第一章:春の風が運ぶ予感−2
白川屋での取材を終えた拓海が去った翌日。湊斗は朝一番で会社に向かう途中、ふと懐かしい夢を見た気がしていた。
それは幼い頃の断片のようなイメージ――どこかの店先で小さな女の子と笑い合っている光景。だが、輪郭はぼやけており、詳しいことは思い出せない。
(またあの夢か……最近やけに見るようになったな)
数年前にも同じような断片的な夢を見たことがあった。だが、そのときは記憶が戻る気配はなかったし、ただの夢だと思って気にも留めなかった。
しかし、白川屋の写真を見て以来、この“懐かしい光景”が繰り返し夢に出てくる。人の顔ははっきりしないが、店先の雰囲気はどことなく白川屋に似ている気がする――そう考えると、ただの夢で片付けられなくなってきた。
「おはよう、鳴海くん」
会社に着くと、先輩の川瀬が挨拶を交わしながら、机の上に置いてあった書類を手渡してくる。
「例の地元フリーペーパーのレイアウト案が上がったから確認してくれ。白川屋の記事の部分、デザイナーがサンプル版を作ってくれたぞ」
「あ、ありがとうございます。早速チェックしますね」
湊斗は椅子に腰掛け、デザイナーがまとめた誌面を確認する。写真や見出しが配置され、仮の文字組みが施されている。仮といえど、かなり完成形に近い。
ページを繰ると、白川屋の外観や古い棚、母のインタビュー、そして莉緒のほんのり微笑む写真が目に留まる。そこに添えられたキャプションを読みながら、湊斗は心が温かくなるのを感じた。
(ここまで形になると、ようやく“取材してよかった”って実感が湧くな……)
ただ、記事は大枠で問題ないものの、細かい修正点や文章の整合性がまだ残っている。湊斗はノートパソコンを開き、メモをとりつつ赤入れ作業を始めた。
しかし、どうしても先ほどの夢と“あの写真”が脳裏にちらつく。もしかすると、白川屋で過ごした幼少期の記憶があるのではないか――そう思うと、集中力が削がれるのを感じる。
「……仕事に集中、仕事に集中……」
小さくつぶやき、自分を奮い立たせる。今はフリーペーパーの完成が最優先だ。記憶の問題は、そのあとで改めて考えればいい――湊斗はそう言い聞かせ、校正に没頭していった。
同じ日の午後、莉緒は駅近くのカフェで幼馴染の琴音と待ち合わせをしていた。店を継ごうか迷っている思いや、幼少期の湊斗と繋がりがあったかもしれないという不安を、琴音に話したかったからだ。
ふたりはテーブルに向かい合いながら、カフェラテとケーキを注文する。混雑時を外したためか、店内は落ち着いた雰囲気で、ゆっくり話ができそうだった。
「それでね、この間、父のノートの中から“鳴海さんの孫を預かる”ってメモを見つけちゃって……。お母さんもあんまり覚えてないみたいだけど、湊斗さんのことじゃないかって気がするの」
莉緒が深刻そうに打ち明けると、琴音は目を丸くして「それってほぼ確定じゃない?」と身を乗り出す。
「湊斗さん、確か幼い頃にご両親を亡くしたって言ってたよね。おじいちゃんおばあちゃんに育てられたって。もしその時期に莉緒と一緒に遊んでたなら……ずっと昔からの知り合いだよ」
「でも、本人は全然覚えてないんだよね。記憶が飛んでるというか、心因性の障害らしくて……。私も無闇に刺激したら悪いんじゃないかって、何て伝えればいいのか分からなくて」
莉緒はケーキを一口つまみ、複雑な表情を浮かべる。自分もはっきり覚えているわけではない。唯一のヒントが、父のノートと写真だけなのだ。
琴音はしばらく考え込んでいたが、やがてやや控えめな声で提案する。
「いずれ本人に話すべきだと思うよ。湊斗さん自身も、自分の過去を知ることで救われるかもしれないし……。それが原因で傷つくかもしれないけど、今のまま何も知らないでいるよりは、いい方向に進むかも」
「……そうだよね。私もそう思う。ただ、そのタイミングを考えてて……。彼の仕事も忙しいだろうし、母さんの体調もやっと安定してきたところだし」
莉緒がため息をつくと、琴音は笑みを浮かべて彼女の手を軽く叩く。
「大丈夫、莉緒なら上手くやれるよ。まずは自分の気持ちを整理して、伝える言葉を用意すればいいんじゃない? 一気に全部をぶちまけるんじゃなくて、ゆっくり経緯を話してさ」
「うん……。ありがとう、琴音」
莉緒はほっとしたように微笑み、カフェラテを口にする。ほのかに広がる苦味とミルクの甘さが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
――この相談が終わると、琴音は自分のカフェ開業の候補物件について語り始める。二人はお互いの夢と悩みを共有しながら、初夏のゆるやかな午後を過ごしていった。
数日後の午後、地元の文化ホールで小さな催し物が開かれていた。地元企業や出版社がブースを出し、地域の魅力をPRする場である。地元出版社のブースの一員として湊斗も参加し、制作中のフリーペーパーをチラシとして配布するのが役目だ。
ブースの飾り付けを終え、湊斗は机の上にチラシや資料を並べる。そのフリーペーパーの試作品には白川屋の記事の一部がダイジェストとして紹介されていた。
「こんにちはー。よかったら見ていってくださいねー」
通りがかった人に声をかけながら、小さく手を振る。それほど大規模なイベントではないが、地元の方々が集まる機会でもあり、新しい読者の開拓につながる。
そんな中、ふと湊斗の視界にスーツ姿の男性が入った。見覚えはないが、どこか気になる雰囲気がある。男性も同じように湊斗のブースを見て、一瞬立ち止まった。
「……あなたが、湊斗さん?」
男――拓海は名刺を差し出し、静かながら鋭い視線を向けてきた。大手出版社の名刺には確かに「拓海」と書かれている。
湊斗は驚きながら「はい、そうですが……」と名刺を受け取る。すると、拓海はやや緊張した面持ちで言葉を続ける。
「俺も出版社で働いてるんです。地方支社に来て間もないけど、地元の行事や企業ブースをちょっと見に来てて……。鳴海さんの話は、莉緒から聞いてました」
「莉緒……あっ、白川屋の……」
思わず声が上ずる。莉緒と同じく白川屋を取材している大手出版社の人――それが拓海だと瞬時に悟る。
一方の拓海も「ふん……やっぱりこいつが地元出版社の編集者か」と心中で呟き、やや複雑な心境で湊斗を見つめる。
「白川屋の取材を進めていると聞きました。俺も先日、ようやくアポを取って話を聞いたばかりで……」
「あ、そうなんですね。僕もフリーペーパーで白川屋さんの記事を作ってて……。店主のお母さん、だいぶ元気になってよかったですよね」
ぎこちない会話が続く。二人ともライバル関係であることを自覚しつつ、表向きは穏やかに会話を交わす。
ただ、その内心は決して平穏ではない。湊斗は「大手出版社の人が白川屋をどう扱うんだろう」と不安を感じ、拓海は「地元密着型の湊斗が先に莉緒との関係を築いている」と嫉妬にも似た感情を抱いている。
「白川屋は……魅力的な店ですよね。やっぱり、ああいう老舗には独特のストーリーがあるし……」
「そうだな。俺もそう思うよ。ストーリーがあるからこそ、取材する意味があるわけだ」
一見なんでもない会話だが、それぞれの胸中では駆け引きが起こっている。ひとしきり会話をした後、拓海は名刺をしまいながら、「もし何かあれば連絡してくれ」と言い残して足早に去った。
湊斗はその後ろ姿を見送りながら、なぜか冷や汗がにじむのを感じる。彼の目つきは明らかに「ただの同業者」という程度ではなかった。
「拓海……白川屋を取材する先輩……。莉緒さんとも大学の吹奏楽部で繋がりがあったって言ってたな……」
わずかな嫉妬や焦りが、湊斗の心に芽生え始めていた。取材対象である莉緒に対する好意とも言えないが、確かに生まれかけている感情――それが、北園の存在によって刺激される形となって、心をざわつかせる。
イベント会場から戻った湊斗は、自宅で一人、夕食を済ませてからふとスマホを手に取る。今日は一日の出来事があまりにも多く、頭が追いつかない。拓海と初めて言葉を交わした衝撃がまだ残っている。
すると、そのタイミングでスマホが震え、画面に「莉緒」の名前が表示された。急いで通話ボタンを押す。
「もしもし、鳴海さん? こんな時間にごめんなさい、もう夜だから迷惑だったら……」
「いえ、全然大丈夫ですよ。どうしました?」
莉緒は少し緊張した様子で深呼吸し、「実はちょっとお話ししたいことがあって……」と切り出す。
「前に言った父のノートから、鳴海さんのご家族の名前らしきものを見つけたんです。それで、もし鳴海さんと幼い頃から何か繋がりがあったなら……教えてあげたいなって思って」
「……え? 僕とですか……?」
湊斗は予期せぬ言葉に動揺を隠せない。やはり、あの写真の男の子と自分が関係あるのではないか――そんな予感はしていたが、莉緒がそこまで具体的に話をしてくるとは思っていなかった。
莉緒は続ける。声は少し震えていたが、真剣さが伝わってくる。
「勝手に首を突っ込んで傷つけたくないけど、湊斗さんが何も知らずにいるよりは、一緒に確かめたいんです。私も覚えてないことが多いから、父のノートと写真を手掛かりに……」
「……わかりました。ありがとうございます。僕も正直、最近いろんな夢を見ていて、子供の頃の記憶が曖昧で……。もし何か分かるなら、知りたいです」
二人の間にしばし沈黙が流れる。莉緒は自分が“湊斗さん”と呼んでいることに気づき、一瞬恥ずかしさを感じるが、いまはそれどころではない。
そして、莉緒は意を決して「週末、時間ありますか?」と尋ねる。
「店がちょうどお休みで、母も用事があるから、あまり人のいないタイミングでゆっくりノートや写真を見られると思うんです」
「はい、大丈夫です。僕も週末なら調整できますから……。じゃあ、白川屋に行けばいいですか?」
「ええ、それで。お待ちしてます」
通話を切った後、湊斗はしばらくスマホを見つめ続ける。今度こそ、自分の失われた幼少期の記憶が明らかになるかもしれない――そう考えると、不安と期待が入り混じった不思議な感情がこみ上げる。
(莉緒さんも、わざわざ電話で打ち明けてくれたってことは、覚悟してくれてるんだな……)
一方の莉緒も、通話を終えてから一気に力が抜けたようにソファに倒れ込む。緊張感と安堵が混じり合う中で、胸の鼓動がはっきりと聞こえる気がする。
――この週末が、二人にとっての大きな転換点になりそうだ。それは、店の行く末だけでなく、幼い頃から繋がる縁がどんな未来を開いていくのかという運命の分かれ道でもある。
週末の約束が迫る中、拓海は焦燥感と苛立ちを募らせていた。莉緒との取材はできたものの、心の距離は縮まらず、彼女の悩みにも踏み込めていないと感じるからだ。
「白川屋」の記事をどうまとめるかという仕事上の課題もあるが、何より大学時代の後輩である莉緒が苦悩している姿を見ると、いてもたってもいられなくなる。
(あの地方出版社の男――鳴海とかいったな。何だか莉緒と親しそうだったけど……)
拓海はパソコンの画面を見つめながら思考を巡らせる。仕事で使うSNSや地元情報サイトをチェックしていると、“地元出版社の若手編集・湊斗”の名前が時々目につく。
どうやら地域活動や小さなイベントにも積極的に参加しているようで、人間関係も広そうだ――そう思うと、一層やきもきした。
「俺は東京で結果を出してきた。こんな地方支社に来ても、ちゃんとやれるはずだ……」
自分にそう言い聞かせるたび、心に疑念が芽生える。東京では一流の仕事をしてきたつもりでも、地方では地元と密につながる人間のほうが圧倒的に強い。
さらに、“莉緒に近い存在”として湊斗が浮上している状況が、拓海の競争心と嫉妬心を煽っていた。
「だが、俺は諦めない。莉緒を救いたいし、白川屋を通じてこの地域で結果を残すんだ――」
そんな決意を胸に秘めつつも、具体的な策はまだ見えていない。週末には莉緒が店を休むと聞いたが、自分が急に訪ねていけばまた迷惑をかけるだけだ。
焦りとは裏腹に、できることが見当たらず、拓海は拳を握りしめた。東京では成果を積んだ彼でも、この土地と莉緒という存在の前では思うように行かないのだ。
こうして、湊斗と莉緒が“幼少期の真実”へと一歩踏み出そうとしている一方、拓海はその関係を知る由もなく、自分なりの苦悩を深めていた。
次なる局面――週末に行われる「湊斗と莉緒の再会」は、記憶の扉を開くカギとなるのだろうか。
そして、それを契機に、人間関係もまた大きく変化の兆しを見せ始める。
週末を数日後に控えたある平日の午後。湊斗は取材先との打ち合わせを終え、会社へ戻る前に少し寄り道をしていた。行きつけの小さなコーヒースタンドでテイクアウトのアイスコーヒーを買おうとしたところ、意外な人物と鉢合わせしたのだ。
「――あ、鳴海さん?」
