「声が醜い」せいで破談されるダミ声令嬢は、今日も愛を囁く
「残念ですが、彼女との婚約は認められません」
相手方からの、破談の言葉。
何度目かも分からない言葉に、周りから溜息が聞こえる。
その息遣いも、シオンは何度も耳にしていた。
家族の期待を裏切った事への後ろめたさ、薄暗い感情。
原因はたった一つだ。
「やはりあの醜い声が、ねぇ?」
「悪魔の声か……」
「幾ら包帯で口を閉じていると言っても、あんなおぞましい声を持っているのだ。貰い手など誰もいないだろう」
シオン・リヴォニアスは、生まれつき老婆のような声を持った令嬢である。
赤子の頃の泣き声は、あらゆる人々を恐れさせ、悪魔の子とすら呼ばれた。
今も認識は変わっていない。
どれだけの教養と知識を身に着けても、そのしわがれた声で他者との一線を引く。
彼女に近づく者などいなかった。
婚約など夢のまた夢。
リヴォニアス家にとっても、シオンの存在は目の上の瘤だった。
「何故、シオンだけがこんな声を持って生まれてしまったの……? 全く、嘆かわしい……!」
「口を閉じるんだ、シオン! 絶対に、その声を聞かせるんじゃないぞ……!」
「私達まで悪魔なんて不名誉な言い方をされて、婚約に支障が出るのよ!? 皆に申し訳ないと思わないの!?」
今回も破談となり、屋敷に戻った瞬間にシオンは詰られる。
包帯で何重にも巻いたその口を、責めるように指差される。
声は出していない。
出していないのに、そこに在ること自体を責められる。
既にシオンの居場所は何処にもなかった。
自発的に声を出そうとも思わない。
それどころか、こうして自分が存在している事が間違っているのではないか。
実の家族からの責め苦に、シオンは自身の命すら諦めつつあった。
だが、そんな時だった。
「な!? 何だね、君は!?」
「その少女は、私が預かる」
突如、リヴォニアス家に見知らぬ青年が現れる。
青白い瞳と、ダークブルーの髪が合わさり、冷たい印象を放つ人物だ。
背丈は屋敷の誰よりも高く、巨大な白十字架を刻んだ黒装束を身に着けている。
一体、何者なのか。
シオンに心当たりはなかったが、両親も含め周囲は一瞬の内に総毛立った。
「まさか、貴方は……!?」
「レイシア辺境伯!?」
「何故、貴方が私達の領地に……!」
その狼狽えようは、シオンが声を出した時とまるで同じだった。
悪魔を見る目。
辺境伯と呼ばれた青年は、恐れる彼らに目もくれず、シオンに歩み寄った。
高い背丈から伸びる影が、彼女の全身に落ちる。
「私は、あらゆる領地に干渉する権利を得ている。悪いがこれ以上、口を挟まないで頂きたい」
「!?」
「言った筈だ。この少女は私が預かると」
そうして青年は手を差し伸べた。
温度が感じられない白く大きな掌は、まるで死神のようにも見える。
だが不思議とシオンに恐怖はなかった。
元より生きている事すら、罰であるかのように指差された日々だ。
何処にいても、何も変わりはしない。
彼女は何かを思うよりも先に手を取った。
するとそんな姿を見て、姉妹達が小声で囁き合う。
「死んだわね、あの子」
「いなくなってくれるなら、それで良いんだけど」
「い、一体、あの人は何者なのですか……?」
「彼は異界の住人……。この国に棲む、本物のバケモノよ……」
バケモノと呼ばれた彼は、悪魔の子と呼ばれるシオンを連れて、リヴォニアス家の屋敷を出る。
馬車はない。
従者の姿もいない。
まさか彼は一人、徒歩でこの場まで辿り着いたのか。
連れ出されたシオンが視線を動かしていると、彼はおもむろに彼女の顔、そこに巻かれた包帯を見た。
「小うるさい雑音は消えた」
「……?」
「それと、その包帯も邪魔だな」
そうして彼はクイッと指先を彼女の口元に向けた。
瞬間、包帯が消失する。
家族が頑なに外すことを拒んでいた、悪魔の枷。
縛り上げていたモノを解き放つように、シオンの素顔が外気に晒される。
突然の事に彼女は片手で口を覆い、息を呑んだ。
「!?」
「声は出せるのか?」
「……!」
「無理に出せとは言わない。だが、無理に口を閉じる必要もない。それだけだ」
「?」
