マンションマグカップ
1章
まさか、マグカップに救われる日が来るなんて思いもしなかった。
日付が変わるか変わらないかの頃に、私はおぼつかない足取りで家に帰ってきた。マンションのロビーを通り抜け、自分の郵便受けにあったものを何も見ず全部鞄に適当に詰めこんだ。それからぼやけた頭で部屋に戻るとそのまま何も考えずにベッドに潜りこんだ。
次の日、目覚めた私は案の定頭が痛く胃がむかむかして口から自分でも分かるくらい酒くさい臭いが漂っていた。重い身体を引きずりながら私はそれまで着ていたスーツを脱いでシャワーを浴びにいった。スーツが寝ていたから身体がこわばっていた。スーツがしわにならないか心配だったが、また後で考えよう。シャワーを浴びながら歯を磨いて多少はすっきりしたもののやはり身体にアルコールの残っているのを感じる。朝ごはんを食べる気にもならないので、パジャマに着替え再びベッドに入った。
入社してから研修も終わり、仕事らしい仕事が初まったその週の終わりの金曜日に新入社員の歓迎会が行われた。新入社員が主役の歓迎会と言いつつ新入社員は上司たちのお酌をしたり接待をしなければならなかった。そのせいで、あまり飲めない私は許容範囲を越えて飲み、今になって二日酔いに苦しんでいた。本当は二次会とかまで行くべきなのだろうけど、私は申し訳なさを覚えながらも体調を考え一次会で帰ってきた。研修期間中は仕事を覚えることが多く忙しかったから、仕事で越してきた私にはまだ開けられていないダンボールもあって本当は今日開けてしまいたかったが、そう予定通りにとはいかないようだった。
うまくいかないと言えば、なんか最近ずっとそう思うことが多い。人と関わるときに作り笑いをすることが増えた気がする。自然な笑顔をしようとすると顔がぴくぴくと痙攣しようとしている。こっちに来てからそういうことが始まった。
大学卒業後に縁もゆかりもない新天地に就職で来た私はなんとかして友達を作ろうと思っていた。研修中も一緒のグループになった人になんとか自分から話題を見つけて話に言ったりしていた。大学は地元ということもあり今までの友達伝いで仲良くなったり今までの友達とずっと一緒にいたりしていたため久しく自分から友達を作るということをしていなかった弊害がここで出てきた。大学生の時の五割増しくらい高いテンションで人と関わっていると無理が出るのか家に帰ると反動でぐったりと疲れていた。けれども、今の環境ではこういうキャラで性格を作ってしまったからこれを崩すのはとても怖いし、私の通常のテンションでは怒っているのかと勘違いされそうなレベルで人が違うから、もう引っ込みがきかなくなってきていた。最近は自分でもそのテンションの温度差に戸惑うことが多い。会社では、別の自分を演じていると感じるようになってきた。会社でできた友人と話すときも声のトーンが一段高くなるし、気を使うために周りに細かく注意を向けなければならなくなった。こういうのをいつまで続けるのだろうか。続けられるのだろうか。
こういうことをまどろみながら考えているといつの間にか眠ってしまった。夢も見ずにぐっすりと寝られた。起きると夕方四時くらいになっていた。案外二度寝でもこんなに寝れるものだなと感心した。適度にお腹が空いていた。何か食べようと冷蔵庫の中を見たが何も入っていなかった。一応乾麺みたいなものはいくつかあったし、米も炊けばあったが料理をしようという気分にはならなかった。なんか出前を取ろうと思い昨日鞄に入れたチラシを見てみた。チラシは四枚ありそのうち二枚が店の違うピザ屋で、一枚が新しくできるマンションの宣伝だった。最後の一枚は見慣れない変わったチラシで、このマンションの大家さんが入れたものだった。そのチラシによると、どうやらこのマンションが竣工から二十年経つらしくその祝いのマグカップを配っているからマンション最上階の大家さんの部屋に受け取りに来て欲しいというものだった。最上階に行くのは面倒だなと思いつつ、引っ越しの時には大家さんにお世話になったのでいつか取りに行くことはしようと思った。私は取り敢えずチラシのピザを適当に一枚ベーコンとチーズの入ったのを選び電話で注文した。普段の食事の値段からじゃ考えられないくらい贅沢な一食の値段だったが、昨日の飲み会の値段の二分の一くらいだったから気にならなかった。