驚いた声を上げたのは琴音。莉緒の幼馴染として以前から名前は聞いていたが、湊斗が直接話すのはこれが初めてだった。
琴音は銀行の制服姿ではなく、私服で立ち寄った様子。カウンターで注文を待っていたらしく、湊斗に気づいて声をかけたようだ。
「えっと……莉緒さんのご友人の、雨宮さん……でしたよね? こんにちは」
「はい、初めまして。いつも莉緒がお世話になってます。私、琴音っていいます」
琴音はそう名乗り、丁寧に会釈をする。湊斗も「湊斗です」と自己紹介をし、軽く握手を交わす。
小さな店内は空いており、二人とも受け取りを待つ間、何とも言えない居心地の良い沈黙が流れた。「ずっとお話ししたかったんですよ。莉緒がいつも『鳴海さんが店のことをすごく考えてくれてる』って言ってたので……」
「いや、こちらこそ。白川屋の取材をきっかけに仲良くなっただけで、たいしたことは何も……」
湊斗が照れくさそうに言うと、琴音はくすっと笑う。そして小声で続けた。
「莉緒がね、鳴海さんのこと信頼してるみたいなので、私も直接お礼を言いたかったんです。店のこともそうだけど、いろいろ助けられてるみたいだから……」
「そんな……。ただ、僕自身もあのお店や莉緒さんの家族に惹かれてるだけですよ。取材してるうちに、自然と深く関わりたくなったっていうか……」
ふわりとした空気が二人を包む。外は暑さを感じる季節になりつつあるが、店内のクーラーは程よく効いており、どこか落ち着いた雰囲気。
琴音は注文したアイスコーヒーを受け取り、ストローを袋から抜きながら、少しだけ顔を赤らめて言った。
「私、莉緒の幼馴染で、いつも近くで見てきたんです。だから、彼女が最近元気になってきたのがすごく嬉しくて……鳴海さんには感謝してるんです」
「いや、そんな……。僕のほうこそ、何というか……莉緒さんに救われてる部分もあるし、白川屋という場所にも元気をもらってるから。ありがとうなんて言われるほどじゃないですよ」
その謙虚な口調に、琴音は思わず頬を緩めた。穏やかで柔らかな印象の湊斗が、どこか莉緒と合いそうだという予感がする。
しかし同時に、胸の奥に小さなざわめきが生まれるのを感じる。自分も莉緒を応援しつつ、この男性の穏やかな雰囲気に「いい人だな」と感じてしまうのだ。
――ほんの数秒、視線が重なる。理由もなく琴音はドキリとする。目の前の相手は幼馴染の“気になる相手”かもしれない。でも、だからこそ少し胸が高鳴ってしまったのも事実。
「……あ、すみません。お先にどうぞ」
店員が湊斗のコーヒーを渡すのを見届け、琴音は我に返るように目を逸らした。二人して軽く頭を下げ合い、「じゃあ、また」と言って店を出る。
外に出た瞬間、夏の始まりを告げるような熱気が二人を包んだ。琴音は手にしたアイスコーヒーを一口飲み、内心で軽くため息をつく。
(なんだろう、今の……。ただの莉緒の友人だし、私も“彼”をどうこう思うわけじゃないのに……)
一方、湊斗も少しだけ胸の奥がくすぐられるような違和感を覚えていた。莉緒とはまた違った雰囲気の柔らかさを持つ琴音――彼女の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
少し遅めの昼下がり、二人の間には何とも言えない淡い空気が流れ、思わずドキッとするひと幕となったのだった。
そして迎えた週末。湊斗は約束どおり白川屋を訪れた。晴天の空の下、商店街を抜けると、古い看板が朝日を受けて柔らかく光って見える。
店内のシャッターは半分だけ開き、「本日休業」の札がかかっていたが、扉は開けられるようになっていた。
「おじゃましまーす。莉緒さん、いますか?」
声をかけながら足を踏み入れると、奥から莉緒が「どうぞー」と応じる。店内には商品が陳列された棚が並んでいるが、照明は控えめで、どこか静寂が漂っていた。
「こんにちは。今日は母さん、用事で出かけてて留守なんです。だから気にせず店の奥の部屋で話しましょう」
「わかりました。お邪魔しますね」
そうして奥の居間へ通されると、そこには例の段ボール箱が積まれていた。父のノートや写真が並び、テーブルの上には莉緒が準備した数冊のスクラップブックが置いてある。
「前にも見せたものもあるけど、改めて整理してたら、他にもいろいろ出てきて……。今回のメインはこっちかな」
莉緒が指さしたのは、一番上に載った厚めのノート。表紙に「メモ」とだけ書かれたシンプルなものだが、中を見ると父が日々の出来事を簡単に書き留めた走り書きが大量に残っている。
湊斗は椅子に腰掛け、ノートを開きながら瞬きを繰り返す。いまから自分の幼少期に関わることが書いてあるかもしれない――そう思うだけで心拍数が高まっていた。
「緊張しますね……。本当に、これで何かが分かるのかな」
「わからないけど、私の父が『近所の鳴海さん』って名前を残してるのは確実だし……。あと、前にも見せた子どもの写真とか」
莉緒が古い写真を取り出す。そこにはまだ幼い莉緒と、ぼんやりと写った男の子――先日の取材で湊斗が見て以来、ずっと気にしていた写真だ。
改めてじっくり眺めると、店の外観が確かに白川屋に見える。子どもたちが遊んでいる場所も、このカウンター裏にある土間部分と似ている気がする。
「この男の子、やっぱり僕なんですかね……」
「うーん、たぶん。お母さんの記憶だと、当時この近くに“鳴海”というおじいさんと小さな男の子が住んでいたらしいんです。おばあさんも一緒だったかどうかはよく覚えてないみたいだけど……」
二人はノートをページごとにめくり、日付と共に書かれたメモを追っていく。そこには店の仕入れリストや常連客の特徴、商店街のイベントなど多種多様な記述がある。
そして、あるページにこんな文言があった。
「鳴海さんの孫、また遊びに来る。大人しくて優しい子。まだ両親を亡くして間もないらしいが、おじいちゃんが一生懸命育ててるようだ」
湊斗の目に触れた瞬間、胸が一気に締めつけられる。両親を亡くして間もない――まさに、自分の幼少期の境遇と一致する。
莉緒もそれを確認し、「やっぱり……」と息を呑む。
「……俺ですね、これ。間違いないです。祖父母に育てられたのは確かだし……。でも、こんなふうに書かれてるなんて」
「鳴海さん、無理しないでね。もし思い出すのが辛かったら……」
莉緒が心配そうに声をかけるが、湊斗は首を振る。
「いえ、むしろ知れてよかったです。小さい頃の自分が、この白川屋の人に優しくしてもらってたなんて、なんだか救われる思いです」
その言葉に、莉緒は少し安堵する。そして、さらにページをめくると、また別のメモが現れた。
「鳴海さんの孫、りお(莉緒)と一緒に遊ぶのが好き。りおも嬉しそうだ。二人とも音楽が流れると楽しそうに歌う。微笑ましい」
「音楽……?」
莉緒は思わず声を上げる。自分がフルートを始めるよりずっと前から、音楽が好きだった記憶はあるが、具体的なエピソードは思い出せない。
一方、湊斗は何かが胸に引っかかる感覚を覚える。幼い頃の自分が、音楽に合わせて歌う――そんなイメージがふと瞼の裏に浮かんできたのだ。
「僕……音楽を聴いて歌ってた……? そんな性格だったかな……」
「ふふ、なんだか可愛いね、湊斗さんの小さい頃……」
莉緒が笑みを漏らすと、湊斗も思わず笑ってしまう。困惑しながらも、こうして自分の“失われた幼少期”が、少しずつ明らかになっていくのは不思議な感慨がある。
そのとき、唐突に湊斗の頭に軽いめまいが襲う。まるで遠い過去の映像がフラッシュバックするような、ピリッとした感覚。思わず額に手を当てて顔をしかめる。
「鳴海さん、大丈夫?」
「……あ、すみません。ちょっとクラクラしただけで……たぶん平気です」
莉緒は心配そうに湊斗の肩に手を添える。その瞬間、二人の距離が急に近くなり、お互いの体温を感じるほど。
胸がドキッとする。思わず見つめ合ったまま、数秒が過ぎてしまう。
「……ごめんなさい、手……」
「あ、いえ、こちらこそ。ちょっとめまいがしただけなので……」
気まずそうに離れたが、二人の頬はほんのり赤いままだ。店の奥の静かな空間、古いノートや写真が並ぶテーブル――どこか特別な場所に閉じ込められたような不思議な雰囲気が漂っている。
「もう少し、ノートを見てもいいですか? 何か他にも手がかりがあるかもしれない……」
「もちろん。私も一緒に探す」
二人は顔を赤らめたまま再びノートをめくり始める。小さなドキドキ感を隠せないまま、幼い頃の記憶の糸を手繰り寄せる作業に没頭していった。
ノートをさらに読み進めると、商店街で開かれた小さなお祭りの記録が出てきた。そこには「子どもたちが手作りの太鼓や笛で合奏した」との記述と共に、具体的な名前がメモされている。
湊斗が目を凝らすと、そこに「みなと(孫)」「りお(娘)」という書き方で記されていた。
「みなと……確かに僕の“湊斗”と同じ音ですよね。ひらがなで書かれてるけど」
「うん。お父さん、当時は漢字がわからなかったから、とりあえずひらがなでメモしてたんだと思う」
その一文を読んだ瞬間、湊斗の頭にまた短いフラッシュが走る。――夜店が並び、提灯が揺れる風景。人々の笑い声。幼い自分と誰かが手をつないで歌っている……。
しかし、それ以上は思い出せない。思わず湊斗は頭を押さえ、莉緒が慌てて「大丈夫?」と声をかける。
「すみません、本当に断片的で……。でも、確かに何か……懐かしいような光景が浮かんできそうなんです」
「無理しないでね。昔のことって、急に全部思い出すと体がびっくりするって言うし……」
莉緒は湊斗を気遣いつつ、お茶を用意するために台所へ足を運ぶ。湊斗は「ありがとうございます」と頭を下げ、少し呼吸を整える。
――自分と莉緒は幼い頃から同じ場所で遊び、音楽に合わせて歌っていた。そこには商店街の祭りがあり、父や祖父母が見守っていた――そういう記憶の断片が、いま確かに蘇りつつある。
(もし、あのときの女の子が莉緒さんだとしたら……俺たちはずいぶん遠いところで繋がってたんだな)
ふと、湊斗の胸がキュンと締まる感覚があった。いま近くにいる女性と、幼い頃からの“縁”があったと知ると、不思議な感慨が湧き上がり、同時に胸が高鳴る。
そこへ、湊斗のスマホが小さく振動する。画面を見ると、会社からのメッセージだった。フリーペーパーの最終稿を急いで提出してほしいという内容だ。
(しまった、もうこんな時間か……)
時計を見ると、ずいぶん長い時間ノートを読み漁っていたらしい。外の光も夕方に近づき、そろそろ会社から呼び出しが来てもおかしくない。
湊斗は莉緒が淹れてくれたお茶を受け取りながら、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ちょっと会社から急ぎの連絡が来て……今日は一度戻らないといけなさそうです。途中までしか見られなくてすみません」
「ううん、こちらこそ長々と引き止めちゃってごめんね。少しでも分かっただけよかったよ。ほら、私たちが子どもの頃に一緒に遊んだってことが……」
そこで言葉が途切れる。二人の視線が重なり、莉緒の瞳にちらりと切なさのような色が滲む。
湊斗も切なくなる。きっと幼い頃は純粋に楽しんでいたはずなのに、いまは色々な事情が絡み合い、素直になれない。
「また、続きを見てもいいですか? 次の休みにでも……」
「もちろん。私ももっと探してみるね。まだ段ボールに未確認の紙がたくさんあるから」
小さく微笑み合ったあと、湊斗は店の扉へ向かう。背を向けた瞬間、もう少しこの空間にいたいという気持ちが胸に湧くが、仕事を放置するわけにもいかない。
「お邪魔しました。今日は本当にありがとうございます」
「いえ、私こそ。体気をつけてね。記憶のこと、焦らずゆっくり思い出していこう……」
莉緒に見送られ、湊斗は重い足取りで商店街を後にした。思い出が蘇りかけるたびに感じる胸の痛みと、ときめきに似た感情――それは彼にとって「新しい扉」が開きかけている証なのかもしれない。
夕方、銀行の業務を終えた琴音は、帰り道にふとスマホを開いてSNSを眺めていた。すると、友人の投稿のなかに「地元出版社が作るフリーペーパーの試作版をもらった」という内容があり、そこに湊斗の写真がちらりと写っているのが目に留まる。
「そっか……。湊斗さん、こんなふうに地域イベントとかで頑張ってるんだ」
先日コーヒースタンドで話したときの光景が思い返され、琴音は胸が少し締め付けられるのを感じた。別に恋愛感情と呼べるほどのものじゃない。でも、どこか気にかかる存在になっているのは確かだった。
――幼馴染の莉緒は、いま湊斗と“昔からの繋がり”を見つけている最中だ。もし二人が想い合うようになったら、私はいったいどうするんだろう――そんな揺れる思いが琴音を複雑な気持ちにさせる。