「名乗っていなかったな。私はイヴ……イヴ・レイシアと言う。君の名は、シオン・リヴォニアスで間違いないか」
「!」
「君の事は調べさせてもらった。警戒する必要もない。私は……」
一呼吸置いて、イヴは行き場を失っていたもう片方の手を、自らの手に取った。
「君を婚約者にする」
直後、周囲に虹が吹き荒れた。
七色の光だ。
眩い色の数々が、二人を包み込んでいく。
これは絵本で読んだ、魔法か何かなのだろうか。
驚きの数々にシオンは声も上げられなかった。
「!!」
「七色の渦だ。今は、手を放さないでくれ」
光が全てを呑み込み、目を瞑る。
黄泉の世界にでも連れて行かれるのかと思ったが、それは杞憂だった。
シオンが次に瞼を開けた時、見えたのは夕暮れ時の洋館だった。
場所が変わったのだ。
先程までいたリヴォニアス家の屋敷から、転移でもしたのだろうか。
夕焼けに包まれた二階建ての館と、大きな湖畔が視界に映る。
「!?」
「ここは私の屋敷、逢色の館だ。今日から君は、この館に住んでもらう」
「……」
「安心してくれ。君に危害を加えるつもりは一切ない。この命に誓って、約束しよう」
辺境伯、イヴはあくまで紳士的だった。
今までシオンを見る人々は、皆一様に恐れと嫌悪感を見せていた。
だが、彼にはそれが見当たらない。
礼儀を尽くすべき相手として、当たり前のように接してくる。
だからこそ、彼女は少し信じてみることにした。
元より、居場所などないのだから。
イヴによって逢色の館へと案内される。
出迎える者はおらず、一人で住んでいるのかもしれない。
内部は整然とされており、普通の屋敷のように見えた。
ただ、至る所に絵が掲げられている。
彼が描いたものなのかは分からない。
絵具で塗りたくられた数々の絵に統一性はなく、何処かの町並みだったり、皿の上に乗った赤い林檎だったりと様々。
まるで美術館だ。
そして僅かにそれらが動いているように見えるのは、気のせいだろうか。
何度か目を擦るシオンだったが、事情が分かるよりも先にイヴが語り掛ける。
「先ずはこの屋敷について教えるべきなのだが……その前に、やっておかなければならない事がある」
「……?」
「君の色落ち具合を見る。私に付いてきなさい」
色落ち。
よく分からない単語を見ると言われ、シオンは頭に疑問を浮かべるだけだった。
未だに状況が分からない、不思議な館だ。
まるで別の世界にでもやって来た感覚のまま、彼女は一つの部屋に通される。
そこは更に異質な空間。
床、天井、壁が透明かつ万華鏡のように輝く一室だった。
「ここは見ての通り、万華鏡の部屋だ」
「??」
「取り敢えず中央に立っていてくれ。私も傍にいる」
安心させるようにイヴが言うと、次第に部屋の万華鏡が回り始める。
クルクルと、七色の光がシオンの身体を突き抜ける。
妙な気分だった。
かつて彼女は万華鏡の筒を、片目を通して見た事があったが、それと同じ気分だった。
何処か懐かしい、そんな感覚を思わせる。
そうして何分経っただろう。
沈黙に身体を預け、万華鏡の回転が止まった頃だった。
我に返ったシオンは気付く。
自身の身体が色を失い、透明になりかけていることを。
「!?」
「そこまで悪化していたのか……。手遅れになる前で良かった、というべきか……」
「っ……! ……!?」
「大丈夫。私の本業は医者なんだ。直ぐに元の姿に戻そう」
このまま消えてしまうのか。
いや、それも自分の運命なのだろうか。
そう思い後退するシオンの手を、イヴは掴む。
自らの命を手放そうとする彼女を引き止めるように。
そしてそれだけではない。
掴んでいたイヴの左腕の色が徐々に抜け落ち、透過しかけていたシオンの全身へと行き渡っていくのだ。
透けていた自身の色が取り戻される。
まるで色の移植だ。
彼女の姿はそれによって、元の色素に戻された。
視線が右往左往する中、イヴはその様子を見て安堵の息を吐く。
「!?」
「色移し。これで、君の身体は元に戻った。と言っても、まだ君の心には大きな穴が空いている。根本的な解決にはなっていないが……」
「……! ……!!」
「あぁ……私の左腕か。気にする必要はない。少し消えただけだ」
