。店の夢も彼らへの思いも捨てきれない――琴音は心の奥で葛藤を抱えながらも、作業を進めていく。


北園拓海は大手出版社の地方支社で、新たな老舗特集第2弾を進めるが、どうにも周囲の反応が鈍い。先の失敗(強引なメディア招集)で信用を落としたこともあり、支社長や上司が慎重になっているのだ。


「白川屋の娘さんとはどうなんだ? 確か店の再建を目論んでたんだろ?」



「……状況が変わりました。ご家族の事情で難しいかと。ほかの老舗にあたってみます」


言葉少なに答える拓海の胸には、焦りと自責が渦巻いている。莉緒のためにやっているつもりが、むしろ裏目に出て拒絶されてしまったのだ。

それでも諦めたわけではない。いずれ再び自分が“成功”を示すことで、莉緒を助けられると固く信じている。


(それにしても、鳴海が今度は音楽イベント……チッ、うまいことやってるな)


苛立ちを募らせながらも、拓海は成果を出すために別の商店街の調査を始める。例え今すぐ莉緒に協力できなくても、いつか必ず必要とされる時が来るはず――そう思い込み、懸命に取材を進めていく。


湊斗が提案した「夏のミニ音楽ライブ」は、地元のミュージシャンたちから好評を得て、具体化が進んでいた。




フリーペーパーの資金だけでは厳しいので、商店街振興組合の後押しを受け、ショッピングモールの一角で開催する案も浮上している。


「本当はホールを借りたかったけど、費用面で折り合いがつかなくて……。でもショッピングモールなら客足もあるし、若い層にアピールしやすいから、結果オーライかもね」


先輩の川瀬が笑いながら言う。湊斗も「そうですね。パフォーマンススペースを一時的に借りられれば……」と前向きだ。


(莉緒さんがいきなり出演は無理でも、見学してくれるかもしれない。そしたら、また音楽に魅かれる気持ちが芽生えるかも……)


そんな淡い希望を抱きながら企画を詰めていると、ふと湊斗のスマホに着信が入る。画面を見ると琴音の名前。



少し驚きながら電話に出ると、「ちょっと相談があるんだけど……例のカフェ、内装で迷ってて」と声が聞こえる。どうやら図面上でパフォーマンススペース的なものを考えているらしく、湊斗の意見を聞きたいらしい。


「わかりました。じゃあ今日の夕方、時間ありますか? 現場に行けばいいですか?」

「うん、助かる! よろしくね」


電話を切ったあと、湊斗は少し照れくさそうに先輩の川瀬に「お先に失礼します」と言いに行く。川瀬は目を細め、「鳴海くん、最近なんだか充実してるね」と冗談交じりに言うが、湊斗は否定しきれない。



夕方、湊斗は琴音の招きでカフェの内装現場を訪れた。まだ工事途中で、床材や壁紙が半分ほど貼られた状態。部屋の真ん中には大きな木製のカウンターが設置される予定だ。


「わあ……だいぶ形になってきましたね。広さもいい感じじゃないですか」

「うん。思ったより空間が取れそうで、座席数も増やせるかも。でも、その分動線がごちゃつきそうで……」


琴音は資料を見せながら、座席レイアウトに悩んでいることを説明する。特に「ちょっとしたステージをつくるかどうか」迷っているらしい。

湊斗は図面を眺め、「この角を使えば、数人のアコースティック演奏とかはできそうですね。広くはないけど、それもアットホームでいいかも」と提案する。


「そっか……やっぱり作ろうかな、ステージ。将来、莉緒がフルートを吹いてくれたら……なんて、まだ無理かな」

「いや、わからないですよ。彼女、最近また音楽に興味持ち始めてる。いつか本当に吹ける日が来るんじゃないかって、俺は思ってます」


琴音は湊斗の言葉に微笑むが、胸がぎゅっと締め付けられる感覚を覚える。(やっぱり、莉緒のことを想ってるんだな……)――それはわかっていても、わずかな切なさが拭えない。


「……ありがと。鳴海さんも応援してくれてるなら、心強いな。私も頑張らなきゃ」


二人はカウンターの仮設置場所を確認しながら、笑い合う。暑い外気が入り込むが、空調がまだついていないため室内は蒸し暑い。ふと湊斗が汗を拭き、琴音も上着を脱ぎかける瞬間――妙に視線が合って、胸がドキリと鳴る。


「……ご、ごめん、冷たい飲み物買ってきますね!」

「あっ、うん……ありがとう……」


ささやかながら、二人きりの空間に漂う微妙な空気。琴音は心臓の高鳴りを抑えきれず、雑念を振り払うように図面へ視線を戻す。湊斗は買い出しに向かう足取りがややぎこちない。


翌日、莉緒は意を決し、古いフルートを修理に出すことにした。まだ吹くつもりはないが、とりあえず使える状態に戻しておきたい――そう思ったのだ。

かつての吹奏楽部の仲間から楽器店を紹介してもらい、莉緒は壊れたフルートのケースを抱えて街へ向かう。


楽器店のカウンターで店員に事情を話すと、「長い間放置していたようですが、オーバーホールすれば吹ける可能性は高いですよ」と言われ、安堵する。



ただし費用や時間はそれなりにかかるらしく、店員が「2〜3週間は預からせてくださいね」と話す。


「はい……よろしくお願いします。私、昔はフルートが大好きだったんです……」


か細い笑みを浮かべながら手続きを終える。店を出たあと、夏の日差しが肌を焼くように熱く感じられるが、どこか心は晴れやかになっていた。“大好きだった”と言えたことに、自分でも驚きを覚える。


「お母さん……もしちゃんと演奏できるようになったら、聴いててくれるかな……」


小さな声でつぶやき、莉緒は大通りを歩き出す。夏の熱風が吹き抜けるが、彼女の中でかすかな希望が芽生え始めているのは確かだった。


その夜、地元のショッピングモール近くで拓海と湊斗がばったり出くわした。偶然というより、商店街の取材を終えた湊斗と、新たな老舗店に打ち合わせに行った拓海が帰路で鉢合わせした形だ。

互いに意識していないふりをしても、すれ違う際に目が合い、「……ああ、鳴海か」「拓海さん」と重々しい声を交わす。


少し気まずい空気が漂う中、拓海が口火を切る。


「お前、音楽イベントをやるんだって? 莉緒は無理やり引き込んでないんだろうな?」

「そんなわけないですよ。彼女は自由にしてます。もし本人が出たいと思ったら、その時は歓迎したいだけで……」


湊斗が落ち着いた声で答えるが、拓海の目にはやはり苛立ちが残っている。


「俺がやろうとした時はあれほど拒否しておいて、お前の企画には興味を持つかもしれない……か。皮肉だな」

「……それは、拓海さんが悪いんじゃなくて、タイミングの問題だと思います。莉緒さんが少しずつ心を開き始めたのは今だから……」


二人の視線が交錯する。以前ほど激しく衝突はしないが、相手を認めたくない感情と、どこか“お互いが莉緒を思ってる”共通点を感じる複雑さがにじむ。

沈黙が続いたあと、拓海が目を伏せながらつぶやく。


「……俺も、別にお前を否定したいわけじゃない。だけど、俺には俺のやり方があるし、今さら引けないんだ。いずれ、成功して莉緒に結果を示す。それまで口を挟むな」

「……わかりました。けど、莉緒さんを追いつめるようなことは二度としないでほしい。その点だけは譲れません」


微妙に鋭い火花が散る中、二人はそれ以上争わずに別々の道を歩き出す。すれ違う背中を感じながら、湊斗も拓海も胸の奥で似たような思いを抱えていた――“自分が彼女を幸せにしたい”という渇望と焦燥。


翌週、琴音は白川屋に立ち寄り、莉緒と一緒に昔の写真を整理していた。母の遺品の中には若い頃の両親の写真だけでなく、莉緒が小さな頃に撮ったスナップも大量にある。

棚の奥から出てきた一冊のアルバムをめくるうち、琴音が「あれ、これ誰だろう」と指差す。


そこには、まだ幼稚園か小学校低学年くらいの莉緒が笑っており、隣に少し離れて立つ男の子の姿があった。顔はぼやけているが、年齢は同じくらいに見える。

莉緒は一瞬ドキリとし、「もしかして……湊斗さん、かな……」とつぶやく。事故の直前や直後に撮られた可能性があるからだ。


「へぇ……。昔から鳴海さんと繋がってたんだね。二人とも覚えてないのかな……」

「事故で湊斗さんは記憶を失ったし、私もその頃のことをブロックしてたのかもしれない……」


琴音は「ふむ……」と唸りながらアルバムを閉じる。彼女は湊斗と莉緒の特別な縁を改めて痛感し、少しだけ胸が痛む。

だが、同時に「もしあの頃の思い出を取り戻せたら、二人が本当に救われるんじゃないかな……」とも感じており、複雑な感情を飲み込んで微笑む。


「莉緒、いつかこの写真を湊斗さんと一緒に見たらいいよ。きっと何か思い出すかも」

「うん……そうだね。……いつか見せようかな」


莉緒の瞳には迷いがあるが、ほんの少しだけ前向きな色が宿っている。写真をそっとアルバムに戻すと、二人は埃っぽい棚を閉じる。夏の日差しが窓越しに降り注ぐ店内で、かすかな希望の光が舞っていた。




その日、突然の夕立が街を濡らした後、空には美しい夕焼けが広がっていた。莉緒は近所に用事を済ませ、店へ戻ろうと早足で歩いている。

ふと、視界の端に見覚えのある人影が。――前の吹奏楽部で仲の良かった先輩、小松紗英だ。最近この街に戻ってきたという噂は聞いていたが、実際に会うのは久々だった。


「紗英先輩……?」

「あ、莉緒……! やっぱり久しぶりね!」


抱き合うように再会を喜び合う二人。紗英は大学進学で遠くに行ったが、卒業後にUターン就職し、今は音楽関係の仕事はしていないものの、市内の文化施設に勤務しているという。

ひとしきり近況を語り合い、母の死や店の休業を報告すると、紗英はしんみりと眉を寄せる。


「そうだったんだ……。でも、莉緒、フルートはどう? まだ吹いてる?」

「実は……ずっと吹けなかった。でも、最近ちょっとだけ向き合おうかなって思ってる」


紗英は莉緒の手を握り、「それなら絶対吹いたほうがいいよ!」と瞳を輝かせる。彼女はかつて莉緒の演奏を聴いて、すごく綺麗な音色だと評価していたからだ。

遠慮がちに微笑む莉緒を見て、紗英は「今度、文化施設で小さな音楽発表会をやる予定があるから、もしよければ顔を出してよ」と誘う。強制ではないが、仲間内でアンサンブルを披露する場があり、莉緒が見学するだけでも歓迎だという。