ピザが届くまでは何もする気が起きず机に頭押し付けてぼーっとして過ごした。さっきのチラシで大家さんのことを思い出したこともあり、このマンションに引っ越してきたことを思い出した。この土地に来るのが初めてで、右も左も分からずにアパマンショップで勧められたのがこのマンションだった。駅からは少し遠いが職場には歩いて行けるしスーパーも近かった。他のマンションも見てみたりはしたが、立地が一番よかったから結局このマンションを選んだ。引っ越しの時に初めて大家さんに挨拶した。とても優しい方で、私が初めての引っ越しだということを知るといろいろと世話を焼いてくれた。荷物はほとんど引っ越し業者に頼んで、配置は家族と一緒にやっていたが家電がいろいろ足りておらず、この土地で購入する予定だった。そこで大家さんが車を出してくれて、近くの家電売場を案内してくれた。今の冷蔵庫や洗濯機があるのも大家さんのおかげだった。その時、インターホンがなってピザが来たことが分かった。ピザのチーズとベーコンは飲み会明けの胃には少しきつかった。
ただマグカップをもらいに行くだけなのは少し失礼にあたるような気がした私は少し菓子折りでも持って行こうと考え、日曜日に買い物に出かけた。昨日は結局二日酔いで一日中家で過ごしてしまった。午前中にスーパーに買い物に行って昼ごはんを済ませると、午後に少し大きめのモールに出かけた。モールの地下一階の食品売り場に行き、お菓子の詰め合わせを選んでいると、声をかけられた。
「前田じゃん、こんにちは!」
「こんにちは! こんなところで珍しいね。今日はどうしたの」
「それがね―――」
瞬時に会社用の声に変わる。少しだけトーンの高くなった自分の声に自分で驚く。
向こうは軽く立ち話をして去って行った。残された私は急なテンションの温度差に自分で疲れていた。早く用事を済ませて帰りたくなった。
結局、私も貰ったことのある手土産によく使われる有名なクッキーの詰め合わせを買って帰った。夕方六時ごろにマンションに着き、あまり遅くなっては失礼だと思ったので、自分の部屋には寄らずにまっすぐ大家さんの部屋のある最上階に向かった。ぱっぱとマグカップを受け取って早く部屋に戻りたかった。エレベーターで最上階に向かうにつれ、少しずつ緊張してきた。
大家さんの部屋のインターホンを押してしばらく待つと、はーいと返事がして声が返ってきた。大家さんの奥さんが玄関で出迎えてくれた。私は、引っ越しの時のお礼とマグカップを受け取りに来たことを伝えた。
「あら、まぁ。わざわざご丁寧にありがとうございます。けれど今主人はまだ帰ってきていなくて…。もうすぐ帰って来るとは思うのだけど。よかったら、上がって待っててください」
「いないのであればまた出直しましょうか」
早く部屋に戻りたかった私はそう返した。
「いやいや、お茶も出すし上がって上がって」
奥さんは手招きしながら言った。こういう人の勧めを断るのは私の苦手とするところだった。相手の気分を害したくないという思いが働き、自分のしたいことではなく相手の望むことをしようとしてしまう。私は自分に嫌気が差しながら奥さんの言うことに従った。
大家さんの部屋は、私の部屋とは違いファミリータイプの部屋なので単純な広さだけでも二倍あって、それでも間取りとかは同じはずなのだけど全然違う部屋にいるような気分になった。インテリアの影響とかもあるのかもしれない。
「もう生活には慣れましたか?」
大家さんの奥さんはお茶を二つ用意して、リビングの机に座りながら聞いてきた。
「えぇまぁ、おかげさまで。引っ越しの時は本当にお世話になりました」
