「辺境の狒々爺」と呼ばれる前に
随分と長く時間がかかってしまいました。申し訳ありません。四月になってから若干忙しく……時間を見つけて何度書いても満足のいくものがずっと出来ませんでした……
今回は、おじいちゃんが「辺境の狒々爺」と呼ばれるようになった、その始まりの物語です。
楽しんで頂けたら、幸いです。
「―――本当に、行ってしまうのですか?師匠……?」
問いかけてくるのは、まだ少し幼い容姿ながらも、人の上に立つ覚悟を決めた金髪の少年。
「ええ。……先王様が亡くなった今、私の剣を捧げる者はありません。妻の菩提でも弔いながら、辺境にて隠遁したいと考えております」
「ですが……。この国も、我々も、まだ師匠を必要としているのです!!―――これから先……我々も、民も、戦後復興の為に苦しい時代を過ごさなくてはならないのですから」
そうですね。長年にわたる戦争が終わったとは言え、この国はまだまだ苦境にある。やっと訪れた平穏を守り、苦しみから悪に走る者の無いように、民を導く者が必要なる事でしょう。
戦争を駆け抜けた騎士団長として、私もその導き手の一人になるべきなのかもしれません。
ですが………それではいけないのです。
「坊っちゃん。この国は、未だ苦境にある。これから先、厳しい冬の歴史をこの国は歩む事になるでしょう。………だからこそ、私がいてはいけないのです。民を守る為と戦争の最前線で戦い続け、愛する妻を看取ることすらなかった非情な男が、これ以上ここにいるべきではないのです。―――愛する者一人すら守れなかった男が、どうして幾万の民を導く事ができるでしょうか?」
「あの方は、最後まで貴方を思ってらっしゃいました!貴方を恨んでなどいないと、貴方が民のために戦い続ける事を誇りに思うと、何度もおっしゃっていました!!貴方もご存知の筈でしょう!?」
そうですね、そう聞いています。―――全く、私には勿体ない程に素晴らしい方でしたね……貴女は。
「坊っちゃん。………それでも私は、ここに残る気はありません。―――妻が生きていれば怒るでしょうね、貴方がやらないでどうするのだと」
「ならば!何故!!」
「―――もう、愛せないのですよ。愛すべきものを、私は失ってしまったのですから。恨んでいる訳では有りません。しかし、『高潔の騎士』などと呼ばれておきながら……このまま虚な忠義に生きるのであれば、私はいつの日か外道に落ちる事でしょう。そうなる前に、私はこの場を離れたい。―――例え騎士でなくなろうとも……せめて妻を思う、一人の男でありたいのです。彼女を愛した一人の男として、この国の片隅で朽ちていきたいのです。―――だからこそ、私は王宮に、残る気はありません。………申し訳ありません、坊っちゃん」
「―――分かり、ました………。―――どうか、お元気で……師匠」
「光になりなさい。この国を照らす光に。私がいなくとも、アイゼン卿やラモラック公が、必ず御身をお守りします。……どうかお元気で。坊っちゃん。―――いえ、国王陛下」
妻はこんな事を許さないだろう。死後に出逢えたら、殴られるくらいは覚悟している。―――それでも、今の私にとって、騎士団長として王国に仕える事は不可能だった。
城門を出て、愛馬と共に城下街を歩く。幸い今の私は甲冑を着けていないので、誰も私の事には気づかない。
新王が立つと同時に騎士団長が位を捨てるなど醜聞でしかないので、私としても目立つつもりはない。
見咎められる事はないよう城下街を抜け、王都を囲む城壁を抜け、王都の外に広がる下町に出た時でした。
―――彼女と、出会ったのは。
最初に写ったのは、全てに絶望した目。異人らしき褐色の肌に、ぽつりと浮かぶ藍色の目。
―――奴隷、そう呼ばれる身分の子供でした。
個人的にはあまり好かないのですが、国としては長きにわたって存在してきたこの商売を禁止する実力もメリットもなく、存在を認めています。
まぁ世間一般の暗黙の了解として街の表では営業しないという不文律が有りますし、奴隷を守るための民法・刑法も存在しています。基本的に、奴隷に害を及ぼす事は重罰ですし、奴隷本人、若しくは第三者による通報があれば裁判を起こす事も可能です。
恵まれているとは決して言えませんが、かつてよりは大分マシと言えるでしょう。
ただ、その子は違っていました。
奴隷商の店舗の軒先に転がされた、痩せこけた子供。……服もボロボロで、生気というものを感じさせません。
異人、それもつい最近まで戦争していた相手の国と同じ民族だからでしょうか。街を行く人々も、目を背ける事はあれ手を出そうとする者はありません。
本来は責めるべきなのでしょう。理不尽に、少女を傷つけているというのだから。………しかしこの王都にも、愛する者を亡くした方は沢山います。例え悪であろうとも……彼女を放置する者が多くいる事に、私は責める言葉を持ちません。
彼女に罪はなく、責もない。そんな事は分かっていますが―――そんな正論で救われるほど、人間とは出来た生き物ではありませんから……。
―――彼女が戦争によってあの悲惨な状況に追い込まれているというのなら、その責任の一端は私にもあるのでしょう。……これも、私の成すべき事なのかもしれませんね。
「すみません、店主殿。……表の奴隷は、幾らで販売されておりますか?」
◇
―――後、何日で私は死ねるだろうか。
最近はそんなことばかり考えている。
盗賊に捕まって、奴隷商人に売られて、売り物にもならないと店先に転がされて………もう何日経ったのだろうか?
