プロローグ/礼子の終わり
「はっ……はっ……はっ……」
一日中空に浮かぶ、一対の月が怪しく輝く。
黄昏時の、霧がかったような薄ぼけた空気の中、私は必死に駆けていた。
囮になってくれた母さんは無事だろうか。
私は、唇を噛み締めて涙をこらえる。
振り向いてはいけない。
振り向いたら、捕まってしまう。
捕まったら、一体、母さんが何の為に残ったのか分からなくなる。
「あっ……!」
月が陰ったところで、足を木の根に取られて転んでしまう。
強かに打ち付けた膝と腕が痛い。
それでも、私は前に進む。進まなければならない。
「いたぞ!」
「っ!!」
もうダメだ。見つかってしまった。
背後から迫る男たちの声。私は、覚悟を決めた。
死ぬとしても、ただでは死なない。
「止まれ! それ以上私に近付いたら……斬る!」
護身用としても頼りない短刀を握りしめる。
震える手でそれを構えても、男たちは薄ら笑いを浮かべるだけだ。
それでも、私は毅然として前を見据える。
「おいおい、お嬢さん。そんなもの構えて何になるって……」
揃いの、薄紅のマントを羽織った男の1人が、言葉の途中で突然倒れた。
殴打の音が短く聞こえたから、誰かが倒したのだと分かる。
けれど、一体誰が?
困惑する私の目の前で、男たちが次々と倒されていく。
ややあって、再び月明りが差す。
「……無事でしたか?」
薄紅の男たちがすべて倒れた後、唯一立っていたのは美しい青年だった。
蝋人形のように滑らかな顔を向け、何の感情も伴わない声で私に安否を尋ねる。
一切の濃淡を感じない青い瞳。私は思わず喉を鳴らした。
「……ええ、無事よ」
「そうですか。それは良かった」
青年は表情を変化させることなく、自然な動きで持っていた剣をしまう。
そして、私の構える短刀になど気付かないかのように、何のためらいもなく距離を詰める。思わず緊張が走る。
「君を、探していました」
「貴方は、そいつらの仲間?」
「いいえ」
軽く首を横に振ると、青年の長い銀髪が月明りを反射して、キラキラと光った。
キレイだなんて、場違いなことを思った。
「私はルオン。ルオン・フォード・アルセンシア」
「……大国の王子様が、私に何の用なの?」
その名は、大国の王子の名とまったく一緒だった。
それを疑わない訳ではなかったが、青年には、そうと信じさせるような気品があった。私は、事の真偽を慎重に考えながら、青年を窺っていた。
けれど、それも一瞬のこと。
次にかけられた言葉で、私の思考は混乱をきたす。
「君は、暁の女神の守護者としての使命を負った乙女。どうか、私と共にその力を世界の為に揮って頂きたい」
「え……?」
暁の女神は、何百年も前に眠りについた、この世界の神だ。
彼女が眠ってしまっているから、世界に朝が来ないのだと、誰かが教えてくれた。その女神の守護者? 私が?
青年の言葉を、どう受け止めたら良いのか。
幻想的な空気と、青年の神秘的な雰囲気が混ざり合って、麻痺しそうだ。
これは、本当に現実なのだろうか。
「君にも分かるように、提案を変えましょうか」
馬鹿にしているのかと、平常時なら反感を覚えるかもしれないような言葉。
けれど、青年の声に、やはり抑揚はなく、何の感情も窺い知ることは出来ない。
ただ、その昏い瞳が、私を真っ直ぐ射抜いていた。
「私と共に、戦ってください。そうすれば代わりに、君の母君の安全を保障しましょう」
「! 母さんを……守ってくれるの?」
「君が役目を果たすなら」
……カラカラに乾いた喉。私は、絞り出すように声を出した。
「……よろしく、お願いします」
それは、一対の月が、怪しく輝く日のことだった。
□□□□□
「あーっ! もう何度プレイしても最高っ!」
何度見たか分からないプロローグ画面を見つめて、アタシははしたなく両脚をバタつかせた。
今プレイしているゲームは、『ミスティック・イヴ~暁の乙女~』というタイトルの乙女ゲーム。主人公の少女シャーナが、「暁の守護者」として世界を脅かす邪神に立ち向かっていく過程で、男性キャラクターと恋をしていく感じの話だ。
なかなかヘビーな設定で、結構な頻度で主要キャラクターが死ぬので、気が滅入ったりもするけど、その分心を揺さぶられる気がする。
「今回は、誰ルートやろっかな」
「礼子! 何やってんだよ!」
「うわぁっ!? た、猛?」
鼻歌交じりに、今日はどの分岐先を見ようかと考えながらオープニングムービーを眺めていると、突然部屋の扉が開いた。慌ててそちらに視線を向けると、立っていたのは義理の弟である猛だった。
まだ小学生の猛は、その愛くるしいほっぺをこれでもかと膨らませて仁王立ちしている。あらまぁ、可愛い。
「どうしたの、そんなに怒って?」
「今日はおれとデートの約束だったろ!? 忘れたのか!?」
「あぁ~……」
デートと猛は言うけど、普通に一緒におでかけするだけだ。そもそも、社会人であるアタシが、小学生の猛と交際していたら、色んな意味でマズイ。血は繋がってないけど、立派な姉弟だし。
アタシは苦笑気味に、ゲーム機をスリープ状態にする。
「ごめんごめん、忘れてた」
「何だとーっ!?」
「アイス買ったげるから許して」
「……チョコ味な」
「はいはい」
