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第一章:春の風が運ぶ予感−1

――春の訪れを感じさせる柔らかな日差しが、カーテンの隙間から部屋の中に細い光の筋を落としている。

目覚まし時計が鳴るよりも前に目を開けた湊斗は、ぼんやりと天井を見つめたまま、大きく息を吐き出した。

まだ布団の中にしがみついていたい気分だが、起きねばならない理由がある。


「はあ……」


深いため息をひとつ落とすと、湊斗は意を決したように身を起こす。ぼさぼさの髪をかき上げ、携帯を見ると時刻は午前6時10分。少しだけ早く起きすぎたかもしれない。

だが、朝のゆったりした時間が嫌いではない。自炊をするようになってから、少しでも時間に余裕があると気持ちの面で落ち着くのだ。


枕元のメガネをかけ、リビングへと足を運ぶ。まだ冷えが残るフローリングに足が触れると、わずかな寒さが肌を刺す。それでも外は確実に春になりつつあり、三月の終わりの風は優しい。


湊斗は小さな電気ケトルでお湯を沸かしながら、トースト用のパンを取り出し、冷蔵庫からバターとジャムを出す。朝食はトーストとコーヒー、それに昨夜の残りのスープ。手際良く用意を進めるうちに、だんだんと頭がはっきりしてくる。


「今日も一日、頑張るか……」


自分に言い聞かせるように呟き、湊斗は座卓に向かった。まだ薄暗い外の景色を見ながら、コーヒーの香りに包まれる。


――就職してから半年が経ち、少しずつ仕事には慣れてきた。出版社の編集部で雑誌や小冊子の記事を作成するのが主な業務だ。しかし、自分が本当にやりたかった仕事は何だったのだろう、と思う時がある。

子どもの頃から文章を読むことは好きだったが、書くことにはそれほど情熱を持てていない。周囲の編集者は皆、「世に出したい作品や作家がいる」という強い思いを抱いているように見えるのに、自分にはそれがない。


それでも、ここで全力を出さなければならない理由がある。それは、亡き祖父母が育ててくれたという恩義、そして自分なりの生き方を見つけたいという焦り。


食器を洗い終え、時計を見るとちょうど7時前。いつも通りの時間だ。背伸びをして首を回し、スーツに着替えるためにクローゼットへと向かう。


少しだけ薄手のジャケットに袖を通すと、先週買ったばかりのネクタイを締め、鏡を見る。整った顔立ちではないが、服装をきちんとしていればそれなりに見えるだろう――そう自分に言い聞かせる。

部屋を出る際に、机の上に放置された原稿用紙がふと目に留まった。友人のアマチュア作家が書いた短編小説で、今は湊斗がチェックしている最中だった。締め切りが近いのに、まだ校正が終わっていない。


「夜には仕上げるか……」


そう呟いて家の鍵をかけた。まだ少し肌寒い外気が、春の陽気の中に確かな存在感を保っている。湊斗は歩き出しながら、少しだけ背筋を伸ばした。


同じ頃、莉緒は実家である文房具店「白川屋」のカウンターに立っていた。

営業時間は朝9時からだが、今日は朝から配達用の荷物が届く予定だ。昔ながらの長いカウンターの向こう側で、背伸びをしながら天井の蛍光灯を点けると、微かに埃の舞う光が店内を照らす。


「……やっぱり少し古いなあ」


幼い頃から見慣れた風景だが、こうして改めて店内を見渡すと、あちらこちらに時代を感じる備品や棚が目につく。父が亡くなってからは母が店を守っていたが、その母も体調を崩し、最近は店を閉めがちだった。


大学を卒業し、一度は地元を離れて就職も考えた。だが、母を一人にしておくのは気がかりだったのと、店を続けるか畳むかという判断もせねばならず、結局は実家に戻ってきたのだ。


「おはよう、莉緒。もう店開けるの?」


ガラガラと引き戸を開けて入ってきたのは、幼馴染の琴音だった。彼女は少し濃いめのベージュのトレンチコートを羽織り、手にはコンビニの袋を提げている。


「琴音、おはよう。ううん、まだ準備中。でも配達が来るって言うからさ」

「そうなんだ。じゃあ、これ差し入れ。ホットコーヒーとサンドイッチだけど……朝ごはんはもう食べた?」

「まだ。助かるー! ありがとう」


莉緒はほっとしたように笑みを浮かべ、琴音から袋を受け取る。その笑顔につられて琴音も笑い返す。


「最近はどう? 家のことも店のこともいろいろ大変そうだけど」

「うーん……正直、まだまだ気持ちの整理がつかない。店を継ぐのが当然みたいに周りから言われるけど、私自身は本当にそれでいいのか迷ってる」

「そっか……。でも、焦らなくていいんじゃない? おばさんも今すぐ無理しないでほしいって思ってるだろうし」

「うん。まあ、しばらくはアルバイト感覚で店を手伝いながら考えてみるよ」


そう言いながら、莉緒は差し入れのサンドイッチを一口かじる。ほんのり温かいコーヒーが胃に染みわたると、少しだけ体が目覚めてきたような気がした。


「ねえ、琴音は今日これから仕事?」

「うん、銀行の早番シフト。8時半には行かないと」

「そっか。大変だね」

「まあ、シフト制だから慣れちゃった。でもこれから忙しくなりそう。4月は新年度で、ローンとか口座開設とか、いろいろ手続きも増える時期だし」


そう言いながら、琴音は店内をきょろきょろと見回す。細長い通路には、雑然と文房具が並び、奥には小さな事務スペース。古い棚にはノート、ペン、便箋、ハガキ、ファイル類……いずれも種類は限られているが、昔からの常連客が何かと買いに来てくれる。

高校時代は、莉緒が吹奏楽部で忙しい時にも、ここで一緒に宿題をして過ごしたこともある。懐かしさが込み上げてくる。


「そういえば、この間の吹奏楽部のOB会、莉緒は行けなかったんだよね?」

「ああ、うん。店のことでちょっとバタバタしてて……。まあ、私はもうほとんど顔出してなかったから、行きづらかったってのもあるけど」

「昔はあんなにフルート頑張ってたのに、もったいないなあって思うよ」


琴音の呟きに、莉緒は言葉を詰まらせる。フルートを辞めたのは自分が決めたことだけど、やはり未練がないわけではない。それでも、あの頃のように純粋に音楽を楽しむ気持ちは、どこか遠いところへ行ってしまった。


「まあ、今は店のことが優先だし……。それに、新しい夢を見つけたいって気持ちもあるから」

「そっか。莉緒ならきっと見つかるよ、何か大切に思えるものが」


琴音はそう言って微笑むと、カップのコーヒーを飲み干す。時計を見ると、出勤の時間が近い。


「私もそろそろ行くね。差し入れでゆっくりしてて。配達、ちゃんと来るといいね」

「ありがとう。仕事頑張って」


琴音は足早に店を出て行った。莉緒は小さなため息をつき、店のシャッターを開ける。朝の澄んだ空気が店内に入り込んできて、微かに春の匂いが漂う。

――自分はこれからどう進むのだろう。ふとそんな考えが脳裏をよぎるが、すぐに配達のトラックが近づいてくる音がして、現実に引き戻される。


一方その頃、湊斗は会社の最寄り駅から少しだけ遠回りをして、雑貨屋でノートを一冊購入していた。取材メモとして少し凝ったデザインのノートが欲しかったのだ。

出版社に勤務すると言っても、地方の小規模な企業なので、出版物は主に地元向けの観光ガイドやフリーペーパー、あるいは町の歴史をまとめた記念誌などが中心である。


「おはようございます」


オフィスに着くと、すでに先輩の編集者たちがパソコンに向かって作業をしていた。社員は総勢15名ほど。編集部はそのうち4名で回している。


「おはよう、鳴海くん。今日の午前中は、例の地域冊子の打ち合わせだよ。10時から隣町の商工会議所に行ってもらうから」

先輩の川瀬が振り返りながら言う。髪を短く刈り上げた精悍な顔立ちの男性だが、中身はとても優しく面倒見がいい。


「了解です。じゃあ、早めに準備して行ってきますね」


湊斗は席につくと、昨日のうちにまとめておいた資料を確認する。この冊子は地元の古い伝統行事や、昔ながらの商店街を紹介するもので、商工会議所からの依頼を受けて作っている。


10時前に会社の車を運転して隣町へ向かう。ほどなくして商工会議所に到着し、担当の職員が通してくれた会議室で待っていると、何人かの地元商店主たちも合流した。

彼らは年配が多いが、それだけに地域への愛着が深く、熱意も強い。一方で紙媒体の作り方やデザインへの理解はあまりなく、いつも意見の調整に苦労するのが現実だ。


「鳴海さん、うちの店はもう少し大きく写真を使ってもらえませんかね。古い建物だけど、そこが味だと思うんですよ」

「うちの店はね、創業昭和10年なんだから、歴史あるってことをもっと強調したいんですよ」


そんな声に、湊斗は笑顔で応対しながら丁寧にメモを取る。デザイナーは別にいるのだが、編集の役目としてはこうした要望をうまくまとめ、より魅力を引き出すアイデアを考えることにある。

やりがいがないわけではない。それでも、どこか物足りなさを感じてしまうのは、自分の中に燃えるような情熱が見当たらないからだろう。


打ち合わせはお昼過ぎまで続き、ようやく終了。数多くの要望が飛び交ったが、ある程度は整理できた。ふと携帯を見ると、昼食を取る余裕もない時間だった。


「さすがに腹が減ったな……」


呟きながら、車に乗って会社へ戻る。道すがら、地域の風景を眺めていると、ところどころに桜が咲き始めているのが見える。もう少しで満開になれば、町の景色も華やかになるだろう。

けれど、自分の気持ちはまだ咲ききれていない――そんな漠然とした思いが胸をよぎる。


午後3時を過ぎた頃、湊斗は担当している企画の写真撮影のため、駅前にある古い文房具店を訪ねることにした。雑貨特集ページの「地元の小さなお店紹介」でピックアップできそうだったからだ。

事前に電話をしたが繋がらなかったため、直接行って話をしてみることにする。


駅前の商店街から少し奥に入った路地に、その店はあった。看板には「白川屋」とあり、木製の扉と古びたガラスが特徴的だ。扉を開けると、からり、と乾いた音が響く。


「いらっしゃいませ……あれ、今日はもう閉める時間じゃ?」


カウンターの向こうにいたのは、莉緒。ちょうど店仕舞いをしようとしていたのか、棚の整理をしている最中だった。

湊斗は少し気まずそうに頭を下げる。


「あ、すみません。こちらって、夕方5時までって聞いていたんですが……」

「そうなんですけど、今日は母が体調を崩してるので少し早めに閉めようかと思ってて。ご用事ですか?」


莉緒は不機嫌そうなわけではなく、戸惑いながらも丁寧に応対する。湊斗は名刺を差し出した。


「あ、すみません。地元の出版社で編集をしております、鳴海と申します。実は駅前特集の冊子に載せるお店を探しておりまして……もしよろしければ取材というか、簡単なインタビューと写真撮影をお願いしたいんです。掲載料などはもちろんかかりません」


その言葉に、莉緒は目を瞬かせる。出版社の人がこんな小さな店をわざわざ訪ねてくるとは思っていなかったのだろう。


「うちの店が、雑誌か何かに載るんですか?」

「はい、雑誌というほどではなく、地元のフリーペーパーに近いものなんですけど。商店街のお店をいくつか紹介しようという企画なんです」

「へえ……」


莉緒は店内を見渡す。古い棚と古い商品の数々。それでも、自分が小さな頃から慣れ親しんできた場所だ。地元で愛されてきた歴史はあるし、取材されるなら嬉しいような気もする。