「うん……考えてみる。ありがとう、紗英先輩」


この先輩の勧めが、莉緒の心をさらに音楽へ傾ける可能性を秘めていた。再び音楽をやることに不安もあるが、心が踊る感覚もわずかに芽生える。

雨上がりの夕焼け空の下、二人は連絡先を交換し合い、また会う約束をして別れた。




翌日、湊斗は出版社のデスクで、音楽イベントの詳細を詰めていた。ショッピングモールの特設ステージを借りて行うことがほぼ決定し、出演者リストも固まりつつある。

地元バンド、若手シンガーソングライター、インストユニットなど多彩な顔ぶれが揃っており、小さいながら熱気のあるライブになりそうだ。


「先輩、このフライヤー案どうですか?」

「お、いいじゃん。夏らしいデザインで、若い子が来そうだね」


先輩の川瀬も上機嫌だ。フリーペーパーの次号に合わせて、紙媒体とウェブの連動を狙っている。

(ここにもし莉緒さんがフルートで出演してくれたら……なんて、まだ早いか)


湊斗は半分妄想しながらも、彼女に無理強いする気はない。ただ、「いつでも門戸は開かれている」という状態を作っておくことが大事だと思っている。

携帯を手に取り、思わず「もしよかったら、イベントの見学に来ませんか? 出演者も面白いですよ」とメッセージを打とうか迷うが、急かすようで気が引ける。結果、下書きのまま送信せずに閉じる。


(音楽がもっと好きになってくれたら……それだけでいいんだ)


湊斗の胸は、夏の熱気とは別の暖かい想いで満たされていた。


一方、琴音はカフェの内装工事が順調に進み、休日には親や先輩行員からアドバイスを受け、具体的なメニューや仕入れ先を検討する段階に入っていた。

ある夕方、工事現場を見学しに来た湊斗と二人でテーブルの配置を確認していると、職人さんが退勤していき、自然と二人きりになる。


「なんだか、落ち着きますね……」

「うん、まだ家具も何もないのに……不思議だけど、ここが私のお店になるんだって思うと、気持ちが高ぶるよ」


琴音は微笑むが、その顔にはほんのり赤みが差す。広い窓から差し込む夕陽が彼女の横顔を照らし、湊斗はドキリとする。

暑さと緊張も相まって、思わず声が詰まる湊斗。琴音も胸が高鳴って言葉が出ない。微妙な沈黙が数秒続く。


「あの……鳴海さん、いつも手伝ってくれてありがと。正直、すごく助かってる」

「いえ、僕はあんまり大したことしてないですよ……。でも、琴音さんのカフェ、きっと素敵なお店になると思います」


「……僕も小さい頃、カフェとかお店をやるのが夢だったんですよ。だから楽しいんです、知り合いの方がこうして夢を追っていること……だけどどうしてか、今は全く別の仕事をしてますけどね」


「そうだったんですか!…私達、意外と気が合うかもしれませんね」


「鳴海さん……もし…よかったら.…………」


二人の距離が自然と近づき、お互いの体温を感じるほど、汗ばんだ手のひらと手のひらがかすめ合いそうになる。


「ご、ごめんなさい……私、なにしてんだろ…あははは……」

「あ、い、いえ……ははは…」


少しぎこちないまま、琴音は現場を後にする。背中にはひそかな動揺が滲む。


――いくら「莉緒が大事」と言っても、湊斗とこんなに親密な雰囲気になるのは正直予想していなかったのだ。



湊斗も、一人残された現場で心拍数が上がっているのを感じ、頭を振って平静を装おうとする。自分はあくまで莉緒を支えたい、それが最優先――そう言い聞かせながらも、琴音の存在が大きくなりつつあるのも事実だった。




北園拓海は、別の老舗への取材を一通り終えた後、支社に戻って資料を整理していた。

第一部での強引な企画が頓挫して以降、支社長からは「地道に実績を積め」と言われており、華やかな大企画はしばらく封印している。だが、心の中では虎視眈々と“逆転”を狙っていた。


(どうしても、鳴海が企画してる音楽イベントに負けたくない。けど、今は正面からぶつかっても得策じゃないか……)


思案の末、拓海は密かにSNSや地元サイトを調べ、「湊斗が計画中の夏の音楽ライブ」に協賛している企業や出演者の情報をリサーチする。マイナスな介入をするつもりではないが、チャンスがあれば上手く利用したい意図があるのだ。

さらに、「莉緒がいつフルートを吹くか」を気にしている自分にも気づき、苛立ちを覚える。いっそ彼女に直接アプローチしたいが、下手に迫ればまた拒絶されるだろう。


「……待つしかない、のか。でも、そうしている間に鳴海が……」


拳を固めて唸る。理性ではわかっていても、感情を抑えきれない。結果として、拓海は湊斗のイベントを陰で調べながら、「いずれ自分が果敢に仕掛ける機会」をうかがう形となる。

“待ちの姿勢”がこれほど苦しいものだと知りながらも、ある種の執念が彼を支えていた。




週末の昼下がり、莉緒は再び小松紗英先輩と会うため、文化施設のロビーに来ていた。そこで小さな音楽発表会の詳細を聞くためだ。

施設内のカフェで向かい合うと、紗英は資料を見せながら楽しそうに語る。


「来月の半ばにやる予定でね。規模は小さいけど、地元のOBや社会人楽団の有志が集まるから、わりと本格的なアンサンブルになると思う。莉緒も良かったら観においでよ」

「うん……ありがとう。私、まだ吹ける自信はないけど……見学だけでもいいなら行きたい」


紗英はうなずき、「もちろん大歓迎よ。実は“もし莉緒がフルートを吹くなら、空きがあるよ”って声もあるんだけど……焦らなくてもいいから」と優しく笑う。

莉緒は心が揺れる。フルートはまだ修理中だし、何より精神的に準備が足りない。だが、いつか紗英たちと一緒に演奏できるなら、それはきっと“再生”の一歩になるのだろう――そう思う自分が確かにいる。


「今は見学だけ……でも、もしも気が変わったら声をかけてもいい?」

「もちろん! 待ってるよ。一緒に吹奏楽やった頃、思い出すね。莉緒の音、すごく好きだったんだ」


温かい言葉に胸がじわりと熱くなる。――そう、かつて自分は音楽が好きで、仲間との演奏に喜びを感じていた。

帰り道、紗英に背中を押された感触が後を引き、莉緒は「やっぱり、母さんが残した手紙にある通り、もう一度フルートと向き合うべきかも」と考え始める。


その夜、湊斗はスマホをチェックしていると、琴音からメッセージが届いた。カフェの工事が順調で、内装の半分ほどが完成したので「進捗を見にきませんか?」という誘いだ。

湊斗は「もちろん喜んで」と即答する。ここ最近、琴音と二人で店を見回る時間が妙に心地よく、少し後ろめたさを感じつつも惹かれている自分に気づき始めていた。


(でも……俺の本当の気持ちは? 莉緒さんを支えたいと思ってたけど、琴音さんも大事な存在になりそうで……どうしたらいいんだ)


頭を抱えつつ、メッセージを閉じる。仕事や音楽イベントの成功が一番優先だと思いつつ、恋愛面が複雑に絡んで頭が混乱する。

結局、湊斗は「焦らない」ことを選び、どちらとも誠実に接するしかないと心に決める。イベントを成功させ、莉緒がフルートを吹けるきっかけを作り、琴音のカフェも応援する――そうやって次々と目の前の課題をこなしていくうちに、自分の気持ちもはっきりするだろう、と。


ある朝、莉緒のスマホに楽器店から連絡が入る。「フルートの修理が終わりました。いつでも受け取りに来られますよ」という内容だ。

思わず胸が高鳴る。実際に受け取ってしまったら、次は「吹いてみようか」という話になりかねない――期待と不安が入り混じり、心臓がドキドキする。


「……行こう。受け取らないと始まらない……」


半ば自己暗示のように呟き、莉緒は楽器店へ足を運ぶ。店員から手渡されたフルートケースを開けてみると、驚くほど綺麗に磨かれ、パッドも交換されている。

練習スペースで試奏してみる? と店員が尋ねるが、莉緒は首を振る。「今はまだ……ありがとうございます。大事に持ち帰ります」と答え、ケースを抱いて店を後にした。


帰路、強い日差しに負けず、涼しい風が頬を撫でる。フルートが手元に戻ってきたこと自体が、彼女には大きな事件だった。

(母さん、見てるかな……少しは私、前に進めてる……?)


遠くの空を仰ぐと、抜けるような青空が広がっている。いよいよ、この夏が本格的に動き出す気配がして、莉緒の胸にほんのりした期待が膨らむのを感じた。




その日の夕方、白川屋の店先に湊斗が訪ねてきた。いつになく深刻な表情で、「莉緒さん……ちょっと話があります」と切り出す。

湊斗はカルテを手がかりに、祖父母に改めて当時の事故の詳細を聞き出し、「あの事故の日、莉緒が転んだ拍子に湊斗を巻き込んだのではなく、実は路面の段差で湊斗が一人でつまずき、それを庇おうとした莉緒が結果的に一緒に倒れてしまった」という事実を聞いたというのだ。


「俺の祖父母が言うには、『莉緒ちゃんが悪いわけじゃなかった。むしろ、自分を支えようとしてくれた』って……。でも、当時は俺がショックで覚えてなくて、莉緒さんも“自分のせいだ”と思い込んじゃったのかもしれない……」


莉緒は言葉を失う。ずっと「自分が湊斗を押してしまったのでは?」と罪悪感を抱いてきたのに、それが根本的に勘違いだった可能性がある。

思い出そうとしても、あの日の記憶はぼんやりしているが、湊斗の祖父母が言うなら信憑性は高い。


「私は……いったい何のためにフルートを捨てたの……?」


唇を噛み、涙が溢れる。長年背負ってきた罪悪感が、いま崩れ去るかのような衝撃と、何もかも失ってしまった徒労感――複雑な感情が一気に襲う。

湊斗はそっと莉緒の肩に手を置き、「ごめん、もっと早くわかっていれば、君を苦しめずに済んだのに」と苦しそうに呟く。


莉緒は声にならない叫びを喉に詰まらせ、店の壁にもたれかかる。暑い夏の空気が重くのしかかる中、二人はただその事実の重みを共有するしかなかった。


事故の真相が判明し、呆然とする莉緒を見て、湊斗は「落ち着いたら、ゆっくりフルートを吹いてみませんか?」と提案する。

もちろん無理強いではないが、ずっと“自分のせいで湊斗が頭を強打した”と思い続けてフルートを拒否してきたのだから、勘違いだったと知った今こそ、もう一度向き合ってほしいと願っているのだ。