対して、イヴの左腕は完全に消え去った。
痛みはないのか。
彼は全く意に介さず、涼し気な表情を保ち続ける。
全く分からないが、取り敢えず自分が助けられたことだけは理解した。
それからシオンは万華鏡部屋から連れ出され、客室へ導かれる。
今度はごく普通の部屋だった。
火の灯っていない暖炉、互いに話すためのソファーが幾つか用意されている。
ようやく彼女はそこで息をつき、彼からの説明を受ける。
「もう気付いているだろうが、逢色の館は普通の館ではない。此処は全てを色で表し、その色が全てを形作る場所なんだ。君があの部屋で消えかけていたのは、君が今までに色を落とし過ぎたからだ。私はそれを『色落ち』と呼んでいる」
「……?」
「色落ちが進むと先程のように身体が透けて、直に消滅する。心がなくなるとも、言い換えられるか。君が住んでいた地にもあった筈だ。心を疲弊し、自らの命を投げ打ってしまうような、心の在り方が」
「……」
「この場所では、それを目視できる。だから私は、君の症状を食い止めるため、左腕による色移しを行った」
状況を整理する。
この館では、今までの常識が通用しないらしい。
人の身体は色、心の在り様によって左右される。
そしてシオンが消えかけていたのは、心を擦り減らしてきたため。
少しでも遅れていれば、手の施しようがなかったとイヴは言った。
そこで疑問だった。
何故、彼は自分を助けてくれたのか。
悪魔の子と呼ばれた自分を、救おうなどと考えたのかと。
「随分と不思議そうな顔をする。何故、私を選んだのか。そう言いたいのかい?」
「……!」
「君の噂は此処にも届いて来た。生まれた頃より悪魔の声と呼ばれ、口を閉ざすことを強要された少女」
「っ……」
「私も、同じだからだ」
「……?」
「私は数年前、この世界で一人生まれた。皆から恐れられ、バケモノとして畏怖されてきた。時折だが皆の元に下り、心を失いつつある人々を救ってはいるが、認識が簡単に変わるものでもない。そして知ったんだ。人の心を解きほぐすには、愛を知らなくてはならないと」
「……」
「私が、恐ろしいかい?」
イヴは青白い瞳で、シオンを真っすぐに見た。
彼は恐らく普通の人間ではないのだろう。
この奇妙な世界に棲んでいる事からも、それは分かる。
だが、シオンに恐れはなかった。
他の貴族達や家族に抱いた薄暗い思いもない。
その理由は、自分を婚約者だと断言したからだ。
誰も受け入れなかった自分を、彼は迷うことなく手を引いた。
それだけでシオンに否定する理由はなかった。
「婚約の件は後から考えても良い。アレは言わば、私の独り善がり。兎に角、今は症状が完治するまで、安静に暮らしてくれ。もう、君の口を塞ぐ者はいない」
どう返答すればいいか迷っていると、そんな言葉がやって来る。
当初は冷たい印象に見えたが、それは間違いだった。
彼からは他者を思いやる、確かな人の心がある。
決して、恐れられる存在などではない。
だからこそ、シオンは口を開いた。
「あ……。あり……がとう……」
しわがれた、そして掠れた老婆のような声。
少女が出すにはあまりに不釣り合いな、歪な音だった。
彼女の言葉に、イヴは少しだけ驚いたような表情を見せる。
「君の声は、確かに他とは違う音色を持っているみたいだ。だが……」
彼は残された隻腕を伸ばしてシオンの頬に触れる。
愛を学ぶように、与えるように、微かに笑う。
「優しい音だ。とても」
「!」
「それは君の色だ。その色を誇れるようになるまで、私も力を貸そう」
悪魔の声を前に、イヴは拒絶しなかった。
そのせいか、何処か満ち足りた思いが沸き上がる。
シオンにとって、今まで誰かに笑顔を向けられた覚えはなかった。
邪険にされ、忌み子とすら呼ばれたこともあった。
だが彼は違う。
別に此処が異世界であろうと、何であろうと構わない。
今だけは、自分を押し殺す必要はないのだ。
気付いた彼女はぎこちない笑みで、ゆっくりとイヴに頷いた。
●
逢色の館は、奇妙な場所だった。
絶えず何処かしらで変化が起きる。
シオンに用意された部屋も翌日起きてみると、隣接する形で新たな扉、部屋が生まれていた。