「でも、母に相談しないと勝手には決められないし……。今日じゃダメですか? 改めてご連絡するとか」

「もちろんです。突然お邪魔してすみませんでした。もし取材が可能なら、後日改めて時間を取らせていただきたいので、ご連絡いただければ……」


湊斗はそう言って、もう一度名刺を差し出す。莉緒は名刺を受け取り、その名前をじっと見つめる。


「鳴海……湊斗さん、ですか」

「はい。急に押しかけて本当にすみません。では、失礼します」


湊斗が引き下がろうとしたその時、店の奥から微かな声がした。


「あれ、莉緒? お客さん?」


カーテンの向こうから出てきたのは、莉緒の母。顔色が悪く、風邪をひいているのか、少し咳をしている。莉緒は慌てて駆け寄る。


「お母さん、横になってていいのに。大丈夫?」

「ええ、ちょっと様子を見に来ただけ……。お客さんだったら悪いわね」

「いえ、あの、今日は取材のお願いに来られた方みたいで……」


湊斗も会釈をする。莉緒の母は優しい笑みを浮かべた。


「そうなの。わざわざありがとうございます。うちはこんな小さな店だけど……もし役に立つなら協力しますよ。でも、今日はごめんなさいね。体調がよくなくて」

「いえ、お大事になさってください。では後日、また改めてご連絡いたします」


そう言うと、湊斗はそそくさと店を後にした。正直、もう少し話をしたかったが、無理をさせるわけにはいかない。

外に出ると、少し冷たい風が頬をかすめる。気がつけば日は傾き、茜色の空が商店街を染め始めていた。


「白川屋か……。なんとかうまく話を聞かせてもらえたらいいな」


呟きながら名刺入れをしまい、湊斗は駅へと向かう足を速めた。胸の奥にほんの少しだけ期待のような気持ちが芽生えていることに、このときはまだ気づいていなかった。


同じ夕刻。大手出版社から地方支社に転勤してきた拓海は、小さな支社オフィスでモニターとにらめっこしていた。

彼は東京本社にいた頃から、編集者としてかなり有能だと評判で、新人ながらに頭角を現していた。しかし地方支社に移った今、求められる仕事の中身は東京とは大きく異なる。


「地方の文化を掘り起こして何か企画にできないか」。それが本社から言われてきたミッションだ。だが、実際には予算も限られ、出版不況の煽りをまともに受けている。とにかく費用をかけずに成果を出さなければならない。


「……思ってたより、ずっと地味な仕事だな」


拓海はため息をつきつつ、地元の情報サイトやSNSを巡回していた。目ぼしいネタがあれば拾い上げて、記事や本に仕立てる。いわゆる“地方創生”や“ご当地カルチャー”を扱うブームは続いているが、都合よく儲かるわけではない。


ふと、大学時代の吹奏楽部の後輩だった莉緒のSNSが目に入る。彼女が地元に戻っていることは、風の噂で聞いていた。拓海がこの街に来ることを知ったら、驚くだろうか。


「連絡してみようか……。いや、今さらか……」


昔は一緒に演奏会の準備をしたり、合宿に行ったり、かなり親しかった仲だった。莉緒は明るくて、でもどこか不器用な面もあって。時々心配になることがあったが、今はどうしているだろう。


結局、連絡を取る勇気は出ず、スマホをそっと置く。忙しいことを理由に先延ばししているが、本当は自分から連絡をすることが少し怖い。

――あの頃、莉緒が吹奏楽を辞めた理由を自分はよく知らない。それがどこか引っかかっている。


「よし……とりあえず、地方の有名なイベントをチェックしておくか」


拓海は切り替えるようにキーボードを叩く。華やかな成果を望まれる一方で、地道な下調べが必要なのが編集という仕事だ。

外を見ると、やはり夕焼けが落ちている。都会のビル群ではなく、低い建物の向こうに空が広がる風景が目の前にある。どこか物悲しく、しかしどこか新鮮でもある。


「ここでなら、何か新しいことが見つかるかもしれない」


そう思いながら、拓海は薄暗いオフィスで情報を精査し続ける。いつか自分の本当に作りたいものを形にするために。


その翌日。白川屋の店先には、まだシャッターが下りていた。

朝8時。いつもなら店内の蛍光灯がほんのり点っている時間帯だが、今日は母の体調が優れず、莉緒は店を開けるかどうかを迷っていた。


「お母さん、大丈夫? 熱はどう?」


居間で横になっている母の額に手を当てながら、莉緒は心配そうに尋ねる。母の体温は少し高めだが、昨夜よりは落ち着いたようだ。


「だいぶ楽よ。朝になって少し熱も下がったし……。でも今日は店を閉めといてもいいんじゃない? 数日休んだってお客さんはそんなに怒らないわよ」

「そりゃそうだけど……。一応、常連さんが困るかもしれないし、午前中だけでも開けとこうかなって考えてたんだけど、どう思う?」

「あなたがそこまで気にしてくれるなら、無理のない範囲でやってくれて構わないわ。でも、私がいなくても大丈夫?」


莉緒は少しだけ言葉を濁す。文房具店と言っても、それほど複雑な作業があるわけではない。仕入れ先への発注と簡単な接客ができれば、基本的には回る。

だが、ずっと店の経営を担ってきたのは母であり、莉緒はただの手伝い程度の知識しかない。


「……まあ、なんとかなるよ。わからないことがあったら電話で聞くし」

「そう。ごめんね、莉緒。大学の時に思い切りやりたいことができなかったのに、戻ってきてもらって」


母は申し訳なさそうに呟く。大学に進学する際は「どうしても地元を出たい」という莉緒の気持ちを尊重してくれたし、実際、母は店を一人で守り抜いた。それだけに、いま体を壊してまで店を続けてほしいとは思っていないはずだ。


「気にしないで、お母さん。私が決めたことだし、とにかく店をどうするかはこれからゆっくり考えるよ。お母さんは早く良くなってよ」

「ありがとう……」


母は安堵の表情を浮かべ、再び布団に身を沈めた。莉緒は台所へ行き、スポーツドリンクをコップに注いで母の枕元へ置く。


――自分はこれからどうすべきなのか。店を継ぐのか、それとも違う道を探すのか。母には「ゆっくり考える」と言ったものの、時間は刻一刻と過ぎていく。地元の友人たちはそれぞれの職場で頑張っているし、同世代の多くは結婚を視野に入れ始める年頃だ。

自分は、音楽の道も中途半端に終わり、実家の仕事も中途半端。そんな漠然とした焦りが心をざわつかせる。


「とりあえず午前中だけ開けよう……」


そう決めた莉緒は、一人で店に立つための準備を始めた。母の枕元のカーテンをそっと引き、なるべく静かになるように気を使いつつ、店のカウンターに行く。

あまり大きくは営業する気になれず、シャッターも半分だけ開ける。店の古い棚を見ながら、昨日の出版社の男性――湊斗のことを思い出す。


「取材か……。うちみたいな古い店を特集なんて、どうするんだろう」


思わず自分の声が漏れる。両親が守ってきた店だけれど、外からどう見えているのか莉緒にはよくわからない。自分がいつまでも迷っている姿を見たら、鳴海はどう感じるだろうか。

まだほとんど言葉を交わしていない相手なのに、なぜか少しだけ気になる。もしかしたら、外の世界から来た目線で、店の魅力を教えてくれるかもしれない……そう思うと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。


一方、拓海は早朝から支社に顔を出し、地方特有の行事や文化を調べていた。地元商店街の歴史や特徴をまとめた資料を読んでいると、ふと「白川屋」という店名が目に留まる。

それは昔ながらの文房具店として、戦前から駅前で営業している老舗なのだという。店名に聞き覚えがあるわけではないが、「白川」という苗字に何となく引っかかるものを感じた。


「白川……。まさかね」


莉緒の実家が文房具店だとは知らなかった。ただ、彼女から「実家の店がある」という話は聞いたことがある。もしかすると、ここの店主が彼女の親かもしれない――そう思うと、少しだけ胸の奥がざわつく。


「興味があるなら、直接行ってみたらどうだろう」


隣のデスクで作業していた先輩社員が声をかける。地方支社といっても、社員数はわずか数名。デスクもお互いの距離が近く、モニターを見れば誰が何を調べているか一目瞭然なのだ。


「ええ、ちょっと気になってまして。古い文房具店があるっていうんで」

「文房具店か……。確かに昔は商店街の顔だったみたいだけど、今はどうなんだろうな。店主も年配だろうし」

「そうですね。でも、もし地域に根付いた文化やストーリーがあるなら、記事や企画になるかもしれません」


拓海はさりげなく答えながら、その店を訪ねてみることを心に決める。もしかしたら莉緒と関係があるかもしれない。そう思うと、不思議な緊張と期待が入り混じった気持ちが湧いてきた。


時計を見ると、まだ午前9時半。大きな案件の打ち合わせは午後からだし、少し時間が空いている。


「ちょっと外に出てきます。取材のついでに様子を見てみますね」

「了解。気をつけてな」


先輩に軽く会釈をして、拓海は資料をまとめるとオフィスを後にする。バスで駅前まで向かい、商店街へ足を踏み入れた。

そこには古びたアーケードが残り、昭和の面影を色濃く宿した店々が並んでいる。早朝は人通りもまばらだが、地元民らしき年配の方がゆっくりと歩いていたりする。


(東京とはずいぶん景色が違うな……)


拓海はそんなことを思いながら、商店街の路地を抜けて、目当ての店を探す。すると、やや奥まった場所に木製の看板が見えた。そこには確かに「白川屋」と書かれている。

ただ、シャッターが半分ほどしか開いておらず、営業しているのかどうか微妙な雰囲気だ。


「やっぱりここが……」


恐る恐る近づいてみる。扉には「準備中」の札がかかっていたが、シャッターは開いている。意を決して扉をノックしようとした瞬間、中からガラッと音がして、莉緒が姿を現した。


「……え?」


莉緒の方も驚いた顔をする。彼女は昔とあまり変わらない、明るい表情と少し大きめの瞳をしていた。だが、かつて吹奏楽部で一緒だった先輩が、こんなところに現れるとは思っていないだろう。


「莉緒……だよね?」

「北園先輩……? え、どうしてここに……!」


あまりにも意外な再会に、莉緒は声を詰まらせる。大学時代、吹奏楽部でお世話になった先輩。それがこんな地方の商店街にいるなんて想像もしていなかった。


「俺、仕事でこっちに転勤してきたんだ。何か気になる店がないか調べてたら、白川屋って名前がヒットして……。もしかしてと思って来てみたら、やっぱり莉緒の家だったんだな」

「そっか……。ビックリした……。元気にしてたの?」


莉緒はまだ混乱しているのか、言葉を探すように尋ねる。拓海は控えめに微笑み、「まあ、なんとか」と答えた。


「それより、莉緒こそ。卒業後はどうしてるの? 実家を継いだのか?」

「あ、ううん、まだ継いだわけじゃなくて、ちょっと手伝いながら考えてるところ。お母さんの体調があまり良くなくて……」

「そうだったのか」


拓海は真剣な表情で頷く。思いがけず再会を果たした二人には、昔の共通の話題がたくさんあるはずだ。けれど、今はその余裕がなさそうだと察し、拓海は本題を切り出す。


「俺、いま大手出版社の地方支社で企画を探してるんだ。もし白川屋に何か歴史とかストーリーがあるなら、取材させてもらえないかなって思ってる。ちょうど作りたい特集があって」

「取材? 実は昨日も別の出版社の人が来てね……。何だか急にどうしたんだろう、このお店」


莉緒は苦笑いを浮かべる。昨日の鳴海もそうだが、続けて北園まで取材に来るとは思わなかった。地域密着型の小さな出版社と、大手の出版社。似ているようで立場は違うが、白川屋が何かしらの魅力を持っていることは共通しているらしい。


「そうなんだ。まあ、うちも大手とはいえ、地方支社は結構地味なんだよ。でも、よかったら詳しい話を聞かせてくれないか?」

「うん……。でも、今日は母が体調を崩してて。取材ってなるとゆっくり話す時間が必要だろうし……」

「そっか。じゃあ落ち着いたら連絡してよ。これ、俺の名刺」


拓海はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、莉緒に渡す。莉緒はそれを受け取りながら、大学時代とは違う“社会人”としての拓海の姿をまじまじと見つめた。

――あの頃はもっと気さくで、何も考えずに音楽や仲間たちと向き合っていたように見えたのに、今は少し鋭い印象がある。


「わかった。お母さんが良くなったらまた連絡するよ。……それにしても、本当にびっくりした。こんなところで再会するなんて」

「俺もだよ。またゆっくり話そうな、あの頃のこととか……」


少しだけ沈黙が流れる。莉緒は息をのむようにして、拓海を見つめた。拓海の瞳には、ほんの僅かに懐かしさと、言葉にできない複雑な想いが滲んでいるように感じられる。

しかし、それを深く問いただすほどの関係ではもうないのかもしれない――そんな寂しさも同時に感じる。


「じゃ、俺はこれで。お母さん、お大事に」

「あ、うん。わざわざ来てくれてありがとう」


拓海が去った後、莉緒はしばらく扉の前で立ち尽くしていた。まさかの再会に、頭が追いつかない。大学時代、吹奏楽部でフルートを吹いていた頃、自分がいちばん心を許していた先輩が彼だった。

しかし、あの出来事をきっかけに、自分は部を辞めてしまった。あれからもうどれだけの時間が経っただろう。


(何だか、急に過去が押し寄せてきたみたい……)