莉緒はまだ涙を拭きながら、かすれ声で「そんな……すぐには……」と戸惑う。

しかし、心の奥から“吹いてみたい”という声が聴こえるような気もする。母が願った「もう一度音楽を楽しんでほしい」というメッセージが背中を押してくるようだ。


「……わかった。試してみる。まだ怖いけど……私、音楽好きだったし、母さんにも聴かせたいし……」


その言葉に、湊斗は思わず抱きしめたい衝動を抑えつつ、深く頷く。

外はセミの声がうるさいほど響いているが、二人の胸には静かな高鳴りが広がる。長い間苦しめられてきた「罪悪感」という鎖が、ようやく解かれ始めたのだ。




そして、街の夏祭りの日がやって来た。商店街のメインストリートには提灯が灯り、浴衣姿の人々が行き交う。

白川屋も休業のままだが、店の前には小さな提灯が飾られ、莉緒が母のために供えた花が置かれている。そこで琴音や湊斗、さらに顔を出した拓海が何となく顔を合わせる形となった。


「莉緒、浴衣似合うね……」

「ありがと、みんなも……あ、拓海先輩、来てくれたんだ」


先輩と後輩の関係をぎこちなく再認識しつつ、4人が祭りの喧騒のなかで屋台を回る。拓海は相変わらず鳴海へ対抗心をちらつかせているが、今宵は喧嘩するつもりはないようだ。

そして、一堂に会したタイミングで、莉緒が静かに宣言する。


「私……もう一度フルートを吹いてみようと思う。事故の真相もわかったし、母さんの残した手紙もあるから……まだ不安もあるけど、挑戦してみたい」


湊斗は心底嬉しそうに微笑み、琴音は目を潤ませ「やった!」と拍手し、拓海も驚いたように「本当に……?」と息を呑む。

確かにこの宣言は、莉緒にとって大きな転換点だ。


「すぐには上手く吹けないかもしれないけど、少しずつ……頑張るね。皆、応援してくれると嬉しい……」


そう言って恥ずかしそうに笑う莉緒の浴衣姿を見つめ、3人はそれぞれの想いを抱えながら頷いた。

夏祭りの提灯が夜空を染め、どこからか花火の音が響いてくる……。




夏祭りでフルート復帰を宣言した莉緒。その後、彼女は実際に音を出してみようと試みたが、ブランクの長さと心の傷が想像以上に重く、思ったように吹けない日々が続いていた。



吹き口に唇をあてた瞬間、脳裏に幼少期の事故の断片がちらつき、指先が震えてしまう。結局、ろくに音も出せずにフルートを置いてしまうのだ。


「やっぱり……簡単には戻れないんだ」


部屋の窓の外を見れば、盛夏の喧騒もひと段落し、秋の気配がわずかに混ざり始めている。いまだに店は休業中で、母の亡きあとの諸手続きや財産整理は一通り終わったが、莉緒の心は定まりきらない。

いつの間にか季節が動くなか、彼女の時間だけが止まっているように感じられた。


その頃、湊斗は地元で新しい取材をしている最中、偶然にも幼少期の秘密基地らしき場所を発見する。祖父母から「小さい頃、この辺の空き地で遊んだ」という話を聞き、半信半疑で探してみたのだ。

雑草だらけの古い空地の片隅に、崩れかけた小さな物置のようなものがある。その扉を開けると、子供が書いた殴り書きや、古い紙切れが散乱しており、“みなと” “りお”という名前が読める文字がかすかに残っていた。


「……本当に、昔ここで莉緒さんと遊んでたんだ」


薄暗い物置の中は黒い部屋のように見え、日の光がほとんど入らない。空気は重く、床には埃が積もっている。だが、それは確かに幼い頃の“秘密基地”だったのかもしれないと、湊斗の記憶にかすかな呼び水を送る。

指先で壁をなぞると、子供らしい落書きとともに、“約束”らしき文字がさびたペンで書かれていたが、肝心の内容はぼやけて読めない。

湊斗は胸に不安と期待が入り混じる感覚を覚え、暗い物置を後にする。


(あの日、俺たちは何の約束をしたんだ……? 本当に、俺が失くしたのは“記憶”だけじゃないのかもしれない)


同じ夕刻、琴音はカフェの工事現場で打ち合わせを終え、人気のない店内を一人確認していた。そこへ、偶然にも湊斗が現れて、「お疲れさまです。今日も様子を見に?」と声をかける。

二人で短い談笑を交わした後、工事関係者も撤収し、薄暗い店内に琴音と湊斗だけが残る形になる。


「湊斗さん、本当にいろいろ助けてもらっちゃって……」

「いえ、僕は好きでやってるんです。琴音さんのお店が成功したら嬉しいですから」


妙に近い距離で向き合う二人。汗ばんだ首筋や火照った頬が、夏の終わりの蒸し暑さを際立たせる。

そのとき、ふとした拍子に二人の体が触れ合い、琴音がバランスを崩して湊斗にしがみつく形となった。


「あ、ごめん……!」

「大丈夫……?」


互いの体温を感じ、息が詰まるほどの近さ。互いの唇の距離まであとわずか――琴音は急に胸が締め付けられ、理性がぐらりと揺れた。

一瞬、二人の視線が絡む。琴音は心の奥で(いけない、こんな……)と思いつつ、唇が震える。湊斗も動けないまま、琴音の瞳に吸い込まれそうになる。


“じり、じり……”――触れ合う呼吸。熱い空気。

結果として、琴音が慌てて身を引いて衝突は避けられたが、唇が重なる寸前の甘い余韻だけが残る。


「ご、ごめん……変なことしちゃって……」

「い、いえ、僕こそ……大丈夫?」


微妙な沈黙のあと、二人は作り笑いをして場を取り繕う。しかし、琴音の胸はドキドキが止まらない。湊斗もまた、自分が思い描いているのは莉緒なのか琴音なのかわからなくなる動揺を抱えていた。




同じ夜、湊斗はアパートに戻ってから、先ほどの「秘密基地」の落書き写真を見返していた。スマホで撮影したその文字は、懐かしさと得体の知れない不安を同時に呼び起こす。

子供の頃の記憶は断片的にしか思い出せないが、もしかすると単なる事故の記憶以上に「大事な何か」を失ったのではないか――そんな予感が胸を締め付ける。


(俺は、あの秘密基地で莉緒さんと一緒に“何か”を誓い合ったのか? それが記憶からすっぽり抜け落ちているのはなぜだ……)


考え込むうち、ふと先ほどの琴音との一件を思い返す。甘い唇の気配――あれは偶然とはいえ、強く心を揺さぶった。

(俺は……莉緒さんだけを見ていたはず。でも、琴音さんのことも大切だと感じ始めている。このままでいいのか?)


湊斗はベッドに倒れ込み、頭を抱える。誰を想い、何を守りたいのか。曇りのような感情が脳裏に霧を張り巡らせ、答えが見えない。

そして、失った記憶の断片――あの秘密基地――“本当に彼が失くしたもの”は、単なる事故の記憶なのか、それとももっと大切な“誓い”や“感情”だったのかもしれない、と不安が大きくなる。


翌日、湊斗から「昔の秘密基地を見つけた」と聞かされた莉緒は、半信半疑で現場へと足を運ぶ。鬱蒼と茂る雑草の合間を縫ってたどり着いた物置小屋は、陽光の射さない黒い部屋のように暗く湿っていた。

躊躇しながら入ってみると、子供の落書きがあちこちに残っている。そこには「みなと」「りお」という文字が確かに認められ、幼児が描いたと思しき下手なイラストもある。


「……こんなところ……覚えてない。むしろ怖いぐらい……」


天井から落ちる埃が視界を濁らせ、熱気で息苦しく感じる。莉緒の胸には、事故の記憶と絡み合うように重い感覚がのしかかる。

それでも、ぼんやりとしたDéjà-vu――幼い頃、この空間で笑い合った記憶が微かに呼び起こされる。怖いけれど懐かしい――そんな二重の感情にさいなまれる。


「ここで……何かを約束したのかな。湊斗さんが頭を打ったのも、この近くだったらしいし……」


呟きながら、壁の奥に奇妙なマークが書かれているのを見つける。「秘密の暗号」とも取れそうな図柄で、子供の発想にしては独特だ。

莉緒はその線を撫で、「私たち、いったい何を誓ったんだろう……」とつぶやく。何か大事なものを失った感触が胸にこみ上げ、涙が滲んでくる。


一方、北園拓海は街の一角で二人が雑草まみれの空き地に入っていくのを見かけた。興味を惹かれた拓海は距離を置いて様子を窺う。

二人が黒い物置小屋へ入り、しばらくして出てくるまでの姿を、拓海は木陰に隠れて見守っていた。


「何をしてるんだ……あの場所、今は使われてないはずだろう。二人でこっそり……」


湊斗が莉緒を支えるように腕を回し、彼女が震えながらもついていく姿を見て、拓海の胸は強い嫉妬と不快感を覚える。



(いったい二人はどこまで深く繋がっているんだ。 俺の知らない“過去”を共有しているのか……)


拳を握りしめ、唇を噛む拓海。彼は“仕事の成果”を求めてきたが、莉緒の心には届いていない。むしろ、湊斗の存在が大きくなっている気がしてならない。

徐々に曇る視界。拓海は暗い視線を落としながら、そっとその場を後にする。彼の心に渦巻く感情は、再び“強引な行動”を起こさせるのではないか――そんな不吉な気配が漂っている。


翌日、突然の大雨が町を襲い、道が川のようになっている。湊斗は出版社で原稿校閲をしていたが、企画の進行がひと段落つき、気分転換を兼ねて外へ出てみることにする。

ふと、スマホに琴音からメッセージが入り、「カフェの方は問題ないけど、雨漏りが一箇所あって……時間あったら来てくれる?」というSOS。湊斗はすぐさま向かうことを決意。


