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刺身

 この時期になると似たような幟が各所で目立ち始める。スーパーやコンビニの店先、個人経営の飲食店の軒下、そして薄暗い路地裏の居酒屋。でかでかと『うなぎ』と書かれたそれが立ち並ぶ光景は、この国における初夏の風物詩だろう。

「ねぇ、わたしうなぎ食べたぁい」

 そんな甘え腐った声が聞こえてくる夜の駅前。その方を見遣れば、露出の派手な若い女がスーツ姿の中年おっさんと腕を組んでいた。おっさんは何やらもごもご言っている風だったが、女が耳元で何かを囁いた途端、二人は街灯の明かりから外れて去っていく。

 あのおっさんはこれから星が付いてそうな有名店で飯を奢らされ、加えてホテル代も払わされることだろう。あんなのに手ぇ出すほうが悪い、自業自得だとは思うが、うなぎを奢らされるのは流石に気の毒に思う。若い女に貢ぎ過ぎて家族に悟られ、恨みつらみの物騒な事件に発展するのはよくあることだ。おっさんよご愁傷様、どうか賢明に生きて。

 二人の背中が闇夜に消えると、一陣の風が人混みの間を吹き抜け、幾本もの幟たちが一斉に同じ方向を向いた。その光景をどこかで見たことがあるなと思ったら、あれとよく似てる。横一列に並んだ猫が玩具の動きに合わせて同時に首を振るやつだ。おぉ似てる似てる。そんな気付きに一人で感動しながら、一つの幟に目が留まる。『うなぎ』の飾り文字の隣でイラスト調のうなぎが笑顔で手を振っている。『私を食べて』と誘惑しているように見えるが、しかし俺にそんな宣伝は通用しない。何故なら俺は金無しの一般庶民だからだ。

 うなぎと言えば以前はもう少し安かった記憶があるが、今では庶民じゃとても手を出せない高級食材だ。俺も人生で一度きり、まだ小さいがきんちょの頃に親に連れられて食ったのが最後。味なんてまったく覚えてないが、とにかく旨かったという記憶だけはある。社会人になった今、もう一度食いたい願望はあるにはあるが、スーパーに売ってる小さい切り身だけでも諭吉が数人飛ぶ金額だ。汚ねぇ居酒屋で枝豆ばっかりを肴に飲む俺にとって、うなぎはこれからの人生で決して手の届かない幻の食材なのさ。くぅ~、自分の甲斐性の無さに泣けてくるねぇ。

 心の涙がこぼれないよう上を見上げながら駅前を後にする。とにかくうなぎから離れられて、酒が飲める場所に行こう。気分が落ちたときはとにかく酒だ。となれば向かう所は一つ、賑わいから外れた裏路地に立つ地味ぃな居酒屋。俺の行きつけだ。

 流石にここまで来ればうなぎは見かけない。明かりが少なくて汚ない道は逆に安心感すらある。心の荷が下りた俺は、軽い足取りのまま見慣れた暖簾をくぐった。

「おやっさん、来てやったぞぉ」

「おぉノブちゃんいらっしゃい!」

 戸を開けた途端威勢の良い声が響く。うるさい声は本来迷惑なはずなのに、まるで家の扉を開いたかのような居心地の良さ。常連である俺にとって、この居酒屋はもう一つの帰る場所なのだ。

 薄暗く狭い店内を見渡せば、他の客は奥のテーブル席に一人だけ。俺はいつものカウンター席中央に腰を落とした。おやっさんがカウンター越しにお冷を出してくれる。

「いやぁ全くここは落ち着くよなぁ。傷だらけシミだらけのヤニだらけ、んでおやっさんのシケた面よ。お洒落のおの字も無いってのがねぇ」

 受け取りついでに悪態をつけば、おやっさんは豪快に笑っていた。

「年中文無しが言うじゃねぇか。そんなやつに飲ます酒は無ぇぞ」

「いやいや褒めてんだよ俺ぁ。駅前見たか? どこもかしこもうなぎうなぎうなぎって。食えもしないもん宣伝してどうす――」

 適当にしゃべりながら、ふと違和感に気付く。手元に立てられた小さなメニュー表。いつもは一枚のはずが今日は二枚。一回り小ぶりなメニューが臨時で追加されていた。そこには思い切り『うなぎ』の文字。