気になって開けてみると、そこは幾つもの噴水が等間隔で並ぶ水場になっていた。
イヴ曰く、それは色が固まり切っていないからこそ起きる、色洩れだという。
今ある場所は色を固めているために変化はないが、こうして新しい色が注がれることで、新たな建造物や植物、食べ物までも生えるらしい。
彼女の隣部屋も、そうして出来たものだとか。
本当に妙な世界である。
だが、そのどれもがシオンには新鮮に見えた。
今までとは違う場所、世界の知識をイヴと一緒に学ぶことが無性に楽しい。
その日は治療も兼ねて、彼と噴水部屋の色整理を行った。
身の丈ある特製パレットナイフで色を取り、水を撒く噴水を一つ一つ取り除いていく。
勿論、シオンも自発的に手伝った。
気になって仕方なかったのだ。
気を付けるようにとイヴからナイフを受け取り、両手を振るって撫で付けると、噴水は柔らかい粘土のように取り切れていく。
色が固まっていないのだろう。
直ぐにそれはナイフの上で、色の塊に変わった。
まるで大きな絵具の塊を手に取るような感覚。
しかし吹き出す水の冷たさは、確かに本物だった。
その過程で、身体は水浸しになったが不快感はない。
イヴも張り切り過ぎて頭から水を被ったので、お互い様である。
寧ろ童心をくすぐられ、二人は無性におかしくなって笑い合うだけだった。
「この屋敷は全て、色で成り立っている。だから私は時折、こうやって色を馴染ませているんだ」
彼の日課は、屋敷の色チェックらしい。
新しく生まれた色の様子を見つつ、上手い具合に整えていく。
昨日の噴水部屋も結局は外庭に解放し、休息場のような水場に変えた。
恐らくこの世界では美的センスが問われる。
シオンは一日でそれを理解する。
そして彼女の色落ちを治療したためか、今のイヴは片手でやり辛そうだった。
リビングの天井に生えている、渦巻き型の大きな植物を見て、思わずシオンは手を上げる。
「……!」
「もしかして、今日も手伝いたいのかい?」
「……!!」
「興味津々だな。構わないが重いぞ。昨日みたいに、倒れないようにな」
昨日は噴水部屋でパレットナイフを受け取った瞬間に転倒。
巻かれていた水に突っ込んだが、もう失敗はしない。
彼女はナイフを受け取り、渦を巻く植物へ手を伸ばした。
この植物は、一体何処から来たのだろう。
自分が色を落としていたように、これも誰かの心だったのだろうか。
そう思っていると取り切った植物から一滴、色が落ちる。
その緑の色は床の絨毯に落ち、丸い形状へと変わった。
「!」
「色が溢れたな。シオン、見てみなさい。すぐに動き出す」
何かを感じ取ったのか。
イヴは渦巻き植物を取り終えたシオンに促す。
言われるままに視線を向けると、球体になっていた緑色の粒は次第に疼き始める。
すると途端、糸のように小さい手足が生え、自力で立ち上がった。
「!?」
「溢れた色は時折、勝手に動き回る。さぁ、捕まえてごらん」
イヴが言い終えると同時に、緑の粒が駆け出した。
特に意味があって走っている訳ではないようだ。
ただひたすらにリビングの床を走り回る。
これも仕事の一つなのだろう。
シオンは元に戻した絵具をこれまた大きな絵具チューブに吸い込ませ、パレットナイフを鞘に納めつつ、ソレを捕まえることにした。
「っ……! ……!?」
しかし、中々捕まらない。
緑粒は妙に素早かった。
加えて小さいために周囲の家具を潜って、逃げ回る。
まるで追いかけっこだ。
令嬢としては、はしたない姿だったがシオンは気にしなかった。
最早、自分はあの家に縛られていないのだから。
すると緑粒は、良い場所を見つけたのか。
傍にいたイヴの身体を駆け上がり、そのままグルグルと走り続ける。
「まるで野ネズミだな……。流石に素手では捕まえ辛いか……?」
流石のイヴも困った様子で、視線を自分の身体に向ける。
すると不意に、緑粒は彼の手の上で止まった。
疲れたのだろうか。
今がチャンスかもしれない。
粒が疲れたように中腰になった所を、シオンはゆっくりと近づき、両手で覆い隠した。
するとお互いの手の間から、僅かな光が零れる。
「!」
「零れた色の形は、手にした人の心に依存する。これは……花だな」