胸の奥にある痛みをなんとかやり過ごそうとしながら、莉緒は扉を静かに閉め、シャッターも再び下ろした。今日の営業はどうでもよくなってしまった。とにかく、母を優先して休ませないと……そう思いながら、自分の乱れた気持ちを抑えるように深呼吸をした。


銀行での業務を終えた琴音は、午後5時過ぎに退勤し、商店街の近くにあるスーパーに寄った。夕食の材料を買い込み、帰路につこうとしていた時、白川屋のシャッターが閉まっているのに気づく。


「もう閉めてる……。おばさんの具合、あんまり良くないのかな」


心配になりつつも、ドアをノックするのをははばかられた。そこで携帯を取り出し、莉緒にメッセージを送る。


琴音「今日、もうお店閉めちゃったんだね。大丈夫? なにか手伝えることあったら言ってね。」


すぐに返信が来る。


莉緒「ありがとう。母がまだ熱っぽくて、今日は午前中だけ開けてすぐ閉めたんだ。今は家で寝かせてるから大丈夫だよ。」


文字だけでも莉緒の疲れた様子が伝わってくる。琴音は少し考えたのち、簡単なおかゆセットや栄養ドリンクなどを買い足して、白川屋の裏口からそっと声をかけてみることにした。


「莉緒、差し入れ持ってきたよ。ちょっとだけ開けてくれる?」


しばらくして、裏口の鍵が開く音がする。出てきた莉緒は、少しやつれた表情を浮かべていた。


「わざわざごめんね。ありがとう……」

「ううん、いいの。おばさん、まだ寝てる?」

「うん。昼間よりはマシみたいだけど、しんどそう。早く治ってくれればいいんだけど」


琴音は持ってきた荷物を手渡し、軽く中身を説明する。


「これ、簡単に作れるおかゆの素と、のど飴と、ビタミン剤。私も風邪ひいた時よくお世話になってるやつ」

「助かる……。今日は私も気が滅入ってて、あんまり買い物に行く気力なかったんだ」


莉緒は深いため息をつく。見るからに気持ちが落ち込んでいるようだ。


「何かあったの?」

「え……? ああ、実は……」


莉緒は迷いながらも、今日起きた出来事を簡単に話した。母の容体が悪化したことや、朝に突然、大学時代の先輩である拓海が現れたこと、さらには昨日、別の出版社の人(湊斗)が来て取材を申し出てきたこと。

琴音は驚きながら話を聞く。


「北園先輩って、あの北園さんだよね? フルートのパートリーダーだった人。莉緒、すごく慕ってたじゃん」

「うん……。でも、あれからもうずっと会ってなかったし、急に再会しても何を話せばいいのか……しかもこっちは母が倒れてバタバタしてて」


莉緒は言いながら、少しだけ涙目になる。心身ともに疲れているのだろう。琴音はその肩にそっと手を置く。


「そっか……。でも、久しぶりに再会できてよかったんじゃない? いろいろ昔のこともあるだろうけど……」


「うん……。でも、自分の中でまだ吹奏楽を辞めたことが整理できてないんだよね。先輩と話すと、どうしてもあの頃を思い出しちゃう……」


莉緒の視線は少し遠くを見つめている。かつて音楽に全てを注いでいた頃の自分と、今の自分。そのギャップに言いようのない切なさを覚える。


「でも、先輩は何も責めないよ。きっと、莉緒が頑張ってたの知ってるし。話をするだけで楽になることもあるんじゃないかな」

「うん……そうだね。とりあえず、お母さんが元気になったら、ちゃんとお店のことも先輩と話してみようと思う。あ、それと昨日来た出版社の人――鳴海さんだったかな? その人にも連絡しないと」


琴音は微笑み、莉緒の手を握る。


「ゆっくりでいいんだよ。私はいつでも手伝うから、頼ってね」

「ありがとう……ほんと助かる。琴音の存在ってありがたいよ」


莉緒はそう言って、少しだけ笑顔を取り戻す。二人はしばらく雑談をし、琴音は母の様子をさっと見守った後、「何かあったらすぐ呼んでね」と言い残して帰宅した。

莉緒はひとり、暗くなりかけた部屋で母の寝息を聞きながら、複雑な胸の内を抱えたまま静かに目を閉じる。夜はまだ長い――どうか母の熱が下がりますように、と願いながら。


翌日の夕方。湊斗は会社で一日の業務を終え、デスクを片付けていた。地域の商店を紹介するフリーペーパーの企画は進行中だが、まだ取材先の一部とは連絡が取れていない。

昨日訪ねた「白川屋」もその一つだ。店主が体調を崩しているようだったし、無理に取材を急かすわけにもいかない。


「……もうちょっと待ってみるか。こちらから再度連絡するのも悪いしな」


湊斗は小さくつぶやきながら、引き出しに企画資料をしまう。心のどこかで、あの店のことが妙に気にかかっている。実際、フリーペーパーに合いそうなお店は他にもあるのに、なぜか白川屋に足が向かう。


これといった明確な理由があるわけではない。あの古いガラス窓や棚、そしてそこで働く莉緒の姿に、どこか惹かれるものがあったのだ。


「鳴海くん、今日はもう上がるのか?」


先輩の川瀬が声をかける。湊斗は「はい」と答え、鞄を持ち上げる。


「実は取材の一件が気になっていて……。少し商店街を回ってから帰ろうかと思います」

「そうか。まあ、若いうちはフットワーク軽い方がいいからな。気をつけて行ってこいよ」

「はい、ありがとうございます」


会社を出た湊斗は、駅前の商店街へ向かう。仕事柄、いろいろなお店を回ることはあるが、今日は明確に行きたい場所があった。白川屋の前まで行って、無理のない範囲で声をかけてみよう――ただそれだけのつもりだ。


夕方6時を過ぎ、商店街は日中よりも人が減っている。古いアーケードには薄暗いライトがともり、どこか昭和レトロな雰囲気が漂う。

白川屋へ近づいてみると、昨日と同じくシャッターが半分閉まっているが、わずかに中から明かりが漏れている。営業中なのか閉店作業中なのか、判断が難しい。


(どうしよう。声をかけていいのかな……)


湊斗は少しためらいながら、扉の横にある小さな呼び鈴を押す。すると、かちゃりという音がして、扉が少しだけ開いた。中から顔を覗かせたのは莉緒だった。

やはり少し疲れが見えるが、昨日ほどではないようだ。


「あ……鳴海さん。どうも……」

「お忙しいところすみません。あの、昨日はご挨拶もそこそこに失礼しました。お母さまの体調はいかがですか?」


莉緒は「今日は少しだけ良くなったみたいです」と答え、店の奥を振り返る。母は今は食事を摂って落ち着いているという。


「無理しない方がいいですよ。取材のことも急ぎませんから」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると助かります。実は、母の回復次第で何とかお話したいと思ってて……」


莉緒はすまなそうな顔をしながら、扉を開けて湊斗を店の中に通す。古い店内には、少しばかり重い空気が残っているが、それがまた独特の趣を醸し出していた。


「ご迷惑じゃなければ、改めて取材の日程を決めさせてもらえますか? フリーペーパーの締め切りもあるけど、なるべくそちらのご都合に合わせたいので」

「はい、ぜひ。うちもずっと休んでるわけにはいかないですし、母が落ち着いたらちゃんと相談してみます。ご連絡はどうすれば……」

「あ、名刺を差し上げてましたよね? 会社の電話でも携帯でも大丈夫です」


莉緒は少しほっとした表情になる。母の体調が悪い中で、何かと気を回してくれる湊斗の姿勢がありがたいと思う。


「本当にすみません、昨日はせっかく来ていただいたのに、まともに対応できなくて」

「いえいえ、こちらこそ急に押しかけたので……。それに、実は僕もそこまでガツガツ取材したいわけじゃなくて、何というか、店の歴史とか雰囲気とかを記事にしたいだけなので」


そう言って微笑む湊斗に、莉緒はわずかな安心感を覚える。この人なら、変に営業トークを押し付けたりはしないだろう――そんな印象があった。


「ありがとうございます。そう言ってもらえると、こっちも気楽です。正直、お店が続けられるかどうか微妙な状況で……親戚からも『そろそろ畳んだら』って言われたりもしてるんですよね」

「そうなんですか……。でも、地元の人にとってはきっと大事なお店だと思います。無くしてほしくないって声もあるんじゃないですか?」

「うーん、どうなんでしょうね。昔は確かに文房具って言えばうちって感じでしたけど、今は大型ショッピングモールもできてるし、ネット通販もあるし……」


莉緒の声音には寂しさが滲む。時代の流れは、こうした個人商店を容赦なく追い詰める。だが、その場所にしかない価値というものがあるのも事実だ。


「僕も、地元の小さなお店ってすごく貴重だと思うんです。大量生産や大規模チェーンにはない味わいというか、人の手のぬくもりが伝わってくる気がして……」


湊斗の言葉に、莉緒は少しだけ目を丸くした。ここまで真剣に思ってくれる人がいるなら、店にだってまだ生きる道があるかもしれない――そんな期待がふと芽生える。

だが同時に、大学時代の吹奏楽部を辞めてしまった自分には、何かを守り抜く覚悟が欠けているのではないか、という不安もよぎった。


「そうか……。ありがとうございます。じゃあ、母が落ち着いたら連絡しますので……。すみません、今はまだちゃんとお話しできる状況じゃなくて」

「わかりました。お母さまをお大事に。僕も急ぎませんから、くれぐれも無理しないでくださいね」


湊斗はそう言い残し、店を後にした。莉緒は扉を閉め、シャッターも再び半分にして、店内の灯りを落とす。胸の中には複雑な感情が渦巻いているが、その中にはわずかな安堵感や期待感も混じっている。


(取材をきっかけに、この店の新しい可能性を見つけられるのかな……)


夜の帳が降り始めた商店街の静けさの中、莉緒は母のもとへ戻り、看病を続けながら自分の未来に思いを巡らせた。


そして、白川屋に取材を持ちかけたもう一人――拓海もまた、同じ日の夕方、会社のデスクで黙々と作業をしていた。

東京とは違い、ここでは大がかりなイベントよりも“地元の魅力再発見”といったテーマの企画が求められている。上司からは、「いかに予算をかけずに地元文化を掘り起こすか」が指示されていた。


「白川屋か……。もし本当に莉緒の実家なら、彼女の協力を仰げばいろいろ深い話が聞けるかもしれない」


拓海はそう考えつつ、莉緒に連絡を取るべきかどうか迷っていた。昨日顔を合わせた時、彼女は明らかに動揺していた。いきなり再会したショックだけでなく、母の体調不良もある。

無理をさせるような真似はしたくないが、上司からは早めに何らかの企画案を出すように急かされてもいる。


「時間が限られてるんだよな……」


小さくため息をつき、スマホに目を落とす。莉緒の連絡先は大学時代に交換していたが、ここ数年は一度もメッセージを送っていない。

思い切ってLINEを開くと、最後のやり取りは大学卒業直後の「またいつか吹奏楽部のOB会で会おうね」というメッセージ。そこから何年も経っている。


(久しぶり、なんて気軽に言える状況でもないし……。でも、こっちだって本気で企画を通さないといけないんだ)


意を決したように、短いメッセージを打ち始める。


拓海「莉緒、昨日は急に押しかけて悪かった。お母さんの具合、大丈夫? 無理しないでね。落ち着いたらでいいから、少しお店のことや、地元のことを教えてもらえると助かる。取材という形じゃなくても構わないので、必要なら相談にも乗るよ。」


文面を何度も読み返し、ぎこちない言葉遣いになっていないか確認する。大学時代はもっとフランクに話していたが、あの頃と同じようにはいかない。

送信ボタンを押すと、数秒後に「既読」がつく気配はなかった。莉緒はきっと看病で忙しいのだろう。


「……これで待つしかないか」


拓海はスマホを置き、会社のパソコンに向き直る。いまやるべきは、白川屋以外にも取材先の候補をいくつか挙げておくこと。そうすれば、最悪そちらで企画を成立させることもできる。

だが、心の底では、どうしても白川屋を取り上げたい気持ちがあった。莉緒と改めて話したいというプライベートな思いと、地元に根付いた店に光を当てたいという編集者としての思い。両方が彼の中で混じり合い、葛藤を生んでいる。


(あの時、莉緒が部を辞めた本当の理由をちゃんと聞けていない。もしその理由が今の彼女に影響しているとしたら、何か手助けできるんだろうか……)


拓海はそんな考えを振り払うかのようにキーボードを打ち込み、地元のイベントカレンダーや郷土資料のデータをチェックし始める。感傷に浸っている暇はない。与えられたミッションを成功させなければ、東京本社への報告もできないのだから。