「私には、カフェ開業の夢がある。莉緒を応援したいし、湊斗さんのことも好きになっちゃいけない……か、そんなこと考えるほどの関係じゃないよね」
誰にも聞かれないように小さく呟く。寂しさというより、どうしようもない切なさが胸にこみ上げる。
(……莉緒が幸せになるなら、それでいい。私はまだ自分の夢を追いかけるだけだ……)
そう自分に言い聞かせながら、琴音は夕暮れの街を歩く。きっとこの感情は一時的なもので、いつか自然に収まるはず――そう思いたかった。
その夜、大手出版社の地方支社オフィスには、拓海が一人残ってパソコンに向かっていた。白川屋の取材記録を整理しようとするが、思考が散漫になってキーボードが進まない。
莉緒と話したのは数日前。あれ以来、まともに連絡を取れていない。仕事の話をするにも「もう少し待ってほしい」と返されるだけで、核心に踏み込むチャンスがないのだ。
「いったい何を隠してるんだ、莉緒は……。吹奏楽を辞めた理由も聞き出せてないし……」
拓海は頭を抱える。取材云々よりも、莉緒が苦悩している姿を見ると助けたい気持ちが強まる。かつての自分は部の先輩として彼女を支えられなかった。その後悔が、今も心に刺さっている。
「それに……あの湊斗って男、今どのくらい莉緒と親しいんだ? どうも俺より先に店と繋がりがあるらしいし……」
焦りが募る。自分は都会で培ったノウハウがある――そう自信を持っていたが、地方ならではの密接な関係性には太刀打ちしにくいと痛感している。
メールを開いても、白川屋以外の老舗やイベント情報ばかり。どこにも“莉緒”の足跡が見えず、思うように取材を進められない。
「くそ……こんなはずじゃ……」
拳を握りしめ、溜め息を吐く。喉の奥に苦いものが絡みつく感覚がある。地方支社に転勤してきた際には、大きな企画を成功させて本社に戻ろうと意気込んでいたが、目下、思うように成果が出せない。
莉緒との関係も曖昧なまま。自分の気持ちに正直になれない。ふと、大学時代の吹奏楽部合宿での楽しげな彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「……絶対にあの頃の後悔を繰り返したくない。俺がもっと早く気づいていれば……」
そんな独り言が、誰もいないオフィスに虚しく響く。やがて深夜を回り、拓海は肩を落としてパソコンを閉じる。
行き場のない焦りが、彼の心を蝕んでいく――
ある日、莉緒が店先で商品の整理をしていると、奥の居間から母の咳き込む声が聞こえてきた。思わず顔を上げると、そのまま母がめまいを起こしたのか、よろよろと倒れそうになるのが見えた。
「お母さん!」
莉緒は急いで駆け寄り、母の体を支える。以前風邪で倒れたときよりも症状が重そうだ。額に手を当てると熱はないが、呼吸が浅く息が苦しそうに見える。
「ごめん……急に胸が苦しくなって……」
荒い呼吸の合間に母が言う。嫌な予感が走る。莉緒はスマホを取り出し、迷わず救急車を呼んだ。数十分後には母は病院へ搬送され、莉緒も付き添う形となる。
検査の結果、幸いすぐに命に関わる状態ではなかったが、心臓にやや不整脈があると診断され、「しばらく入院と経過観察が必要」と医師に告げられた。
「そ、そんな……。またすぐ退院できると思ってたのに……」
医師は「早めに見つかってよかった。無理を続けると危険だ」と淡々と説明するが、莉緒の胸は不安でいっぱいだ。
父が亡くなったあと、母が必死に店を支えてきたことは知っている。しかし、体への負担が大きかったのかもしれない。
「店は……しばらく私が休業してでもいいから、お母さんの治療を最優先にしなきゃ」
莉緒は病室で眠る母の横顔を見つめながら、唇を噛みしめる。心のどこかでは「店を続けるか畳むか」の葛藤があったが、今はそんなことを言っている場合ではない。母を守るため、力を尽くすしかない――。
だが、一人で店と母を両立できるのか。仕入れ、経理、常連客の対応……。父や母が何十年もかけて積み重ねてきたものを、いきなり全部自分が担えるのか――不安が胸を締めつける。
同じ日の夕方、大手出版社の地方支社オフィスでは、拓海が上司に呼び出されていた。白川屋だけでなく複数の老舗を取材し、「地方の伝統と今をつなぐ」特集をまとめるミッションを負っているが、なかなか目ぼしい進捗を示せていない。
「北園。どうなってる? そろそろ目玉になるような企画を見せてくれないと、本社に報告できないんだが」
「申し訳ありません。白川屋という老舗文房具店を中心に、他の店舗も絡めてまとめようとしてるんですけど……店主さんの体調不良や諸事情で取材が遅れてて……」
「言い訳はいい。結果がすべてだろう?」
冷たく突き放すような言い方をされ、拓海は奥歯を噛みしめる。東京本社で結果を出してきたプライドがあるが、この地方支社では周囲の理解やリソースが限られ、思うように動けない。
しかし、そんな言い訳は上司に通用しない。
「白川屋を目玉にしたいんだろうが、そもそも本当にそこが伸びしろのある企画なのか? 大手チェーンに押されてる文房具屋なんて、取り上げたところで読む人がいるのか?」
「……います。あの店には、人を惹きつける何かがあるんです。それは必ず証明してみせます」
拓海はきっぱり答える。自分の中で「白川屋は諦めない」と決めているからだ。だが、上司は「じゃあ早く形にしてくれ」と厳しく言い放ち、会話はそれで終了。
席へ戻る足取りが重い。自分の力を信じているし、莉緒の力になりたいと思う一方、状況が好転しない焦燥感に苛まれる。
(俺はこんなはずじゃ……こんな形で停滞してる場合じゃない。何としても突破口を開かないと……)
翌日。白川屋の店先には「一時休業のお知らせ」という貼り紙が掲示されていた。母が入院となり、莉緒一人で店を回すのは厳しいと判断したからだ。
朝早く、莉緒は慌ただしく店の片付けに追われていた。ノートや写真が散乱していた居間も一部片づけ、店頭の商品を棚にまとめ、在庫の整理を行う。
「はあ……どうしよう。このまま続けられるのかな……」
一人呟くも、答えは出ない。そんなとき、タイミングよく店の扉が開き、湊斗が顔を出した。
「莉緒さん、貼り紙を見たんですが……お母さん、大丈夫ですか?」
「鳴海さん……。母が入院になっちゃって……。私もさっきまで病院に付き添ってたんだけど、しばらく検査とか治療が必要らしくて……」
莉緒は半泣きになりながら状況を説明する。湊斗は切なそうに眉を寄せて、そっと莉緒の肩に手を置く。
「そんな大変なことに……。大丈夫ですよ、店なんて休んでいいんです。お母さんのケアが最優先じゃないですか」
「うん……でも、私が継ぐかどうか迷ってるなんて言ってる場合じゃなくて……。すべて放り出したくなる自分と、それでも店を守りたいって自分がいて、頭がぐちゃぐちゃで……」
そこまで言いかけ、莉緒はふと湊斗の優しい表情に気づき、言葉を呑み込む。彼は何か言いたげに口を開きかけるが、うまく言葉が出ない様子だ。
代わりに、湊斗は店内を見回し、段ボール箱や在庫の山を見てから、まっすぐ莉緒に向き直った。
「もしよかったら、僕でよければ手伝わせてください。取材もほぼ終わってるし、フリーペーパーの最終作業以外はそんなに忙しくないので……店の片付けとか、母さんの見舞いとか、一緒にサポートします」
「え……そんな、悪いよ。鳴海さんは仕事もあるのに……」
「大丈夫です。これでも編集者としてスケジュール管理には慣れてますから。僕、祖父母に育てられたから家事とか得意ですよ」
湊斗が少し照れ笑いを浮かべる。その笑顔を見て、莉緒は思わず胸が熱くなった。――この人は、本気で私たちの力になろうとしてくれている。
「ありがとう……。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。母が落ち着くまでは、店は休みにするけど、在庫の処理や閉店の準備だけは進めないといけないから……」
「わかりました。任せてください」
そう言って湊斗は腕まくりをし、店内の整理を始める。長年放置されていた段ボールを開け、売れ残った商品や帳簿を確認しつつ、使えそうなものを仕分けする。
莉緒も手伝いながら、緊張の糸が少しずつ緩むのを感じた。今まで一人で抱え込んでいた苦しさが、湊斗の存在によって和らいでいく気がする。
数日が経ち、入院中の母の容体は一時的に安定していた。しかし、ある夕方、莉緒が仕事帰りの湊斗と一緒に病院を訪れた際、思わぬ事態が起きる。
病室に入ると、母が苦しそうにベッドで呻いているのが目に入った。看護師が慌てて駆けつけ、医師を呼んで緊急処置を施すが、母の不整脈が突然悪化してしまったらしい。
「お、お母さん……! どうしたんですか、しっかりして……!」
莉緒は取り乱しそうになるが、看護師たちに病室の外へ出るよう促される。湊斗もハラハラした面持ちで莉緒の肩を抱き、廊下へ下がる。
医師が来てから10分、20分……長い時間に感じるが、莉緒たちにはどうすることもできない。
「大丈夫。きっと大丈夫だよ……」
湊斗の励ましも、いまは虚しく響く。莉緒はただ祈るように廊下の壁にもたれ、涙をこぼしていた。
やがて医師が出てきて、「危機は脱したが、しばらく集中管理が必要だ」と厳しい表情で告げる。
「いつどうなるか分からない……そういう状態です。面会も時間を制限しますので」
脳裏が真っ白になる。もし母を失うことになったら、店以前に自分はどうすればいいのか――様々な思いが渦巻くが、頭の整理が追いつかない。
隣にいる湊斗の存在がかろうじて莉緒を支えてくれているが、その腕を振り払ってしまいそうになるほどの絶望が胸に押し寄せた。
「いやだ……まだ大丈夫だよね……。お母さん、まだ死んだりしないよね……」
「大丈夫……。絶対に大丈夫だから……」
湊斗が必死に声をかける。かつて、自分も両親を亡くしたとき、このような気持ちになったのだろうか――そう考えると、胸が締め付けられる。
これまで以上に深刻化する母の病状。莉緒は途方に暮れながらも、何とか気丈に振る舞おうとするが、心は今にも崩れ落ちそうなほど不安定だった。
その夜、莉緒は母の看病で病院に泊まり込み、湊斗は自宅へ戻ることになった。二人とも憔悴しきっているが、湊斗には会社の仕事もあり、フリーペーパーの最終稿を出さなければならない。
一方、拓海は、ようやく動き出した別の取材先の対応を終えたあと、夜遅くまで連絡が取れなかった莉緒にメッセージを送っていた。
拓海「莉緒、最近どうしてる? 店、ずっと休んでるみたいだけど大丈夫か? もし何かあったなら力になりたい……」
しかし、何度送っても返信は来ない。実は莉緒は緊急事態に追われており、スマホを見る余裕すらなかったのだが、拓海はそんな事情を知らない。
苛立ちと不安が募る。深夜、支社のオフィスでパソコンを閉じ、拓海は思わずスマホを握りしめた。
「このままじゃ何も進まない……。いったい何があったんだ、莉緒……」
頭を抱える拓海の脳裏に、ひとつの疑念がわき上がる。湊斗の存在だ。あの男が莉緒の近くにいるのなら、莉緒が連絡を怠るほど何かに巻き込まれているのかもしれない……。
衝動的に、拓海はタクシーを拾い、夜の街へ飛び出した。目的地は白川屋だ。店が休みでも、誰かいるかもしれないと思ったのだ。
「こんな時間に非常識かもしれないけど、もう我慢できない……。何が起きてるか確かめないと」
だが、白川屋に着いてもシャッターは固く閉ざされ、中に人のいる気配はない。窓の隙間から店内を覗いてみても、灯りひとつ点いていない。
拓海は「くそ……」と舌打ちし、足早に周囲を歩き回る。商店街の外れにあるアパートや路地裏まで覗いてみるが、当然そんなところに莉緒がいるはずもない。
夜風が吹き抜ける暗い商店街で、拓海は虚しく立ち尽くす。背を向けたビルの壁に拳を当て、あまりの不甲斐なさに苛立ちを爆発させそうになる。
「もし……もし俺がもっと早く動いていれば、あいつは俺を頼ってくれただろうか……。鳴海なんかじゃなくて……」
闇に向かって呟いたその言葉は、むなしく夜風に流されていく。誰からも必要とされていない孤独感が、拓海の胸を抉る。
母の容体が急変し、集中管理のため面会制限を受けている莉緒。彼女は病室の前で医師から説明を聞きながら、胸が張り裂けそうな思いで過ごしていた。
外来フロアの待合室には、湊斗が付き添いで座っている。二人とも疲労の色が濃いが、片時も莉緒を一人にさせないよう湊斗が支えてくれているのだ。
「……容体が落ち着くまで、しばらくは面会禁止です。何かあれば看護師が呼びますから、今日はもう帰宅された方が……」
医師は淡々とそう告げる。莉緒は「でも……」と渋るが、病棟のルールを破るわけにはいかない。湊斗が「僕もいますから、今日は一度帰りましょう」と優しく声をかける。