カフェに到着すると、琴音は水浸しの床をタオルで拭き、必死に対応している。湊斗も手伝い始め、二人で黙々と床を拭いているうちに、ふと会話が途切れてしまう。

激しい雨音が沈黙を包む中、琴音がちらりと湊斗を見つめ、「……いつもごめんね、こんなときばかり呼んで」と弱々しく笑う。


「そんな、気にしないでください。僕も琴音さんの頑張ってる姿見ると励まされますし……」

「……そう? ……私も、鳴海さんがそばにいてくれると落ち着くよ」


甘い雰囲気が再び漂う。雨音が二人の鼓動をかき消し、距離が近づきそうになる。しかし、このタイミングで工事業者が入ってきて、事なきを得る。

琴音はホッとする反面、少し残念なような複雑な感情を抱き、湊斗はまたしても「自分は誰を想っているんだ……」と苦い思いを噛みしめる。


一方、莉緒はフルートの練習場所を探していたが、家では音出しが難しく、どこか防音設備のある場所を借りようかと思案している。

(湊斗さんに相談すればいいのかな……でも、彼も忙しそうだし、それに、ちゃんと吹けないうちから人に聴かれるのは恥ずかしい……)


そうこうするうちに、莉緒は湊斗にメッセージを送ろうか迷うが、既に湊斗がカフェの雨漏り対応で動いていることなど露知らず、「今は迷惑かも」と送信を諦めてしまう。

結果として、二人のタイミングが合わず、数日が過ぎてしまう。


(私たち、少し前までは距離が近かったのに……もしかして湊斗さん、琴音と一緒にいる時間が増えてるのかな……)


軽い不安を覚える自分に気づき、莉緒は胸の奥がざわつく。もちろん二人の仲を疑っているわけではないが、意識せずにいられない。

夏の終わりが近づくにつれ、空にはどこか曇りがちの重い雲が広がり、彼女の心もまた迷い道に落ちていくようだった。


ある日、湊斗は意を決して莉緒を“秘密基地”へ再度誘う。今度は二人が一緒に“あの日の真実”を探そうという目的だ。

最初は難色を示した莉緒だが、湊斗の「怖ければすぐ帰ろう」という配慮により、しぶしぶ承諾。二人は夕暮れ時、再びあの黒い物置小屋に足を踏み入れる。


埃まみれの床、かび臭い空気。何も変わらない暗闇だが、よく見ると奥の隙間に古いスケッチブックらしきものがある。湊斗が懐中電灯で照らすと、子供の絵と一緒に“約束”の断片らしき文章が記されていた。


「なみだがでても、ふるーとをやめない」

「みなとも かくのを あきらめない」

「ずっと なかよしで いることを ちかいます」


たどたどしい文字で書かれたそれを見た瞬間、莉緒は震える声で「私……こんな約束、すっかり忘れてた」と呟く。

湊斗も唇を引き結び、「俺たち、幼稚園か小学校低学年くらいの頃、ここでこんな誓いを立ててたんだ……」と驚く。


互いに音楽や書くこと(湊斗は昔から“物語”を作るのが好きだったのかもしれない)を諦めないと誓った幼い二人。その記憶が事故で断ち切られ、長い月日を経て今ようやく掘り起こされた。

黒い部屋の暗闇の中で、二人はそっと手を繋ぎ合う。


「私、フルートを捨ててしまった。あなたは記憶を失った。でも、まだ取り戻せるかな……この約束」

「……きっと、今からでも遅くないよ。俺も、書くことをちゃんとやっていく。莉緒さんは音楽を――そうだ、いずれ一緒に作品を作ろうよ。音と文章のコラボみたいな……」


興奮と涙が入り混じり、二人は強く握りしめたまま、暗い物置を出る。外の空は鈍色の雲が垂れこめているが、胸の奥には確かな熱が宿っていた。


やがて夕立が降り出し、二人は慌てて近くの屋根のある場所へ駆け込む。しかし、そこには偶然にも雨宿りしていた琴音の姿があった。

琴音は湊斗と莉緒が一緒に、しかも手を握り合うような雰囲気で走り込んでくるのを見て、一瞬言葉を失う。湊斗は「こ、琴音さん? ここで何を……」と戸惑うが、彼女は苦笑まじりに「たまたま用事で通ったら雨降ってきてさ……」と視線をそらす。


3人が狭い屋根下で寄り添うように雨をやり過ごす光景。琴音の胸には、さっきまで湊斗への想いが膨らんでいたが、こうして莉緒と二人の親密さを目の当たりにすると、自分の気持ちが余計切なくなる。

一方、莉緒は琴音の表情を見て、胸の痛みを覚える。


強い雨が打ちつける音が、三人の胸のざわめきを掻き消す。しばらく沈黙が流れ、やがて雨が上がったとき、それぞれ胸に曇りを抱えたまま別々の帰路につくのだった。


夏の終わりが近づく夕刻。町の空に黒い雲が立ち込め、やがて激しい夕立が降りそそいだ。



雨を避けるように湊斗は車を駆り、空き地の近くで停まる。つい先日、莉緒と訪れた秘密基地が妙に気になっていたからだ。祖父母からは「昔、湊斗が一人で遊んでいたかもしれない」と言われ、少し不安が広がっている。


(本当に、あそこにいたのは莉緒さんだったのかな……? 子供の頃の約束は二人で作ったはずなのに、なぜこんなにも記憶が曖昧なんだろう)


空き地に降り立つと、夕立の葉(木々の葉)から滴る水滴が波紋を落とし、辺りに鮮やかな匂いを放つ。湿った大気のなか、湊斗は何か“別の影”を感じ取ったような気がするが、振り返っても誰もいない。

暗い雲の下、黒い物置小屋の方へ一歩踏み出そうとするが、胸の奥で強い不安が渦巻く。まるで過去と現在が入り混じり、混濁した記憶が蘇ろうとしているかのようだ。


(…そういえば、あの日、俺は確か誰かと……あれ? 本当に莉緒さんだった?)


脳裏に浮かぶのは「お互い名前も知らずに遊んでいた子供たち」という朧げなイメージ。まだ幼い湊斗が、木の枝で剣を作ったり、紙に絵を描いたりしていた記憶がちらつくが、その隣にいるのが莉緒かどうか、どうしても確信できない。


同じタイミングで、琴音もまた夕立を避けようと車を走らせていた。仕事帰りに用事を済ませたあと、たまたま旧道を抜けるルートを選んでいたのだ。

ふと視界の端に、空き地に車を停める湊斗の姿が見え、胸がざわつく。琴音は迷いつつも、何となくあとを追うように停車する。


(こんな場所に、湊斗さんは何をしに来たんだろう……?)


足音を忍ばせながら雑草をかき分ける琴音。すると、遠くに二つの影が見えた……と思ったが、よく見ると湊斗が一人で立ち尽くしているように見える。

しかし、琴音は一瞬、「湊斗ともう一人の人物」が重なっているように錯覚する。雨に煙る視界の中、暗い木々の葉が揺れ、そこにどこか正体不明の影が交じっているような不気味さを覚える。


(誰……? 湊斗さんの隣に、誰かいるの……?)


琴音はぞくりと寒気を感じて目を凝らすが、雨が強まり、はっきり見えない。次の瞬間、湊斗の方へ声をかけようと踏み出すが、激しい雷鳴が空を裂いた。




湊斗の頭には、雷鳴とともに断片的なフラッシュがよぎる。――昔、夕立の中、黒い小屋で身を寄せ合う二人の幼子。

ただ、そこにいる女の子は髪型や雰囲気がどうにも莉緒とは違うような気がする。短めの髪で、表情が明るく元気な印象……むしろ琴音に近いイメージさえ浮かぶが、はっきりしない。


(……俺、莉緒さんじゃなくて、もしかしたら別の女の子と……?)


めまいがして膝をつきかける湊斗。そのとき、背後から不意に声がする。「鳴海さん……! 大丈夫?」――琴音の声だ。

振り返ると、琴音が傘も差さずにずぶ濡れのまま近寄ってくる。湊斗は驚きながら、「琴音さん、なんで……?」と聞くと、彼女も戸惑った表情で「車で通りがかったら……何かあったのかと思って」と答える。


大粒の雨が二人を濡らし、夕立の葉が激しく揺れる。雷鳴に合わせて空が白く光り、二つの影が地面に落ちる。まるで、湊斗の中にある失った記憶が、琴音と重なろうとしているような錯覚が生まれる。


「鳴海さん、こんなところで何を……?」

「……子供の頃の記憶を探してた。莉緒さんと秘密基地で遊んだと思ってたけど、もしかしたら……違うのかもしれないんだ」


湊斗が弱々しくそう打ち明けると、琴音は困惑しながらも彼を支えようとする。「立って、こんな雨の中じゃ体調崩すよ……」

二人は近くの木陰へ移動し、雨をしのぐ。湊斗の体温と琴音の体温が触れ合い、さっきまで感じていた恐怖と孤独が少し和らぐ。だが、同時に心の奥で痛みが生まれる。


(お互いの名前を知らなかった子供時代……もし、本当に私だったら……? そんなわけないよね、私は莉緒と幼馴染で……)


琴音もまた記憶を手繰る。


幼い頃は引っ越しが多く、どの地区に住んでいたか曖昧だった。


湊斗とは…接点が無かったとは言えないが…どうなのだろう。しかし、心の片隅で「もしかして」という奇妙な予感が鎌首をもたげる。

二人とも言葉にならない違和感を抱えたまま、雨に打たれて小刻みに震える。夕立の葉が周囲をざわつかせ、まるで時空が歪むような錯覚を覚えさせる。


そのまま車に戻ると、琴音が濡れたタオルで湊斗の髪を拭いてくれる。エンジンをかけても、車内は湿っぽい空気が漂い、フロントガラスが曇っている。

湊斗は助手席でぼんやりと外を見る。雑草や葉から落ちる水滴が、まるで涙のようだ。


「……琴音さんは、子供の頃に秘密基地とか作ったことある?」

「え? 私? んー、小さい時に近所の公園を“秘密基地”って呼んでたのは覚えてるけど、本当に物置を使ったことは覚えてないな……」


琴音はそう答えながらも、何か言いかけて言葉を飲み込む。心のどこかに引っかかる記憶があるような気がするが、確信を持てない。



沈黙が流れ、互いに視線を交わすことができないまま、ふと琴音が涙を落とす。


「……ごめん、なんか私、鳴海さんを支えたいのに……。ううん、莉緒を支えたいのに……自分のことばかり考えてる気がして……」



「どうして謝るんですか。俺こそ、こんな曖昧な記憶に振り回されて、琴音さんを混乱させてるかもしれない……」


優しい言葉が交錯するが、その裏には複雑な感情がうごめく。湊斗と琴音はお互いの名前を今は知っている。だが、もしかすると幼い頃にすれ違ったことがあったのかもしれない。