朝の柔らかい日差しが押し入る頃。白川屋の居間では、莉緒が洗濯物をたたみながら母の様子を確かめていた。

数日間、熱が続いていた母の体調は、ようやく落ち着き始めたようだ。まだ本調子ではないものの、今朝は少し食欲も出たと聞き、莉緒もホッと胸を撫で下ろしている。


「お母さん、朝ごはんは食べられそう? おかゆ温め直すけど」

「ありがとう、莉緒。食べるわ……だいぶマシになったから」


布団に横になりつつ母は苦笑いを浮かべる。心配をかけたという気持ちと、少しでも回復した安堵が入り混じった表情だ。

莉緒はおかゆをさっと温めなおし、ポットのお湯で温かいお茶を用意して母の枕元へ運ぶ。


「無理しないで、ゆっくり食べて。まだ店は開けなくていいから……」

「そうね。でも、あんまり長く閉めてると常連さんが心配するし、休業の貼り紙くらいはしとかないとね」

「あ……うん。ありがとう。私もそこまで頭が回ってなかった」


ここ数日、母の看病を優先するあまり、店先の対応が疎かになっていたことに気づく。看病で落ち着かないとはいえ、店がどうなっているか常連客に伝えていないのは不親切だ。

莉緒はさっそく手書きの貼り紙を作り、店先に貼ろうと準備を始める。書き慣れない文言に少し手こずったが、なんとか「当面の間、休業いたします。再開日未定」と大きめの文字で書き上げた。


「ごめんね、莉緒。全部任せちゃって」

「ううん。お母さんはゆっくり休んで。それより……お母さんが元気になったら、ちゃんと話したいことがあるの。お店のこと……どうしていくか、とか」

「ええ、もちろん。私も覚悟しなきゃいけない時期かなとは思っていたのよ」


母は微笑みながら、茶碗を口に運ぶ。こうして二人が腰を据えて店の将来を話し合うのは、もしかしたら初めてかもしれない――莉緒はそう感じつつ、貼り紙を外に掲示しに行く。

扉を開けて外に出ると、春の柔らかな風が顔を撫でる。どこか、ほんの一筋だけ希望を感じさせるような空気だった。


同じ頃、琴音は銀行の昼休憩を利用して、こっそりスマートフォンを開いていた。何かを検索しているようだが、その表情は真剣そのもの。


「うーん……初期費用は結構かかるんだなあ。でも、やってみたいんだよねえ……」


画面に映し出されているのは、カフェ開業や小さな飲食店の始め方に関する記事やブログ。琴音は以前から密かに「小さなカフェを開きたい」という夢を持っている。

しかし、現実問題として、資金調達やリスク、経営知識など、ハードルは高い。銀行で働いていると、融資の仕組みこそ分かるものの、いざ自分で事業を始めると考えると不安は尽きない。


「接客は好きだけど、経営は全然わかんないしなあ……」


ぼやきながらも、琴音はいつか夢を実現したいという気持ちを捨てられない。

そこへ、同僚の女性行員が声をかけてくる。


「雨宮さん、そろそろ休憩終わるよ。午後から打ち合わせでしょ?」

「あ、本当だ。ありがとう、行かなきゃ」


あわててスマホをロッカーにしまい、琴音は銀行の事務フロアへ戻る。

――平凡な毎日に見えても、それぞれが胸に秘めるものがある。莉緒の店のことと同様、琴音にもまた、新しい道への可能性が見え隠れしていた。


午後の仕事を終えた湊斗は、会社を出た後に再び商店街へ足を運んだ。

フリーペーパーの締め切りはまだ少し先だが、他のお店の取材や打ち合わせは順調に進んでいる。地元の雑貨店や古書店など、味わい深い小規模店舗を特集する計画だ。


「さて、白川屋はどうなってるかな……」


半ば習慣のように店の前を通ると、シャッターが下りており、張り紙が貼ってあるのが見えた。


当面の間、休業いたします。再開日未定


「やっぱり休んでるのか……。お母さん、大丈夫かな」


湊斗は心配になるが、張り紙を眺めるだけではどうしようもない。電話をかけて無理に出てもらうのは気がひけるし、メールを送ろうにもアドレスはまだ聞いていない。

名刺を渡した際、連絡は「母が元気になってから」と莉緒が言っていた。今はただ待つのみ――そう自分を納得させ、湊斗は商店街を後にした。


少し歩くと、古くからある文具メーカーのポスターが壁に貼られているのに気づく。昔、祖父母と文房具店に行ったときに見かけた懐かしいデザインだ。

思わず足を止め、そのレトロな字体をじっと見つめる。


「やっぱり、ああいう味のあるお店が少なくなってるんだよな……。白川屋がまだ続けられるといいんだけど」


編集者としての興味だけでなく、個人的に「大切な場所を守りたい」という想いに近い感情が湧き上がっている。湊斗はしばらくポスターを見つめた後、小さく息をついて駅へ向かった。


その夜、拓海はマンションの自室でパソコンを開き、取材候補の店舗リストを眺めながら頭を抱えていた。

白川屋のように“歴史があって味わい深い”店をいくつかリストアップしているが、どれも決定打に欠ける。加えて、白川屋に関しては莉緒の母の体調が回復するのを待たねばならない。


(待っている間に、ほかの出版社に取られたらどうしよう……。いや、そんなことは気にしすぎか)


しかし、出版業界というのはネタの奪い合いになりやすい。大手とはいえ、この地方支社では力が限られているし、地元密着型の出版社には地元ネットワークという強みがある。もし同じお店を取り上げるとなったら、タイミングと企画の内容が勝負になるだろう。


「莉緒と話をして、店の魅力をしっかり引き出せれば、それが一番いいんだけどな……」


大学時代の思い出が頭をかすめる。サークル室で一緒に楽譜を見ながら音合わせをしたこと。合宿で朝まで語り合い、先輩後輩の枠を越えて気持ちを通わせた日々。

あの頃、自分は彼女の才能に一目置いていた。フルートの音色は軽やかで、聴く人の心を一瞬で掴む魅力があった。


(どうして辞めてしまったのか、本当の理由を知らないままだ……)


拓海は手のひらで顔を覆い、深く息を吐く。今は仕事が最優先だとわかっていても、莉緒と向き合うことを避けてきた過去が胸に刺さる。

結局、彼はパソコンを閉じ、メモ帳に白川屋の現状について整理しながら、どうアプローチすべきか思案する。


「まずは母親が元気になるのを待って……。それまでにできることは、店の歴史や周辺環境の情報収集かな」


そう自分に言い聞かせ、ペンを走らせる。いつか必ず、莉緒と正面から向き合う時が来るだろう――それを思うと、心の奥底が微妙に疼くようだった。


翌週の土曜。莉緒の母は少しずつ食欲が戻り、医者からも「あと数日安静にすれば大丈夫」と言われたため、莉緒はほっと一安心する。

とはいえ、店を再開するにはまだ早い。そこで、気分転換を兼ねて、幼馴染の琴音と少しだけ外に出ることにした。


「お母さん、ほんとに大丈夫? 家を空けちゃうけど……」

「大丈夫よ。近所の森田さんにも声をかけてあるし、万が一のことがあればすぐ連絡するって言ってくれてるから」


母は布団の中で優しく微笑み、莉緒に外出を促す。長い看病で莉緒も疲れているだろうと気遣っているのだ。


「わかった。何かあったらすぐ電話してね」

「ええ。行ってらっしゃい。気をつけてね」


そうして莉緒は、琴音の車に乗り込み、少し離れたショッピングモールへ向かった。


大型店舗が立ち並ぶエリアで買い物を済ませ、気分転換にもなる。

車内では軽快な音楽が流れているが、莉緒の表情はまだどこか沈みがちだった。


「莉緒、少しは気分晴れた? お母さん、回復してきてよかったね」

「うん……そこは本当に安心した。でも、これからどうしようって考えると……」

「店のこと?」

「そう……。お母さんが完全復帰しても、またいつ体調を崩すかわからないし、私もずっと店番っていうのは正直しんどいかもって思う」


琴音は静かにうなずく。自分の両親は健在だが、いつか同じような悩みを抱えるかもしれないと考えると、他人事ではなかった。


「それで、出版社から取材の話が来てるんだよね。うまく利用するって言うとアレだけど、何かきっかけになるかもしれないんじゃないかな」

「うん、そうだね。鳴海さんもすごく気を使ってくれてるし……。あと、まさかの北園先輩。急に現れて、実家がここだったこと知らなかったみたいで」


ここで北園の名が出ると、琴音は興味深そうに振り向いた。


「なんか、莉緒ってさ、いろんな人から注目されるタイミングになってるんじゃない? 大学時代の先輩と偶然再会するって、めったにないよ」

「うーん……私としてはありがたいけど、戸惑いも大きいかな。先輩にはフルート辞めた理由とか何も話してないし……」


車はショッピングモールの駐車場に到着し、二人は荷物を下ろして建物へ入る。週末なので家族連れやカップルで賑わっていた。

店内を見て回りながら、莉緒は思わず文房具コーナーに足が向いてしまう。大型量販店の文具売り場は、品数が多く、値段も安い。こうした店舗がある限り、白川屋のような昔ながらの店は厳しいだろう。


「こういうところを見ちゃうと、もう太刀打ちできないんじゃ……って思う」

「でも、逆に言えば、こういう量販店にない“特別感”みたいなのを出せれば勝機はあると思うよ。おじいちゃんおばあちゃん向けの手書きポップとか、注文受け付ける小ロットの特殊便箋とかさ」


琴音の言葉は励ましでもあり、ビジネスとしての提案でもある。莉緒は「なるほどね」と頷きながら、量販店を一通り見て回る。

そして、店内のカフェで一息つくことにした。小さなテーブルにコーヒーを置き、琴音が話しかける。


「実は私もさ、いつか小さなカフェをやりたいって夢があって……。まだ大きな声では言えないんだけどね」



「知ってるよ。銀行に勤めてる割に、よくカフェ巡りしてたし。前から言ってたじゃん、“いつかお店持ちたい”って」

「そうそう。でも、現実は厳しいよ。開業資金とかリスクとか考えちゃうと、なかなか踏み出せない。だから莉緒の気持ちもわかるんだよね。継ぐっていうのも大変だし、やめるにも覚悟がいるし」


琴音は少しだけ遠い目をして、カップを口に運ぶ。莉緒も同じようにコーヒーをすすり、香りに癒される。


「私も、決めるならちゃんと自分で納得したい。お母さんや先輩たちに言われたからじゃなくて、自分でこれからの人生を選びたいんだよね……」

「うん、そうだね。まだ急がなくてもいいと思うけど、取材の話とかが来てる今がチャンスでもある。納得いくまで悩んで、決めたら思い切り進めばいいんじゃない?」


琴音の言葉には不思議な説得力があった。彼女自身も夢と現実の狭間で揺れているからこそ、説得力が増しているのだろう。

莉緒は少しだけ前向きになり、「そうだね……」と微笑んだ。その笑顔には、ほんの少しだが自信が宿り始めているように見える。


二人は買い物を手早く済ませると、夕方前に帰宅することにした。莉緒が家に戻ってみると、母は随分と元気になり、ほんの少しだけだけれど起き上がってテレビを眺めていた。

母が回復したら、あの出版社の人たち――湊斗と拓海に連絡をしてみよう。そう決意しながら、莉緒は一日の疲れを感じつつも、心のどこかが軽くなった気がした。


莉緒の母が徐々に回復していく中、店の再開時期が少しずつ見えてきたある日の午後。

莉緒は母と簡単な相談をし、「そろそろ取材を受けるなら、連絡してみてもいいんじゃない?」という母の言葉を受けて、少し緊張しながらも湊斗の名刺を取り出した。


「鳴海さんは、ずっと待ってくれてたから……きっと喜んでくれるかな」


そう呟きつつ、書かれた携帯番号に電話をかける。数回のコールの後、湊斗の落ち着いた声が受話器の向こうから聞こえてきた。


「はい、もしもし。鳴海です」

「鳴海さん、こんにちは。白川屋の白川です……。母の体調もだいぶ良くなって、もしよろしければ取材の日程を決めたいと思って……」

「あ、白川さん! ご連絡ありがとうございます。お母さまの具合、大丈夫なんですか?」

「ええ、おかげさまで。まだ完全じゃないですけど、取材くらいなら大丈夫って言われてて」

「それはよかった……。そしたら、白川屋さんの都合に合わせますよ。いつ頃がよいでしょうか?」


莉緒は母から預かっていたメモを確認し、翌週の火曜か水曜であれば母も顔を出せそうだ、と伝える。湊斗はそれなら自分のスケジュールを調整できると言い、火曜の午前10時に店を訪ねることで話がまとまった。