私は当たり障りなく答えた。
「いいって、いいって。あの時は暇だったしこっちが手伝いたかったからしただけですよ。今日だって主人は釣りに行ってるだけで暇なことには変わりありませんが。それにしてもごめんなさいね、マグカップくらい誰が渡しても変わらないと思うんですけど、主人は自分で渡したいって言ってて」
他愛ない話を続けていると、もしよかったら夕飯を食べていかないかと言われた。私はさすがに悪いと一度は断ったけど、気の弱い私は奥さんにまた押し負けてしまった。そんなこんな話しているうちに、大家さんが帰ってきた。釣果が割と良かったようでご機嫌な様子だった。奥さんが事の次第を話すと快く一緒に食事をしようと言ってくれた。どうやら初めての土地に来たばかりの私のことを、引っ越しの時からずっと心配してくれていたようで大家さんは私の話を聞きたがった。夕飯は釣ってきた魚の唐揚げとご飯と煮物だった。揚げ物を自炊で作ることがなかったので、実家以来久しぶりに食べたような気がする。
「それにしても、俺はずっとこの土地から出たことがないから分からないが、初めての土地に来ながら仕事覚えるってのは大変そうだ。俺にはできる気がしない」
「そんなことないですよ、私の友達も就職で地元を離れる人はけっこういます」
「いやいやそれでもすごいことだ。仕事を覚えるのだけでも大変なことだしな。何か悩みとか困ったことがあればまた言ってくれればできることはするさ」
その態度は私に学生の頃にいた一人の友達の姿を思い出させた。その人もいつも私のことを心配していた。よく前田はいつも何かに怯えているような気がすると言われた。そんな怯えることなんて何一つないのに、いつも自分の中で不安を作ってそれに怯えていると言っていた。そういう悩みは私に話せとその人は言っていた。案外話すと軽くなるからと。その自分の全てでもって寄りかかってしまいたくなるような思わず頼ってしまいたくなるような物言いがすごく似ていた。そう気付くと、私は止まらなかった。いつも、自分を作っていることが辛いこと、そういう自分に対して嫌気が差すこと、それでも辞められない自分がいること。そんなに親しくもないはずの大家さん夫婦は何も言わずに喋らせてくれた。
全てを言い切ってしまうと自分の中で重荷だと思っていたものに今まで以上の重荷を感じなくなっていた。大家さん達の私に対する態度が変わらなかったのが大きいかもしれない。食事後、大家さんからマグカップを貰うと、私はそれをお守りのように大事に抱え自分の部屋に帰った。とても落ち着いた夜を過ごした。今までなら日曜日の夜は憂鬱でしかなかったが、リラックスした精神状態で過ごせた。今まで通り職場で作ってしまうのは変わらないのかもしれないが、もっと自然体に作れるような気がした。
2章
朝六時に起きて旦那と息子の朝ごはんの用意をする。旦那を見送った後、息子を保育園に届けてパートに行く。息子の迎えの時間に合わせてパートを引き上げ、夜ご飯の準備と家事を行う。夜は明日に備えて早めに寝る。こういう生活が何年も続いていた。食事の間はテレビを点けていたし、食事の時の会話はほとんど五歳になる長男が話しているのを私が聞いていた。旦那とはあまり最近話をしていない気がする。それに、私が疲れて早くに寝てしまうからかスキンシップも減っていた。息子が生まれた時やその前はもっと話をしていたりスキンシップも多かったから、私は今の状況に焦りを覚えていた。
このままでいいんだろうか。昔は、いってらっしゃいの時だって軽いハグやキスもしていたのに今ではすっかりなくなっているし、会話だって途切れなくて、つい一夜を明かしたこともあったくらいなのに、今は息子が一番家で喋っている。息子の話の相槌だって旦那よりも圧倒的に私の方が多い。どうしてこうなってしまったのだろうか。恋人時代の倦怠期の時だってここまでひどくなかった気がする。休みの日には外に出ない時は旦那はひげすら剃らなかったりするのに、私は今だにパートに行くにもしっかり化粧をしている。息子が小さいから目を離せないということもあるかもしれないが、二人で過ごすこともほとんどなくなったように思う。このままでいいのだろうか。いや、良くない。私から働きかければ何か変わるかもしれないしやるだけやってみよう。