体の痛みにはもう慣れた。空腹も、もう感じなくなってしまった。寒さは……まだ慣れることが出来そうにない。
寒さを感じてしまうことが、まるでまだ生きている証拠のようで、早く何も感じなくなってしまいたいと切に願う。
労働力にも欲の掃き溜めにもならない奴隷なぞ、買いたいと願う者もいないだろう。それが、つい最近まで戦争をしていた国の人間であれば尚更だ。
何日も食べていない虚ろな頭でぼんやりと青空を眺めていたら、ふと映り込むものがあった。
「来い、お前を買ってくれる物好きがご来店だ」
店主に引き摺られていった先には、一人の男が立っていた。年は四十くらいだろうか?殺された私の父より年上だ。
何で私を買い取るのだろう?なんて現実逃避をしてみたけれど、答えは最初から分かっていた。
私を買い取るのなんて、少女趣味の変態か、異国人をいたぶりたいだけの外道くらいしかいないのだから。
これから自分が辿るであろう人生に思わず体が震える。
あぁ神様―――何故、私を死なせてくれなかったのですか………?
◇
道端で転がされていた異人の少女を買い取ってから、ひと月程経ちました。引っ越しに伴う雑事も落ち着き、どうにか平穏な毎日になってきたと思います。いや、昔の仲間たちが『早く招待しろ』と煩くて大変でした。まぁ彼らは酒が飲みたいだけだったようで、各人に二ダースほど安酒を送り付けたら静かになりましたが。
流石に今の住居に彼らを招く気にはなりません。彼女を見て騒ぎ出すのは間違いありませんからね。
住居は褒賞として頂いていた土地を売り払った資金で辺境の古びた屋敷を買い、修繕して頂きました。辺境故に、まだ住みよい、とは言えませんが……これから少しずつ改善していけば良いでしょう。家具も少しずつ増やしていくつもりです。
因みに異人の少女の方は、この一ヶ月私が忙しかったのもあり殆ど話す事も出来ていません。やはり警戒されてもいるのでしょう。
あの子が置かれていた境遇を鑑みると妥当としか言いようがないので、これは仕方ありません。
「ビアンカさん、お茶にしませんか」
「………結構です」
「そうですか……」
試しにお茶に誘ってみましたが、やはり断られてしまいました。もちろん無理強いは致しません。
とは言え、このまま彼女を放置するのも問題があるように思えます。……どうしたものでしょうか。
そんなこんなで悩んで数日経った頃、朝起きて台所に降りてみますと、ビアンカさんが真っ青なお顔で踞っていました。
慌てて駆け寄ると、腕に血が滲んでおります。どうやらナイフで腕を切ったようです。……幸い、ためらい傷がいくつかあるだけなのであまり血は出ていません。これならば適切に対処すれば傷跡も残りませんし、命に関わる事もありません。
「殺して……下さい」
「!?」
「もう嫌なんです。殺して……もう、死なせて………」
酷く青ざめた彼女の顔は、酷く悲しげにそう言いながら……彼女は眠るように気を失いました。
失血はそれ程酷くありません。気を失う理由があるとすれば……ストレスでしょうか?