 気付いた頃には俺は大声で叫んでいた。

「おおおやっさん! なんだよこの『うなぎ』って!」

「気付いたか。うちでもちょっと仕入れてよ、今年から出してみることにしたんだ。店続けてくんならいつまでも同じって訳にゃいかねぇからな」

「なんだよそれ、冷やし中華始めましたみたいなノリで言うんじゃねぇよ。一昨日まで無かったじゃんか。こんな、俺のお陰でもってるような店が? 閑古鳥じゃなくてうなぎを出すだぁ?」

「お前ぇはうちを何だと思ってやがる。お前ぇが知らねぇだけで客には恵まれてんだ。そんでうなぎもよ、確かに普段は誰も頼まねぇが、たまにベロベロに酔った客が調子付いて注文してくれたりすんだよ、へへ」

「酒の力に頼らないと売れないもん出すんじゃねぇよ」

 くそ! ここだけは俺の味方だと信じてたのに! 高級おしゃんな空気が浸食を始めていたなんてぇ。

 と思った刹那、俺の頭上で電球が光る。これはうなぎを格安で食えるチャンスかもしれない。だってそうだろう? 俺はここの常連だし、結構な額落としてるし、気前の良いおやっさんならサービスの一つや二つや三つしてくれるに違いない!

 となれば早速交渉交渉。善と膳は急がねば。

「あーうなぎかー、最後に食ったのいつだったかなー」

「どしたよノブちゃん、急に態度変えて」

「いやぁ俺さ、うなぎ全然食ったことなくて。何せ貧乏なもんで。なぁおやっさん、俺とあんたの仲だし、ちょっくらサービスしてくれよぉ」

 茶化すように手もみなんぞしてみるが、おやっさんの目はいかにも厄介そうにしていた。何だその目は、常連客に向けるもんじゃないだろう。

「店によく来てくれるのは嬉しいが、こちとら商売なもんで。俺だって旨いもん食わしてやりたいさ、でもうなぎは元が高いから中々……」

「んだよケチ。うなぎって結構デカい魚だろう? 捨てる予定の端っこの肉をちょちょちょっと集めて出してくれりゃいいんだ。お願いだ頼むよぉ」

「お前はマグロをまるまる食えるとでも思ってんのか? どの食材にも食えない部分はあんの。うなぎは頭寄りの半分がそう。意外と食用の部分は少ねぇのよ。あとな、うちはうなぎを切り身で買ってんの。無駄にできる部分なんてねぇんだよ」

 あえなく撃沈。こんなにも通い詰めているのに冷たくあしらわれ、俺の心は懐具合と同様すっかりしょぼくれてしまった。

「んで、どうするよ。安くはできないが、うなぎ、行っとくか?」

「行けるわけねぇだろ! ビールと枝豆!」

 俺は半ば自棄になりながらいつもの注文を叫んだ。



「あの守銭奴がよぉ……ヒック、あんなとこ、一週間くらい顔出してやんねー」

 独り言をこぼしながら右へふらふら左へよろよろ。深夜の裏道は危なっかしいが、酒が入れば良い気持ち。口は勝手に歌い出すし、足なんてほら、軽すぎて今にも浮きそうだ。ほら! ちょっと浮いた! と思ったら着地に失敗して塀にぶつかる。それが無性に可笑しくて笑いがこみ上がる。

 酒はさして旨くはないが、安く酔えてこんなに気分良くなれるんだから、あの店はほんと好きだなぁ。明日も仕事帰りに寄っちゃうもんね。やっぱ安いって最高。庶民の味方。

 ……と思ってた時期が俺にもあったさ。なのにおやっさん、金儲けのためにうなぎなんざ出すようになっちまった。所詮世の中金かよぉ! 俺の愛した居酒屋はどこ行っちまったんだぁ! 俺ぁよぉ、あいつのことが情けなくて悔しくて、泣けてきちまうんだぁ。

 涙はぽろぽろ、鼻はずびずび、情けない男の帰り道。そんな俺を慰めるように、温かい光が涙越しに飛び込んできた。席が一つしかないような小さい屋台。こんな繁華街の外れで何してんだと思ったら、軒先に吊るされた紙にはこう書かれていた。

「うなぎぃ!? 一品五百いぇん!?」

 目ん玉が飛び出て涙は一瞬のうちに蒸発した。現実的にあり得ない価格設定。違法ルートから仕入れた脱法うなぎか、あるいは別の魚をうなぎと偽っているに違いない。えぇい、この街の悪行非行、俺の目の黒い内はみすみす見逃すわけにはいかねぇ!