次の日、朝ごはんの時に私から話を振ってみた。
「今日は、昨日よりも暑くなりそうね」
「あぁ」
「いつも以上に水分を取らなきゃいけないね」
「うん」
「水筒、大きいの持ってく?」
「いや、いい」
見送りの時、私は大きく手を広げてみた。旦那は何もせず少し顔を背け、ぼそっといってきますとだけ言って出ていった。息子が私を不思議そうな目で見ていた。いきなり行動を変えたからって相手もそれに合わせてくれるとは限らないし、今日は仕方ないのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。それにして不愛想だと思うけど。その日は一日中気が重かった。今日こんな調子だと後何日かかるか分からなかった。
それが顔に出てたのかパート仲間の一人に心配された。私は、その人に自分の悩みを打ち明けた。その人にも同じく夫と幼い子どもがいたから分かってくれると思っていた。そうすると予想外の返事が返ってきた。彼女によると、私が間違えていると言うのだった。青天の霹靂であった。
「私は、ただもっと旦那と分かりあいたいだけなのに」
「それならそれで別の方法があるでしょ。息子との会話を振ってみるとかさ」
「でも、それって何が違うの。私がしようとしているのと同じことじゃん。私――」
「もう恋人同士じゃなくて結婚しているんだからさ…」
私たちの話は平行線をたどった。本当に相手の言うことは全然理解できなかった。ただ仲良くなりたいだけだから、手段はあまり関係ないように思う。彼女には分かってもらえると思っていたのに。後ろから刺された気分だ。
朝のこともあったし、パートでも理解されなかったこともあり、息子を迎えに行くときには、私の心の中は不満で一杯だった。保育園からマンションまでは息子と手を繋いで帰っていて、その時には息子はいつも保育園での出来事を話してくれるのだが、今日は何も言おうとはしなかった。息子なりに私の雰囲気を感じて空気を読んでいるのかもしれない。そのことに少しの申し訳なさを覚えながらも自分の気持ちを抑えることができなかった。悪くなった空気をそのまま引き連れてマンションへの帰り道を歩いた。
夕暮れの残る川の岸辺を歩いていた。川のせせらぎに呼応して岸辺の草が揺れていた。川の岸辺には犬の散歩をする人やランニングをする人、様々な人がいた。私が息子の手を引っ張って歩いていると、向こう側からも同じように手を繋いでいる人とすれ違った。制服を着た学生と思しきカップルだった。その二人は互いに少し顔を朱に染め、幸せそうに歩いていた。自分たち以外この世界にはないかのようだった。彼の隣には彼女が、彼女の隣には彼がいた。パート仲間の言葉が私の脳裏に浮かんできた。私はもう旦那とは恋人同士ではなく結婚をしている。なるほど、確かに私の隣には息子がいた。
私は、マンションに戻ると自分の郵便受けを確認した。多くのチラシとともに変わったお知らせの紙が入っていた。部屋に行ってから確認したところ、マンション竣工二十年記念のマグカップをプレゼントしているという内容だった。内容を知った息子が欲しいと言って聞かなくなったので、私たちは部屋に荷物をおいてから受け取りに行った。大家さんは急に訪ねた私たちを温かく迎えてくれ、マグカップを渡してくれた。息子は、マグカップをとても気に入ったようで、帰ってきた旦那にも嬉しそうに見せていた。旦那も嬉しそうに微笑んでいた。
3章
道端に猫が落ちていた。こんなことが現実に起こるなんて思いもしなかった。