散りゆく涙がどこへ落ちるのか、誰もわからない。車内には重い空気が立ち込め、二人は言い知れぬ孤独と切なさを噛みしめた。


一方、北園拓海はこの雨の日に別の老舗店を取材しようと向かっていたが、急用が入って予定が流れ、時間が空いてしまう。

ふと、雨の音にまぎれて何か嫌な胸騒ぎがして、車を走らせる。先日の空き地で湊斗と莉緒を見かけた場所に無意識のうちに向かっていたのだ。


しかし、着いてみれば誰もいない。雨足が強まるだけで、暗く濡れた草むらが広がるばかり。拓海は苛立ちをぶつけるように雑草を踏みつけ、「ちくしょう……」と呟く。

(どうしてこんなに執着しているんだ……俺は。莉緒がまたフルートを吹こうが、鳴海が秘密基地を見つけようが、俺には関係ないはずなのに……)


それでも立ち去れずにいる拓海の目には、遠くの木陰に車が止まっているように見えたが、すぐに走り去って行った。もしかしたら湊斗だったのかもしれないし、琴音だったのかもしれない――しかし暗い雨の中では確認できなかった。

拓海は激しい雨の音の中で拳を握りしめ、またしても孤独に苛まれる。彼の抱く暗い思いが、いずれ大きな波紋を呼ぶのではないか――そんな暗示が漂っていた。


翌週、莉緒はフルートの調整が終わったと楽器店から連絡を受け、取りに行く途中、紗英先輩とばったり出会う。紗英は相変わらず文化施設でイベント準備に追われているらしく、近況を聞かれる。

そこで莉緒は、湊斗と一緒に「秘密基地」を見つけた話をさらりと告げると、紗英は少し首を傾げる。


「確か、莉緒、中学生の頃に話してたよね。“小さい頃はその辺りに住んでなかった”って。移り住んだのは小学3年生の時だったはず……」

「え……そう、だったかも。じゃあ、それ以前に湊斗さんと遊んでた記憶は……なんなのかな」


紗英の言葉に、莉緒の胸がざわめく。

同時に、記憶の糸がこんがらがる。事故のトラウマを克服しようとしていた矢先に、今度は「幼少期の秘密基地」が自分の記憶と齟齬を見せ始めた。もしかすると、あの場所にいたのは別の女の子では……?


同じ日、琴音は早めに銀行を退勤し、カフェの進捗を確認していた。雨は降っていないが、空にはどんよりとした曇り空が広がる。

ここのところ、湊斗との“距離”が急に縮みかけ、同時に“莉緒と湊斗”の特別な縁も意識してしまう。胸が痛むが、仕事の手を止めるわけにもいかない。


(もし私が、鳴海さんの記憶にある“女の子”だったとしたら……? いや、私はそんなはずない。莉緒だって自分のせいで事故が起きたと思ってたし……記憶がぐちゃぐちゃだ)


作業をこなしながら、ふと窓の外を見ると、大きな葉が夕方の風に揺れ、まるで雨粒を散らしているかのように見える。それが妙に心をざわつかせ、二つの影が脳裏に浮かぶ。

(私と鳴海さんが、実は子供の頃から……? そんな偶然があるのかな……)


琴音は頭を振り払うように集中しようとするが、思考が宙に浮いたままだ。もしこのまま真相が浮上したとき、自分はどうするのか――不安が胸を染めていく。


夜、湊斗はアパートでパソコンに向かい、音楽イベントの最終調整をしていた。ふと、スケジュール表の端に「カフェ開業予定」「文化施設発表会(紗英先輩)」など書き込みがあり、それらに“莉緒”や“琴音”の名前を添えている。

その文字を眺めながら、またあの秘密基地のイメージがフラッシュする。――本当に一緒にいたのは莉緒なのか、それとも別の子供だったのか?


(俺が失ったのは記憶だけじゃない。莉緒さんも“本当のトラウマ”を隠してきた。でも、もしかすると琴音さんも何か忘れているのかもしれない……)


脳裏に次々と浮かぶ疑問。「お互いの名前すら知らずに遊んだ子供たちがいた」とすれば、今の関係が食い違うのも説明がつくかもしれない。

湊斗はため息をつき、パソコンを閉じる。まるで誰かが**“彼女の小さな心”**を記憶の奥底に閉じ込めているかのようだ


――混乱と不安が交錯し、夜の闇が更けていく。


そして、夏の終わりの日。商店街では音楽イベントのプレ企画として、ミニライブが行われている。湊斗が司会を務め、若手アーティストの演奏を観客が楽しむ。

観客の中に莉緒と琴音もいる。偶然隣り合ってしまい、微妙な空気が流れながらも拍手を送る。時々湊斗と目が合うが、彼は忙しく立ち回っていて挨拶すらできない。


夕焼け色に染まる空の下、ライブが終わったあとも三人は顔を合わせることなく、観客の波に揉まれてそれぞれ散っていく。

「本当に秘密基地にいたのは莉緒? それとも琴音?」――この疑問が濃い霧となり、三人の思いを複雑に絡め取る。夏が終わるのに、心はますます曇りへと沈み込んでいく。


琴音は、夕立の匂いが残る街の夜道を歩いていた。胸に渦巻くのは、日に日に強くなる「湊斗への想い」。

けれど、湊斗が特別な縁を感じているのは“莉緒”だ――あの幼少期の事故、秘密基地、フルート、そして音楽イベント。これらが結びつく先にあるのは、どうしても莉緒の存在であって琴音ではない。


(私が……もし“莉緒”になれたら、湊斗さんは私を見てくれるのかな?)


そんな歪んだ考えがふと頭をよぎり、琴音は自分で自分に嫌悪感を抱く。親友である莉緒を押しのけてまで奪いたいわけではない――でも、強烈な孤独と焦燥が胸を締めつける。

夏が終わる前に、何かを伝えなければならない。そうしないと、大切なものを永遠に失ってしまう――そんな恐れが、琴音を夜風の中で震えさせていた。


カフェの工事は佳境に入り、琴音は日中ずっと業者とやり取りをしている。その合間、湊斗から音楽イベントの準備状況を報告され、「よかったら司会進行を手伝ってくれない?」と誘われるが、琴音は曖昧に断ってしまった。

理由は一つ。そこに莉緒がフルートで出演する可能性が高いからだ。そんな場面を目の当たりにしたら、胸の痛みが耐えられない気がする。


「……私、何をやってるんだろう。いつも莉緒を応援したいって言ってるのに……」


自宅の鏡を見つめ、琴音は呟く。夏の日差しは衰え始め、蝉の声もどこか寂しげになってきた。まるで「残り少ない夏」を象徴しているような空気に、琴音は焦りを隠せない。

(最期の夏、私もちゃんと想いを伝えなきゃ……)


しかし、どう伝えればいい? 「莉緒のようになりたい」「湊斗さんを奪いたい」――そんな生々しい感情をぶつけたら、二人との関係は壊れてしまうかもしれない。

それでもこのままだと、本当に“大切なモノ”を失う――琴音は、戦慄するほどの危機感を抱き始めていた。


そんなある日、琴音は偶然、銀行の顧客である森下さんから昔話を聞く。森下さんはかつて琴音の家の近所に住んでいて、琴音が幼い頃のことも知っているという。

雑談の中で、森下さんが「そういえば琴音ちゃんは幼稚園時代、よく近くの空き地で他の子と遊んでたよね。夏休みに秘密基地作ったり」と笑うのを聞き、琴音の心が大きく揺れる。


「私、そんなこと……覚えてないんです。いつの話でしたか?」



「あなたが4歳か5歳の頃ね。まだ字も上手く書けないのに、落書きして楽しんでたんじゃないかな。相手の男の子の名前は知らなかったけど……すごく仲良く遊んでたわ」


森下さんはくっきり覚えているらしく、「あの子は他の町から来ていたんだっけ」と曖昧に語るが、それはまさに湊斗が語る“秘密基地”の存在と重なる。

琴音は手が震え、「それって……私じゃなくて莉緒じゃないんですか?」と呟くが、森下さんは「ん? あの頃、莉緒ちゃんはまだ引っ越してきてなかったはずだよ」と首を傾げる。


――本当に秘密基地にいたのは莉緒ではなく、琴音?――衝撃が走る。もしそれが真実なら、湊斗と交わした幼い頃の約束は、自分こそが当事者だったのかもしれない。

胸がバクバクと波打ち、息が苦しくなる。琴音は「すみません、ちょっと失礼します」とその場を離れ、震える指でスマホを握りしめた。


車に乗り込み、ハンドルを握ったまま涙が零れる。心の中でリフレインするのは




「湊斗が好きな、'莉緒'に私が成ればいいんだ……」という言葉。



もしかしたら、自分こそが湊斗とあの秘密基地で遊んでいた相手――なのに、湊斗はそれを莉緒だと勘違いしている。琴音自身も“幼稚園時代の記憶”をほとんど封じてしまい、忘れていた。


「私……ずっと莉緒の陰に隠れて、湊斗さんを応援してた。だけど、本当は……私が湊斗さんの昔の約束の相手だったなら……どうすればいいの……?」


胸に湧き上がる罪悪感と歪んだ欲望。幼さ故の至り――子供の頃、まだ字も書けない状態で“絶対一緒にあそぼうね”と誓った約束が、こんなにも複雑に絡まるとは想像もしていなかった。



琴音は頬をぬぐい、「伝えなきゃ、伝えなきゃ……じゃなきゃ、大切なモノを失ってしまう」と呟く。


翌日の午後、琴音は意を決して湊斗にメッセージを送り、“大事な話があるから今晩会えないか”と誘う。湊斗からは即座に「いいよ、じゃあカフェの方に行こうか?」との返事が来る。

カフェで二人きりは危険だと思った琴音は、「むしろ少しドライブしながら話そう」と提案し、待ち合わせを夕方に設定する。


(本当に言っていいのかな……“私があなたの約束の相手かもしれない”なんて……)


車で二人になれば、他に邪魔が入らない。そこで自分の想いを吐露すれば、湊斗の気持ちも変わるかもしれない――いや、変わらないかもしれない。でも、このまま黙っているわけにはいかない。

空はまたしても曇りがちで、蒸し暑い。まるで嵐の前の静けさのように、琴音の心がざわつき続ける。この夏が終わる前に、すべてを伝えたいという思いが、彼女を突き動かしていた。