「それじゃあ、その日にお伺いします。楽しみにしてますね」

「はい、ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」


通話を切り、莉緒はほっと安堵の息をつく。これでようやく、取材が具体的に動き出す。店の歴史や父の思い、母の体調のことなど――まとめて話せる機会にもなるだろう。

母の部屋に戻ると、「思ったよりもスムーズに決まったね」と安心したように微笑む母の姿があった。


「鳴海さんっていう人、いい人そうね。電話の声も穏やかだったわ」

「うん、優しくて気遣いしてくれるタイプって感じ。母さんも一緒に話すと、いろいろ盛り上がるかも」

「ふふ。じゃあ、私もお店の思い出とか、父さんと開いた頃のこととか、話せる範囲でしっかり話そうかしらね」


父が生前に語っていた「文房具店を通じて街に貢献したい」という思い、そして母自身がこの店を守り抜いてきた苦労――莉緒も知らないエピソードがたくさんあるかもしれない。

親子でそんな話をするのは久しぶりだと思うと、莉緒の胸には少しだけ高揚感が湧き起こるのだった。


一方、同じ頃。大手出版社の地方支社に勤務する拓海は、オフィスで電話を取っていた。先週あたりからせわしなくなった上司が、こまめに進捗確認を求めてくる。


「……はい、白川屋という老舗文房具店の取材を検討しています。店主の体調不良で、まだアポイントは取れていないんですが、近々動きがありそうなので――はい、はい、なるべく急ぎます……」


電話を終えた後、拓海は深いため息をついた。

(早くアポを取りたいのに、莉緒からはまだ連絡が来ない……。こっちから強引にアプローチして大丈夫だろうか)


そう思いながら、拓海はスマホを取り出し、莉緒とのLINEを開く。最後のメッセージは、「母の看病があるので、もう少し待ってほしい」と数日前に届いたものだ。

返信を焦らせるのはよくないと思い、返信していなかったが、上司から急かされる状況になっている以上、もう一度確認の連絡をしてもいいかもしれない。


(迷惑だと思われたらどうしよう……。でも、放っておいて他の出版社に先を越されるのも嫌だし)


「うーん……」


オフィスの片隅で逡巡しながら、意を決して短いメッセージを打つ。


拓海「莉緒、こんにちは。お母さんの具合、その後いかがかな? 落ち着いてきたら、改めてお店のことを話せると嬉しい。急かすようで悪いけど、仕事の都合もあって、もし目処が立ったら教えてほしいんだ。」


送信ボタンを押しても、すぐには既読がつかない。莉緒が看病や家事で忙しくしているのかもしれない。

拓海は焦る気持ちを抑えつつ、資料作りへ集中しようとするが、どうにもモヤモヤとした思いが頭を離れない。自分自身にとっても、莉緒との再会は大きな出来事だからだろう。

彼女の存在がいま、自分の仕事にも人生にも、微妙な影響を与え始めている――そんな予感がしてならない。


実は、莉緒のスマホにはすでに北園からのメッセージ通知が届いていた。しかし、その時、莉緒は鳴海との電話を終え、母と雑談をしている最中で、チェックできないまま時間が過ぎてしまっている。


「うーん、そろそろご飯の用意しようかな。お昼は軽く食べたし、夜は栄養バランス考えて……」


莉緒は台所で冷蔵庫の中を確認しながら夕食のメニューを考える。母が風邪から回復しつつあるとはいえ、消化によいメニューにしたいところだ。

そうこうしていると、スマホが短いバイブ音を立てる。ようやく通知に気づいた莉緒はエプロンを外して画面を確認した。


拓海「莉緒、こんにちは。お母さんの具合、その後いかがかな?……」


大学時代の先輩からの連絡だ。朝に来ていたかもしれないが、忙しくて放置してしまった。メッセージの文面を見ると、やはり取材の件で早めに動きたいという意図がうかがえる。

(そうだよね、あの人も仕事だから、急ぎたいよね……)


しかし、莉緒はすでに鳴海との約束を火曜に取り付けてしまった。どうしても同じ日を北園にあてると、スケジュールが重なるし、母が疲れてしまうかもしれない。

とはいえ、先輩を後回しにするのも気が引ける――それでも、母の体調を最優先に考えれば、同時取材は負担が大きい。


「どうしよう……」


迷った末、莉緒は丁寧な文面を心がけながら返信を打った。


莉緒「先輩、ご連絡ありがとうございます。母はだいぶ回復してきましたが、まだ完全ではなくて……。実は来週の火曜に一度、別の出版社さんが取材に来ることになっていて、その後に日程をあらためてもらえれば助かります。勝手を言ってごめんなさい。またご連絡しますね。」


送信を終え、画面を閉じる。鳴海にはすでに約束を取り付けた以上、同日に北園を入れることは難しい。母を連日対応させるのも酷だ。

(これで先輩がどう思うか……あまりいい気持ちはしないかもしれないな)


気が重いが、仕事や家族の体調を考えれば仕方がない。莉緒はそう自分に言い聞かせ、再び母の食事作りに戻った。


夜になり、自宅で夕食を済ませた拓海は、ベッドに腰掛けながらスマホの画面を見つめていた。ようやく返信が来たのだが、その内容は拓海の心をざわつかせるには十分だった。


莉緒「……実は来週の火曜に一度、別の出版社さんが取材に来ることになっていて……」


「……別の出版社?」


拓海は思わず声に出してしまう。もちろん、他にも白川屋に興味を持つメディアがあることは想像していたが、いざ現実を突きつけられると動揺を隠せない。

(こっちはまだ取材できてないのに、先を越された感じがするな……)


一瞬、嫉妬にも似た感情が胸を駆け巡る。仕事のこともそうだが、プライベートでの莉緒との再会を考えても、他の人が先に店と関わるのは複雑だ。

とはいえ、彼女の家族事情を無視して強引に取材を進めるわけにはいかない。ここは冷静に対応しなければならない。


「焦ってもしょうがない……。母親が完全復帰してない中で、連日取材させるのは負担だし」


拓海は手を震わせながら何度か深呼吸し、落ち着いた口調の返信を心がける。


拓海「そうだったんだね。了解です。お母さんのことが最優先だから、無理はしないで。もし火曜の取材が終わって様子を見て大丈夫そうなら、また日程を教えてほしい。急かしてごめんね。」


送信ボタンを押し、しばらくスマホを置く。やるせない気持ちと、どこか嫉妬混じりのもどかしさが消えずに残る。

(仕方ない……。まずは他の取材先を進めておこう。白川屋は後回しだ)


そう頭で考えていても、気分が晴れるわけではなかった。過去に対する後悔、そして現在のライバル(かもしれない出版社)への意識――いろいろな要素が絡み合い、北園の心は妙に落ち着かなかった。


そして迎えた火曜の午前10時。白川屋のシャッターは、数週間ぶりにしっかりと開けられ、店内には柔らかな朝日が差し込んでいる。

母も一応店に顔を出しており、莉緒と二人で静かに待っていた。すると、扉の前で足音が止まり、控えめなノックが聞こえる。


「失礼しまーす。鳴海です」


湊斗がカメラマンらしき若い男性を伴い、挨拶をして入ってきた。ネクタイをきゅっと締め、やや緊張の面持ちだが、柔らかな笑顔で莉緒たち母娘に一礼する。


「今日はありがとうございます。突然来てばかりですみませんでしたが、お母さまの具合が良くなったと聞いてホッとしました」

「いえいえ、こちらこそお心遣い感謝します。娘からお話は聞いてますが、改めてよろしくお願いしますね」


母が丁寧に頭を下げ、湊斗も深く会釈する。同行してきたカメラマンは田中というフリーランスで、湊斗の会社と提携しているとのことだ。にこやかに「よろしくお願いします」と挨拶を交わした。


「では、さっそくお店の外観から撮影させていただいてよろしいですか? あとでインタビューをお願いしたいんですが……」

「はい、構いませんよ。お店の外の古い看板とか、どうですかね?」


母が指差す先には、昔から掲げられている木製の看板がある。年代物で文字がすっかり薄れかけているが、その古さが何とも味わい深い。

田中カメラマンはさっそくカメラを構え、パシャパシャとシャッターを切る。湊斗は店の外観を一通りチェックしてから、店内へ目を向ける。


「この棚、すごくレトロでいいですね。ずいぶん長く使っているんですか?」

「ああ、父が大工の友人に頼んで作ったもので……。開店当時からずっと使ってますね。もう何十年も前だから、所々ガタがきてますけど」


母が少し誇らしげに話す。莉緒も「ここまで傷が多い棚って、逆に珍しいですよね」と微笑む。湊斗はその言葉にうんうんと大きく頷く。


「確かに、今の新品ばかりの店では味わえない雰囲気です。こういうところに、このお店の歴史が積み重なっているんですね」


店内を一通り撮影し終わると、湊斗はメモ帳を取り出し、母と莉緒にあらためてインタビューを行う。

――店を始めた経緯や、昔の商店街の様子。どんな人が常連客だったのか、時代による売れ筋の変遷など。


母は、若い頃に夫(莉緒の父)と一緒に店を始めたこと、最初は大変だったが商店街全体で助け合ってきたことなどを語る。途中、少し声を詰まらせながら、夫が亡くなってから一人で店を守った苦労も正直に話した。

莉緒はそんな母の回想を横で聴きながら、自分が知らないエピソードが多いことに驚きと同時に感慨を覚える。


「そうでしたか……。ご主人が亡くなった後も、お店を閉めるという選択肢はなかったんですか?」

「そうね……本当は何度もやめようと思ったんだけど、うちの店を頼りにしてくれるお客さんがいたの。昔ながらのペン先とか、なかなか他では扱ってない商品もあるから……。そういう方たちの支えがなかったら、続けられなかったかもしれないわね」


母の言葉に、湊斗とカメラマンは深くうなずく。田中カメラマンは、その場面を逃すまいとパシャリと写真を撮る。

一方の莉緒は、そんな母の想いを間近で聞くにつれ、改めて店が持つ重みを肌で感じる。父が残したものを、母が必死で守ってきた――その歴史がいまの「白川屋」を作り上げているのだ。


インタビューがひと段落した後、湊斗は「ありがとうございました」と一礼し、「最後に莉緒さんにも少しお話を伺いたいんですが、よろしいでしょうか?」と尋ねる。

母は「私は少し休ませてもらうわ」と席を外し、二人きりでのインタビュータイムが始まる。


「お母さまのお話はすごく参考になりました。じゃあ、莉緒さんご自身は、今はお店を継ごうと考えているんですか?」

「え……そこは、正直まだ揺れているんです。やっぱり大型の店舗やネット通販がある時代に、この店を続けられるのかなって不安もあって……」

「なるほど……。でも、さっきお母さまもおっしゃってましたけど、ここでしか買えない商品や、ここでしか味わえない雰囲気は、きっと需要があると思うんです。実際、僕もそれを記事にして皆さんに伝えたいと思ってますし」


湊斗の言葉には力があった。ただの社交辞令ではなく、本心から白川屋の価値を伝えたいという意欲が感じられる。莉緒はその瞳を見て、ほんの少し心が揺れるのを感じる。


「ありがとうございます。鳴海さんにそう言ってもらえるのは心強いです……。でも、私自身の気持ちがまだ追いついてない感じで。お母さんみたいに『何が何でも店を守る』っていう覚悟があるのかどうか……」

「そうですか……。でも、焦らなくてもいいんじゃないかな。大事なのは、莉緒さんが店をどうしたいか、どうありたいかってことですし。記事はあくまできっかけで、白川屋さんの未来はこれからゆっくり築いていくものだと思います」


その言葉に、莉緒は少しだけ目が潤むのを感じた。自分の悩みに寄り添うように言葉をくれる人がいるというのは、これほどまでに救われる気持ちになるのかと。

そして、ふと湊斗の背後にいる田中カメラマンを見やると、彼も小さく微笑みながら頷いている。どうやら、この取材チームには人間的な温かさが漂っているらしい。


「なんか、すみません。こんな個人的な相談みたいになってしまって……」

「いえいえ、取材っていうのは、結局は“人”を見つめることだと思ってるんです。お店を取り上げるにしても、そこに関わる人の想いとか、ストーリーが記事の核心になりますから」

「……はい。本当にありがとうございます。今日はお母さんもすごく楽しそうで、私も嬉しいです」


そうして取材は一通り終了し、最後に細かい確認や今後の流れについて説明を受ける。

「ここまでの内容をもとに記事の構成を考え、デザイナーやカメラマンと相談しながら一度ラフを作ります。そしたら、再度お見せして修正点をお伺いしますね」と湊斗が丁寧にまとめてくれた。