 勢い勇んでいざ屋台へ。乱暴に暖簾を払って椅子にどかんと腰を落とす。

「いらっしゃいませ」

 目尻の皺が目立つ中年が笑顔を向ける。騙されちゃいけねぇ、こういう薄っぺらい笑顔が張り付いたやつに碌なのはいねぇからな。俺はカウンターに肘を突き、負けじとガンを飛ばしてやった。

「おうおういらっしゃいませじゃねぇぞ? お前ぇがあくどい商売してんのはお見通しだ。ポリ公にお縄になるか、それとも大人しく店畳んで里に帰るか選べってんだ」

「あくどい? ……あぁ、もしかしてこの値段ですか?」

「当たり前じゃねぇか。うなぎがこんな安いわけねぇだろ。なんか悪いことして仕入れたんじゃねぇか? 正直に吐けぇ!」

 一層詰め寄ると、中年はなるほどそうかと合点がいったように、「誤解ですよ」と目を細めた。

「うちのうなぎは正式なルートから買い付けた、正真正銘本物のうなぎですよ。ご覧になりますか?」

 そう言うんなら見せてもらおうじゃねぇか。立ち上がってカウンター裏を覗き込むと、中年がケースからうなぎを取り出した。確かに本物のうなぎだが、何故か頭寄りの半分しかない。俺の疑問を初めから知っていたように、中年は口を開いた。

「これは既に別の店で捌かれたものです。本来なら廃棄されるんですが、実はこちらも美味しく食べられるんですよ。廃棄予定だったので、値段もこんなに安くできるんです」

「い、いやいやでもよ、うなぎの上半分は食えねぇんじゃねぇのかよ。居酒屋のおやっさんが言ってたんだ、間違いねぇ」

「それは間違った通説ですよ。単に腰から上を捌ける人が非常に少ないからそう言われているだけです。ご安心ください、ちゃんと免許を持ってますから」

 そ、そうなのか。まあ確かに、言われれば上も下もただの肉だし、ちゃんと調理すれば食えるはずだな。あぁそうだ。

 そうか、こんなに安くうなぎが食えるのか。

「どうです? お客さん。うなぎなんて滅多に口にできないでしょう」

 確かに、食ったのは子供の頃に一度だけ。二十年以上前のことだが、ただただ旨かったという感想だけは覚えてる。もう一度味わいたい。これまで叶わなかった願いがここなら現実にできる。

「あぁ、そうだな。こんな機会滅多に無ぇからな。折角だ、食わしてもらおうか」

「ありがとうございます。では、まず何からにいたしましょう?」

 水と共にメニューを渡される。いろいろ細かい字で書いてあるが、酔った頭には少々苦しい。メニューを返し、店主に一言。

「おすすめは?」

「そうですねぇ、やはり刺身でしょうか。うなぎと言えば蒲焼きですが、上は生でいくのが絶品ですよ」

「ならそれを頼む。ある程度の金ならある、あんたに任せるから、コースよろしくいろいろ食わしてくれ」

「畏まりました」

 話が決まると店主の手は早かった。カウンター裏は死角なため見えないが、長年培った職人の業の片鱗が垣間見える動きだ。注文してから一分ほど、花びらのように刺身が盛られ皿が目の前に。隅には飾りの菊が添えられている。

「こちらは腹部の肉の刺身です。程よく脂が乗り味わい深く、一口目に相応しい一品です。しょうがやわさびなど、お好みで薬味と一緒にお召し上がりください」

 艶やかなその肉質に思わず「おぉ~」と感嘆する。なるほど確かに高級魚、いかにも美味そうなオーラをビンビンに放っている。どれ、早速お手並み拝見。割り箸を割り、一口目は薬味をつけずにそのまま……お、おおぅ。これは中々に旨いじゃないか。肉質は柔らかく、噛むほど旨味が広がる。だが決してしつこくなくまろやかな口当たりで、水を飲めば口がリセットされる。するともう一口、もう一口と次が欲しくなり、気付けば皿は空になっていた。