ベッドから起き上がって、ゲーム機にコードを差して机の上に戻す。
アタシは、ムスッとした猛を横目に、簡単に出かける準備をすると、ポンポンと義弟の頭を撫でる。
「さ、行こうか。今日はどこ行くんだっけ?」
「公園! 逆上がり見てくれるって言ってただろ!」
「そうだったね」
アタシはそのまま、猛と手を繋いで家を出る。父さんも、義母さんも今日は仕事で居ない。アタシは、単純に日曜は休みなので休みだ。
「礼子は逆上がり出来るか?」
「えー? アタシはもうオバサンだからなー」
「礼子はオバサンじゃない!!」
「そう? じゃあ、お姉ちゃんって呼んでくれても良くない?」
「礼子は礼子だ!」
「えぇー?」
ご覧の通り、アタシと猛は非常に仲が良い姉弟だ。でも、最初からそうだった訳じゃない。
……遡ること1年前。父さんが再婚相手として連れて来た女の人の連れ子が猛だった。アタシはもう大人だったし、新しい義母さんも良い人だったから賛成した。
でも、小学生の猛には簡単に受け入れられなかったんだろう。初対面の時、父さんは全力で拒否されてた。父さんの困りようと言ったら、家を出る予定だったアタシを引き留めて、何とか猛を懐柔してくれ、なんて頼んで来たくらいだった。
かく言うアタシだって最初から懐かれてた訳じゃなくて、父さんの次くらいに拒否されてたのである。
それを、手を変え品を変え、何とか必死にコミュニケーションを取って、ここまでこぎつけたのだ。アタシに懐いてからは、父さんのこともちょっとは認めてくれたみたいで、それから父さんたちは籍を入れた。
……父さんは、アタシをもう少し崇めてくれても良かったと思う。不満である。
「あっ!」
「どした?」
今ではすっかり仲良し家族だし、別に良いけどね。そんなことより、そろそろアタシも家出たいなー。……なんてのんびり考えていると、猛が急に大声を上げた。
驚いて視線を落とすと同時に、猛はアタシの手を振りほどいて駆け出した。
「礼子のくれた時計!!」
「え?」
慌てて猛が走っていく先に、キラリと光る物が見えた。あれは、この間の猛の誕生日に、アタシがあげた懐中時計だ。別に高価な物じゃないけど、見た目が可愛くてプレゼントすることにしたのだ。
どうやら、アタシが適当に付けたヒモの強度が弱くて、時計が落ちてしまったみたいだ。しかも、丁度道が坂になっているから、どんどん転がっていく。
「待てー!」
「ちょっと、猛! 危ないから、急ぎ過ぎないで!」
この先には川がある。
そのまま突っ込んでいくことはまさかないと思うけど、危ない。小学生は、目の前のことに夢中になり過ぎるって言うし。アタシも慌てて猛を追いかける。
「猛、時計は良いから一旦止まって!」
「良くない! 礼子がくれた宝物なんだ!」
そう言ってくれるのは嬉しいけど、姉ちゃんは猛の身の安全のが大事なんだよ。
一向に止まる気配を見せない、義弟とその宝物。それは、川に差し掛かってもそのままの勢いで、時計も猛も、大ジャンプをかました。
……って、ちょ、えぇぇええー!!??
「つかまえたっ! ……あ、あれ……?」
猛って、泳げたっけ? その答えを手に入れる前に、猛がドボンと大きな音を立てて川に落ちたのが見えた。アタシの血の気がサッと失せて、思考も停止する。
頭の中に残ったのは、とにかく猛を助けなくちゃ、というシンプルな考えだけ。アタシはその考えに従って、川に飛び込んだ。
「れ、礼子……っ」
「大丈夫! そのまま、姉ちゃんに掴まってな!」
アタシは、多分今までの人生の中で一番力を発揮したと思う。
片手で猛を引っ張って、もう片方の手で必死に水をかく。そして、猛烈な勢いで川べりに向かうと、火事場のバカ力で猛を岸に投げ出した。
「いたっ!」
「よしっ、猛……これで大丈夫だから……」
猛が尻餅をつくのを見て、アタシはホッと息をつく。ついた直後、一気に口の中に水がなだれ込んで来る。あれ? そう言えば、この川って足つかないんだっけ。そう言えば、アタシ泳げなかったんだっけ。
色んなことに気付くと、急に苦しくなってくる。
「ぐっ……ガボガボ!!」
「れっ、礼子! 礼子!!」
猛が、慌てて川に飛び込もうとしてくる。
いやいや、せっかく姉ちゃんが助けたんだから、大人しくしててよ!
苦しいはずなのに、意外と冷静なことを思った。そんな、献身的なアタシの願いが届いたのか、騒ぎに気付いたらしい大人が数人やって来て、猛を止めてくれていた。アタシを助けようともしてくれてるみたいだけど、なんか結構流れが速くて、難しそうだ。
「礼子……ね、姉ちゃん! おれのこと、置いてかないでよ! 姉ちゃん!!」
あー、猛。ごめんね。姉ちゃん、完全無欠のスーパーマンじゃなかったみたい。
明日も変わらずに、毎日が続いてくと思ってたんだけど、残念だな。
ねぇ、猛。笑ってよ。幸せになってよ。そうじゃないと、アタシ、何の為に泳げもしない川に飛び込んだのか、分かんなくなっちゃうから。
「ガボガボーッ!!」
……苦しいし、なんか辛い。とりあえず、最期の言葉が「ガボガボ」なのだけは、勘弁してもらいたかったけど。うん。でもまぁ……猛を助けられたのなら、アタシの人生、捨てたもんじゃなかったかもな。
そんなノーテンキな言葉が、多分アタシの……高宮礼子の終わりだった。