取材チームが店を後にする際、母はわざわざ店先まで見送りに出てきて、「今日は本当にいい機会をいただきました。ありがとうございました」と頭を下げる。湊斗たちも「こちらこそ!」と笑顔で応じる。

やがて彼らが商店街の通りへと消えていくと、莉緒は母と顔を見合わせ、どちらともなく笑い合った。


「……いい人たちでよかったわね。何だか、お父さんのこと思い出して、胸がいっぱいになっちゃった」

「うん……。私も今日、いろいろ話を聞いて、少し前向きな気持ちになれたかも」


穏やかに晴れ渡る春の空。白川屋の古い看板が、柔らかな日差しに照らされている。

――こうして始まった第一回の取材は、莉緒と母にとって、大きな一歩となる出来事だった。


白川屋での取材を終えた翌日。地元出版社の編集部に戻った湊斗は、社内の打ち合わせスペースでパソコンに向かい、白川屋の記事の初稿を作成していた。

目の前にはカメラマン・田中が撮った写真のサムネイルが並び、それらを眺めながら、「どの順番で、どのように文章を配置すれば、白川屋の魅力を一番引き出せるか」を頭の中で組み立てている。


「やっぱり、まずはこの古い看板の写真がインパクトあるよな……」


湊斗はつぶやきながら、店の外観写真を見やる。木製の看板に刻まれた「白川屋」の文字は、風雨にさらされ薄れているが、そのかすれ具合こそが時の流れを物語っている。

続けて、店内の棚や文房具の写真、そして店主である母のインタビュー内容をどのように紹介するかを考える。


「娘さんである莉緒さんの気持ちも重要だから、最後に一緒にまとめた方がいいかな……」


自分のメモ帳には、今回の取材で得た内容が事細かに記されている。父の代から続く老舗としての苦労や、常連客との交流、母が店を続ける中で支えられてきた思い。その一方で、莉緒は「これから継ぐかどうか」に迷いを抱いている――そういった人間模様をどう紡ぐかが、読み手の心をつかむ鍵になる。


「鳴海くん、どう? 白川屋さんの記事は進んでる?」


先輩編集者の川瀬が声をかける。彼はモニター越しに湊斗の作業をちらりと見て、興味深そうに首をかしげた。


「はい、写真がすごくいいので、構成を考えるのが面白いです。古いお店なのに、何とも言えない温かみがあって……」

「へえ、そうか。読者もきっとそういうのを求めてると思うよ。大きくて何でも安い店は便利だけど、人情味や物語性は感じにくいからね」

「そうなんです。ここならではの存在感を出せればと思ってます」


湊斗は笑みを浮かべて、再びキーボードに向かう。店主である母が語った思い、そして莉緒が揺れる想い――その両方をバランスよく記事にまとめる作業は、骨は折れるがやり甲斐が大きい。

途中、ふと莉緒の真剣な横顔が脳裏に蘇る。店に対する戸惑いや愛着を素直に打ち明けてくれた彼女の姿が、何となく胸を温かくするのだ。


「……よし、もう少し頑張ろう」


湊斗は軽く首を回し、文章の続きを打ち込む。カメラマン・田中にも連絡を取り、写真のレイアウトについて相談を深めるつもりだ。

取材記事の初稿は、明日中には完成しそうな予感がある。いつもより筆が進むのは、白川屋の“歴史”だけでなく、その“人間味”に強く惹かれているからかもしれない。


一方、白川屋では、莉緒が店の奥で書類や古いアルバムを整理していた。取材のあと、母が「これを機に色々と片付けてみようか」と言い出したのだ。

書きかけの帳簿や、既に使わなくなった仕入れ先リスト、懐かしい商品のパンフレットなどがぎっしり詰まった段ボールが山積みになっている。


「うわぁ……こんなにあったんだね。昔から捨てずにずっと取っておいたの?」

「そうなのよ。あなたのお父さんは、なんでも記録に残す人だったから……。細かいことまでノートにまとめてたわ」


母が苦笑しながら、古いノートを一冊取り出す。表紙には「開店準備メモ」と大きく書かれており、日付を辿ると莉緒が生まれる前、つまり店を始める直前のころのものらしい。


「……へえ、資金調達とか棚の設計とか……細かく書いてるね。ここにイラスト付きで棚の寸法が描いてある……」


莉緒は思わず感嘆する。自分がまだ生まれていない頃に、父が試行錯誤して作り上げた店の姿。その設計図のようなメモには、言葉の端々から父の情熱が伝わってきた。

ページをめくると、商店街の人々の名前がずらりと並んでいる。開店時に手伝ってくれた人たち、見本品を提供してくれたメーカーの担当者、応援メッセージを書いてくれた常連客……。


「お父さん、人に恵まれていたのね。こんなにたくさんの人が関わってくれたんだ」

「そうね。人望があったし、この商店街も昔は活気があったから。その記録がこうして残ってるの、ちょっと感慨深いわ」


母は少し目を潤ませながら、懐かしそうに微笑む。莉緒も胸が熱くなるのを感じた。店に対する「愛情」や「繋がり」が、こんなにも明瞭に刻まれているとは知らなかったのだ。


「今度、鳴海さんに見せてあげようかな。取材では話しきれなかったけど、こういう資料があれば記事の参考になるかもしれないよね」

「そうね。あの人も、もっと詳しくお店のルーツを知りたいって言ってたから、喜ぶかもしれない」


莉緒は父のノートをそっと抱きかかえ、今はもう会うことのできない父の思いを、少しでも形にできたら――と考えた。

同時に、心の奥でくすぶっていた「店を継ぐかどうか」の迷いが、父の情熱に触れたことでさらに複雑になっていく。

(お父さんの残したものを、私がどう受け継いでいくか……。ちゃんと考えなきゃいけないね)


莉緒はそう自分に言い聞かせながら、古いアルバムやノートを丁寧に仕分け続けた。


一方、大手出版社の地方支社では、拓海が白川屋以外の取材先をいくつか回っていた。商店街の洋菓子店や古民家カフェなど、地域色の強い店舗をピックアップし、下調べを重ねる。

上司からの催促を受け、まずは“企画全体の骨格”を作る必要があったからだ。


「地方の老舗特集」――それが今回、拓海が掲げているテーマであり、上司にも一応了承を得ている。問題は、どのお店をメインに据えるかだが、やはり拓海の中では「白川屋」の存在が大きい。


(まだアポを正式に取れていないけど、何とかして取材しないと……。ほかの店じゃ物足りない)


そう考えながらも、先に取材したいと声をかけたところ、すでに別の出版社が取材に来たと聞かされている。今から白川屋を訪ねても、タイミングが合わず空振りになる可能性もある。

焦る気持ちを抑えつつ、拓海は商店街の別の店舗――昔ながらの豆腐屋へ足を運んだ。だが、そこでは店主が「すみません、うちはもう地元紙で何度か取り上げてもらってるから……」と断り気味だった。


「あの文房具店さんは、最近取材が来てるって聞きましたよ。もしかしたら、そちらで連載でも始めるんじゃないかって噂ですよ」


豆腐屋の店主が雑談のついでにそう呟くと、拓海の胸はざわつく。連載というのは大げさかもしれないが、既に地元出版社は白川屋に深く関わろうとしているのかもしれない――そんな危機感が募る。


「そうですか……。情報ありがとうございます」


拓海は穏やかな笑みを装いつつ豆腐屋を後にした。そして、商店街の通りを歩きながらスマホを取り出し、再び莉緒への連絡を検討する。


拓海「こんにちは。もう少ししたら、取材をお願いできそうかな? 焦らせるつもりはないけれど、タイミングが合えば一度お店に顔を出せると助かる。」


これ以上待っているだけでは状況が進まない。ならば少しでも早く動き、莉緒の都合を確認すべきだ――そう判断してのメッセージだった。

送信してもすぐには返信がこない。莉緒にしてみれば、今ちょうど地元出版社の話が進んだばかりで、母の体も万全とは言えない。返事に時間がかかるのも無理はない。


(やきもきしてもしょうがない……。とにかく、ほかの店の記事を書き進めておこう)


拓海は自分を奮い立たせるようにスマホをポケットにしまい、支社オフィスへ戻るために駅へと向かった。だが、その心中には、いつからか湧きあがった「負けたくない」という熱が消えずに燻り続けている。


その日の夕方。莉緒は幼馴染の琴音と待ち合わせをし、市内の小さな定食屋で軽い夕食を摂っていた。

看病が落ち着いてきたこともあり、二人で外食できるほどの余裕ができたのだ。


「取材、無事に終わったんだって? お母さんも一緒に受けたんでしょ?」

「うん。鳴海さんたち、すごく丁寧でさ。お母さんも初めは緊張してたけど、途中から思い出話が止まらなくなって、私も知らないことがたくさんあったよ」


莉緒は味噌汁をすすりながら、取材のときの様子を琴音に語る。父が若い頃に書き溜めたノートの話をすると、琴音は感心したように目を丸くした。


「へえ、お父さんそんなに几帳面だったんだ……。何だか素敵だね、そういう資料が残ってるって」

「うん。鳴海さんが記事を書くときに参考になるだろうなって思って、今度見せようかと思ってる。お母さんも『その方が店の歴史が分かりやすい』って賛成してるし」


琴音は「いいじゃん!」と笑顔を見せ、同時に少しだけ真剣な表情に変わる。


「それで、今後のことは少し見えてきた? お店、やっぱり継ぐ方向なの?」

「うーん……正直まだ決めきれてない。でも、今までは『辞めるなら辞めるで仕方ない』くらいに思ってたけど、取材で人から話を聞かれると、『やっぱり私はこの店のことを大事に思ってるんだな』って再認識しちゃって」


莉緒はちらりと窓の外を見る。春の日は長くなり、空には淡い夕陽が広がっていた。


「大事に思ってるなら、なおさらしっかり考えた方がいいよね。ほんとにダメなら畳む選択肢もあるし、それでも『続けたい』って思うなら、その道を探ればいい」

「そうだね……。あ、そういえば北園先輩からも連絡がまた来てて。取材したいって言ってくれてるけど、タイミングが合わなくてずっと保留にしてるの」

「同じ文房具店を別々の出版社が取材したがるって、すごい状況だよね。何か特別な縁があるのかなあ」


琴音はおもしろがるように身を乗り出す。一方の莉緒は、北園との過去を考えると、複雑な心境が拭えなかった。大学時代、吹奏楽部を辞めたあと、ろくに説明もできずに距離を置いてしまった先輩。


「先輩は先輩で仕事だろうし、私も悪い印象を持たれたくないから、できれば早めに取材を受けたいんだけど……今はまだ母の負担も大きいし、ちょっと間を置こうかなって」

「そっか。まあ、焦って返事する必要もないし、自分の気持ちとお母さんの都合を優先していいと思う。北園先輩も理解してくれるよ、きっと」


琴音は励ますように微笑む。すると突然、彼女は「実は私も少し進展があってさ」と声を低める。


「カフェ開きたいって話、覚えてるでしょ? この前、銀行の先輩が物件情報とか融資プランとか、具体的に教えてくれたんだ。まだ実現は遠いけど、一歩踏み出せた気がするんだよね」

「え、ほんとに!? それはすごいじゃん!」


莉緒は思わず声を上げ、琴音とハイタッチする。お互いに迷いながらも、新しい道を模索する同士だ。カフェという夢を形にしようとする琴音の姿は、莉緒にとっても勇気づけられる。


「私も負けてらんないな……。いろいろ頭を整理して、しっかり歩み出そうと思うよ」

「うん、応援してる。もしお店を続けるなら、私のカフェともコラボできるかもね。文房具とカフェってちょっと相性いいかも……なんて」


二人は笑い合いながら、あたたかな夕食の時間を過ごす。外ではまだ春の風が吹き、その優しい空気感が、これから始まる大きな変化をそっと後押ししているかのようだった。


翌日、湊斗は取材記事の初稿を一通り書き上げた。まだ細かい推敲は必要だが、会社としては上々の出来と見られるだろう。

そこで念のため、細部の確認を取ろうと莉緒に連絡を入れた。彼女が見つけた「父のノート」に興味を抱いていたのもあり、「ぜひ読ませてほしい」と思っていたからだ。


「白川さん、もし都合がよければ今週末にでもお時間いただけませんか? 追加でお店の資料を拝見したいんですが……」


電話口でそう持ちかけると、莉緒は「もちろんです。母も落ち着いてるんで、週末なら大丈夫ですよ」と応じてくれた。具体的な日と時間を決め、湊斗はほっと胸をなで下ろす。


(よし、これで記事はさらに充実したものになる。やっぱり“人”のストーリーが大事だし、父の記録を見れば店の歴史をもっと深く描けるはずだ)