二人が病院を出ようとしたそのとき、待合ロビーに見覚えのあるスーツ姿の男性が立ちすくんでいた。――拓海である。
「拓海先輩……」
莉緒が小声で呟くと、拓海は振り返り、すぐにこちらへ駆け寄る。明らかに息が上がっており、慌ただしく駆け込んできた様子がうかがえる。
「莉緒……やっぱり、ここにいたのか。店も閉まって連絡も返ってこないから、何かあったんじゃないかって……」
「すみません……母が入院してて、容体が悪くなって……。それでバタバタしてて……」
莉緒がうつむきがちに答えると、拓海は彼女の肩に触れ、「そうだったのか……大丈夫か?」と声をかける。しかし、その横に湊斗が控えているのを目にした途端、その手が少し強張った。
「……鳴海くんも、一緒だったのか」
「はい。店の片づけや看病のことで、僕なりにお手伝いさせてもらってるんです」
湊斗はあくまで穏やかに答えたが、拓海の目にはやはり「自分よりも莉緒を支えている存在」として映っているようで、その視線は複雑な色を帯びていた。
一方の莉緒は、「二人の間に気まずい空気を感じる」ものの、そんなことを気にしている余裕もない。今は母のことが最優先だとわかっているからだ。
「……とりあえず、ここにいても面会できないんです。先生にも帰宅を勧められましたし、私ももう少し休まないと……」
「そうか。じゃあ、俺も送っていくよ。――鳴海くん、すまないが、今日は任せてくれないか?」
少し強引な響きのある言葉だ。莉緒の腕を支える形で、拓海は横から割り込んでくる。湊斗もここで押し返すわけにもいかず、困惑したまま口を開く。
「でも、莉緒さんはさっきからほとんど寝てないんです。家まで送るなら僕が……」
「俺だって車がある。大丈夫だから」
ピリリとした空気が走る。莉緒はたまらず「ありがとう。どっちが送ってくれても助かるけど、先輩はこの後も仕事があるんじゃ……?」と慌てて言葉を挟む。
拓海は視線をそらしながら、「もう終わった」と言い切る。湊斗はそれ以上強く出ることができず、莉緒をちらりと見ると、彼女も戸惑った表情を浮かべていた。
「……じゃあ、今日はすみません。先輩の車で帰ります。鳴海さんには明日また連絡しますね」
莉緒がそうまとめると、湊斗はわずかに寂しそうな笑みを浮かべ、「わかりました。ゆっくり休んでください」と頭を下げる。
拓海と莉緒が病院を出て行った後、湊斗は一人待合室に残り、病棟の窓ガラス越しに夜の空を見上げる。心の奥に重く冷たいものが広がる感覚――それは、初めて覚える“嫉妬”の感覚かもしれないと自覚した。
拓海の車の助手席に座った莉緒は、精神的な疲れからか、ほとんど会話ができない状態だった。夜の街を走る車内には無言の空気が重く漂っている。
やがて拓海が意を決したように口を開く。
「……母上のこと、大丈夫なのか? もう少し詳しく教えてくれないか。俺、何も知らされなくて……」
「ごめんなさい……。母が入院してからずっと緊急対応ばかりで、メールや電話返す余裕もなかったの。先輩から連絡は来てたのは知ってるんだけど……」
莉緒は申し訳なさそうに視線を下げる。拓海は咳払いをしつつ、少しだけハンドルを握る手に力がこもる。
「いや、責めてるわけじゃないんだ。俺だってこんなときに仕事や取材のこと言える空気じゃないし……ただ、心配で。何もできてない自分が情けない」
「そんなことないよ……先輩は先輩で忙しいし、東京から転勤したばかりで大変でしょう? 無理させたくなかったし……」
車は信号待ちで一旦停止する。拓海はルームミラーを見つめたまま、小さく吐息を漏らす。
「……正直、もう少し頼ってほしかった。俺、莉緒が困ってるなら何でもするつもりだった。でも、気づいたらいつも鳴海がそばにいて……俺が入る隙間がないように見える」
「先輩……」
莉緒ははっと息を呑む。そういえば、大学時代に彼のそんな表情を見たことがあったような気がする――どこか不安そうで、だけど言葉にできないもどかしさを抱えた瞳。
好きな音楽を共有し、先輩後輩として一緒に過ごしたあの頃。彼がこんなに弱い一面を見せることは滅多になかった。
「俺は……莉緒が突然吹奏楽部を辞めたとき、本気で心配だった。何も知らされないまま離れられて……ずっと引っかかってたんだよ。今度こそ助けたかったのに、また同じように何もできない立場にいる」
「そんな……先輩のせいじゃない。私が勝手に辞めたんだし、それに今回は本当に急で……。鳴海さんは、私が困ってるときにたまたま店に来てくれたり、病院に一緒に行ってくれたりして……」
信号が青に変わり、車は再び動き出す。拓海は何も言わず、アクセルを踏む。莉緒もまた何か言いたいが、言葉が見つからないまま車内の暗い空気に包まれる。
――結局、二人はお互いの気持ちを正面からぶつけ合うことなく、莉緒の自宅近くに到着。拓海は「明日も様子を見に行くから」とだけ告げ、莉緒の背中を見送る。
車のヘッドライトが消え、暗い夜の闇に沈む路地で、莉緒はひとりため息をつく。母の病、店の休業、湊斗と拓海の板挟み――すべてが重くのしかかってくる。
翌朝、琴音は銀行へ出勤する前に、少し早起きして白川屋の貼り紙を確認しに行った。すでに「当面の間、休業」の紙が貼られているのを見て、胸が痛む。
ふと、店の横に回ってみると、裏口に回収待ちの段ボールが積まれている。どうやら在庫処分や整理を進めているらしい。そこへひょいと顔を出したのが湊斗だった。
「あ、雨宮さん……おはようございます」
「鳴海さん……こんな朝早くから、店を手伝ってるんですか?」
琴音が驚いて尋ねると、湊斗は「はい、昨夜から莉緒さんがほとんど寝られていないみたいで。少しでも作業を進めようと思って……」と疲れた笑顔を浮かべる。
その表情を見た瞬間、琴音の胸が軽く痛んだ。莉緒のためにここまで尽くす姿は素直にかっこいいと思う。だが、どこか心がざわつく気持ちも拭いきれない。
「……偉いですね。莉緒のこと、ありがとうございます。私も何かできるかな……。仕事前にちょっとだけ手伝いますよ」
「え、でも……銀行のお仕事に差し支えないですか?」
「大丈夫。あと30分くらいは余裕ありますから」
そう言って琴音はスーツの上着を脱ぎ捨て、段ボールを整理し始める。紙が積まれた箱は意外と重いが、彼女も手慣れた手つきで片づけをこなしていく。
湊斗は「ありがとうございます」と感謝しつつ、目の前でテキパキ働く琴音の姿に感心する。二人は軽口を交わしながら手を動かし、あっという間に段ボールの山が片付いていった。
「よいしょ……これで終わりかな。もう一往復したらコンテナに積めるかも」
「ありがとうございます。助かりました。莉緒さんもきっと安心しますよ」
短い時間の共同作業だったが、琴音の存在は大きかった。大量の在庫をまとめ、古紙回収に出せる状態に仕分けするだけでも、莉緒の負担が大幅に減るはずだ。
作業を終えて立ち上がったとき、二人の目が不意に合う。琴音は薄っすら汗ばみながら、少しだけ息を切らせていた。湊斗も額に汗をにじませ、二人して笑いあう。
「なんか……あれですね。変なところで初めての共同作業ができましたね」
「ふふ、そうですね。まさかこんな形でお会いするとは思ってなかったけど……でも、役に立てたならよかった」
琴音の笑顔に、湊斗は自然と心が和むのを感じた。確かに彼女が莉緒の親友である理由がわかる気がする――まるで母親のように面倒見がよくて、安心感を与えてくれる。
ふと、琴音が腕時計を見て「あ、もう行かなきゃ。銀行が開店しちゃう」と焦り始める。
「今日はありがとうございました。僕、もう少し片づけ続けて、夕方には病院へ行ってみます」
「うん、任せちゃってごめんね。私もお昼休みに様子を見に来れるかな……。莉緒にも一応連絡入れてみますね」
二人は軽く会釈を交わし、琴音は仕事へ、湊斗は店の片づけへ戻る。その背中を見届けながら、琴音はほんの少しだけ胸を締め付けられる思いを感じた。
(莉緒がいないところで鳴海さんと二人で作業して……私、何か変な気持ちになってる。こんなときなのに……)
葛藤を抱えつつも、琴音は「今は莉緒の味方でいよう。鳴海さんときちんと協力しよう」と自分に言い聞かせ、銀行へ向かう足を速めるのだった。
その日の夕方。湊斗は店の奥で書類を整理していると、父のノートらしきものがまた一冊出てきたのに気づく。表紙には「特別メモ」と走り書きされており、他のノートよりもかなり薄い。
興味を惹かれた湊斗は、そっとノートを開いてみる。すると、そこには古い日付のメモとともに、**「鳴海さんのお孫さんと、うちの娘が病院へ」**という記述が短く走り書きされていた。
「病院へ……?」
湊斗は思わず眉をひそめる。詳しい経緯までは書かれていないが、その後に「大きなけがではないようだが、孫の方が頭をぶつけて泣いていた」とある。
――頭をぶつけて泣いていた……それって、まさか記憶喪失の原因に関わる事故だったのか?
「そういえば、幼い頃の事故で頭を打って、それが心因性の記憶障害に繋がったかもしれない……と、祖父母が言ってたっけ……」
湊斗はノートをめくりながら頭を押さえる。細かい描写はないが、「りお(莉緒)も驚いて泣いていた」とあり、当時の莉緒とのエピソードがまた一つ浮かび上がってきた。
自分が頭を怪我した場所はどんな状況だったのか、なぜ父のノートに「病院へ行った」とあるのか……。疑問が次々と湧いてくる一方で、胸の奥には軽い痛みを覚える。
「もしかすると、この事故が大きな転機になっていたのか……」
幼少期の記憶障害。莉緒との過去。父のノートに残る断片的なメモ。
まるでバラバラのジグソーパズルが、今ゆっくりと組み合わさろうとしているような感覚だ。湊斗はノートをそっと抱え、どこか胸のざわつきを感じながら立ち上がる。
「莉緒さんが帰ってきたら、これも見てもらおう……。でも、母さんの容態が……」
窓の外はすでに夕焼けが薄れて、夜の帳が下り始めている。莉緒が病院から戻るのはいつになるだろうか――もしかすると夜中になるかもしれない。
とりあえず、ノートの存在をきちんと伝えたい。これが湊斗の記憶喪失の根本に関わる情報であれば、二人の「幼い頃からの縁」がさらに具体的になるだろう。
しかしその前に、母の命をめぐる闘いと、店の存続というリアルな問題が襲いかかっている。どれを優先すべきか、答えは簡単ではない。
同じ夜。拓海は支社オフィスを定時で上がり、ホテルに戻った。地方支社勤務とはいえ、まだ住居が定まっておらず、出張先のようにホテル暮らしをしていたのだ。
心が休まらない。莉緒の母が危険な状態だということはわかるが、自分には何もできないまま、湊斗が彼女を支えている――そう考えると苛立ちが増すばかり。
「俺は……何もしてやれないのか……」
ため息をつきながら、スマホを取り出す。SNSや地元コミュニティサイトを開き、白川屋や湊斗の名前を検索してみる。
すると、そこには湊斗が関わったフリーペーパーの特集情報や、白川屋が「当面の間休業する」との告知が散見される。コメント欄には「店主さんが体調を崩したらしい」「若い編集者が手伝ってる」といった書き込みもあった。
「ちくしょう……鳴海め、そんなに早く動いてるのか……」
拓海はスマホをベッドに投げ出し、頭を抱える。東京での実績を引っさげて来たはずなのに、地方のネットワークに入り込んだ鳴海の行動力には後れを取っているのが明らかだ。
そして同時に、“莉緒を守れていない”という事実が、彼を苦しめる。
(俺は何のためにここに来た? ただ仕事で成果を上げるためだけじゃない。莉緒をもう一度……いや、今度こそ助けたかったのに)
だが、このまま嘆いているだけでは何も変わらない。拓海は深呼吸をし、スマホを再び手に取る。
記事のネタになりそうな老舗店やイベントを一つずつリストアップし、明日から積極的に取材をかけるつもりだ。何故なら、地元にいる限りは今後も莉緒や白川屋と向き合わざるを得ないし、それならいっそ“圧倒的な結果”で周囲を納得させるしかないからだ。
「……湊斗。お前が莉緒を支えるなら、俺は“仕事”で勝負する。必ず大きな企画を成功させて、白川屋を救ってみせる。そうすれば莉緒も……俺を見直してくれるかもしれない」
拓海の中で、**“鳴海との競争宣言”**とも言うべき決意が静かに芽生える。自分よりも莉緒に近いところで動いている鳴海に対して、嫉妬心を超えたライバル意識が燃え上がる。
ただ、その思いが逆に莉緒を追い詰めることになるのかもしれない――そんな不安を抱えながらも、拓海は夜の帳の中で拳を握りしめるのだった。
白川屋は依然として休業状態が続いている。莉緒の母は集中治療室(ICU)で懸命の治療を受けているが、症状は安定したり悪化したりを繰り返し、予断を許さない。