今日は散々な日だった。バイトの面接に落ちて、やけ食いした店にスマホと財布を忘れて、取りに戻ったら財布からお金が抜き取られ、店から出たら土砂降りに降られて傘を持ってなかったからずぶ濡れになりつつ、走って家に帰る途中に段ボールに入れられた猫を見つけた。雨に濡れ、小さくうずくまっている猫は今日の僕を見ているようで、見捨てることができなかった。
家に段ボールごと連れ帰り、タオルで身体を拭き部屋を暖めた。簡易的なトイレと少しのキャットフードが段ボールの中に転がっていたが明らかに足りない量だった。それで家に猫を残して、コンビニに買いに行くことにした。リビングにはあまり物は置いてないが、自室には壊されたくない画材道具があったから、そこへの扉だけはしっかり閉め直した。リビングの床に猫を入れた段ボールを置くと、猫に向かって言った。
「いいか、これからお前の食べ物を買ってくるからおとなしくしてるんだぞ。それと、このマンションは犬猫飼うのは禁止だから、鳴くなよ」
猫にこんなことを言っても意味がないかもしれないと思いつつ、猫を残していくことに覚えた不安が僕の口をついて出た。なんで猫なんか拾ってきて飼おうとしているのか僕にはいまいち自分でも自分の行動が理解できなかったが、その時はそうしなければならないことのように思えた。猫は分かったのか分からなかったのか僕の顔を見ながら、顔を横に傾けにゃーんと一声鳴くと尻尾をくねらせた。
僕はかつてないほどの速さでコンビニに駆け込み、目についた猫缶を適当に三つほど急いで買って部屋に帰ってきた。あまりお金に余裕があるとは言えないのだけど、そんなことは今は問題ではなかった。道中は心配で心配でならなかった。あの猫が鳴いて、家の前にマンションの住人が集まり追及されるような未来が見えた。その想像は僕の足を速めた。身体中に風と雨を受けボロボロになりながら部屋に着いた時には足だけでなく手も疲れていた。
幸いなことに、部屋の前には誰もおらず安心した。僕の部屋に猫がいることに、マンションの住人はまだ気付いていないようだった。
「ただいま」
一人暮らしを始めてからずっと言っているこの言葉に、今日は返事をする声があった。にゃーんと、猫が返してくれた。その声に心が温かくなったのも束の間、リビングの惨状に気付くとあまりのひどさにドッと疲れが来た。ソファからは綿が覗いていて綿がその辺に散らばっているし、机の足は爪か歯でつけられたと思われる傷が大量にあった。少しは予期して自室の画材道具を守ったとはいえ、ここまで短時間で荒らされるとは思わなかった。僕はソファの破れていない布の残っている部分に座った。猫は構ってほしそうに顔を僕の足になすりつけてきた。頭を撫でると嬉しそうにグルグル喉を鳴らした。猫缶をあげるとおいしそうに食べた。おとなしくしてればかわいいのにな。
家の冷蔵庫に残っていた卵と牛乳でプリンを作り、それを食べて落ち着くと失ったものに対しても少し心の余裕ができてきた。このプリンは子どもの頃よく親が僕のために作ってくれた。散らばった綿は片付けてソファはもう役に立たないから猫の遊び道具として使うことにした。傷だらけのテーブルは後で補強テープを巻いておこう。僕は溜め息をついた。猫を飼うというのは思った以上に大変なようだった。トイレも好き勝手にするから、ネットで躾の仕方を調べた。あまり鳴かないことだけは唯一の救いだった。名前をつけようと思って最初は凝ったのを考えようとしたけど、いろいろ疲れすぎたから単純に雨の日に拾ったからアメとつけた。最初に出会った時には今日の自分を慰めるために目の前に現れたのかと運命を感じさえしたのに。勝手な思い込みだったのだろうか。