「お気に召していただけたようで」

 店主の嬉しそうな様子に、客である俺も何だか気分が良くなってくる。

「いやこれめちゃくちゃ旨いよ! いやぁ悪かったな、疑ったりなんかして」

「いえいえとんでもない。お客様の笑顔が見られるなら、それが私の幸せですから」

 口を動かしながらも店主は既に包丁を握っている。次の皿が来るのを今か今かと待つ俺。包丁捌きを目で追っていると、ふと動きが止まった。

 そういえば、と前置きし、店主がこちらを向いていた。

「お客さん、食べすぎにはくれぐれも気を付けてくださいね。うなぎの肉には毒がありますから」

「ど、毒ぅ!?」

 言葉を咀嚼する間もなく反射的に両手を突いて立ち上がっていた。店主がそのまま何も言わなければ、恐らく一秒後には奴の胸倉に掴みかかり、よくも騙したな悪党めと拳をお見舞いしていたことだろう。だが店主は悪戯をした少年のようにくしゃりと笑っていた。

「ははは、冗談ですよ。うなぎの肉に毒なんてありません。ただ、やっぱり美味なもんですから、『病み付き』という名の病気にはなるかもしれませんね」

 な、なんだ冗談か。と全身から力が抜けるように再び椅子に腰を下ろした。口許からは安堵による笑いが漏れ出てくる。

「やめてくれよ旦那、そりゃ冗談にしちゃ意地が悪すぎるぞ。びっくりしすぎて酔いが醒めちまった。あー、酒も頼めるか? ビールとか」

 丁度刺身の用意もできたのだろう。次の瞬間には刺身の乗った皿とビールが同時に出てきた。今度はどこの肉かと覗き込めば、先ほどより少し赤みが強い。

「こちらは背中の肉になります。お腹より少し脂身が少なく、歯応えのある一品です」

 なるほど背中か。どれどれまずは一口、と頬張ってみれば、あっさりとした口当たり。先ほどより旨味は少ないがその分次へ次へと急ぐことなく、ビールを片手にのんびり楽しめる良い一皿だ。

 人は心から感動を覚えた時、意図せず口から感情が漏れ出るのだろう。半分ほど食べ進め一息ついた俺の口からは、「旨いなぁ」としみじみした声が滲むように零れていた。

「そう言っていただけて、料理人冥利に尽きるというものです」

「いやほんとに旨いよ。ありがとな旦那。こんな旨いもんを食わしてくれて。それもこんな格安でさ。かー、世の中の金持ちが羨ましいのなんの、こんなのを毎日毎日食ってんだもんなぁ」

「毎日は流石に無理でしょう。うなぎの数は年々減ってますからねぇ」

 そうなのか? と言葉を返す。言われてみればそんなニュースを聞いたことがあるような無いような。何せ俺の人生とは無縁の食材事情だったからなぁ。

「最近は技術力も上がってるだろう。養殖かなんかで増やせるんじゃねぇのか?」

「それが、これはうなぎの生態に関わるものなんですよ。実はうなぎ、一年にたった一回しか子供を産まないんです。しかも一匹だけ。それが育ち切るまで十四、五年はかかるものですから、数を殖やすのが難しいんですよ。沢山産ませられて、かつ成長を促す技術が開発されれば望みはあるんですけど」

 なるほどねぇ。そんな未来が羨ましいよ。だって、うなぎをサバやシャケと同じ感覚で買える時代だろうからさ。

 来るかも分からない将来に思いを馳せていると、いつしか空になった皿が下げられ、次の一品がやってくる。上腕の肉の刺身らしい。赤身に細かな白い筋が伸びている。口に入れてみれば、初めは大味かと思ったが噛めば噛むほど脂の甘味が広がり、ビールを片手に箸が進んだ。

 俺が刺身に舌鼓を打つ間、旦那は旦那で次の皿の準備に取り掛かっている。しかし客への気配りは忘れない。旨い皿のお供にうなぎ小話なんぞを聞かせてくれた。

「我々日本人は昔からうなぎを食してきましたが、実はですね、今と昔じゃうなぎの姿形が全然違うんですよ」

「? どういうことだい、そりゃ。途中で進化でもしたってか?」

「いえいえ、事の経緯は少し複雑でして。まず、昔のうなぎは黒く細長ーい姿をしていたんです。ヌメヌメしてて、胸鰭も小さかった。江戸時代くらいでしたかね、その頃まではそのうなぎを食べてたんです。昔のうなぎも今と同様美味だったそうですよ。でも長くは続かなかった。食用に人間が獲り過ぎて数が減っていったんです。当時は養殖技術が未熟でしたから、うなぎを殖やすことはできませんでした。そして遂には絶滅してしまったんです」