湊斗は店の在庫処理や書類整理を手伝う一方、毎日のように病院へ足を運んで莉緒の状況を気遣っていた。そんな彼を見守る琴音は、微妙な思いを抱えたまま、それでも笑顔で協力を続けている。
一方で、拓海は「大きな企画を成功させる」という決意を胸に、地元で目ぼしい老舗や行事を取材し始めた。取材した内容を素早くまとめ、出版社の支社長や本社に提案を送りつけては意見を仰ぐ。
しかし、焦れば焦るほど落ち着きを失い、どこか空回りしている節もある。肝心の莉緒との連絡は途切れがちで、溝が深まるばかり――そのことが、拓海の神経をさらに研ぎ澄ませていく。
嵐の前兆のように、登場人物たちの心の中には不穏な予感が漂い始める。母の病状が一向によくならず、医師からは「万が一に備えて」と暗示的な言葉も聞かれた。
湊斗がどれほど励ましても、莉緒の表情から笑顔が消えつつある。琴音はそんな二人を見守りながら、不安を打ち消すことができないでいた。
ある晩、病室から戻った莉緒は完全に憔悴しきっていた。母が眠りにつくのを見届け、面会時間終了を迎える頃には身も心もボロボロになっている。
その日も、見舞いのあとに白川屋へ立ち寄り、「店を閉めるか続けるか」の決断を迫られるように在庫の山と向き合うが、何をどう考えても頭が働かない。
そこへ、湊斗が遅い時間まで残って在庫処分リストを作成していた。莉緒が店の奥に来たのを見て、「お疲れさま」と声をかけ、椅子をすすめる。
「休んでください。顔色がひどい……母さんの容態、あまり良くないんですか?」と遠慮がちに尋ねる湊斗に、莉緒はわずかに唇を震わせ、ぽろりと涙をこぼした。
「ごめん……私、もうどうしたらいいのかわからない。母がこんなに苦しんでるのに、何もできない……。店だって、このまま放っておくわけにもいかないのに……」
湊斗は思わず莉緒の手をそっと包み込み、静かに「大丈夫、俺がいます」と言葉をかける。体温の伝わる触れ合いが、一瞬だけ莉緒の絶望を和らげる。
だが、その瞬間、二人の間には普段とは違う感情の波が生まれた。莉緒は心の支えを必死に求めるように湊斗の体にすがりつき、湊斗もまた彼女を抱き寄せるようにして背中をさする。絶望と渇望が入り混じった空気が漂い、二人は危ういほど近づいた。
お互いに唇を重ねる寸前まで感情が高まるが、湊斗はハッとして自分を抑える。――ここで一線を越えてはいけないと、本能的に感じたのだ。
「……ごめん。今は、そんな……。莉緒さん、ゆっくり休みましょう。今日はもう寝てください。俺が朝までここにいますから……」
半ば強引に体を離した湊斗の理性的な態度に、莉緒は一瞬傷ついた表情を見せるも、すぐに「あ……そうだよね」と納得するように目を伏せる。
絶望の中で、せめて人肌を求めてしまった自分が情けないとも思い、恥ずかしさと罪悪感に襲われる。こうして二人は、すれすれのところで踏みとどまったものの、内面に大きな波紋を残す夜となった。
翌日、拓海は支社オフィスの会議室で、新しい企画のプレゼンを行っていた。地元の老舗数軒をまとめて特集するという形で、各店を巡る人間模様や伝統行事を紹介する企画書をまとめたのだ。
本社からわざわざ出張で来た担当役員も同席しており、「なるほど、地方創生ネタとしては悪くないが、突出した目玉がないのでは?」と厳しい視線を向ける。
「そこで、白川屋という老舗文房具店をメインに据えたいと考えています。近年のネット通販や大型チェーンの台頭に押されつつも、人と人とのつながりを育んできた“町の文房具店”という存在は、読者に新鮮な驚きを与えるはずです」
拓海は力を込めて説明するが、上司や役員は「その店、いま店主が入院して休業中なんだろう?」「タイミング的に厳しくないか?」と懸念を示す。
しかし、拓海は「だからこそドラマになるんです。店主の闘病、家族の葛藤、それを支える地域の人々……生々しい人間模様を描けるでしょう」と押し切る。
(絶対に成功させる。これで結果を出し、莉緒を救う。何があってもやり抜いてみせる……)
心の中でそう誓いながら、プレゼンを続ける拓海。彼の言葉には押し迫る切実さが滲んでおり、周囲も一応は前向きに検討せざるを得なくなっていく。
だが、この企画が通れば通るほど、すでに地元出版社としてフリーペーパーをまとめている湊斗や、闘病中の母を抱える莉緒にとって、大きな負担となる可能性もまた高まる。
拓海はそこまで想像が及んでいない――もしくは意図的に目を背けているのかもしれない。彼はもはや「この企画を成功させる」ことが、恋も仕事も同時に掴むための唯一の手段だと信じ始めていた。
一方、琴音は銀行の昼休みに白川屋へ立ち寄る。そこで目にしたのは、書類整理を続ける湊斗の姿だった。莉緒はまだ病院らしく、店内に彼女の姿はない。
「また一人で片づけしてるんですか? 朝もそうだったのに……。お昼ご飯とか食べました?」
「いや、まだ……コンビニに行こうと思ってたんですが、タイミングを逃して……」
湊斗の疲れた顔を見ると、琴音は咄嗟に「私が差し入れ買ってきます」と申し出る。そのまま近くの店で簡単な弁当を購入し、湊斗に手渡した。
「すみません、助かります……」
「いいんですよ。これで少しは元気出してください。莉緒のために無理して倒れちゃ意味がないんだから」
そう言いながら、琴音は湊斗のために飲み物まで用意し、手際よく弁当を広げる。まるで夫婦のようなやり取りに、二人は一瞬照れくさくなる。
食事しながら湊斗は夜中の出来事――莉緒が不安定になり、危うく身体を求め合いそうになった瞬間――を思い返す。誰にも話せない胸の奥の動揺が、思わず琴音への視線に表れる。
「……鳴海さん、どうしました? 何か言いたそうですけど……」
「いえ……何でもないです。ちょっと考えごとを……」
言い淀む湊斗に、琴音は「ふうん……」と静かに微笑む。心の中でモヤモヤした何かを感じるのは、自分にも覚えがあるからだ。もしかすると、湊斗は莉緒への恋心と、今の危うい状況の板挟みで苦しんでいるのかもしれない。
(私には聞けない話、なのかな……。でも、彼の役に立てるなら、何でもしたいんだけど……)
琴音の中で、応援したい気持ちと湊斗への淡い好意が交錯し、やりきれない切なさが膨らむ。絶望の縁にある莉緒を思うと、自分が出る幕ではないと分かっている。それでも、ほんの少しだけ「そばにいたい」という欲求が消えない。
――そんな二人のぎこちない空気を打ち破るかのように、琴音のスマホが鳴る。銀行からの呼び出しだ。昼休みが終わり、急ぎ戻らねばならないらしい。
「じゃあ、また……何かあったら言ってくださいね」
「はい、本当にありがとうございます。助かりました」
小走りで店を出ていく琴音の背中を見送り、湊斗は複雑な表情を浮かべる。莉緒を支えたいはずなのに、自分は琴音からも支えられている――どこか妙な申し訳なさと安心が混じった感情だ。
しかし、いま優先すべきは母の命の危機と、白川屋の行く末。恋愛感情をはっきり自覚している場合ではない……そう自分に言い聞かせ、湊斗は弁当の箸を動かす。
その夜、莉緒から湊斗に緊急の電話が入った。「今、病院から連絡があって……お母さんの容体がまた悪化したって……」――慌てた声が震えている。
湊斗はすぐさまタクシーを拾い、病院へ駆けつける。電話の向こうで莉緒が泣きじゃくる声を聞きながら、心臓がバクバクと高鳴る。もし、今度こそ母が危ないとなれば……。
病院に着いたとき、莉緒は顔面蒼白で立ち尽くしていた。医師からは「心臓の状態が非常に不安定で、集中治療でも回復できるかどうか分からない」と言われたらしい。
廊下の椅子に座り込む莉緒に、湊斗はそっと寄り添う。彼女は震える声で、何度も「嫌だ、こんなの嫌だ」と繰り返している。
「絶対に助かる……大丈夫だよ……」と言いながら、湊斗自身も言いようのない恐怖を感じていた。誰かが死にかけている――それはかつて両親を失った自分にとって、悪夢の再来のような感覚を呼び起こすからだ。
いつしか、二人は廊下の片隅で互いの手を握り合い、じっと危機が過ぎ去るのを待つしかなかった。
そこへ、息を切らして駆けつける足音。振り向くと、拓海の姿があった。どうやら莉緒の連絡を何とかキャッチして、この場に駆けつけたようだ。
だが、湊斗と莉緒が寄り添う姿を見て、拓海は一瞬立ち止まり、苦々しげに眉を寄せる。今はそんな感情を表に出す場合ではないとわかっていても、心がざわつくのを止められない。
――この夜、白川の母はかろうじて息をつなぎとめたが、「峠を越せるかどうかは今が正念場」と医師から告げられる。家族は廊下で息を殺して祈るしかない。莉緒は完全に意識が遠のくほど憔悴し、湊斗や拓海が交互に背中を支えてやる。
三人の胸には、それぞれの絶望が入り込む余地を与えないほど強烈な恐怖が押し寄せていた。
そして翌朝――医師が重い口を開いた。
「残念ながら、心臓の機能が限界を迎えつつあります。早ければ今日明日で……覚悟を決めておいてください」
それは事実上の死の宣告だった。莉緒はその言葉を耳にし、床に崩れ落ちる。湊斗や拓海が慌てて支えようとするが、彼女の意識は混乱の中にある。
「そんな……嘘だ……。嘘だよ、先生……」
「……本当に申し訳ありません。できる限りの治療はしてきましたが……」
医師の表情も厳粛で、希望を持たせる言い回しを一切しない。その現実味が、一気に莉緒を深い闇へと突き落とす。
立ち上がれない彼女を、湊斗と拓海の二人が両脇から支え、廊下の椅子へ座らせる。だが、その瞬間から彼女は言葉も発せず、ただ呆然と視点の定まらない目をしていた。
「莉緒……しっかりして。今はまだ……時間があるんだろう? お母さんに会いに行こう……」
「……そうだ……まだ生きてるんだ。最後まで……そばにいてやろう……」
湊斗と拓海が声をかけても、莉緒の耳には半分しか入らない。魂が抜けたような状態で、ただブツブツと「ごめん、お母さんごめん……」と繰り返す。
絶望は、これほど残酷な形で人を壊すのか――そう感じさせるほど、彼女の心は追いつめられている。
拓海も湊斗も、この事態にどう対応すればいいのかわからない。二人の肩にも重たい空気がのしかかり、薄暗い病院の廊下で三人がじっと息を潜める。
夜が明け、朝日が差し込むというのに、そこにはまるで真っ暗な闇のような陰鬱さが漂っていた。
そして、運命の日はあまりにも唐突に訪れた――
それから半日もしないうちに、莉緒の母は静かに呼吸が乱れ始め、そのまま心電図が小刻みに波打ち、やがてフラットラインになった。医師や看護師が必死に蘇生措置を試みたが、戻ってくることはなかった。
「お母さん……! 嫌だ……お母さんッ……!!」
莉緒の叫び声が病室に響く。湊斗は言葉を失い、その場に立ち尽くす。拓海も拳を震わせながら瞼を強く閉じる。
母は最期にわずかな意識を取り戻し、「莉緒……ありがとう……」と唇を動かしたように見えた。莉緒が耳を近づけたときは、もう声にならないほど息絶え絶えだったが、確かに彼女を呼ぶかすかな声が聞こえたという。
人が死ぬ瞬間――それは思いのほか静かで、惨いほどあっさりとしていた。生命が途切れた母の体は冷たくなっていき、莉緒の泣きじゃくる声だけが耳を裂く。湊斗も拓海も、しばらく言葉をかけられず、ただ莉緒の肩を支えることしかできなかった。
この時、莉緒はすべてを失ったと感じた。幼い頃に亡くなった父の面影を残し、ずっと店と自分を守ってきた母――その存在が消え去った現実。何もかも崩れ落ちる感覚が、彼女の精神を黒く染め上げる。
(もう、どうでもいい……店なんて、人生なんて……)
意識が遠のく中で、莉緒は湊斗の声や拓海の声が混ざり合って聞こえる。「しっかりしろ」「気を確かに」「どこに連絡を……」そんな断片的な言葉が飛び交うが、莉緒の耳にはほとんど届かない。
彼女の目からは涙が止めどなく溢れ、全身から力が抜けて、まるで人形のように動かなくなってしまうのだった。
数日後。病院の手配により、母の葬儀が静かに執り行われた。
白川屋の常連客や商店街の人々が弔問に訪れたものの、莉緒は魂の抜けたように呆然と座るだけで、必要最低限の受け答えしかできない。
湊斗と琴音、そして拓海が実務面を取り仕切り、何とか式を進めていた。
黒い喪服に身を包んだ莉緒の姿は、その細い体がいっそう小さく見える。祭壇には父と母の写真が並び、生花が飾られている。
「大丈夫……?」と湊斗が優しく声をかけても、莉緒は「……うん」とかすかに頷くだけ。瞳には生気がなく、まるでこの世に未練を失ったかのように冷たい印象すらある。
葬儀が終わり、火葬場から戻るともう夜になっていた。街は静まり返り、商店街は暗いシャッター通りのようだ。
琴音は莉緒を家に送り届けようとするが、「家には入りたくない」と拒まれる。店を休業したまま放置していた白川屋が、母の残されたものを思い出させる場所だからだろう。