お腹が空いていたのか買ってきた猫缶を全部食べたアメは隅にうずくまりぐっすりと眠っていた。僕は、その間にアメのために新しいトイレと食糧を買ってきた。帰りにマンションの自分の郵便受けの中身を確認して自室に運んだ。新しいトイレを設置しているときもアメは眠ったままだった。呼吸に合わせて背中が上下していた。優しく閉じた瞼から温かいものを感じた。その様子を見た瞬間、僕の中に電撃のようなものが走った。自室からスケッチブックと鉛筆を持ってくると一心不乱にアメの姿を描き始めた。穏やかにつぶった目や柔らかそうな整った毛並み、アンテナのようにピンと張ったひげ。夢中になって描いていた。ここまで何かを描きたいと思ったのは久しぶりだった。イラストレーターとしての就職に失敗し、フリーターとなって絵を描いてはネットに投稿する日々を続けていた。先の見えない日常に投稿も惰性が多くなっていた。僕には才能がないのではないかと考えたりもした。周りの同じ大学の友達は就職して今頃は結婚で悩んだりしているのに、僕は今だにその日暮らしの自転車操業で一か月先も分からない。もう諦めた方がいいのかもしれない。今日のバイトがクビになったことも、これを機に夢を諦めてどんな形でもいいから就職しろと、そう誰かに言われたような気がしていた。でも、今はすごく描きたい。
アメが起きたのにも気付かない程、集中していて顔を上げたときに目の前にいないことに驚いた。アメはスケッチブックを取りに行ったときに閉め忘れていた自室の中に入っていくところだった。
「まって、そっちは入らないでくれ」
その声も空しくアメは悠々と進んでいった。僕は急いで自室に入り、まっすぐにアメに向かっていった。後一歩で捕まえられると思ったその時足元でバキッと音がした。見ると筆洗が割れていた。じわじわと足に痛みが広がっていた。痛みでその場にうずくまりそうになるが、それを我慢してアメを捕まえリビングに連れ帰り自室のドアをしっかりと閉めた。リビングのボロボロになった様子が僕の心を表しているようだった。足からは血は出ていなかったが痛みが引かなかった。僕の家には筆洗が一つしかなくもう時間が遅い今日は画材屋は開いていなかった。さっきの勢いのままアメの彩色まで今日は終えたかったが、このままではできない。今回のことはアメが直接の原因とは言えないのかもしれないがそれでも僕は恨みがましくアメを見た。何も分かっていないような顔でアメは僕のことを見返してきた。取り敢えず、壊れた筆洗をあのままにしておかない方がいいと思った僕は、アメが入ってこないように気を付け自室へ入った。
筆洗は無残な姿でそこにあった。欠けて歪んだところがなおさら元の形を思い出させた。さっき郵便受けから持ってきたチラシがあったからそれに包もうと思った。チラシは、三枚あり二枚はピザの広告で、一枚はこのマンションの大家さんからだった。一瞬、アメを連れ込んだことへの注意とかなのだろうかと思ったが中身を見ると、マグカップを配っているから取りに来いという内容だった。これだ、と思った。
貰ってきたマグカップを筆洗の代わりとして使い、絵を描き上げた僕は満足だった。久しぶりに楽しく絵を描けたことにも満足していた。けど夢中になることが終わると現実問題が僕の頭の中に浮かんできた。アメのことはいつまでも隠しておけない。これから身の振り方を考えなければいけなかった。
「なぁ、アメお前はこれからどうしたい」
アメからの返事はもちろんなかった。一番は僕が就職を決めて、ペットを飼ってもいい場所に引っ越すことだがそれがいつになるか検討もつかなかった。そんなこんな悩みながら過ごしていると、ついには隠しきれなくなった出来事があった。
ある日、帰宅すると家の前に隣の住人が待っていた。隣の住人は気の強そうなOLで、最近自分の体調が悪くアレルギーっぽいという話から始めて、匂いもすると言い、もし猫か犬を飼っているなら処分して頂けませんかと言った。相手は終始丁寧な口調だったが、僕は糾弾されている気分になり頭が真っ白になった。はい、とだけ返事すると相手は帰って行った。とうとう逃げ場がなくなったと思った。別に僕も手をこまねいていたわけではなくいくつも会社を受けてはいたが、けれどもまだ確定したところは一つもなかった。確定していないうちから引っ越しはできないし、そんな金もなかった。けれど、何もしなかったら隣の住人は黙ってはいないだろう。でも、後少しなんだよ。今回受けた会社は今までに比べて感触がよかった。そうすれば引っ越しもできる。堂々とアメを飼える。だから、少しだけ時間が欲しかった。誰か友達や親に預けようか。しかし、預けられそうな友達は思い浮かばないし親は高速バスを二回乗り継ぎするくらい遠くに住んでいた。アメがそれだけの移動に耐えられるか分からなかった。ひとまず、結果が出るまでだと思い、一週間ほどホテルに預けることにした。