―――気付くのが遅すぎたとは言え、まだ出来ることはあるはずです。少しでも、彼女が抱えているものが軽くなると良いのですが…………。
随分と軽い少女の体をベッドへと運び込みながら、私はただ、己の不甲斐なさに唇を噛み締めるのでした。
◇
―――怖かった。
―――ただひたすらに、怖かった。
毎日に不安があるわけじゃ無い。あの人が、恐ろしいという事もない。寧ろ良い人だろう。
凄惨な未来なんて来ないと分かって、誰も私を傷つけたりなんかしないと分かって、それでも……ただ、怖かった。
ふと、明日を思う時。
ふと、心が緩む時。
聞こえてしまうのだ。
あの時の声が。
幼い弟が最後に遺した、末期の声が。
「―――お姉ちゃん、助けて」って。
どんなに明日を思っても。どんなに今日に縋っても。あの日の記憶は、決して私を逃がさない。決して私を……許さない。
奴隷狩りに襲われたあの日。
私が全てを失った……あの日。
私は逃げ出したのだ。死んだ父親の上を踏み越えて。「逃げなさい」と叫ぶ母親を振り返りもせずに。私に助けてと叫ぶ弟すら……見放したまま。
生き残ってしまった。
たった一人で。
大切な家族を、踏み台にして。
そして結局、捕まった。
許してくれなんて言わない。仕方ないなんて、言える訳もない。私はただ、逃げ出しただけの……罪人だ。
―――だからいつか、罰を受ける。
ふと心が緩む時……暖かさに、心が滲んでしまう時……聞こえてくるのだ、「どうせすぐに全部失う」って……。
神父様が言っていた。
罪人は、罰を受けなければならない、と。
罪は、裁かれなくてはならない、と。
逃げられないのだ。私は罪人なのだから。
逃げ出してはいけないのだ。私は、罪を犯したのだから。
奴隷として売られている時は良かった。罰を受けているのだと実感できた。私は許されないのだと、このまま消えて無くなるのだと、そんな当たり前を受け入れられた。
けれど、今はダメだ。
幸せなのだ。
泣きたくなるほどに、幸福なのだ。
最初は絶望した。このまま人目につかないこの場所で消えていくんだと思った。
けれど、彼は良い人だった。そんな事、会ってすぐの頃には分かってた。
彼は、私を思ってくれる。
私を、幸せにしようとしてくれている。
―――だから、恐ろしいのだ。
幸福になってしまうのが。
幸せだと、そう思ってしまうのが。
―――だって、また失うじゃないか。
私は罪人なのだから。
罪人は、罰を受けなければならないのだから。
―――怖い。
―――明日が来るのが、怖い。
―――殺して。もう二度と、夢を見ないでいられるように。
―――私を殺して……早く。早く。
◇
「お目覚めですか」
何か悲しい夢でも見たのだろうか。
少し滲んだ視界に、少し困ったように笑う人の姿が見える。
「あ――――」
そして唐突に、自分がした事を思い出す。
―――やっぱり、死ねなかった……。
分かってはいたのだ。あんな傷で、死ぬわけがない事くらい。
けれど……生きている事が、許せなかった。
分かっている。逃げ出したかっただけなのだ。
この罪悪感から。
家族を見捨て、一人生き残ってしまった……この罪から。
「すいませんでした。苦しんでいる事に気付けず……」
やめて……。
貴方は悪くないの。ただ、私が弱い人間なだけなのだから。
「何か……まだ私に出来ることはありますか?」
そんなもの無いの。もう、満たされてしまっているのだもの。
だから……そんな顔しないで。
「ころ………して。もう……いやなの」
口が勝手に、ずっと隠してきた言葉を紡ぐ。
決して許されない、懺悔の言葉を。
もう嫌だと叫ぶ、消えてしまいそうな心の声を。
「…………何があった、とは問いません。私には、傷つかないでくれと、そう頼む資格もありません。―――ですがビアンカさん、これだけは約束してくれませんか」
「約………束?」
主人が奴隷と約束するなんて、聞いたこともない。……『命令』すれば、それで済むのだから。この首輪がある限り、逆らう事は出来ないのだから。
「私が貴女を保護している限り、貴女が貴女自身を傷つける事だけは、決してしないと。…………約束できないのであれば、『命令』する事も視野に入れます」
「……どうして?」
本当は分かっている。何故私にそこまでしてくれるのかなんて。
打算なんてない。
理由すらもない。
この人は優しい人。ただそれだけのことなのだ。
…………だから私がそう聞いたのは、最後の逃げ道。
ずっと逃げて、逃げて、逃げ出して……それでも逃げられなかった臆病者、それが私。
助かりたいなんて、願うべくもない。
ずっと、ずっと逃げ続けて来たのだ。
奴隷狩りからも。
罪悪感からも。
生きる事からすらも。
だからもう、分からない。
これ以外の生き方なんて、もう思い出せない。
……臆病者でごめんなさい。
……卑怯者でごめんなさい。
許してなんて言わないわ。
それでも、死ぬことからすら逃げ出した私は……きっとまだ生きてるの。
死体のままだけど、生きてるの。
―――だから、理由を下さい。
私が、まだ此処に居れる理由を。
私が、まだ生きていれる理由を。
―――今度こそ……逃げ出さないでいられるように。
―――私を縛って。どうか優しい、貴方の声で。
「貴女が…………私の家族だからですよ」
如何でしたでしょうか。
正直、今一……という方もおられるかもしれません。作者の力量不足です、すいません。
元々は十話ほどの連載をするつもりだったのですが、この分だと時間がかかるので止める事にしました。
時々、思い出したように短編で書き足していこうと思います。
※誤字報告、ありがとうございます。