結局、莉緒は商店街の外れにある小さな公園のベンチで夜風に当たっていた。湊斗は心配して付き添おうとしたが、彼女は「一人にしてほしい」と首を横に振る。拓海もどう声をかけていいのかわからず、離れた場所から様子を伺うだけ。
――その姿は、まるで深い闇に落ちた人形。かつて明るく笑っていた莉緒の面影は見当たらない。
翌日、白川屋の扉が開く音がした。鍵はそのままになっており、莉緒がふらりと店の中へ入っていく。
棚には母と二人で並べた商品がほんの少し残り、古いレジや棚の傷跡がそのままになっている。きっと母がここで頑張っていたのだ――そう思うと、莉緒の胸には再び鉛のような重さがのしかかる。
「結局、何も守れなかった……。店も、母も、全部失った……」
母が最期まで気にしていた白川屋。それを継ぐか継がないか、ずっと迷っていた自分――そんな自分が許せないと感じる。
莉緒は感情に突き動かされるように棚を横から倒し、備品が落ちる音がガラガラと響く。何度も何度も棚を蹴飛ばし、棚に載っていたガラスケースが床に落ちて粉々になる。
「こんな店……こんな思い出……何の意味があるの……!!」
泣き叫びながら店内をめちゃくちゃにしていく莉緒。その姿を見た湊斗が必死に止めに入るが、彼女は凄まじい力で振りほどく。
ガラスの破片で腕を切り、血がにじんでも気づかない。悲鳴のような嗚咽とともに、積年の苦悩を爆発させる。
「莉緒さん! やめてください、危ない……!!」
湊斗が後ろから羽交い締めにしてようやく動きを止める。莉緒は力を失ったように崩れ落ち、肩で息をしながら涙を流し続ける。
血と涙とガラスの破片が床に散らばり、店の中は破壊されたまま。絶望に壊された莉緒と、そんな彼女を抱きしめる湊斗――その光景はあまりにも痛々しかった。
白川屋の異変に気づいたのは、たまたま商店街を回っていた拓海だった。店先でガシャガシャと激しい音がしたため、慌てて中に入ると、そこには粉々のガラスと取り乱す莉緒、そして彼女を必死に抑える湊斗の姿があった。
「何があった……!? 莉緒、血が出てるじゃないか……!!」
拓海が駆け寄って手を差し伸べようとすると、莉緒は怯えたように身をすくめる。放心状態で誰が来ても意味をなさないといった様子だ。
湊斗も腕に切り傷を負い、息を荒げながら「すみません……俺が止めきれなくて……」と謝罪する。
その光景を見た拓海は、怒りとも嫉妬ともつかぬ感情が湧き上がり、湊斗を睨みつけた。
「なぜ止められなかった? お前、そばにいるならちゃんと守れよ……!!」
「言われなくてもわかってます。でも、あのときは……莉緒さんの心が限界で……俺だけじゃ……」
言い訳のように聞こえる湊斗の言葉に、拓海は拳を振り上げそうになる。しかし、暴力を振るえばますます莉緒が傷つくと考え、なんとか堪えた。
代わりに拓海は苛立ちを抑えきれず、店の残骸を思い切り蹴り飛ばす。粉々のガラスがさらに砕け散り、あたりに金属的な音が響く。
「鳴海……今まで何をしてた? 莉緒をこんな目に遭わせるなんて……!!」
「俺だって……必死だったんですよ!!」
バチンと火花が散るように睨み合う二人。その足元で、莉緒はうずくまり、荒い呼吸を繰り返していた。
店内はまるで修羅場のような光景となり、嵐のような空気が充満する。ここから先は、二人のいがみ合いが彼女をさらに苦しめるだけ――そのことに気づきながらも、拓海と湊斗は衝突の一歩手前で冷静さを取り戻すことができないまま、凄惨な沈黙が続いた。
翌日、琴音は銀行を早退して白川屋に向かった。店が荒らされたと聞き、いてもたってもいられなかったのだ。
足を踏み入れると、ガラス片や倒れた棚は一応片づけられているものの、床に残る傷跡や血の痕が生々しい。湊斗と拓海、そして莉緒の三人が一触即発の状態だったと人づてに聞き、胸が凍る思いになる。
「莉緒は……どこにいるの……?」
琴音が怯えながら尋ねると、奥から湊斗が顔を出す。彼女は後方の部屋で休ませているらしい。
「薬を飲んで今は寝ています。……荒れた店内を片付けてくれたのは拓海さんですよ。俺一人じゃ到底無理だったので……」
「そうなんだ……。ごめんなさい、もっと早く来れればよかったのに……」
琴音は安堵と悲しさが入り混じった顔で、湊斗の隣に立つ。そこへ、ちょうど拓海が背後から現れた。彼もまた疲労困憊の様子だが、やや尖った眼差しを湊斗に向けている。
三人が狭い店内に揃うと、まるで空気が張り詰めるような緊張感が漂う。琴音は、湊斗と拓海の間に走るピリついた雰囲気を敏感に感じ取り、何とか和ませようと口を開く。
「……とにかく、莉緒が少しでも休めるならそれが一番いいよね。今はお母さんを亡くして、精神的にも限界だと思うから……」
「そうだな。悪いが、今日は店を閉めて、莉緒を病院に連れて行く必要があるかもしれない……カウンセリングとか……」
琴音の提案に湊斗はうなずきつつ、拓海は無言のまま棚を拭き続ける。その姿は苛立ちを押し殺すかのようにも見える。
琴音は(こんな状態で恋愛沙汰なんて考えたくない……でも、このままだと誰かが壊れてしまう)という危機感を抱く。湊斗と拓海、どちらも本気で莉緒を救おうとしているはずなのに、微妙な対立が生まれてしまっている。
店の奥で休んでいた莉緒が、突然激しい吐き気を訴えた。琴音が駆け寄り、あわてて背中をさするが、吐き気はおさまらない。
湊斗と拓海も駆けつける。どうやらストレスと疲労、食事不足が重なって体が限界を迎えているようだ。顔色は青白く、呼吸も乱れている。
「救急車呼びましょう……!」
「ああ、わかった!」
湊斗と拓海が手早く連絡を取り合い、琴音は莉緒の意識を確かめようと呼びかけるが、彼女はほとんど応答できない状態。
何度も「大丈夫?」と声をかけても、弱々しい吐息だけが返ってくる。母の死によって精神的に深く傷つき、身体も蝕まれているのが明らかだ。
数十分後、救急車が到着し、莉緒は再び病院へ搬送される。今度は自身の体が崩壊しつつある状況――医師の話では「極度の脱水と栄養失調、精神的ショックによる自律神経の乱れ」などが重なっているらしい。
意識はあるが、しばらくは点滴と安静が必要とのこと。
「母さんを送ったばかりなのに……今度は私が……」
薄暗い病室で莉緒が発した弱々しい声を聞いた湊斗は、その場で涙が込み上げるのを感じる。拓海も目を伏せながら、言いようのない無力感に苛まれていた。
――まさに負の連鎖。誰もが幸せから遠ざかり、絶望の淵をのぞき込むしかない状況に追い詰められていく。
莉緒が再び入院した翌日、拓海は単独で病院を訪れた。面会時間をやや強引に延ばしてもらい、莉緒と二人きりの時間を作ろうと画策する。
彼女がまともに歩けない状態なのをいいことに、一方的に自身の想いをぶつけようとしているのだ。
「莉緒……俺は絶対にお前を救いたい。母さんを亡くした苦しみから、何とか立ち直らせたい。だから、これからの人生、俺がずっと支えるから……俺を頼ってくれ」
ベッドに横になる莉緒は、くぐもった声で「そんな……無理だよ……」と首を振る。体を起こす気力もなく、視線は壁の一点を見つめたままだ。
「何が無理なんだ? 俺は本気だ。大学のときに辞めてしまったお前を放っておいた過去を後悔してる。二度と同じ轍は踏みたくない」
拓海の言葉に、莉緒は微かに眉をひそめる。痛々しいほどの熱意が伝わるが、それ以上に強引さや焦燥感が感じられ、今の彼女には重すぎる。
「ごめん、もう何も考えられない……。母がいなくなって、店もどうすればいいかわからなくて……。私なんかに構ってると、先輩が……」と弱々しく拒絶するが、拓海は引き下がらない。
「俺は鳴海じゃない。仕事でこの街を盛り上げながら、お前を助けてやれる。白川屋を再生する方法だって、きっと見つかる。だから俺を……俺の手を取ってくれ」
ほとんど懇願に近い口調。だが、莉緒の瞳は濁ったまま、不安げに揺れるばかり。
そこで拓海は、つい衝動的に莉緒の手を掴み、ベッドの上に体を乗り出す。「俺はもう待てない。お前を守るのは俺だ」と迫る姿は、愛情というよりも執着に近い。
か細い悲鳴のような声が莉緒の口から漏れるが、拓海はそのまま勢いで肩を抱き寄せ、唇を――。
「やめて……先輩、やめて……!!」
莉緒がかすれた声で必死に拒絶した瞬間、病室の扉が開き、ナースが顔を出した。
「面会時間はとっくに過ぎてます。申し訳ありませんが、お帰りください」と冷静に注意され、拓海は不本意そうにベッドから離れる。
莉緒の目には怯えが宿り、唇が小刻みに震えている。拓海は看護師の視線に耐えきれず、小さく頭を下げて病室を後にするが、その胸には「湊斗にも、何も言わせない」という攻撃的な感情がますます強まっていた。
一方、湊斗は別件の取材先に顔を出した後、莉緒を見舞うために病院へ向かっていた。その途中、偶然に同じ病院の書類から「過去の患者リスト」を扱う職員と雑談をする機会があり、何気なく自分の幼少期の事故について尋ねてみる。
すると、思わぬところで**“過去のカルテ”**が存在していることを告げられる。――祖父母に連れられてここで治療を受けたことがあるらしいのだ。
「たしかに、湊斗さん……平成◯年ごろに頭部の外傷で一度入院記録があるみたいですね。いまは古いデータなので倉庫にあるかもしれませんが……」
職員がそう教えてくれ、後日改めて探してみると言ってくれる。湊斗は驚きつつも、ノートのメモと符号する可能性を確信し、「お願いします」と頭を下げた。
もし、そのカルテを見れば、自分がなぜ記憶障害を負ったのか、莉緒との事故が何だったのか、詳細がわかるかもしれない――胸が高鳴る。
だが、その喜びも束の間、莉緒が危うい状況にある今、自分の過去を解き明かしても意味があるのかという疑問も湧く。
母の死、店の崩壊、絶望に打ちひしがれている彼女に追い打ちをかけるような真実かもしれない。――でも、真実を知らないままでは、二人とも次の一歩を踏み出せないとも感じていた。
(まずは莉緒さんを救わないと……そのために、俺の過去が役に立つなら、何でもする)
湊斗の決意は固まった。記憶のピースを取り戻すことで、幼少期に結んだ絆を再び甦らせ、莉緒を立ち直らせる力になれないか――そんな希望を抱えながら、病室へと足を急がせる。
湊斗が病室に入ると、莉緒はベッドで毛布をかぶり、じっと天井を見つめていた。昼間とは思えないほど部屋は薄暗く、心の闇が視界を覆っているかのようだ。
彼女の腕には点滴、顔には疲労の痕が濃く残る。声をかけても「……うん」と小さく答えるだけで、会話にならない。
「拓海さん、さっき来たんですよね……? 看護師さんが言ってました」
「……うん。わけわかんないこと言ってた……もういい……どうでもいい……」
莉緒の呟きには、完全に生への執着が失われているかのような響きがある。湊斗は胸が痛み、手をそっと伸ばして彼女の手に触れる。
「俺は諦めませんよ……莉緒さんを取り戻したい。店のことも、母さんの思い出も、全部ちゃんと抱えたまま前に進めるように、一緒に考えましょう」
しかし、莉緒の返事はない。彼女の瞳には何も映っていないように見える。
そのまま沈黙が続き、湊斗は一方的に話すしかできない。母の葬儀の後始末、店の片づけ、そして琴音も協力していること……それらを淡々と伝えるが、莉緒はまるで他人事のようだ。
「なんで……私はこんな目に遭うんだろうね……。父も母もいなくなって、店も……。私が継ぐって言ってたら、母は頑張れたのかな。私が迷ってたせいで、母は死んだのかな……」
その言葉に、湊斗は激しく首を振る。「そんなわけない、誰のせいでもない」と声を上げるが、莉緒の深い自己否定は止まらない。
「もう何も感じたくない……。湊斗さん、私を助けたいなら……いっそ終わらせてよ……。こんな苦しみ、耐えられない……」
心が壊れかけている。湊斗は思わずベッドの横で膝をつき、「そんなこと言わないで……俺が守ります」と必死に訴える。
だが、莉緒の瞳は闇に覆われていくばかり。絶望に身を委ね、完全に塞ぎ込む彼女を、どう救えばいいのか――湊斗にもわからず、病室には重苦しい空気が立ち込める。
病院から戻った湊斗は、夜の白川屋に一度立ち寄る。照明を最低限点け、片づけの続きをするつもりだった。そこへ、琴音がふらりと訪ねてきた。
どこか表情が沈んでおり、湊斗の顔を見るなり「……莉緒は?」と尋ねる。
「病室で……もう心が限界みたいです。俺が何を言っても響かなくて……」
「そう……。私もさっき病院に行ったけど、面会時間が終わってて……」
琴音は鞄を下ろし、古い棚の前でしばらく黙り込む。そして、意を決したように湊斗に向き直った。
「もう、私たちだけじゃどうにもならない気がする。専門のケアが必要だと思う。心療内科とか、カウンセリングとか……」