結果が出ようと出まいと、もうこのマンションでは暮らせないから、僕は部屋の荷造りを始めた。アメがいなくなると部屋が急に広がったように感じた。もう、布や綿のほとんど残っていないバネがむき出しになったソファを解体できるところまで解体し、袋に収まるサイズまで小さくした。補強テープでぐるぐるまきになった机も足を外し、捨てることにした。そうして物をどんどん整理していくと、それに比例して心の隙間が多くなってくるような気がする。不動産に行ってペット可能なマンションや賃貸を探したけれどどれも今より高くなる物件ばかりで、なけなしの貯金でようやく敷金を払えるくらいだった。どちらにしろ就職が決まらないことには何も変えられなかった。無力だった。
部屋はどんどん綺麗になるけれど、変化のない日々が続いた。何もすることがない時は、アメがいないことも相まって寂しさや虚しさをいつも以上に強く感じてしまう。こういう時には子どもの頃を思い出すことが多い。心のどこかで、甘えたいような気持ちを感じるからかもしれない。
一週間経って、ホテルからアメを引き取る日が来てもまだ宙ぶらりんのまま僕は無職だった。ホテル代もバカにならずもう一週間預ける余裕は僕にはなかった。物のなくなった我が家に帰ってきたアメは落ち着かない様子だった。その日からアメは急に鳴くことが増えた。久々にアメに会えて嬉しかったが、いつもと違う行動に驚きもうこのマンションには居れないということを痛感した。アメに言葉で注意することもできないほど僕の心はかなり疲弊していた。この一週間寂しさに漬け込まれ、いつ結果が来るかと気を張っていた僕の心に、アメの鳴き声は追い打ちのように迫ってきた。なんで僕がこんな目に合わなきゃいけないのかという思いが頭をもたげた。全てはアメのせいのような気がしてきた。アメさえいなければこんな目に合わなかったのではないか。アメを持ち上げようとすると、アメは僕に噛みついてきた。アメは人懐こい猫で今までそんなことしたことがなかった。ついカッとなった僕は――。
その日、僕の携帯が鳴った。親からだった。最近連絡がないことを心配するような内容だった。僕は泣いて今の状況を打ち明けた。最初からこうするべきだったのかもしれない。
とても後悔している。
4章
まだ暗いうちに目が覚める。隣にいる夫も同じだ。ただ、夫は起き上がろうとはしない。けれどワタシは起き上がり自分たちの朝ごはんの準備にかかる。ここ数年来、手先に意識を集中させると、震えてしまい何をするにも時間がかかるようになった。なんとか朝日が昇る前には用意ができ、夫の名前を寝室に向かって叫んだ。夫はのんびりとした様子でリビングに向かってくる。夫がリビングに来る前に息子が先に部屋に入ってきて、テーブルについた。今日の朝ごはんは、白ご飯と味噌汁に鮭のホイル焼きだった。息子は来ないこともあるからワタシと夫の分しか皿をテーブルに用意しておらず、ワタシは急いで用意した。
夫が来る前に息子は、いただきますと言って食事を始めた。
「いつも言ってるでしょ。みんな揃ってから食べ始めようって」
ワタシは息子に注意した。けれど息子は食べながら、うんと頷くだけでワタシの言うことを聞かずに手を止めなかった。はぁ、とため息をついた。息子はあまり言うことを聞いてくれない。確かに反抗期だから仕方ないのかもしれないが、もう少しワタシの気持ちも考えてくれればいいのに。しばらくして、夫が入ってきて、自分の向かいに座った。ワタシ達は、一緒にいただきますと言って食べた。