手を広げると、緑粒は一輪の花に変わっていた。
蒼と紫のハス。
自然界では有り得ない色、そして美しい植物がそこにはあった。
「二つの色を持つロータス……二つの心があると、こういった姿になるのか」
「……?」
「良ければ、この花は君にあげよう」
「!」
「ここで造られた花は、普通とは違う。重要なのは色を失わせない事だ。時折この筆で色を整えてあげれば、美しさを保ち続ける筈だ」
彼はシオンに、生まれたばかりのロータスを手渡す。
続いて胸ポケットから小さな筆を取り出し、彼女に持たせた。
二つの心が合わさった形だと彼は言った。
それはつまり、シオンとイヴの心。
二つの色が一つになったことを意味する。
自惚れだと、シオンは思う。
きっと今までマトモな優しさに触れてこなかったせいだ。
絆されているのだと、心の何処かでは感じていた。
しかし、それを受け入れてしまう。
そして今も失われたままの、イヴの片腕を見つめた。
「て……」
「ん? あぁ、私の手も同じように修復するつもりだよ。多少は手間だが、数日あれば元に戻る」
彼は問題ないように振る舞う。
だが治ると言っても、片腕を失くして問題がない訳もない。
元はといえば、自分が色を落とし過ぎた事が原因なのだ。
ならば今の自分には何が出来るのか。
そう思ったシオンは、衰えた声を振り絞る。
受け取ったロータスと小さな筆を、彼の前に掲げる。
「わた、し……て、に……なる……」
「……ありがとう。君は、優しい子だな」
差し出がましいかと危惧した彼女の思いは、イヴの微笑みで氷解する。
彼は愛を知りたいと言った。
それを教えられる自信は、シオンにはない。
彼女自身、破談に破談を重ねた側の人間だ。
ただ彼が元に戻るまでは、失わせてしまった腕を取り戻すまでは、傍にいてみよう。
そうすれば、何かが分かるかもしれない。
シオンは口元を緩ませながら、そう思った。
それからはやはり、イヴと共に暮らしていく。
色の扱いを学び、時折増えている部屋の整理を行う。
そして彼から貰ったロータスも自室に飾り、筆で形を整えつつ楽しむ。
本当に時間が経つのが早い。
今までそんな実感は、シオンにはなかった。
部屋に押し込まれ、夜には包帯を取り換える、それだけの日々。
色を楽しむ暇も心の余裕もなかったのだ。
しかし、今の彼女には色がある。
涼し気な風貌と、その中で真摯な態度で接するイヴが、輝いて見える。
それだけで、シオンに日常は無意味で無味乾燥なものではなくなっていた。
そうして日を重ねたある日。
シオンもようやく、摩訶不思議な館の状況が呑み込めてきた頃。
「……因果応報という訳か」
執務室に置かれていたタイプライターが独りでに動き出し、紙に文字を刻んでいく。
そうして作られた文章を見て、イヴは難しそうな顔をした。
外部との連絡を取っているのだろう。
シオンが近づくと、彼は直ぐに視線を合わせた。
「シオン、少し良いかな」
「?」
「大切な話がある」
改まってそう言われ、少しだけ緊張する。
意味もなく罪悪感が押し寄せるが、それは半分当たっていて、半分外れていた。
「どうやら君の故郷……リヴォニアス家で異変が起きているようだ」
「!」
「当主を含め、殆どの者が目を覚まさないまま、悪夢に魘されているらしい」
シオンは驚く。
話を聞くと、数日前からリヴォニアス家の当主たちが次々と意識を失ったらしい。
目を覚ますことなく、常に魘されたまま起きる様子もない。
治療法も見つからず、得体の知れない力が彼らを呪っている、そんな噂すら立つほどだった。
勿論、シオンに心当たりなどない。
リヴォニアス家の者達とは、殆ど決別のような別れ方をした。
あれから彼らが何をしていたのか、知る由もない。
しかし彼女には、呪いの原因が分かるような気がした。
「心当たりが、あるようだね」
「!」
「そう。原因は君が落とした色だ」
彼は手にしていた紙を机の上に置き、経緯を説明する。
「この屋敷に来た時、君は消滅寸前まで色を落としていた。そしてそれまで落ちた色は一つの意志を持ち、あの屋敷で悪意を振りまいている。私はこれを、トルソー病と呼んでいる」