「俺もそう思います。拓海さんも言ってたし……でも、莉緒さん本人が治療を受け入れられるかどうか……」
二人は暗い店内で向かい合い、交わす言葉も少ない。ふと、琴音の目に涙が滲んだ。湊斗が「大丈夫ですか?」と声をかけると、彼女は小さく首を横に振る。
「ごめん……私、莉緒がこんなに追いつめられてるのを見てると、いたたまれなくて……。でも、同時に湊斗さんのことも心配で……」
その言葉に、湊斗は戸惑いを覚える。「俺のこと……?」と聞き返すと、琴音は一瞬言葉を失い、瞳を伏せたまま頷く。
「……莉緒を救おうと必死になってる湊斗さんが、壊れてしまわないか心配……。私、どうすればいいのかな……」
静かな涙が琴音の頬を伝う。彼女は莉緒を大切に思いつつ、湊斗にもかけがえのない思いを感じ始めている。だが、それを声高に主張することは彼女の性格上できない。
湊斗はそんな琴音の手をそっと握り、「ありがとうございます。あなたに支えられてるから、俺はまだやれてます」と微笑む。
その瞬間、琴音の胸に小さな痛みが走る。――この人はきっと莉緒を愛している。そして私はその“支え”でしかないのかもしれない。それでもいい、と思いながら、止まらない涙を必死に隠そうとする。
翌日、拓海が白川屋を訪れた。莉緒はまだ入院中だが、店に何か変化がないか確認したかったようだ。そこで湊斗と鉢合わせし、再び険悪な空気が流れる。
静かに書類を整理していた湊斗に向かい、拓海が冷たい声で話しかける。
「莉緒の容態はどうだ。お前、ちゃんとフォローしてるのか?」
「してますよ。でも彼女は今、何も受け入れられない状態で……」
湊斗が穏やかに答えようとするも、拓海の苛立ちは抑えられない。
「何も受け入れられない? それはお前の押しつけじゃないのか? 本当に莉緒のためになってるのか……」
「そんな言い方はないでしょう。俺も必死なんです……!」
見る見るうちに二人の声は高まり、店内に緊迫感が走る。とうとう拓海は湊斗の胸倉を掴み、「結局お前は中途半端だ」と罵倒する。
「自分の過去すら曖昧なまま、莉緒を助けられるのか……? お前はいつだって他人頼みだ。駅前のイベントやフリーペーパーだって、地元の力を借りてただけじゃないのか……」
「なんだと……!? 俺の過去は関係ない。莉緒さんを救いたい気持ちは本物だ!」
その言葉に、拓海の目がさらに鋭くなる。
「本物? だったら形にしてみせろよ。俺は企画を通して、白川屋を蘇らせるつもりだ。お前は何ができる? 昔から莉緒に縁があるからって、それだけで済むと思うなよ……!」
拳を振り上げそうになる拓海を、湊斗はぎりぎりのところで押し返し、「いい加減にしてください」と声を張り上げる。
いつ殴り合いになってもおかしくない一触即発の状態。二人とも莉緒を思っているが、その思いが暴走し、相手を排除しようとする衝動を抑えきれない。
そこで琴音が慌てて店内に飛び込んで止めに入るが、二人は睨み合ったまま微動だにしない。まるで“どちらが莉緒を救うに値するか”を競い合うように、毒々しい対立を深めているかのようだ。
そんな険悪な空気が渦巻く中、湊斗のスマホに病院の職員から連絡が入る。「先日お探しだったカルテが見つかりました」との報せだ。
わずかな救いを感じた湊斗は、琴音に「店を頼みます」と告げ、拓海の鋭い視線を無視するようにして店を出ていく。後ろから拓海が「どこへ行くんだ」と呼び止めるが、湊斗は答えない。
病院の資料室で、湊斗はついに「幼少期の自分のカルテ」に対面する。ファイルには頭部外傷の記録やCTスキャンの結果、そして保護者(祖父母)の署名が記載されていた。
そこには衝撃的なメモも含まれていた――
「同席していた莉緒(当時◯歳)も軽い外傷。転倒の際に、湊斗が頭を強打。衝撃で一時的に意識喪失。医師からは経過観察が必要と説明。」
さらに追加の余白には、看護師の走り書きが――
「本人(湊斗)は事故の原因を思い出せない様子。祖父母が“両親が亡くなったばかりで精神的に不安定だから、あまり刺激しないでほしい”と要望。白川家の娘さんもショックでしばらく眠れないとのこと。」
湊斗は息を呑む。自分と莉緒は、幼少期に一緒に何かの事故に巻き込まれ、その時に自分は頭を強く打って記憶障害を負った可能性がある。
さらには、莉緒もまた軽傷を負っていたという事実――それがフルートを辞めるきっかけになったかどうかはわからないが、少なくとも二人の過去には深い痛みがあった。
「これが……俺たちの失われた記憶……」
震える手でファイルを抱え、湊斗の頭には幼い頃の莉緒の姿がフラッシュバックする。音楽が流れると喜んでいた二人、そして突然の転倒事故……。
記憶の断片が繋がり始め、「俺は莉緒さんの痛みをずっと知らないふりをしてきたのかもしれない」と思うと、涙が浮かぶほど胸が苦しくなった。
その夜、病室に戻った湊斗は、回復の兆しが見えない莉緒の枕元に座る。彼女は相変わらず横たわったまま、瞳を閉じている。
カルテを手にした湊斗は、意を決して彼女に話しかける。
「莉緒さん……俺、幼い頃に一緒に大きな転倒事故に遭ったみたいです。頭を打って記憶障害になった。けど、君も軽い怪我をしてたってカルテに書いてあった」
莉緒は反応を示さないが、僅かにまぶたが痙攣したように見えた。湊斗は構わず続ける。
「君がフルートを辞めた理由も、もしかしたらあの事故と関係があるのかもしれない。そこには書かれてなかったけど、君だって傷ついたんだ。俺は……そのことをずっと知らないまま、君を置き去りにしてきたのかもしれない」
声を震わせながら、湊斗は自分が得た情報をすべて伝える。過去を掘り起こすことが莉緒を更に傷つける危険もあるが、それでも言わずにはいられない。二人の縁が、実は痛みで結ばれていた可能性が高いのだから――。
「俺たちは昔、同じ場所で転んで、痛くて泣いてた……でも、それでも音楽が好きで、一緒に歌ってたんだ……。カルテやノートにはそんな断片がたくさん残ってる。俺は、それを……取り戻したい」
すると、莉緒の瞼がゆっくりと開き、涙が一筋伝う。唇が震え、小さな声が生まれる。
「……思い出したく……ない……。あのとき、私が……あんなことしなければ、湊斗さんが……頭を打たなくて済んだのに……」
か細い声だが、確かに莉緒は何かを覚えている。湊斗は驚きつつも、そっと彼女の手を握り、「大丈夫だよ、あれは誰のせいでもない。事故だったんだ」と伝える。
莉緒の涙は止まらないが、完全に絶望に沈むわけではない。過去の痛みが甦ることで、逆に「生きている感覚」が微かに戻ってきたのかもしれない。
数日が経ち、莉緒は少しずつ食事を口にできるようになった。母を喪った悲しみは依然として深いが、湊斗が示した過去の記憶の断片は、彼女に「自分がただの被害者ではない」という意識を呼び起こす。
確かに幼い頃は、湊斗と一緒に音楽を楽しんでいた――そこには喜びもあったし、痛みもあった。
そんな中、拓海は徹底的に仕事を進め、白川屋を中心に据えた大きな企画を固めつつあった。「店の再建」や「闘病の物語」を含んだドキュメンタリータッチの特集を作り、出版社が全面サポートする形で打ち出す考えだ。
ただ、彼の強引なやり方は商店街の一部で反発も招きつつあり、湊斗とも連絡が途絶えがち。琴音は板挟み状態で苦悩を深めている。
絶望と執着の間で、誰もが疲れ果てるこの時期――しかし、わずかに光が見え始める。莉緒が「もう一度だけ店に行ってみたい」と呟いたのだ。
母を失った場所であり、絶望の引き金にもなった場所――それでもそこが自分の「始まり」であると認めるなら、もう一度向き合わなければならないと思ったのだ。
「私……何もかも失ったと思ってたけど、まだ……あのときの記憶とか、父や母の足跡とか……全部、この店に残ってるなら、もう一度見たい」
湊斗は莉緒の言葉に涙ぐみ、琴音はそっと微笑む。拓海はそれを知れば、きっと「再建のチャンスだ」と燃え上がるだろう。
母の死から日が浅いというのに、莉緒は自身の体調を崩して再入院を余儀なくされ、心身ともにボロボロの状態にあった。精神科のカウンセリングを受けるも、まだ言葉も少なく、塞ぎ込む日々が続く。
早朝の病室。微かな光が差し込むカーテンの隙間から、莉緒はぼんやりと外の景色を見ている。
父も母もいない世界――何のために生きればいいのか。音楽を愛していたころの自分はもう存在しない。白川屋の将来を考える気力も湧かない。
そんな彼女の手には、湊斗が持ってきた幼少期の事故のカルテのコピーが握られている。それを何度見ても、「あの頃の自分」が明るく笑っていた記憶は蘇らず、むしろ「なぜそんな悲劇が起こったのか」と頭を抱えるばかり。
「……私のせいで、湊斗さんは記憶を……」
思考が堂々巡りを繰り返す中、看護師が回診に来て声をかける。「そろそろ朝食の時間ですよ」と優しく促すが、莉緒はただ首を横に振る。
限界の闇に堕ちている彼女の姿に、周囲は何とか支えようとするが、その心の壁はあまりにも厚い。
同じ頃、湊斗は病院近くの喫茶店で朝食をとっていた。昨夜はほとんど眠れなかったせいで、目の下にクマができている。
携帯には拓海からのメッセージが何通も届いていた。仕事の進捗や白川屋の企画について、さらには莉緒の容体を報告せよという内容まで――煽るように詰問している印象だ。
(拓海さんの言う通り、俺は何もできてないのかもしれない。だけど、莉緒さんを救いたい気持ちは本気なんだ……)
自問自答を繰り返すうち、思い出すのはカルテの記述や父のノートにあった「幼い頃の二人の姿」。あの記憶を手繰り寄せれば、もしかして莉緒が再び生きる気力を取り戻す糸口になるのでは――そんな思いが胸をかすめる。
そして、ふと過去の「転倒事故」と「吹奏楽部を辞めた理由」に何らかの関連があるのではと勘づく。
莉緒がフルートを激しく拒否し始めたのは、あの事故からだろうか。あるいは別の要因があったのか――そこに踏み込めば、彼女の絶望を解きほぐすヒントが見つかるかもしれない。
コーヒーカップを置いた湊斗の瞳には、わずかな決意の光が宿る。「もう一度、莉緒さんの音楽の原点に触れてみよう。あれが好きだった頃の彼女に戻ってほしい」と願う。
その足掛かりを探すため、彼はある行動に出ることを決めた。
一方、琴音は銀行の業務を早退し、自宅の一室で書類を整理していた。実は彼女もまた、「カフェ開業」のために具体的な準備を進めていたのだ。
物件選びや融資計画はほぼ固まりつつあるが、莉緒の母の死や彼女の危機的状況が続く中で、自分だけが前に進むことへの罪悪感を拭えない。
「私には何ができるんだろう……」
心が沈んだまま、開業計画の書類を眺めていると、ふと机に置いてあった小さなノートが目に入る。それは高校時代に莉緒と一緒に書いた「やりたいことリスト」だった。
そこには「フルートとピアノの二重奏をカフェで披露したい」という文章が残っている。吹奏楽部だった莉緒と、一時期ピアノに熱中していた琴音が互いの夢を語り合った頃の産物だ。
「そうだ……莉緒は音楽が好きだったんだ……。あの頃、部を辞めた理由ははっきり言わなかったけど、きっと何か深い痛みがあるに違いない」
琴音の胸に、ひとつの小さな火が灯る。もしフルートへのトラウマが莉緒を苦しめているなら、自分が一緒に向き合えないだろうか――そんな考えが生まれる。
だが、それには湊斗との複雑な関係も絡み合うし、拓海の動向も気になる。とはいえ、いまはそんなことを言っていられない。親友のためにできる限りのことをしたい――琴音はそう決意し、ノートをぎゅっと抱きしめた。
そして、その夜。拓海は支社の会議室で上司と最終打ち合わせに臨んでいた。白川屋を含む老舗特集の企画はほぼ承認され、あとは細かな調整を残すのみ。
本来なら喜ぶべき場面だが、拓海の表情は暗い。莉緒の容体や湊斗との対立が頭を離れない。
「本社もこの企画には期待してる。地方創生の目玉にできる可能性がある。あの文房具店が復活すれば、話題性もあるだろう」
「はい……。しかし、店主が亡くなり、娘さんも倒れてしまって、実際はかなり難しい状況です」
上司は「そこを“人間ドラマ”として描くんだろう?」と冷徹な口調で返す。つまり、辛辣な現実を含めて書けば、読者の心を揺さぶる作品になるという理屈だ。
拓海も理性では理解しているが、感情がどうしても抵抗を覚える。なぜなら莉緒の苦しみを“コンテンツ”として消費するような形になる恐れがあるからだ。
「俺は……彼女を救いたいんです。でも、企画を成功させるために彼女を追い詰めるわけにはいかない……」
「わがまま言うな。仕事は仕事、プライベートはプライベートだろう。成果を出せなきゃ意味がないんだ」
上司に一蹴され、拓海は拳を強く握る。――湊斗との対決は避けられないが、同時に自分が描こうとしている企画が、本当に莉緒のためになるのか?