「まー、俺のことじゃねぇから勝手言うが、昔の人間が我慢すりゃ今の俺たちが割を食わずに済んだのにな。ってか、昔のうなぎの顛末は分かったが、今のうなぎが出てきてねぇじゃん」

「そう焦らずに。実は昔のうなぎ絶滅は人間が獲り過ぎが理由ではなかったんです。そもそも当時の人口は非常に少なかったので、うなぎの繁殖スピードの方が速く、数が減ることはないはずなのです。ではどうして昔のうなぎは数を減らしたのか。実は当時のうなぎには天敵がいました。それが、今召し上がっている現代のうなぎです。そのことに気付いたのはうなぎが絶滅するほんの少し前。当時の人々は驚いたことでしょう。何せ得体の知れぬ新種の魚が原因だったんですから。対策をしようにも相手は海の中、陸に住む人々にとっては手の出せぬ領域。努力も空しく、最終的にうなぎは絶滅してしまいました」

「ま、まじか……じゃあどうして今のうなぎが『うなぎ』になったんだ?」

「愛したうなぎを食い潰された恨みもありましょうが、未知の生物と遭遇すれば味見をしてみるのが人間という生物。当時はまだ名も無かったそれを一匹捕まえ、捌いて食べてみたのです。するとどうでしょう、これが中々美味しいではないですか。それに食感などもうなぎと近い気がする、と。そのことを知った当時の人々は、もう使われることのない名称をその新種に与え、新たな食文化を築いたのです」

「そうだったのか……なんか、めちゃめちゃ良い雑学じゃん。明日同僚に披露しよっと」

「まあ、当時は獲りきれないほどいたうなぎも、今ではこの有様ですけどね」

「人間の性ってのはしょうもねぇな。これだから環境破壊も止まらねぇんだ」

 意識の高い言葉で締めると、次の皿がやってきた。今度は結構脂身が目立つピンク色をしている。

「さて、そろそろ終盤に差し掛かって参りました。こちらは本日のメイン、胸肉の刺身です。メスのうなぎからしか取れない絶品ですよ。強い旨味が特徴でお酒にも抜群に合います。是非ご賞味あれ」

 随分と自分でハードル上げるじゃねぇか。後悔すんなよ、とニヤニヤしながら一口頬張る。するとどうだろう、固形物を口にしたはずなのに、舌の上で転がるのはまるで液体。少し咀嚼しただけで肉は溶けてなくなり、暴力的な旨味が舌を楽しませる。それはまさに目を瞑ってしまうほどの衝撃だった。口の中の物を飲み込み、そのままビールを喉を鳴らして飲み下せば、延々と止まらない食の永久機関が完成した。

 こんなにも美味いものは今まで食ったことがない。はっきりそう断言できるほどの体験だった。ならばもっと欲しくなるかと思いきや、濃い味のため量を食えばくどく感じてしまうだろう。それを配慮してのことか、皿の上には四切れだけ。俺にとってはベストな量だった。

「どうです? そろそろデザートなど」

 店主に言われて気付く。さほど量を食った感覚はないが、腹は満腹に近かった。居酒屋で一杯やった後だというのもあるが、もしかするとそこも考慮してのメニューだったのかもしれない。俺は嬉しくなって自然と笑顔になった。

「是非頼むよ。デザートってのもあれか? やっぱうなぎか?」

「えぇ勿論。ここではうなぎしか出しておりませんから。どうぞ、こちらが最後の料理になります」

 出された皿に盛られていたのは同じく肉の刺身。だがこれまでと異なる点は、薄く平たい肉ではなく、ぷっくりとした弾力を感じさせる造形をしていた。量も少なくたったの二切れ。これはどの部位かと問う前に店主が口を開いていた。

「唇の刺身です。一匹のうなぎから極々少量しかとれない大変希少な部位です。味は他より控えめですが、後味の良さが特徴でコースの締めには相応しい逸品です」

 言われれば確かに唇だ。しかも希少となれば期待値も上がる。早速箸を持ち直し、いざ実食。

 程よい弾力と、噛み締めたときに広がる仄かな肉の甘味。確かに胸肉などと比べると味は薄いが、逆に腹が膨れた今に食ってもなお苦にならない爽やかな味わいだ。なるほどこれが唇かと、全身にその味覚を染み渡らせるように噛み締める。旨い、脳内では味を表現する数多の言葉が浮かび上がったが、結局口から零れたのは至極シンプルな表現だった。