「……!?」
「シオンのせいではない。言ってしまえば、これは自業自得。色が落ちた原因は、彼らが理不尽なまでに君を追い詰めたからだ」
彼女が落とした色が、かつてのリヴォニアス家で悪事を働いている。
確かに自業自得だった。
彼らは一人の少女の尊厳を奪い、悪魔の声というだけで遠ざけた。
色は落ちて当然、暴走して当然の末路だ。
しかし、それを見過ごして良いのか。
本当にそれで良いのか。
シオンはかつての彼らの姿を思い浮かべる。
そして意を決し、イヴを見上げた。
「助けに行きたいのかい?」
「……」
「君は憎んでも良いんだ。それだけの事を、彼らはしてきた。それでも……?」
「っ……! ……!!」
「……分かった。君が望むなら、私も協力しよう。それにこれは、君の過去との決別にも繋がる筈だ。その目で見届けてほしい」
その思いに、イヴは応える。
巨大なパレットナイフを背負い、トルソー病を治すためにリヴォニアス家を目指す。
当然、シオンもそれに続いた。
今も思い出す、かつての光景に別れを告げるために。
すると逢色の館を出る直前、彼は忠告する。
「ただ、注意してくれ。君から落ちた色は、君の悪意そのものだ。決して、耳を貸してはいけない」
そうして七色の光、彼女を異世界へ連れ込んだ力が包み込む。
恐れはない。
今回は元いた場所に戻るために、その力に身を委ねる。
リヴォニアス家までの道は、あっという間だった。
気付けばシオンはイヴと共に、夕暮れに染まる見慣れた屋敷の前に立っていた。
突如現れた二人に、残された屋敷の者達は驚くばかりだったが、それを咎める者はいない。
本来それを咎める者が、全員悪夢に魘されていたからだ。
「うぅ……! 止めてくれっ!」
「く、苦しい……! 誰か……!」
「いや……! 来ないでっ! 近づかないでっ!」
父も母も、姉や妹も、何者かに夢の中で襲われている。
このままでは彼らも色を落とし続け、命にも関わるかもしれない。
一体、トルソー病は何処にいるのだろうか。
シオンは統制を失った屋敷の中を探し回る。
するとイヴは気配を感じ取ったのか。
屋敷の外、庭園へ向かうように彼女を誘導した。
「シオン、あれを。今の君なら、それが見える筈だ」
「!?」
夕焼けに色が落ちる庭園の中。
そこに辿り着くと、花畑の中央に3mはあるだろう黒い塊が蠢いていた。
他の者には見えていないのだろう。
ソレはトルソーのような形状から二本の腕を伸ばし、掠れた声を発する。
『ウルサイ、ウルサイ、ウルサイ……喋ルナ……黙レ……』
トルソーはしきりに口を閉じるように譫言を続けていた。
自身を見つけた二人に対してではない。
悪夢に魘されているリヴォニアス家の者達に向けて、ひたすら警告している。
異様な光景だったが、シオンに恐怖はなかった。
まるで過去の自分を見ているようで、それが別のモノには思えなかったのだ。
「相当な質量だ。シオン、離れていてくれ。直ぐに片付ける」
夕暮れを遮る黒い影を前に、イヴはシオンを庇いながらパレットナイフを抜いた。
その動きに淀みはない。
今までも、同じような状況を経験しているのかもしれない。
ようやく脅威を知ったトルソーがこちらに向くと同時に、彼は花畑の中へと進む。
今のシオンに出来ることはない。
彼も言った通り、これはかつての自分との決別だ。
自分の抱えていた心の闇が、醜さが、あそこにいる。
見届けるのが最後の役目だろう。
そう思った時だった。
「シオン! 助けて! お願い! 私を助けて!」
「!!」
母の声だ。
今まで聞いたこともない悲鳴が、シオンを振り返らせた。
目を覚ましたのだろうか。
それともトルソーの動きに呼応して、更に悪夢を見させられているのか。
嫌な予感がシオンの胸中を駆け抜けた。
しかし、イヴは既にトルソーと相対している。
掠れた彼女の声では、ナイフを振るう彼には届かない。
切迫する状況に、シオンは居ても立ってもいられなかった。
全ては自分が色を落としたせいだ。
見ているだけでは、何も解決しない。
心の穴は埋まらない。
そう気付いた彼女は、イヴがトルソーを相手にしている間に、屋敷の中へと戻っていった。
