第9話 一片の真実
「『麦の悪夢』の対策は、病気の黒い穂を付けさせないことと、もし付いたときにそれを広げないようにすること。あなた、『農業大全』は読んだのでしたっけ?」
「読んだような気もするけど、あまり覚えてないんです」
「いいでしょう。ではまず、ここの村の言い伝えから始めましょう」
ポールは私の方を見てうなずいた。
意外だ。もっと冷ややかな反応が返って来るかと思ってたんけど。
「ミルテ、この村では、麦が成熟した後、刈り取りが遅れるとどうなると言われている?」
「刈り取らないままの麦を放置しておくと、邪悪な妖精がやって来る。麦が黒く変わるのは、その妖精が麦に触わって、毒を持ったからだ、と」
「邪悪な妖精を追い払うには?」
「妖精の嫌いな豆を植えて追い払うことになってるわ。冬が来る前に種をまいて、春になって豆が実るとどこかへ逃げて行ってしまう、って言われてる。でも、この方法は続けて使うと効果がなくなるから、一度使うと三年間は間を空けなければならないって……あれ、そうか……」
実際に豆は同じ場所では続けて育たないから、もし豆を植えるのであれば、翌年以降は場所を変えて植える。再び同じ場所で実るようになるのは、三年後。今更ながら、誰もが知っている言い伝えが実情をあらわしていることに気づいて驚く。
ポールも言った。
「どんな言い伝えにも一片の真実が含まれている」
そして、それが我々の先人たちの知恵を教えてくれるのだ、と。
「麦に実がついた後、特に成熟させている間に長雨にあたると、黒い変色が起こりやすいそうだ。刈り取りを急ぐのは、……」
「この地方では秋の終わりによく雨が降るから、それより前に間に合わせるためね」
「その通り。そして、もし黒変が起きてしまった後は、豆を育てた土地では翌年の黒変が起きなかった、と、そういう事例があるそうだ。ただ、はっきりとした理由はわかっていない」
「なるほど」
「種の塩水選も有効とされている。黒変した麦は塩水に浮くから、混じっていたとしたら、それで取り除くことができる」
「確かに、毎年私たちは、そうしているわ」
種を塩水につけて、沈んだ種だけを畑にまく。沈んだ種は中身がつまっていて、その方がまいた後の育ちがいいからだ。単にそう思ってやっていただけのことなんだけど。
「そもそも十分な量の麦がなければ種を選別しようという気にもならないだろうから、あなたの作っているネズミよけも、大きく貢献しているんだろうね。ネズミに食べられてしまった後では、何もできない」
「ネズミよけの作り方は元々はローラの考案でね、私はそれを改良して、この部分だけは本で読んだのを覚えているわ。あれ、ちょっと待って、えーと、今までの話も全部、『農業大全』で見たことがある気がしてきた……」
多分、本を読んでいた時は、文字だけを目で追って理解しないままになっていた。それが彼の説明を聞いていると、頭が理解し私の中ですとんと腑に落ちていくのを感じる。すごい。
私がポールの顔を見ると、彼も私を見てゆっくりと微笑んだ。それで私は思わず下を向いてしまった。
あれ、私、どうしたんだろう。
ここから先は『農業大全』ではないけれど、と前置きをして彼は話を続ける。
「この領地内では、収穫税を納めるのに、もし秋の麦がだめだったなら春の豆まで待つことになっている。伝承だけでなくて、実際のやり方でも、有効な方法の後押しをしているんだ。それと、場所柄、安く塩が手に入ることも運が良かった。運河も河も近くて、船で大量の塩を運べるからね」
「ええ、私たちは領主館から塩を買っていて、全然高くないし、収穫税の時まで代金が猶予されることもあるし、とても助かっているのよ」
「塩の価格に税を上乗せしている領地もあって、どちらかというと上乗せしている方が普通だけど、ここではそれをやっていないようだ」
「ふうん」
私は適当に合いの手をいれる。他の土地の塩税まで、気にしたことなどない。
しかしポールは次の問いかけを、重々しく発した。
「なぜ、そんな事が起きたのだろうか?」
再び問いかけられて私はどきりとする。
なぜ? なぜって、……特に前の領主が気前がよくて領民思いだったとは、全く思わない。どちらかというとケチで、がめつい方で、真面目なフィリップとは折り合い悪く、それで彼は領主館を追い出されたのだ。
そんな前領主が、塩税だけをかけていなかった? なぜ?
私が考え込んでいると、ポールが廊下の方に向かって言った。
「ああ、ウィリアムにフィリップ、いいところへ来た。中に入ってくれないか」
ポールは部屋の入口に向かって二人の男を手招きする。
「僕たちの話ももうすぐ終わるから、呼びに行こうと思っていた所だ。……近くへ」
言われた通り、ウィリアムとフィリップが書斎に入って来る。
来客用のテーブルの奥にはポール。その斜め前に私。テーブルをはさんで向こう側にウィリアムとフィリップが並んで立っている。
「新旧二人の執事に揃って会えるのは、頼もしいね」
ポールはどこかわざとらしい明るさで言い、それに対する二人の執事の顔には緊張がみえた。
「ミルテ、紹介しよう。ウィリアムは今の領主館の執事で、前の領主の代から続けてもらっている」
名前を呼ばれてウィリアムが頭を下げる。
「そして、フィリップはウィリアムの前の執事だね、話には聞いている」
フィリップも無言で頭を下げる。
「座ろう」
ポールが言って、自分が最初に椅子に腰を下ろす。続いて私たち三人もテーブルを囲んで座る。
ポールの態度はとても穏やかなのに、張り詰めた空気があって、ものすごく落ち着かない。
「この領主館には埋蔵金がある」
ポールが言うと、二人の執事がはっと息を呑むのが分かった。
テーブルには『農業大全』と、皿の上に砂糖菓子。本はともかく、甘い砂糖菓子がこの場にひどく不釣り合いな気がした。