夕刻、琴音の車で郊外のほうへ走り出す二人。気まずい沈黙の中、湊斗は「今日はどうしたんです?」と問いかけるが、琴音はハンドルを握りしめたまま言葉が出ない。

しばらくして、人里離れた湖の近くに車を停め、エンジンを切る。あたりには薄暗い森が迫り、夏の終わりの虫の声が遠くに響いている。


「鳴海さん……ごめんなさい、こんな場所まで連れてきて……」

「いえ、全然。でも、話って……?」


湊斗は首をかしげる。琴音は意を決したように深呼吸し、震える声で語り始める。


「……わたし、子供の頃の記憶を、ずっと忘れてたみたいなんです。でも、最近、昔のご近所さんから聞いたんです……幼稚園くらいのとき、空き地の物置で秘密基地を作って遊んでたって」

「え……それって、あの秘密基地……?」


湊斗が息を呑む。琴音は視線を下げ、「莉緒じゃなくて、もしかしたら私があなたと遊んでたのかもしれない。私もまだ半信半疑だけど、そうだとしたら……」と言葉を切る。


「湊斗さんは、ずっと '莉緒' だと思ってたんだよね。幼い頃、一緒に遊んだ女の子……約束をした子。でも、もし私がその子だったら、どうする……?」


琴音は声を震わせながら続ける。車内は薄暗く、曇った窓ガラスに二人の姿が映っている。


「わからない……莉緒さんの事故の記憶とも繋がってると思ってた。でも、事故が実は別の要因だったし、秘密基地の相手もそもそも曖昧で……」

「だったら……私、あの日の女の子になりたい。湊斗さんが好きだった '莉緒' じゃなくて、私が 'あの子' そのもの……」


琴音の言葉に湊斗は困惑を隠せない。「“莉緒さんが好き”なんて俺、はっきり言ってない」と否定しようとするが、琴音は苦笑しながら呟く。


「だって、湊斗さん、目を見るだけでわかるよ。莉緒のことを大事に思ってる。私だって莉緒が大好き。でも……それでも、あなたが欲しいの……。あの頃の約束が本当は私とのものだったなら、あなたが見てる '莉緒' は幻想かもしれないでしょ……?」


琴音の瞳から涙がこぼれ、唇が震える。湊斗は思わずハンドルに置いた琴音の手を握ろうとするが、彼女は小刻みに震えたまま顔を伏せる。


(この言葉は、莉緒を裏切る行為になるのか……でも、私だって幼い頃から湊斗さんを……)




「私、ほんとにバカだよね……ずっと二人の背中を応援するふりをしてた。でも、伝えなきゃ、伝えなきゃと思うほど、怖くて言えなかったんだ……。私が『莉緒』に成り代わるみたいで……」


琴音は口調を荒げて自嘲する。湊斗は「落ち着いて……」と声をかけるが、彼女は首を振り、「落ち着けるわけないよ」と睨むように言う。


「……私が、もし“あの日の女の子”なら、湊斗さんは私を選んでくれる? 選んでくれなくてもいい、でも……失いたくないの。鳴海さんを……大切なんだよ……」

「琴音さん……」


熱い涙が零れ、琴音の口から何度も「伝えなきゃ……伝えなきゃ……」というフレーズがこぼれる。強迫的なほどの繰り返しに、湊斗も胸が痛くなる。

いつも優しく笑っていた琴音が、こんなに取り乱し、自分を責めるなんて想像できなかった。


雨の音が止み、曇った空から一筋の夕陽が差し込む。車の外は静寂に包まれ、冷たい風がふたりの肌をさらう。

琴音は濡れた頬を拭い、絞り出すように言葉をつむぐ。


「この夏が終わったら、私……カフェをオープンさせるでしょ。銀行も辞めるし、新しい生活が始まる。だから、もし湊斗さんに振られても、遠くへ行ってしまっても……これは最期の夏の想い出になってしまうんだよ……」

「……そんな、俺は振るとかそういうんじゃ……」


湊斗は言葉を探すが、琴音の痛々しい表情が心を乱す。まるで突然「別れ」を暗示されているような不安を感じる。

琴音は手を伸ばし、湊斗の頬に触れる。まだ少し冷たい指先――それが彼の体温を感じ取り、かすかに震える。


「……私、もう何をどうしたらいいのかわからない。でも、あなたを失いたくない。そのためなら何でもする。たとえそれが“莉緒”の記憶を横取りすることでも……ごめん……こんな自分が嫌い……」


苦しそうに告白する琴音を見て、湊斗は動けなくなる。彼女の“歪んだ愛情”とも言える思いを、否定できない。自分だって、莉緒か琴音か、そのどちらをどう思っているのかはっきりしないのだから。


しばしの沈黙の後、琴音は「ごめん、変なこと言った……」と微笑む。しかし、その笑みはまるで諦めを帯びていた。

湊斗は混乱と戸惑いを抱えながら、「琴音さんを失いたくないのは俺も同じですよ」と言おうとするが、言葉が上手く出てこない。天井から見える曇った空が、まるで二人の行く末を暗示するかのように冷たい。


エンジンをかけて帰ろうとするが、どちらも一言も発しないまま、車は湿った森を抜けて街へ戻る。夕闇が迫り、夏の終わりを告げる風が吹き抜ける。

二つの影――湊斗と琴音――は、もはやお互いの名前を知っているが、幼い日の約束や感情が入り乱れ、今では“誰が本当に秘密基地の相手か”さえわからなくなっている。

その曖昧さが、まるで最後の砦のように二人を繋げるが、同時に深い曇りをもたらす。これが“最期の夏の想い出”になるのか――漠然とした不安が胸を締めつけた。




夏の終わりが見え隠れする頃、琴音は自宅の鏡の前でじっと自分の姿を見つめていた。髪の毛を軽く整え、うっすらとメイクも施す。いつも銀行員らしい清楚な装いだが、今日は少しだけ「女性らしさ」を意識していた。


(今日こそ……湊斗さんに想いを伝える。すべてを……)


頭の中で何度も唱える。ラフなワンピースに袖を通し、夏の湿気を感じながらも冷房の心地よさに甘んじる。カフェの工事も佳境で、明日には大きな資材搬入があるため、今日しか時間を作れないのだ。



「もし伝えなかったら、もう二度と……彼を失ってしまうかもしれない」との強い焦燥が琴音を突き動かす。


幼い頃の秘密基地、湊斗の失った記憶――もしかすると彼女自身が鍵を握っているのだろうか。

心のざわめきを抑えきれないまま、琴音はスマホに手を伸ばし、湊斗へと連絡を取る。




日中の忙しさを終えた湊斗は、会社に残ってフリーペーパーの校了作業を進めていた。そんな中、夜の10時近くに琴音から電話が入り、「今から少しだけ会えない?」と誘われる。

「この時間に?」と怪訝に思いつつも、琴音の声が今にも壊れそうな響きを帯びていて、放っておけない。湊斗は「わかった」と返事し、急いで会社を後にする。


約束の場所は、街の外れにある小さな展望スポット。夜景が見下ろせる高台だが、人通りも少なく、薄暗い。琴音はそこに車を停め、待っているという。

車で向かう湊斗は、胸に不安が募る。先日のドライブでの告白未遂を思い返すと、今夜こそ本気で何かを打ち明けるのではないか――そう直感していた。




夜の高台。月明かりが雲間に隠れ、街の遠景がぼんやり光るだけ。




琴音は車を降りて柵の前に立ち、すぐ隣に湊斗が並ぶ。



静寂を破るように、琴音はしっとりとした声で話し始める。


「ごめんね、こんな遅い時間に呼び出して……。でも、どうしても今じゃなきゃダメだったの」

「いいですよ。俺も仕事が片付いて……それより、大丈夫ですか? 何かあった?」


琴音は小さく首を振り、「鳴海さん……いや、湊斗さん……」と、初めて名前で呼ぶ。ひどく躊躇した表情だが、そこには決意の色がある。


「私、どうしてもあなたに伝えたいことがあるの。もう我慢できない……夏が終わる前に……」


小さな声が夜風に溶け、溶けるような衝動が全身を駆け巡る。琴音はそっと湊斗の腕に触れ、目を潤ませる。


「……好き。大好きなの。自分でも抑えようとしたけど……無理だった。私はあなたを、想わずにはいられない」


湊斗の瞳が驚きに見開かれ、言葉を失う。琴音は震える唇を噛みながら、さらに身体を近づける。汗ばむ夏の夜の空気が、二人の体温を余計に際立たせる。


「私……ずっと莉緒の影で、あなたの力になれたらいいって思ってた。でも、もう嫌なの……。あなたが必要なの。あなたが好きなの……」


その瞬間、理性が崩れそうになる湊斗。琴音の瞳には滲む涙、唇には切ない熱が宿っている。あのドライブの時とは比べ物にならないほど、強い意志が感じられた。

そして、もはや言葉はいらない――琴音がふっと背伸びをし、湊斗の胸元に腕を回す。熱い唇が触れ合いそうになった刹那、湊斗は思わず目を閉じる。


じりじり……

まるで蛍光灯がショートするように心がノイズを発し、二人の息が絡み合う。――だが、その時、湊斗の脳裏を激しい痛みが貫いた。




「あ……ああっ……!」





湊斗は突如うめき声を上げ、琴音の肩から崩れ落ちるように後退する。頭を抱え込むようにして、その場にうずくまる。



琴音は驚き、慌てて駆け寄る。






「鳴海さん!? どうしたの、大丈夫!?」






と声を張り上げるが、湊斗は息が荒く、顔を歪めたまま言葉にならない。


(何? どうして急に……? 頭痛? それとも……記憶障害……?)