電話を切ったあと、社内で一息ついていたとき、廊下から聞き覚えのある声が聞こえてきた。何気なくデスクを離れ、向こうの様子をうかがうと、そこには拓海が立っていた。

――この地方支社の別フロアには、大手出版社の出張オフィスが入っている。普段は顔を合わせる機会は少ないが、今日は何かの用事でこちらに来ているらしい。


「北園さん、久しぶりにこちらのフロア来ましたね。何か打ち合わせですか?」

「ええ、うちの支社長に頼まれて、少し調べものを……」


雑談する社員たちのやりとりがかすかに聞こえる。湊斗は「大手出版社の人か」と思ったが、別段気に留めることもなく、自席に戻ろうとした。その瞬間、拓海が振り返って湊斗と視線が合った。


一瞬、お互いに「誰だ?」という表情をするが、これといった面識はない。それでも、なぜか軽い緊張が走る。どこか互いに相手の存在が気になったのかもしれない。

湊斗は軽く会釈して、自分の席へ戻る。拓海もまた一瞬視線を注いだが、すぐに話していた相手に戻り、仕事の話へ集中していく。


(なんか、妙に鋭い目つきの人だったな……。何か急いでるのかも)


湊斗は心の中でそうつぶやき、先ほどの電話内容をまとめたメモに目を落とす。週末に白川屋へ行くことが決まった――まずはそこに集中だ。

しかし、この日すれ違った相手が、やがて白川屋の取材をめぐって自分の“ライバル”となる存在だとは、まだ知る由もなかった。


週末の午前中。莉緒と母は、部屋の奥から古い段ボールをいくつも引っ張り出していた。ここには、店を始める前後に父が残したメモや、古いアルバムが数多く詰まっている。

湊斗が「父のノートを見たい」と言ってきたので、その準備をしていたのだ。


「……このへんかな? あ、ノートだけじゃなくて写真もずいぶんあるね」

「そう。お父さんは記念だって言って、店とは関係ないものまで貼り付けていたことがあるのよ」


母が苦笑まじりに段ボールを開けると、出てきたのは手製のスクラップブックのようなもの。小さなノートに写真や切り抜きが貼られ、横にメモ書きが添えてある。


「まだ掃除が終わってないし、鳴海さん来たら店の応対もあるから、ある程度形を整えとこうか」

「うん……あ、でも急いで全部見ちゃうのももったいない。鳴海さんにも“発掘”した感じを楽しんでもらえそうだし」


莉緒はワクワクしながらノートの一部を手に取った。父の几帳面な字が並ぶページをめくっていると――玄関のチャイムが控えめに鳴り、湊斗の声が聞こえてきた。


「おはようございます、鳴海です。ごめんくださーい」


莉緒は急いでノートを置き、母と一緒に玄関へ出る。扉を開けると、爽やかな表情を浮かべた湊斗がちょっとしたお菓子の差し入れを持って立っていた。


「今日はお時間作ってもらってすみません。これ、差し入れです。お母さまと一緒に召し上がってください」

「まあ、わざわざありがとうございます。どうぞ上がってくださいね」


母がにこやかに応対し、湊斗は少し遠慮がちに靴を脱いで上がる。さっそく店の裏手にある居間に案内され、古いノートやスクラップブックが並んだテーブルを見て、目を輝かせた。


「うわあ……すごいですね。まさに“宝の山”みたいです」

「父が何でも記録したがる人で……店の準備から私生活まで、いろいろ詰まってるんです。写真も結構あるんですよ」


莉緒が恥ずかしそうに言うと、湊斗は「すごく助かります。ありがとうございます!」と嬉しそうにノートを手に取った。

そしてしばらく、その場は静寂に包まれる。湊斗は父の綴った文字や写真を丁寧に見つめ、時おり「へえ」「なるほど」と声をもらす。


「当時の商店街の様子が詳しく書かれてますね。棚をどこに作るかとか、仕入れ先の人名まで……。雑貨店や文房具店を作る苦労がすごく伝わってきます」

「そうなんです。店が開店してからも、どんな常連さんが来てくれたかっていう記録もあるみたいで……」


莉緒がそう補足すると、湊斗はページを繰りながら「これはかなりの記事の核心になりますね」と感嘆する。まさに老舗の“リアルな歴史”を掘り起こせる材料だと感じているのだ。




ふと、湊斗が手にしていたノートの奥付近に、黄ばんだ写真が貼られたページがある。父が撮影したのか、店先にいる子どもの姿が写っていた。


「これは……。えっと、『白川屋 開店1周年記念に撮った写真』ってメモがありますね」

「開店して1年目ってことは、私が3歳くらいの頃かな……?」


莉緒が写真に目をこらしてみると、小さな女の子がしゃがんで砂遊びのようなものをしている。その隣には、同じくらいの年齢らしき男の子が写っていた。

しかし、男の子のほうは半分ピンボケ気味で顔がよく見えない。だけど、どこかで見覚えのある輪郭のような気がした。


「誰の子どもだろう……。お母さん、覚えてる?」

「んー……ああ、思い出した。確か、当時、うちの近所におじいちゃんと暮らしてた男の子がいて……。でも名字までは知らなかったわね。お父さんとちょっと知り合いだったかも」


母は曖昧な表情だが、「あの頃のことだし、はっきりとは覚えてない」と言葉を濁す。莉緒は不思議そうに写真を眺め、湊斗もその写真に見入っていた。


「小さい頃の莉緒さん、かわいいですね……。この男の子は……」


湊斗が写真をじっと見つめた瞬間、微かな既視感に襲われる。自分の幼少期の記憶はあまり鮮明ではない。それもそのはず、両親を亡くし祖父母に育てられた記憶は断片的だ。

しかし、この写真に写る店先の風景や、幼い女の子の横顔――何かが心の奥をチクリと刺激する。


「(……まさか、俺……? そんなはずは……)」


そう思って頭を振る湊斗だが、写真を見た瞬間に込み上げてきた不可思議な感覚はなかなか消えない。

莉緒もまた、「男の子の雰囲気が鳴海さんに似てるような……」という言葉が喉元まで出かかるが、根拠がないので言い出せずにいた。


「ま、まあ、とりあえずこの写真も記事に載せられると面白いかもしれませんね。店に集う子どもたちというテーマで……」

「あ、はい。もし使えそうならどうぞ」


莉緒はそう言いながらも、心のどこかにザワリとした疑問が残る。幼少期の記憶があまりない湊斗、そして写真に写る幼い男の子と自分。もしこれが偶然ではないとしたら――。


取材を一通り終え、湊斗はメモを取りながら「これは想像以上にいい記事になりそうです」と嬉しそうに言う。母も疲れない程度に話をして、そろそろ休憩をとろうという段階だった。

そのとき、莉緒は思い切って聞いてみることにした。


「鳴海さん、失礼だったらごめんなさい。ちょっとお聞きしたいんですけど……ご両親が亡くなったって話を前に聞いて、幼い頃のこととか覚えてますか?」

「え……ああ、実はあんまり細かく覚えてないんです。祖父母が言うには、僕が小さい時に両親が事故で亡くなって、そのショックもあってか幼児期の記憶が曖昧なんですよね。医者からは『部分的な心因性の記憶障害』みたいなことを言われたらしくて……」


湊斗は困ったように笑いながら、ゆっくりと打ち明ける。やはり、幼少期からのトラウマか何かで、一部の記憶が飛んでいるのだという。祖父母に聞かされてもピンと来ないことが多く、「昔はこんな店に連れて行ってたのに全然覚えてないの?」などと言われることもしばしばあったらしい。


「そうなんですか……。あの、実はさっきの古い写真に、私と同じくらいの年の男の子が写っていたんですけど、もしかしたら……」

「ああ、あれですか……。正直、見てもピンと来なかったんです。ごめんなさい」


湊斗は率直に答える。莉緒も「いや、謝られることじゃないですよ」と慌てて手を振った。

しかし、内心では「やっぱり何か関係があるんじゃないか」と胸がざわつく。まだ確証もないし、湊斗自身が覚えていないのなら、今は何も言えない。


母も話を聞いて「記憶喪失までは知らなかったけど、子どもの頃の辛い出来事のせいなのね」と神妙な面持ち。

だが、その話題は長引かせず、湊斗は「僕の個人的な話で取材を邪魔しちゃいましたね」と照れ笑いを浮かべる。莉緒と母も慌てて「いえ、こちらこそ変なこと聞いちゃってすみません」と頭を下げる。


一方その頃、拓海は支社オフィスでパソコンに向かい、他の老舗店の原稿を書き進めていた。上司には「白川屋だけにこだわらず、複数の店を候補に記事をまとめろ」と念を押されている。

しかし、拓海はどうしても心が浮かない。莉緒からはまだ正式な取材日程をもらえていないし、噂では地元出版社がすでに何度も白川屋と接触しているという。


(……くそ、焦っても仕方ない。けど、何とかしないと俺の企画が中途半端になる)


苛立ちを感じながらメールを確認すると、大学時代の吹奏楽部仲間から連絡が来ていた。何でも、小規模だがOB・OGの集まりを近々開くらしく、「莉緒も誘ってみてよ」というメッセージがある。

拓海はその名前に反応し、携帯を握りしめる。


「そういえば……莉緒が吹奏楽を辞めた理由、聞いたことなかったんだよな。今さらこんな話題を振っても仕方ないけど……」


迷いつつも、いま大きく揺れているのは事実だ。単なる“取材対象”としてだけでなく、再会してからずっと心に引っかかっている存在――莉緒。

彼女の気持ちを考えれば、強引に取材をねじ込むようなやり方はしたくない。でも、自分も仕事で結果を出さなければならない。


「母親の具合がもう少し良くなったら……。それに、あの地方出版社の男がどれだけ彼女と親密になってるか……」


思わず口から出た言葉に、拓海自身がハッとする。嫉妬めいた感情を口にしている自分に驚いたのだ。

(こんな気持ち、大学時代に莉緒が部を去ったあとも感じたことがなかったのに……。いったい俺はどうしちまったんだ)


苛立ちや葛藤を抱えながらも、キーを叩いて原稿を仕上げていく。仕事とプライベート、そして過去と現在――拓海はその狭間に立たされ、心が揺れ動いていた。


再取材を終え、湊斗は夕方前に帰社した。一方、白川屋では、莉緒が父のノートや写真を片付けながら、母と二人だけの時間を過ごしていた。


「……鳴海さん、いい人だね。あなたがこんなに打ち解けるなんて、ちょっと意外だわ」

「うん……最初は単なる取材の人かなって思ったけど、すごく優しくて、店のことも私たちのことも本気で考えてくれてるのが伝わる」


母は微笑みながらお茶をすすり、ふと真顔に戻る。


「でも、あなたも分かってるでしょ? このまま店を継ぐにしても、いろいろ厳しい時代よ。大きな店舗やネット通販に敵わない部分もあるわ。でも鳴海さんのように、この店の価値を見いだしてくれる人もいる。あなたはどうしたいの?」

「……まだ答えは出せない。でも、父のノートを見てると、こんなに大事にしてきた店を簡単に手放していいのかなって思っちゃう。母さんの苦労も知ったし、何よりお客さんとのつながりがあるから……」


莉緒はそう言いながら、自分の胸に渦巻く想いを整理できずにいた。大事にしたい気持ちと、やっていけるのかという不安。さらに言えば、自分の進路として本当にこれが合っているのか――。

母は「そうよね」とうなずき、「急いで結論を出さなくていいから、じっくり考えなさい」と優しく言う。


「ただ、私も体が万全じゃないし、いつまでも店を続けられるか分からないのは事実。あなたがお店を守るなら、それは頼もしいけど、もし別の道を歩むなら私も止めない。お父さんもきっとそう思ってるはずよ」

「……ありがとう、母さん」


そこで会話が一段落し、ふと莉緒は先ほど見つけた写真の男の子のことを思い出す。


「ねえ、あの写真に写ってた男の子について、もう少し何か知らない? 家の場所とか、名前とか……」

「確か、近くのアパートに一時的に住んでたって話を聞いたわ。ご両親かおじいちゃんか、誰と暮らしてたか詳しくは……あまり覚えてないのよね。ごめんね」


母が申し訳なさそうに言うと、莉緒は「そっか……」と肩を落とす。

湊斗の記憶喪失の話と、この写真の男の子。二つのピースが繋がる未来があるとすれば、それはまだ少し先かもしれない。


夕刻、外の空は初夏の色を帯び始め、少しずつ涼やかな風が吹いてきた。店の古いガラス戸を通して見る景色は変わらないようでいて、確実に季節が進んでいる。

莉緒はその風を感じながら、「いつか、鳴海さんに全部打ち明けられる日が来るのかな」と、ぼんやりと想いを馳せるのだった。


5月も中旬にさしかかり、爽やかな初夏の風が街を吹き抜ける頃。琴音は休日を利用し、銀行の先輩とともに空き物件の内見へ向かっていた。

彼女は「いつか小さなカフェを開きたい」と夢見ていたが、最近では具体的な検討に乗り出している。先輩は融資担当の知り合いを通じ、条件の良い物件がないかと探してくれたのだ。