「ここよ、ここ! お母さんはここよ!」
「……! ……?」
「さぁ、こっちに来なさい! 助けて、助けて!」
母の声が徐々に近くなっていく。
そうして辿り着いたのは、かつての自室。
包帯を取り換えるだけの日々を送っていた、シオンの部屋だった。
何故こんな場所にと思いつつも、彼女は部屋の扉を開ける。
既に中は閑散としていた。
リヴォニアス家にとって、本当にシオンという少女は邪魔だったのだろう。
彼女が残していた僅かな私物も、全て無くなっている。
そんな部屋の中心で、母がすすり泣いていた。
一体、誰のために泣いているのか。
僅かな罪悪感を抱えながらも、シオンはゆっくりと歩み寄る。
そして閉じていた口を開いた瞬間だった。
母の姿が、色を失くしていく。
まさか、と思ったが遅かった。
母の姿をしていたソレは、黒い塊に形を変えたのだ。
「助け……ケケケケケッ……!」
「!?」
『ケケック! クク、口ヲ! 閉ジナサイ……!』
トルソーだ。
もう一体存在していたのか。
黒い胴体から生えた数十本の手が伸び、彼女を捕まえる。
華奢なシオンの身体は一瞬にして、身動きが出来なくなった。
「!!」
『静カニ……静カニ、ナリマショウ……? 一緒ニ、眠ルノヨ?』
「……! っ……!」
『貴方ハ、私。私ハ、貴方。ダカラ、一緒ニ眠ル……ズット、ズット一緒……』
宙に掲げられ、漆黒の色に呑まれていく。
それなのに何故か、不快感はなかった。
それもそうだろう。
このトルソーは自分自身。
元が同じなのだから、受け入れることも容易い。
受け入れてしまえば、眠ってしまえば、もう二度と辛い事などない。
苦しみはない。
ソレは着実に、闇の中へ誘おうとした。
だがシオンは、それを振り払った。
「い」
『?』
「い、や……だ……!」
『!?』
トルソーが動揺する。
お前とは違うと告げられ、黒の手から力が抜けていく。
既にシオンは、声を押し殺すことはなかった。
『何故……!? 貴方、ハ、必要ナイ! イラナイ! 愛サレナイ!』
「それ、でも……!」
トルソーを真っすぐに見つめる。
今までは誰からも愛されなかった。
邪魔者として常に虐げられるだけだった。
それでも、今は手を伸ばしてくれる人がいる。
シオンはイヴの姿を思い出す。
彼が本当の愛を以て、自分を愛しているのかは知らない。
愛するための道具なのかもしれない。
それでも確かな居場所があった。
真実の愛でなくても、偽りの愛であっても構いはしない。
悪魔と呼ばれた自分を迎えてくれたのは、彼一人だけだったのだから。
「わ、たしは……声をっ……!」
瞬間、白い光が差し込む。
刃の一閃だった。
既に片付いた後だったのだろう。
黒い手を薙ぎ払ったイヴが、放り出されたシオンを抱き止める。
「そうだ。もう、口を閉じる必要はない」
『!!』
「その音色で、君自身を作り出すんだ」
イヴは彼女の意志を尊重した。
切り返す形でパレットナイフを振るい、もう一撃を与える。
巨大なトルソーは、それによって呆気なく寸断された。
心が氷解するように、その姿は霧のように消滅していく。
『ア、アアアァァァ……』
残響だけを残して、トルソーは消失した。
今の叫びは自分自身に対する悔恨か。
それとも消してくれた事への喜びか。
殺風景な部屋だけが残り、ナイフを収めた彼はシオンの無事を確かめる。
「すまない。遅くなった」
「イ……ヴ……」
「君は自分の力で過去を乗り越えたんだ。それが、君の色だ」
「!」
「よく、頑張ったな」
優しい声が彼女を包み込み、視界が滲む。
自分を気遣う言葉とは、ここまで心に響くものなのか。
掬えない程に大きい。
大きいからこそ、ポッカリと空いていた心の穴を塞ぐ。
感情という名の色が満ちていく。
シオンは勝手な事をしてごめんなさいと、彼に謝罪する。
そして今までの分を吐き出すように、子供のように泣きじゃくった。
●
「ご両親に、何も言わなくて良かったのか?」
「手紙……おいたので……。だから、大丈夫……」
「そうか……。あれからリヴォニアス家の者は、順調に回復しているようだ。直に目も覚ますだろう」
それから数日後。