溶けるような衝動の最中、鋭い痛みが脳を刺し、湊斗は記憶のフラッシュバックに翻弄される。幼少期の映像――秘密基地、黒い部屋、誰かの泣き声、そして約束……。



同時に、どこか暗い場所で倒れる自分のイメージが重なり、「灯火」が消えかかっているような絶望感がこみ上げる。


「……ぐっ……はぁ……」



湊斗は汗だくで呼吸を整えられず、琴音が必死に肩を支える。「鳴海さん、しっかりして……救急車呼ぶ?」と焦るが、湊斗は首を振る。



頭を割られるような痛みに耐えながら、朧げに感じるのは「自分の灯火が消えかかっている」感覚。まるで強いフラッシュバックが魂を侵食し、意識が遠のきそうになる。


(俺は……本当に何を失ったんだ? 記憶だけじゃなく……)


思わずそんな錯覚を抱くほど、胸騒ぎと頭痛がひどい。琴音が「落ち着いて、ゆっくり呼吸して……!」と声をかけ、背中をさすってくれるが、湊斗は目を閉じたまま苦しげに唸る。

熱くなった身体が今にも壊れそうで、余韻は一瞬で吹き飛んでしまった。


やがて痛みのピークを過ぎ、湊斗はぐったりと地面に座り込む。琴音は背を支えながら、




「ごめん……私が強引に近づいたから……」




と自分を責める。

しかし湊斗は首を振り、




「違う……琴音さんのせいじゃない。たまにあるんだ、記憶が揺れるときに激しい頭痛が……」




と苦笑する。


だが、その言葉を聞いて琴音は涙をこぼす。自分の告白が湊斗にストレスを与え、記憶障害の発作を招いたのではと感じているのだ。


「こんな形でしか想いを伝えられないなんて……私、最低だね……。大事なあなたを傷つけて……」



「傷ついてなんかない……大丈夫だよ、ほんと。ただ、まだ頭がガンガンしてるけど……ありがとう、気持ちは嬉しい……」


湊斗は琴音の頬に手を伸ばし、涙を拭おうとするが、彼自身も冷や汗がひどく、手が震えている。かつて感じたことのない空虚さが、今まさに二人を包み込んでいた。


止まらない涙をこぼす琴音に、湊斗は申し訳なさを感じながら「もう少しここにいていい?」と弱々しく頼む。




琴音は頷き、そっと彼の肩を抱きかかえるようにして、心配そうに背を撫でる。



二人は深い罪悪感と未練が入り交じるまま、闇夜に佇む。遠くで街の灯がかすかに瞬いているが、ここは二人だけの世界のように暗い。


(私があの女の子になれたら……あなたをこのまま抱きしめて離さないのに……)


琴音は喉の奥でそう呟きかけるが、声にならない。湊斗の痛みが少し収まった頃、彼が申し訳なさそうに立ち上がる。「……送ってもらってもいいかな」と。

帰り道、二人の間にはもう先ほどの衝動は残っていない。苦しみの余韻だけが車内に漂い、窓ガラスは曇り、夏の終わりを告げる風が通り過ぎるだけだった。


その翌日、湊斗は自宅で一日休養を取ることにした。頭痛の再発が怖く、会社にも休みを報告し、医者に行くかどうか迷う。記憶障害の一種なのだろうか――原因は定かでないが、確実に彼の体は限界に近づいている気がする。

横になりながらスマホを見ると、莉緒からメッセージが入っていた。「フルート、少しずつ吹けるようになってきました。今度聴いてもらえるかな?」という内容。

湊斗の胸に、強い罪悪感が走る。昨日、琴音から愛を告白され、唇が触れそうになったことを思い返すと、莉緒にどう向き合えばいいのか分からない。


(莉緒さんも俺を頼ってくれてる。琴音さんはあんなにも苦しんで……。俺はどうしたいんだ?)


頭痛の恐怖も相まって、脳が混乱する。全身が重く、視界が暗くなっていくようだ。


一方、琴音はカフェの工事最終チェックを終えて、夕方には店を閉めている。オープンまであとわずかだが、胸には酷い虚脱感が広がっている。

昨日の情事、湊斗の激痛――すべてが悪い夢のようだった。何かを破壊しそうになった自分と、心が壊れそうな彼を同時に思い浮かべ、夏の終わりを感じずにいられない。


(伝えたのに……彼は応えられない。わかってたけど……)


暗い店内で、琴音は薄明かりに照らされたカウンターに座り、静かに目を閉じる。外のセミの声はもう消えかけていて、風が涼しさを増している。

最期の夏が確実に終わりを告げようとしている中、琴音の想いも、湊斗の灯火も、どこかで揺れながら消えかかっている。――このままでは、何もかもが終わってしまうのかもしれない。


「……湊斗さん……ごめんね……」


呟いた声は誰にも届かない。空に浮かぶ雲は、夜の帳に染まりきって曇るばかり。夏の果てが、静かに溶けるように闇を深めていった。




夏が終わりを告げる頃、街には微かに秋の匂いが漂い始めていた。蝉の声が少なくなり、かわりに遠くで秋虫の鳴き声が響く。

湊斗は、先日の激しい頭痛を機に精密検査を受けることになり、病院へ足を運んだ。医師からは「何らかの脳の異常が疑われる」「再検査が必要」という曖昧な回答を受け、次の受診日が設定される。


(本当に、俺の命が長くないかもしれない……そんなバカな……)


漠然とした恐怖が胸を占める。記憶障害が事故の後遺症だけでなく、何か重篤な病気に起因するのではないか――そう考えると、灯火が消えかかっているようにしか思えない。

湊斗は誰にも言えず、診察室を出ると一人で帰路につく。曇りがちな空から風が吹き抜け、夏の熱気が遠ざかる寂しさをひしひしと感じた。


カフェの内装がほぼ完成し、オープンまであと1週間という時期。琴音は忙殺されながらも、心が晴れなかった。

――あの深夜に想いをぶつけたが、彼は頭痛で苦しみ、そのまま曖昧に終わってしまった。二人の間には何も確約できず、むしろ以前より関係がギクシャクしている感触がある。


「私があの女の子になればいいって、本気で思ってた。でも……そんなこと、できるわけないよね……」


独り言のように呟きながら、カウンターに置かれた鏡をのぞく。自分の顔がどこかやつれて見え、目が赤い。睡眠も十分に取れず、食事もままならない日々だ。

愛しい人を想う気持ちは歪み、彼女の心に不穏な黒い影を落としていく。まるで“誰かの命が消えゆく”ことを予感するように、琴音の胸は重苦しく締め付けられていた。


一方、莉緒はフルートの練習に少しずつ慣れてきた。相変わらず事故のフラッシュバックはあるが、少なくとも音を出して演奏をなぞる程度はこなせるようになった。

紗英先輩の文化施設で行われる発表会にも、「よければ一曲だけでも吹かない?」と声をかけられており、少し前向きに検討している。


(湊斗さんにも、いつかちゃんと聴いてもらいたい……)


しかし、彼からの連絡は少なく、何かを抱えている様子はうっすら感じる。琴音からも音沙汰がなく、心に不安が広がる。

秋の気配が深まりつつある空を見上げ、莉緒は「もう夏が終わってしまうんだ……」とつぶやく。母を失ったあの季節、二度と戻らない時間――それでもフルートだけが、彼女の支えになっていた。


数日後の夕方、商店街の外れで、偶然にも琴音と莉緒が鉢合わせする。カフェのオープン準備で業者に挨拶をしていた琴音と、買い出し帰りの莉緒が出会ったのだ。

「莉緒……久しぶり」

「琴音……カフェ、いよいよなんだよね? おめでとう……」


互いに微妙な笑みを浮かべ、気まずい沈黙が落ちる。湊斗の名前を出すかどうか逡巡しながら、二人は結局何も話せずに視線を泳がせる。

まるで交差する視線が決して交わらず、虚空へ溶けていくかのようだ。心の中では「湊斗のことを、どう思ってる?」という問いが叫びたがっているが、声にできない。


(私……莉緒に嫉妬してるんだ。でも、莉緒だって苦しんでる。どうしてこんな……)


琴音は何度もそう考える。結局、短い会話も盛り上がらないまま別れを告げ、二人はすれ違うように去っていく。曇りがちな秋の風が通り抜け、無意味に消えていくものが心をかすめる。


湊斗は、医師の指示で再度脳の検査を受ける日を迎えた。結果はまだ断定できないが、脳腫瘍の可能性を否定できないという示唆があり、一気に危機感が募る。

医師は慎重に言葉を選んでいるが、「もう少し精密な検査をしましょう」というだけでも十分恐ろしい。


(俺…………死ぬのか?)


夏の終わりから秋への移ろい――それと比例するように、自分の命の灯火が薄れている気がして湊斗の心はひび割れていく。

しかし、それを琴音や莉緒に打ち明けられる勇気はない。事故のトラウマだけではなく、もっと根本的な病が自分を蝕んでいるなんて、彼女たちを苦しめるだけではないか――そう思うと、口を閉ざすしかない。




拓海は相変わらず仕事の合間に湊斗と莉緒、琴音の動向を探っている。老舗取材を装いながら商店街を徘徊し、カフェの工事現場を横目に見て、白川屋の休業状態もチェックする。

あるとき、拓海は再びあの空き地を訪れ、「本当に、ここで湊斗が何を見つけたんだ?」と苛立ち混じりに足を踏み入れる。

しかし、草むらの奥にある物置を見ても、子供の落書きや古い紙切れが散乱しており、“莉緒”という文字は見えない。むしろ、“こと…”という字が微かに読み取れる気もするが、はっきりせず苛立つ。


(まさか、あの子が……)


拓海の頭をよぎるのは、琴音の存在だ。彼女が幼少期、この辺りに住んでいたという噂は聞いたことがある。もし湊斗が勘違いで“莉緒と秘密基地”と思い込んでいたなら、混乱はさらに深まるに違いない。

拓海は「面白くなってきた」と冷たい笑みを浮かべる。――湊斗の命に危機が迫っているなどとは露知らず、彼は三人を引き裂く材料を探そうとするかのように、暗い視線をめぐらせる。


カフェのオープン予定日がついに明後日に迫った頃、街はすっかり秋めいている。木々の葉が少し色づき、涼しい風が通りを吹き抜ける。

琴音は店内の最後の清掃をしながら、昨日の夜に湊斗から連絡が来ていないことを気にしていた。彼は病院の検査があったと言っていたが、その後どうなったのか――。


「……連絡くれるって言ってたのに……」


すでに夜になりかけて、シャッターを下ろす瞬間、携帯が震える。「湊斗さんだ……!」と思いきや、画面には見知らぬ番号。出てみると、病院の関係者が「湊斗さんという方の緊急連絡先に、あなたの名前があったんですが……」と話す。

琴音の心臓が一気に高鳴る。湊斗が倒れたのだろうか――秋の風が冷たく、胸を刺すような痛みが走る。


病院へ駆けつけた琴音を待っていたのは、簡単な説明をする看護師。湊斗は夕方に検査結果を聞いた際、急なめまいで意識を失い、そのまま一時的に入院という形になったという。

医師は「まだ詳しいことは言えないが、頭部に影がある可能性。検査入院が必要」と淡々と説明する。琴音の目には涙が滲む。湊斗は病室で横になり、辛そうに目を閉じている。


(私のせいで……もしあの日、あんな衝動をぶつけなければ、湊斗さんはもっと穏やかに過ごせたのでは……)


自分を責める思いと、湊斗の命に対する不安が入り混じり、琴音は視界がぼやける。夏から秋へ――命の灯が消えそうだという現実が、胸を苦しく締めつける。


同じ夜、莉緒は湊斗の“検査結果報告”を待っていたが、連絡が来ない。既に遅い時刻になってしまったため、「明日こちらから電話してみよう」とスマホを置こうとすると、着信が入る。