「ここがそうなんですね……。思ったより広い気がするけど、家賃は抑えめ……」


琴音は鍵を受け取り、小さなビルの2階フロアへ足を踏み入れる。もともとは雑貨店だったらしく、壁には何カ所かDIYでペイントした跡が残っている。

窓を開けると、春から初夏へ移ろう風が心地よく吹き込み、まだ何も置いていない室内を通り抜けた。


「ここならフローリングを敷き替えれば、簡易キッチンも置けそうですよね。でも、水回りの設備費がどうかな……」


先輩はメモ帳を開きつつ、設備や改装にかかる費用の概算をあれこれと計算している。一方の琴音は、広い窓から見下ろす街の景色に心をときめかせていた。

――もしここが自分のカフェになったら、どんな内装にしよう。どんなメニューを作りたいだろう……。


「正直、やっぱり改装費用はかかると思う。でも、融資を組めば不可能じゃないよ。大手チェーンほど大規模にはできないけど、小さいカフェなら十分」

「そっか……。うわあ、いよいよ現実味が増してきたなあ」


少し怖さもあるが、それ以上に胸が弾む感覚がある。目を瞑れば、カウンターでコーヒーを淹れ、お客さんと笑顔で言葉を交わす光景が浮かんでくる。

(まだ先は長いけど、やっぱりやりたい……)


琴音は決意を新たにしつつ、先輩に「もう少し検討させてもらいます」と伝える。ここで焦って契約を決めるより、慎重に準備を固めたいのだ。

しかし、この物件を見学したことで、夢が一歩近づいたのをはっきりと感じた。


「よし、ちゃんとプランを練ってみよう。ビジネスとして成立させるためには、もっと勉強が必要だし」


頭の中でやるべきことをリストアップしながら、琴音は微笑む。春の風が頬を撫で、まるで「がんばれ」と背中を押してくれているようだった。


同じ頃、湊斗は白川屋の取材記事の構成を仕上げていた。父のノートを参照し、店の歴史や商店街との関係をより掘り下げた文章を書き上げると、先輩やデザイナーからも「いい感じだね」と好評を得る。

次は最終的に白川屋と再度の打ち合わせをして、OKが出れば校了に向かうだけ――そういう段階まで来ていた。


「よし……一安心。あとは莉緒さんとお母さまのチェックを受けて、問題なければ完成だ」


湊斗は一息ついてコーヒーをすすりながら、先日見た古い写真のことを思い出す。そこに写る幼い男の子に強く惹かれるものを感じたが、結局は記憶に結び付かないままで終わっている。


(もしあれが本当に俺なら、莉緒さんとは幼い頃からの知り合いってことになる。でも、そんな話は祖父母から聞いたことがないし……)


記憶を取り戻そうにも、カウンセリングを受けたところで改善しなかった過去がある。今さら掘り返しても辛いだけかもしれない――そう頭では分かっている。

だが、どこか心の奥底で、あの写真を「他人事」とは思えない感覚があるのも事実だ。


「鳴海くん、大丈夫か? 何か悩み事でもあるのか?」


先輩の川瀬が心配そうに声をかけてくる。いつも淡々と仕事をこなす湊斗が、ここ数日ぼんやりと考え込むことが増えたのが気になったようだ。

湊斗は「いえ、ちょっとプライベートで……」と曖昧に笑って誤魔化す。詮索してほしくはないが、川瀬は気のいい先輩なので、心配されると申し訳なく思う。


「そうか……まあ、無理せずにな。仕事のほうは順調なんだろう?」

「はい、おかげさまで白川屋の記事はほぼ固まりました」

「ならよかった。締め切りさえ守れば、あとはマイペースでいいからな」


先輩の気遣いに、湊斗は「ありがとうございます」と頭を下げる。仕事面では問題ない。だが、写真や記憶の問題は、いずれ莉緒にも迷惑をかけてしまうのではないか――そんな不安が小さく芽生え始めていた。


翌週。莉緒は母と連れ立って地元のスーパーへ買い出しに行く途中、商店街の入口で声をかけられた。


「莉緒! ようやく会えた」


振り返ると、そこには拓海の姿があった。彼は急ぎ足で近づいてくると、母に向けて丁寧に頭を下げる。


「こんにちは。お母さま、もう体調は大丈夫ですか?」

「はい、おかげさまで。先日までは寝込んでいましたけど、もう買い物に行けるくらいには回復してます」


母が柔らかく微笑みながら答えると、拓海は少しほっとしたように表情を緩める。莉緒も「先輩、久しぶりです。すみません、なかなか連絡できなくて……」と申し訳なさそうに言う。

実際、地元出版社の取材対応に加えて、母の看病や店の片付けなどでバタバタしていたのだ。


「いや、いいんだ。無理させるわけにはいかないし。ただ、そろそろ白川屋にお邪魔できるかなと思って……日程の件で連絡が取れなかったから、直接来ちゃった」


すでに別の出版社(湊斗)が取材を終えているという事実も、拓海の行動を急がせていた。莉緒は視線をさまよわせる。


「そうですよね……母さんもだいぶ元気になりましたし、一度きちんとお話しますか? ただ、今日はちょっと買い物の帰りに用事があって……明日とか、あさってなら大丈夫ですけど」

「そっか……。なら、あさっての午前中はどうかな? 俺も午後からは仕事で取材が入ってるんだけど、午前なら時間を空けられる」


莉緒は母の顔を見て「大丈夫?」と確認すると、母は頷く。


「じゃあ、あさっての10時頃とか。店に来てもらえれば、少しずつ片付けておくので……」

「わかった。ありがとう、助かるよ」


そこまで話がまとまると、拓海は一息つき、母に「本当にお大事にしてください」と言い添えて、商店街の奥へと去っていった。

その背中を見送りながら、莉緒は複雑な思いを抱く。大学時代、拓海を心から尊敬し、慕っていた自分がいる一方、吹奏楽部を突然辞めてしまったことでずっと気まずい空気を引きずっていた。


「私には、店のこともあるけど、過去の自分とも向き合わないといけないかもしれない……」


小さくつぶやく莉緒に、母は心配そうに「大丈夫?」と声をかける。莉緒は微笑み、「うん、大丈夫。ちゃんと向き合わないと先に進めないから」と答える。

拓海の取材が始まれば、白川屋の事情だけでなく、莉緒自身の深い部分にまで触れることになるかもしれない――そんな予感が胸を占めていた。


翌日、莉緒は店の掃除を兼ねて、父のノートや写真の整理を進めていた。湊斗の取材に出した資料は一旦戻ってきたが、まだ段ボールの中には膨大な未整理の紙類が残っている。

ふと、古いメモ用紙がバラバラと崩れ落ち、その中に手書きの走り書きが目に留まった。


「近所の鳴海さん、孫を預かることに。奥さん亡くなったとか。うちの店に立ち寄ってくれた。」


それは、父が日常の出来事をさっとメモしたものらしく、年代は莉緒が3歳前後の頃のものと推測できる。そこには「鳴海」という名字がはっきりと書かれていた。


「鳴海さんって……湊斗さんの家族、かな……?」


ドキッとした莉緒は、さらにそのメモの裏面を確認した。しかし、それ以上の情報は書かれていない。

ただ、こうして具体的に「孫を預かる」という記述がある以上、幼い頃に祖父母と暮らしていた湊斗と符合する可能性が高い。やはり、あの写真に写っていた男の子は――。


「……湊斗さんに教えたほうがいいんだろうか。本人も記憶ないみたいだし、ショックを受けないかな……」


莉緒は気持ちが揺れる。直接伝えれば、湊斗の記憶に刺激を与えるかもしれないが、下手をすれば辛い過去を思い出すきっかけとなりかねない。

いずれにせよ、このまま秘匿しておくのも良くない気がする。店をどうするか以前に、自分たちが幼い頃から繋がっていた事実を知れば、湊斗の人生観が変わるかもしれない。


「……もう少し、タイミングを見て話そう。あさっては北園先輩の取材だし……」


莉緒はそう心に決め、メモ用紙をそっとノートの中に挟んでおく。鳴海と白川の奇妙な縁が、ここにきて明確な形を取り始めていた。


約束のあさって――午前10時。白川屋は再び扉を開け、拓海を迎え入れていた。店の奥にはまだ段ボールの山が残っているが、一応は椅子やテーブルを用意して取材ができるスペースを確保している。

拓海はスーツ姿でやって来て、店の外観や看板をひと通り眺めたあと、感慨深そうに店内に足を踏み入れる。


「……こうして見ると、ほんと味があるな。前に大学の近くにあった文房具店を思い出すよ」

「ええ。父が大事にしてきた棚や古い備品がそのまま残ってて……。母は『そろそろ買い換えたい』って言ってますけど、私はこのままでもいい気がして」


莉緒は苦笑交じりに言いながら、テーブルに出しておいた資料を手に取る。拓海は「ありがとう」と受け取って内容を確認する。

そこには店の歴史や、商店街の成り立ちなどの基本情報が書かれている。いずれも父や母が残した記録を元に、莉緒がまとめたものだ。


「かなり詳しくまとめられてるね。実は、あちこち老舗を取材してるんだけど、ここまでの資料が揃ってる店は少ないんだ。すごく助かる」

「よかった。鳴海さん――あっ、別の出版社の人ですけど、その人も喜んでくれました。父のノートがかなり役に立ったみたいで……」


莉緒がさらりと言った名前に、拓海は内心ピクリと反応する。やはり同業者がすでに取材しており、かなり密に交流しているのだろう――そんな予想が頭をよぎる。

複雑な感情を抱きつつも、拓海はできるだけ表情に出さないよう心がけ、メモを取りながらインタビューを始める。


「この店を続けてきた理由や、商店街の変化……そういうところを中心に聞かせてもらっていいかな?」

「はい、母が今日は来客中で留守なんですけど、私で答えられる範囲なら何でも聞いてください」


そうしてインタビューが始まったが、話が進むにつれ、拓海は莉緒の言葉の端々から“一歩引いたような雰囲気”を感じ取る。まるで、何かを隠しているわけではないが、心の中に別の迷いがあるようだ――そう察する。

取材内容をノートにまとめる合間に、ふと拓海は吹奏楽部時代のことを思い出す。


「あのさ、莉緒……。こういう公式の取材の場で言うのも変だけど、あの頃……お前が突然部を辞めたとき、俺は何も聞けなくてずっと後悔してたんだ」

「……先輩……」


莉緒が一瞬、視線をそらす。彼女にとっても苦い思い出だ。フルートに全てを注ぎ込み、部の仲間に支えられていた中での突然の退部。何があったのか、本当の理由を誰にも話さずに去ってしまった。

拓海はノートを閉じ、真剣な表情で続ける。


「もちろん、今は店の取材で来てるし、あの頃のことを掘り返すつもりはない。だけど、気が向いたらでいい。あのとき何があったのか、いつか話してくれないか? ただの先輩としてじゃなくて、一人の友人として……」

「……ごめんなさい。先輩は、部で一番頼れる存在だったし、私にとって大切な人でした。なのに何も言わず辞めちゃって……。あの頃は……いろいろ事情があったんです」


言葉を濁す莉緒に、拓海は深く突っ込むことはしなかった。ただ、その瞳の奥に苦しさが宿っているのを感じる。店のこともそうだが、莉緒自身が抱える何かが重くのしかかっているのだろう。

結局、この日は詳しい説明はなされず、取材は基本的な内容だけにとどまった。拓海は「今日はありがとう。十分に情報が得られたよ」と礼を述べ、店を後にする。

しかし、心にはもやもやとした感情が残ったまま。昔慕ってくれた後輩が苦しんでいるなら手を差し伸べたい――そんな想いと、仕事上の焦りが絡み合って複雑だった。


「鳴海とかいう地元出版社の編集……一体、どんな奴なんだ?」


拓海は店を出た瞬間に、無意識のうちにそんな独り言を漏らしていた。莉緒と向き合うために必要なのは、かつての先輩後輩関係だけではなさそうだ――そう思い知る朝となった。

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