トルソー病を解決した二人は、逢色の館へと戻っていた。
魘されていた家族と、面と向かって会話をする必要はない。
何もないかつてのシオンの部屋。
あれが答えだ。
改めてお世話になった事への感謝の手紙を置き、シオンはそれを今生の別れとした。
既に自分はリヴォニアス家の人間ではない。
令嬢でもない。
そうした方が、お互いのためだろう。
するとイヴは執務室のタイプライターから飛び出した文面を読み、一回だけ頷く。
「今更だが、これでシオンの心も埋まった」
「!」
「治療は完了だ。ついでに私の腕も完治した」
そう言いつつ、彼はもう片方の腕の感触を確かめる。
色移しによって消失していた腕は、始めからそこにあったように元に戻っていた。
それは即ち、手を貸す理由が無くなったという事だ。
落ちた色も回復し、トルソー病も解決した。
シオンにとって、逢色の館に残らなければならないという強制力は既に失われている。
「これで晴れて、君は自由になった訳だが……」
「……」
「シオンはどうしたい? こんな場所にいられるか、と思うなら……他の貴族達に掛け合ってみるが……」
イヴ自身もどうしたものか、考えあぐねている。
医師と患者という立場は終わった。
引き止めはしない。
あくまでシオンの意志を尊重したいようだった。
しかし忘れている。
何のために、どんな誘い文句で、彼がシオンを引き寄せたのかを。
彼女は思い出させるように、声を上げた。
「……婚約者」
「!」
イヴが目を丸くする。
まさか彼女から申し出があるとは思わなかったようだ。
かつての言葉を思い出し、彼は改めて問う。
「良いのか? 確かに私は、君を婚約者にすると言った。だが、それに適うだけの愛を教えられたとは言えない。それでも……?」
「私も、貴方と同じ……愛を知りたい……」
「……」
「だから、婚約者……が、良い……」
シオンはたどたどしく答える。
お互い、愛情を知らない。
教えてくれる家族もいなかった。
だからこそ、二人で理解し合おうと。
傍に居続ければ、必ず分かる時が来ると、そう言った。
それに彼女の居場所は、この逢色の館以外にはない。
寧ろ、それ以外の場所など望んでいなかった。
シオンは今、自分がどんな表情をしているのか分からなかった。
自分の顔は鏡でなければ見えない。
ただ顔が熱い。
それだけは分かった。
するとイヴは視線を外し、懐から小瓶を取り出した。
瓶の中にあったのは、虹色の大粒。
七色に光り輝く色の結晶だった。
「これは、万華鏡から稀に零れ落ちる虹のカケラ……」
「!」
「この結晶で、君に指輪を送ろう」
慈しむような表情で、イヴは結晶を手に取り念を送る。
彼が知る限りの、愛情に近い感情を注ぎ込んだのかもしれない。
虹の結晶は思いに呼応して、彼女の指に収まる指輪へと形を変えていく。
婚約指輪だ。
彼はシオンに向かって片膝を立て、彼女の手を取る。
そしてその指先に、光り輝く指輪を差し入れた。
愛を示す証、二人の繋がりを実感して、シオンは手を翳す。
それは今までに見た何物よりも、美しく見えた。
「これで晴れて、君は私の婚約者だ」
彼が見せた精一杯の愛情に、シオンは心の底から微笑む。
その笑顔は今尚光る婚約指輪と、同じ位に輝いて見えた。
●
「イヴ……! タイプライター……!」
「なになに……? 今度は王都の方で異変、か。全く、あそこは色落ちの宝庫だな」
「どうする、の?」
「勿論、治療の時間だ」
「わ……わたし、も……」
「いいとも。教えた施術も、そろそろ実践の時だ。シオンの、私の婚約者としての腕前を見せてくれ」
「うん……!」
今日もイヴの元に手紙が届く。
誰かが心の色を落とした知らせだ。
治療をしなければ、トルソー病が暴走を始めるだろう。
婚約者として、助手として、シオンも強く頷く。
そこに自らを抑え込んでいた、昔の姿はない。
その声は、愛を分かち合うために。
愛を伝えるために。
何よりそれを受け入れてくれる人のために、顔を赤らめながら、たどたどしくも色を放つ。
「あい、してる」
「ありがとう。私も愛しているよ、シオン」
少し恥ずかしそうに、彼もはにかむ。
だから彼女は――。
――今日も愛を囁く。