 デザートも終わり、うなぎのコースも終了。空いた皿の上で割り箸を揃え、残ったビールを飲み干した。

「旦那、めちゃくちゃ旨かったよ。こんなに満足のいく食事は初めてかもしれない」

「ありがとうございます。こちら、お会計になります」

 渡された伝票を見ればあらびっくり、あんなに旨いものを食ったのにたったの三千円。良心的て懐に優し過ぎる。金を払いながら俺はもう次のことを考えていた。

「この店超気に入ったよ。できればまた来たいんだが、ここらへんでこうして店出してんのか?」

 笑顔を全面に出して訊いてみる。しかし反応は芳しくなく、旦那は眉を寄せて申し訳なさそうに笑った。

「すみませんねぇ、私はこの味を多くの人に知ってもらいたくて、全国を渡り歩いているんです。なので次この街に来るのは大分先になりそうです」

「そっかぁ……いや、いいんだ。そうだよな。こんな旨いもんを俺が独り占めしちゃ良くないからな。本当に旨かった。この味を是非多くの人に教えてやってくれ!」

 ありがとうございます、と旦那は頭を下げる。俺は俺で帰宅の準備。すっかり長居してしまい、気付けば日を跨いでいた。

「それじゃぁご馳走さん、また見かけたら寄らせてもらうよ」

 その言葉を最後に俺は店を後にした。

 街灯のまばらな深夜の裏道。夏の夜の空気は湿気をはらみ、吹く風も温い。普段ならそれを疎みながら歩くものを、今の俺には全く気にならない。脳を支配するのは一つの感情。口許に人差し指を添えながら思う。

 また、うなぎが食いたい。


 ***


 翌日の夕暮れ、会社からの帰り道。そこには居ないと理解しつつもどこか淡い期待を抱き、昨日と同じ道を選ぶ。西日が建物に遮られ、次第に辺りは暗く沈んでいく。街灯に照らされた道を飛び石のように渡り、昨日うなぎを食った場所まで辿り着く。勿論そこに屋台など立っていない。

 全国を渡り歩いていると旦那自身が言っていた。同じ場所に留まるはずがない。今日は無駄足だったと諦めて大人しく帰宅した。

 翌日、その翌日も、俺は仕事帰りに例の屋台を探した歩いた。会社と家の間に存在するありとあらゆるルートをしらみつぶしに散策したが、やはり望むものは見つからない。既に街から出たことを考慮し二駅先の隣町まで足を伸ばしたこともあるが、収穫はなかった。

 見つからない探し物をする内に日は過ぎ、うなぎの旬は終わった。一時期は悔しさで気を病んだこともあったが、それでもまだチャンスはある。一年経てば再びうなぎの季節が巡るのだから。

 一年、二年、三年。待ち遠しい季節がやってくる度に俺は屋台を探した。最高に旨いうなぎを食わせてくれるあの屋台を。だが見つからない。見つけられない。あそこで体験した全てが夢だったかと疑うほど、一切の痕跡を目にすることができなかった。

 時が経つほど膨れ上がる感情がある。また食いたい、旨いうなぎを。脂の乗った艶やかな桜色、噛めば忽ちとろける柔らかさ、もはや背徳的なまでの食体験。もう一度だけでいい。あのうなぎが食いたい。

 既に五年の年月が経っていた。体もいささか老いを感じ、食の好みも若干変わった。だが、五年前から抱き続けるものは変わらない。うなぎが食いたい。あの肉が食いたい。それだけだった。

 腹、背、腕、胸、そして唇。どれも絶品だった。特に唇。最後に食っただけあって記憶も鮮明だ。食感、味、風味。誰かとすれ違う度に、人の顔を見る度にあの味を思い出し、無意識に唇を舐める。あぁ、旨そうな唇だと。

 もしかすると本当に旨いんじゃないだろうか。思えばうなぎの上半身と人間のそれはよく似ている。あるいは肉質や味も近いのかもしれない。

 人間の唇、本当は旨いのかなぁ。腹も、背も、腕も、胸も。

 確かめてみたい、食べてみたい。あれを再び体験できるのなら。

 肉を捌き、実際に口に入れる妄想をする。当時の味覚が蘇り、つばが止まらなかった。

 本当に旨かったらどうしよう。多分自分を抑えられなくなって、何度も何度も手を出しちまうだろうなぁ。

 こういうのをなんて言うんだっけ? 確か旦那が言ってた……あぁそうだ。『病み付き』だ。

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