終わりの見えない葛藤の中で、彼の思考はさらに追いつめられていた。
数日後、莉緒は医師の許可を得て短時間だけ外出を認められた。母の四十九日の法要に向け、店の私物を整理する必要があるという名目だ。
琴音と湊斗が付き添う形で、白川屋の扉をゆっくりと開ける。半壊状態だった店内は、すでに二人の努力によって最低限片づけられており、荒れ果てた印象は薄れていた。
「あの日……私、めちゃくちゃにしちゃったんだよね……ごめんね」
「いいの。何も謝る必要ないよ。辛かったんだから……」
琴音がそう言って莉緒の背をさすり、湊斗は黙って棚の向こうを確認する。母の形見と思しき道具や古い帳簿があちこちに散らばっており、どこから手を付ければいいか途方に暮れる。
だが、莉緒は顔を上げて「まず、棚の奥にある父のノートと……母の写真が残ってる箱を見たい」と言う。母を火葬してしまった以上、もう写真や手紙しか彼女を偲ぶものがないのだから。
棚の奥から箱を引っ張り出すと、埃をかぶったアルバムや手紙が出てきた。そこには母が若い頃、父とともに店を開いたときの思い出が鮮明に写っている。
莉緒はそれをじっと見つめ、やがて震える声で「母さん、こうやって笑ってたんだね……」と呟く。琴音と湊斗も黙ってそれを見守る。
「あれ……これ、母さんの字かな……?」
束ねられた手紙の封筒に、莉緒の名前が走り書きされているのを見つける。どうやら母が遺した“何か”のようだ。彼女は目を潤ませながら封を切る。
封筒の中には、簡素な便箋が数枚。それは明らかに「死を覚悟した」人が書いたものだった。いつ書いたか定かではないが、おそらく病床に入る前後かもしれない。
莉緒へ
父さんが亡くなってから、ずっと店を守ってきたけど、お前には好きな道を進んでほしいと願っていた。
私が倒れたら、店はどうなるんだろう……そう考えるたび、お前に負担をかけるのが申し訳なくて……でも、もしお前が望むなら、店を続けてもいいんだよ。畳んでもいい。どちらでも、私はお前を応援している。
お前が本当に大切に思えるものを見つけて生きていってほしい。それが父さんや私の願いだよ。
読み進めるにつれ、莉緒の瞳からまた涙がこぼれ落ちる。便箋には続きがあり、次の行にこんな言葉があった。
お前が音楽を嫌いになった理由、知ってるよ。あの事故で湊斗くんを傷つけてしまったと思ってるんだよね。でも、あの子もきっと音楽が好きだったんじゃないかな……。
二人がもう一度音楽を楽しめる日が来たら、私はきっと天国で大喜びするよ。
それは、まるで母がすべてを知っていたかのような内容だった。幼少期の事故で湊斗が頭を強く打った原因が自分にある――そう悩む莉緒の心を見透かしたような文章。
震えながら手紙を読み終えた莉緒は、声にならない嗚咽を漏らす。
「母さん……知ってたんだ……。私がフルートを辞めた、本当の理由も……」
琴音も湊斗も、言葉もない。だが、それが母の“最後の想い”であるとわかり、胸を締めつけられる。
莉緒は手紙を胸に抱きしめ、「私……店をどうするか、ちゃんと決めなきゃいけない……母さんが望んでたように」と呟くと、ほんの少しだけ光が瞳に戻ってくるのを感じた。
一方、拓海は東京本社のメディアとのコネクションを活かし、白川屋を取り上げる大きな取材をセッティングしていた。地元で起こる“文房具店の復活劇”として、ややセンセーショナルに扱う構成を提示している。
そこには**「店主の急逝と娘の苦悩」**という見出しが付されており、実際に莉緒が同意するかどうかの確認すらしないまま、話を進めている。
「本社の広報チームが動き出せば、あっという間に話題になる。そうすれば資金援助やスポンサーの目も向くだろう……それこそ莉緒を救う鍵になる」
拓海はそう信じ込んでいたが、実際は人の死をコンテンツに仕立てようとする危うい方針。しかも、本人の了承を得ずに進めていることが大きな問題となりうる。
同僚が「大丈夫なのか? 当人が拒否したら企画が破綻するぞ」と諫めても、拓海は聞く耳を持たない。
「莉緒のためだ。あいつがこれを機に店を再生すれば、母親の遺志も報われる。俺がすべて背負ってやるんだ……鳴海なんかに負けていられるか!」
完全に暴走気味の拓海は、関係各所へ連絡をとり、取材日程や雑誌掲載のスケジュールを強引に組み上げる。
白川屋の店先で、琴音と湊斗が軽く打ち合わせをしていると、スマホに「拓海が大々的な取材をセッティングした」という連絡が飛び込んできた。
莉緒はまだ退院していない。そんな状態で派手な報道陣が来たら、どれほど負担をかけるかは火を見るより明らかだ。
「やっぱり、先輩は暴走してる……。これじゃ莉緒さんがさらに追いつめられちゃう」
「うん……でも、拓海さんも悪気があってやってるわけじゃないと思うんだよ。彼なりに『お店を救う手段』だって必死なんだろうけど……」
琴音も歯がゆい表情。仕事と恋愛感情が渦巻く中で、拓海は“成功”さえすればすべてうまくいくと信じているのだろう。
湊斗は頭を抱え、「どうにか止めないと。莉緒さんにはまだそんな大きな企画に応じる余力なんてない」と声を上げる。
その二人の会話を、小さく聞き耳を立てていた人物がいた。――入院からの外出許可を取って、ひそかに白川屋まで来た莉緒本人だ。
薄いコートに身を包み、足元はまだ覚束ない。彼女は店の扉の陰から出てきて、小さな声で「あの……取材って……何のこと……?」と問いかける。
「莉緒さん! 大丈夫ですか!? こんな無理して……」
「大丈夫……少しは体力戻ってきたから。それより、取材って……先輩が何か……?」
湊斗と琴音は顔を見合わせ、正直にすべてを打ち明ける。拓海が勝手に大きなメディアを呼んで白川屋復活をアピールしようとしていることや、それがかなり大規模で、しかも了承を取っていないことなど。
莉緒は驚きと困惑の色を浮かべ、息を詰まらせる。
「どうして……? 私、まだ店をどうするか……何も決めてないのに……」
バラバラの想い。拓海は拓海で彼女を思い、湊斗は湊斗で彼女を思い、琴音もまた二人を助けようとしている。それでも、いま莉緒が求めるのは平穏と自分で決める権利だ。
暗雲が立ちこめる中、彼女の心には小さな怒りすら芽生えはじめる。「私の気持ちを無視して、どうして勝手に……」と。
取材日程が迫るある夜。拓海は病院から退院して再び白川屋に戻った莉緒と連絡を取り、「直接話したい」と迫った。莉緒は湊斗や琴音の心配をよそに、一人で店に出向き、拓海を待つ。
店内は照明が暗く、かすかな明かりだけが二人を照らす。自分の母親の形見が残る場所――重々しい沈黙が落ちる。
「莉緒……どうして連絡をくれなかった? 取材の件、賛成してくれると思ってたのに……」
「賛成? 私、まだ何も聞いてないよ。勝手に話を進めてたんでしょう……どういうつもり……?」
莉緒の声には冷えた怒りが滲む。拓海は言い訳するように「お前を救いたくて、店を立て直して、母親の遺志を継げるようにって……」と訴えるが、彼女は首を振る。
「私の気持ちを無視して……そんなの、お母さんが望むはずない……。今はまだ、店を再開するかもわからないのに。そんな取材されても困るよ……」
二人の会話は噛み合わない。拓海はどこか苛立ち、「じゃあどうしたいんだ?」と詰め寄る。店を続ける気がないなら閉めてしまうのか、それで後悔しないのか――彼女を問い詰める。
莉緒は追いつめられたように唇を噛みしめ、「やめて……そんな言い方……」とつぶやくが、拓海は止まらない。
「母親の死を無駄にするのか? 店を守るのが一番の供養だろう? 俺はそれをサポートしてるだけだ……!」
「やめて……やめてよ……私がどうするか、私が決めたいの……」
思わず莉緒が叫ぶ。眼には涙が浮かび、体が震えている。拓海も激しく感情を揺さぶられ、思わず彼女の手を強く掴もうとする。その瞬間――。
「ストップ!!」
店の扉が大きく開き、息を切らした湊斗と琴音が飛び込んでくる。二人とも怒りと緊張の表情を浮かべ、拓海を牽制するように莉緒の前に立ちふさがった。
「これ以上、莉緒さんを追いつめないでください……!!」
「北園さん、勝手すぎるよ! 莉緒を守りたいなら、どうしてこんな強引な方法を……」
拓海の苛立ちが頂点に達し、今にも湊斗と乱闘しそうなムードが漂う。莉緒は耳を塞ぎ、奥へと逃げようとするが、琴音が必死に抱き留める。
言い争いはさらにエスカレートし、湊斗と拓海が声を荒げて互いを否定し合う。琴音は莉緒を抱きしめながら「やめて……やめて……」と泣き叫ぶが止まらない。
このままでは誰かが本当に壊れてしまう――そんな危うい空気が充満する中、突然莉緒が「やめてっっ!!」と全身の力を振り絞って叫んだ。
「いい加減にして……これ以上、みんなを傷つけたくない……!!」
その声は震えながらも、はっきりと意思を示している。湊斗も拓海も動きを止め、琴音は安堵の息をつく。
莉緒は息を整えながら、決意を込めて言葉を紡ぎ始める。
「私は……母を失って、生きる意味がわからなくなった。店も音楽も捨てたかった……けど、母の手紙を読んで思ったの。私が本当に好きだったのは“音楽”だったって。あの日の事故で湊斗さんを傷つけたことを責めてきたけど、そろそろそれを乗り越えてみたい。母さんが望んでたように……」
その言葉に、湊斗は涙を浮かべ、琴音も目を潤ませる。拓海は複雑な表情で黙り込むが、莉緒の決意が本物であることを感じ取っていた。
続けて、莉緒は店のカウンターを見つめながら声を出す。
「白川屋は……ひとまず閉めたい。大掛かりな再建とか、今の私には無理……。でも、店自体を潰すわけじゃない。この場所は形を変えて残すかもしれないし、時期が来たらフルートと一緒に何かやりたい。……だから、取材も今は断らせてほしい」
ズバリと明言する莉緒に、拓海は唇を噛む。せっかく大企画を用意しても、今の彼女は受け入れられないと理解する。
拓海「……わかった。……全部白紙に戻すよ。お前を苦しめる気はなかったんだ……本当に……」と消え入りそうな声で認めるしかない。
湊斗はほっと胸を撫で下ろし、「莉緒さんの選択を尊重します。俺も可能な限り支えます」と言う。琴音は「私も力になるよ」と微笑む。
拓海もまた、肩を落としつつも「すまなかった」と目を伏せ、ようやく力を抜く。彼の野心が空回りしていたことを、いま痛感しているのだろう。
こうして、白川屋の“大掛かりな復活”構想は一旦頓挫し、莉緒は店を“休止”扱いのまま手放さずに抱えていくことを選んだ。母の遺志を受け継ぐにせよ捨てるにせよ、いまはまだ準備が足りない。まずは自身の傷を癒し、ゆっくりと立ち直ることが先決だ。
最後に、莉緒は母の写真を手に取り、静かな声でこう告げる。
「母さん……私はまだまだ弱くて、誰かの力がないと立ち上がれない。でも、少しずつ……自分の道を選んでいくから。天国で見ててね……」
――これが、莉緒の再出発の宣言だった。湊斗はその横顔を見つめながら、幼い頃の思い出を取り戻しつつ、心に新たな使命感を宿す。
琴音は二人の未来をそっと見守りながら、カフェ開業への意志を失わずにいる。拓海は自責の念を抱えつつも、地方支社での仕事を全うしようと胸に決める。
母の葬儀と店の混乱を乗り越え、莉緒は再び病院に戻って静養することになった。
すぐに元気になるわけではないが、どこか表情が柔らかくなっている。
湊斗はフリーペーパーの次号に向け、白川屋を特集する記事を最小限に留めつつ、莉緒の気持ちを尊重している。拓海は大企画をいったん白紙に戻し、別の老舗特集に方向転換を図る。
琴音は銀行の仕事を続けながら、カフェ開業の準備を進め、いつか友人たちが集える場所を作ろうと夢を温める。
その春の終わり、莉緒が病室の窓を見つめると、遠くにわずかに残る桜の花びらが風に舞っているのが見えた。母が亡くなった悲しみは消えないが、新しい風が自分を包んでいる気がした。
「いつか、ちゃんと笑える日が来るのかな……。お母さんのことも、音楽のことも、全部抱えたまま、歩いていけるといい……」
小さなつぶやきに呼応するように、窓からほんのりとした春の風が吹き込み、莉緒の頬を撫でる。絶望に沈んでも、人はまた立ち上がることができる――そう信じたくなる瞬間だった。