発信元は琴音――急ぎの声で「湊斗さんが入院した、詳しいことはわからないけど頭の検査で……」と告げられ、莉緒は息を飲む。


「そんな……どうして……? 今はどこの病院に……」

琴音から病院名を聞くと、莉緒はすぐに向かおうとするが、琴音は「今日はもう面会時間が過ぎてるから、明日でもいいと思う」と止める。

電話越しに聞こえる琴音の声は震えていて、いつもの柔らかい雰囲気はない。莉緒は不安を抱えながら、「わかった。明日すぐ行くね……」とだけ答え、通話を切る。


呆然と部屋に立ち尽くし、湊斗の命が消えかかっているかもしれない現実を想像すると、涙がこぼれ落ちる。母を失ったばかりで、また大切な人を失う可能性があるなんて――。


翌朝、病院の廊下で琴音と莉緒が鉢合わせする。琴音はカフェのオープン目前で時間がないにもかかわらず、朝から湊斗の病室を見舞いに来ていた。

莉緒もフルートの発表会準備を抱えながらも、気が気でないまま駆けつける。二人は無言のまま会釈するが、視線が上手く合わず、ぎこちない空気が漂う。


「湊斗さん、どう……?」

「まだ詳しい検査中で、結果は聞けてない。昨日は意識が混乱してて、あんまり話せなかった……」


か細い声で応じる琴音の瞳には涙がにじみ、莉緒の胸も痛む。一歩遅れてやって来た拓海が廊下の奥に立ち、三人の姿を見つめるが、あえて口を出さない。

まるで全員が観客席で見守っているかのようだが、誰もが交差する視線を逸らし合い、ただ曇った想いを抱えるばかり。湊斗の命が消えかかっているという現実が、これまでの人間関係をあっけなく“無意味”にしてしまうのではないか――そんな絶望が胸に広がっていく。


湊斗が緊急入院して数日。医師からは、脳腫瘍の可能性を示唆され、精密検査と治療方針の検討が続いている。

湊斗は病室のベッドに横たわり、長年抱えてきた記憶障害が実はこの病気と関係があったのではと察していた。頭痛やめまい、過去のフラッシュバック――すべてが身体の悲鳴だったのかもしれない。


(俺……本当に死ぬのかな。音楽イベントも、フリーペーパーの仕事も、何もかも中途半端で……)


その思いに囚われるたび、心の奥が冷えていく。命の灯火が消えかかっている――そう実感するほど、日を追うごとに体力も落ちていた。

病室のカーテン越しに見える空は、すっかり秋の薄雲に覆われ、夏の光はもう届かない。




莉緒は、フルートを抱えたまま病院に通う日々が続いている。湊斗が眠っているときも、廊下でそっと音を出してみるが、思うような演奏はできない。

それでも、音を紡ぐことで「彼を失いたくない」という想いを形にしているように感じるからだ。周囲の看護師も「静かで綺麗な音ね」と優しく見守っている。


「私が……もっと早く気づいていれば、湊斗さんをこんな苦しみから救えたかな……」


フルートのマウスピースに唇を当てながら、涙が零れる。事故のせいでずっと湊斗に負い目を感じていたが、それ以上に大切な人がいなくなってしまうかもしれない恐怖が大きい。

母を失った夏が過ぎ、今度は湊斗まで失うのか――その暗い予感が、莉緒の心を締め付けて離さない。


琴音は、カフェを無事にオープンさせた。内装も落ち着き、初日からそこそこ客入りも良い。しかし、心から喜べないのが現状だった。

開店を祝う人々に感謝を伝えつつも、頭の中はいつも湊斗の容態で一杯。夕方には店を閉め、病院に駆けつけたい衝動に駆られるが、実際に行けば莉緒が先に付き添っている可能性が高い。




カウンターの奥で手を組み、震える指先を見つめる琴音。せっかくの夢だったはずのカフェが、今は何の彩りも感じられない。まるで初秋の冷たい風が、店内に吹き込んでいるかのようだ。




そんな中、カフェを訪ねてきた人物がいた。――北園拓海。昼間の空いた時間を見計らい、スーツ姿でカウンターに座る。

琴音は表情を固くしながら「いらっしゃいませ……」と接客するが、拓海は冷めた目で店内を見回す。そして、簡単な挨拶の後、湊斗の入院について尋ねてくる。


「鳴海が倒れたそうだが、詳しい病状は聞いてるか? 死ぬのかもしれない、という噂を聞いたが……」

「そんな、死ぬなんて……わからないですよ、まだ……。手術が必要とか言われてるけど、まだ決まっていなくて……」


琴音の声が揺れる。拓海はフッと苦笑し、「そうか。あいつも大変だな……」と他人事のように呟く。その目には何か暗い影が潜み、“鳴海のいない未来”を計算しているようにも見える。

(もし湊斗が消えたら、莉緒は……いや、そんな考えは邪道か)


一瞬の戸惑いを胸に隠し、拓海はコーヒーを一口含み、「君の店、なかなかいい雰囲気だな」と余裕の笑みを浮かべる。琴音は不快感を抑え、「ありがとうございます」とだけ返す。

何かが崩れ落ちる寸前のような危うい静けさが、二人の間に漂った。


翌日、湊斗は医師から「脳腫瘍の可能性が非常に高い」「早急に手術を検討するべきだ」と告げられた。場所が悪ければ後遺症や生命の危険もあるとのこと。

意識が朧げに揺れ、「俺、そんなに重病だったのか……」と咳き込む。そばには莉緒が座っており、泣き腫らした目で「しっかりして……手術すればきっと治るよ」と励ます。


(でも、命が消えるかもしれない。俺はまだ何も果たしていないのに……)


朧な視界の中、湊斗の記憶が錯綜する。秘密基地、事故、琴音の泣き顔、莉緒のフルート――すべてが交錯し、彼の心を掻き乱す。まるで最後の灯火が風前の灯のように揺れている。

莉緒は必死に呼びかける。「生きて、またフルート聴いてほしい……。私、頑張って練習したから、秋の発表会で吹きたいの……」

湊斗はか細い笑みを作り、何とか頷くが、その瞬間また目の前が暗転しかけ、意識を失いそうになる。


医師からは緊急手術の日程が提示され、湊斗は承諾せざるを得なかった。もし手術をしなければ、確実に腫瘍が進行して死に至る可能性が高い。成功率は決して高くないが、賭けるしかない。


「……わかった。お願いします……」


莉緒は涙を浮かべながら湊斗の手を握り、琴音も駆けつけて同じように祈りの表情を見せる。拓海は遠巻きに立っており、何も言葉を発せず複雑な眼差しを向ける。

奇妙な四人の輪が、病室の外で沈黙を共有する――夏はすでに通り過ぎ、秋の風が窓の外を支配している。虚無感が漂う中、医師が「それでは、手術の準備をします」と淡々と告げる。


手術当日。湊斗は朝から点滴を受け、手術室へ運ばれるまでの待機時間を過ごしている。莉緒と琴音がそばについていたが、琴音はある種の壊れた笑みを浮かべていた。

(これが最期かもしれない。私の想いは結局伝えきれず、湊斗さんは……消えてしまうの?)


内心の動揺で呼吸が苦しくなる琴音。莉緒もフルートケースを抱え、「絶対、生きて帰ってきて……私、演奏するから……」と湊斗に泣きそうな笑みを投げかける。

それを見て琴音の胸にまた鋭い痛みが走る。――彼女の心に誓った言葉がよみがえる。「私が“莉緒”になれたら」――けれど、そんな自己暗示も虚しいほど現実は容赦ない。湊斗はもう死ぬかもしれないのだ。


手術室へ向かう前、ほんの一瞬だけ琴音が湊斗と二人きりになるチャンスが訪れる。莉緒が処置の手続きを確認しに行き、拓海も看護師に呼ばれて離席したのだ。

ベッドの横に立つ琴音は顔を伏せ、涙を堪えきれないまま湊斗の手を握る。


「ごめんね……こんなときに、私、あなたに触れていたいなんて……」

「琴音さん……」


湊斗も苦しそうに息をつきながら、かすれた声で言葉を返す。「ありがとう……いろいろ迷惑かけて……」

琴音は首を振り、「迷惑なんて……私が、もっとあなたを救えたらよかった……」と詫びると、前のめりに唇を近づけ――一瞬、湊斗の唇に触れる。

それは、先日果たせなかった未遂のキスのように短く、震えるほど儚いもの。しかし、間違いなく唇が重なった。


医師たちが現れ、湊斗を車椅子に乗せて手術室へ搬送し始める。莉緒と琴音、拓海が廊下で見送る形となり、湊斗は最後の力で笑みを作ろうとするが、それも叶わず目を閉じる。

ドアが閉まり、無機質な白い廊下に三人が残される。――あの音楽イベント、フルートの発表会、カフェの開店……すべてが色褪せて思えるほど、湊斗の命の行方は重くのしかかる。

やがて看護師により「手術は数時間かかる」と告げられ、三人は待合室で重苦しい空気を共有する。しかし、会話はない。視線も交わらない。むしろ拓海は「俺は仕事がある」と言い訳し、すぐに立ち去る。

秋の音が病院の窓外で鳴っているような錯覚――それも遠のくばかりだ。




夜が更けても手術室のランプは点灯したまま。莉緒と琴音はただ祈るしかできない。過去のしがらみや秘密基地の思い出、どれも今は関係なく、湊斗の命が助かってほしいという一点に尽きる。

時計の針が深夜を指そうとするとき、ドアが開き、医師が険しい表情で出てくる。血の気が引くように立ち上がる二人に、医師はやや疲れた声で告げる。


「……手術は峠を越しましたが、まだ安心はできません。意識が戻るかどうか、今夜は予断を許さない状態です」


莉緒は腰が抜けそうになり、琴音が支える。二人は何も言えず、廊下にへたり込むように座りこむ。命はつながったが、湊斗がこのまま意識不明になってしまうかもしれないという恐れが頭をよぎる。

夏はすでに終わり、秋が深くなる。このまま彼の灯火が消えてしまうのか――絶望が二人を呑み込もうとする。


しかし、一瞬だけ病室の奥から微かな電子音が聞こえ、医師や看護師が慌ただしく走る。「意識……戻りましたか!?」と莉緒が声を上げるが、誰も答えない。

その微かな希望が“わずかな光”として二人の胸に灯り、同時に暗い闇がさらに深まる予兆でもあった。

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