「今日はいい天気ね」
ワタシは外を見ながら言った。息子はワタシの方をちらっと見ただけで何も言わなかった。夫は
「あぁ、いい天気だな」
と返事した。夫は仕事を辞めてからすっかり腑抜けたようになってしまった。ワタシの言葉への返事にもハキが感じられない。
「散歩にでも行きましょうかね」
夫はワタシのことを少し嫌そうに見た。最近ずっと夫は外に出ず家で過ごしていた。元々あまり活動的な人ではなかったが、仕事を辞めてからその傾向に拍車がかかった。家の廊下を歩くのも疲れるくらい足腰が弱っていた。ボケも多くなってきているように思う。同じ話を何度もされる。今日の朝ごはんを食べている間だけでも鮭がおいしいねと三回言ってきた。でも、料理を褒めてくれるということには感謝しなければいけないのかもしれない。ワタシの入っている地域の写真同好会では、夫婦間の会話がないことが悩みがだという話も聞く。そういうことを考えるとワタシ達の仲は良好と言えるのだろう。
食べ終わった息子は何も言わずに出ていった。ごちそうさまと言うように注意しようかと思ったけど口を開く前に行ってしまい、ワタシはまた溜め息をついた。夫は少しびくっとした。食べ終わった食器を下げ、ワタシは皿洗いをした。ワタシが皿洗いをし終わっても夫はまだ食べ終わっていなかった。自分と夫のお茶を用意して再びテーブルにつくとテレビをつけた。テレビを見ているとあっという間に時間が過ぎる。気が付くと、夫も食事を終わらせて一緒にテレビを見ていた。皿は洗ってくれたようだった。今日の予定は何もなかったので、ゆっくりと午前中は二人でテレビを見て過ごした。
お昼を食べた後、午後には朝ごはんの時の宣言通り散歩に行くことにした。ワタシの所属している写真同好会の作品が近くの市立美術館に展示されているから、散歩のついでに寄ろうという話になった。夫も最初は嫌そうにしていたが、ワタシの写真も展示されていると知ると少し前向きになってくれた。
脱水症状にならないように水筒にお茶をつめ、鞄にいれた。夫が先に部屋の外に出てワタシが鍵を閉めた。出るときには、行ってくるよと中に声をかけた。平日の午後早い時間帯だからだろうかマンションを出る時にも美術館への川岸を歩く時にも誰にも会わなかった。暖かい日差しを川の水面を反射して、ゆらゆら輝いていた。風も穏やかに吹いて野の花がそれに合わせて揺れていた。ワタシは夫にちょっと待ってと声をかけ、鞄の中からいつも持ち歩いているカメラを取り出した。何回か撮影して納得の行く一枚が撮れた。満足しながら川岸で待っている夫の方に向かって行った。
「お待たせいたしました」
「楽しそうでなによりだよ」
夫は微笑みながら言った。
途中休憩を挟みながら美術館に着いた。ワタシは買い物の帰りとか何かにつけ寄ったりするからよく来るけど、夫はあまり来ないから物珍しそうに辺りを眺めていた。六十五歳以上なら無料で入館できるので、受付で二人とも身分証を出して中に入った。美術館は受付の先で道が三つに分かれており、左手側に行くと常設展示があり右手側に行くと企画展示になっていてまっすぐに進むと市民ギャラリーの展示が催されていた。市民ギャラリーは地元の美術コンテストの入選作品を展示したり、個展が開かれたり、今回のように地域の同好会の作品が展示されたりする。
ワタシ達は常設展示や企画展示も一通り見た後で市民ギャラリーを見ていた。ワタシの作品は近所の犬が遊んでいる写真と、空の写真が展示されていた。夫はワタシの作品を楽しそうに眺めて撮影をしたときの状況を聞きたがった。ワタシはつい得意になって解説していると、その市民ギャラリーに息子が入ってくることに気付かなかった。ワタシが説明を一段落して顔を上げると目の前に息子がいて驚いた。
「いつからいたの」
と、聞くと
「ついさっき」
「今までずっと一緒だったじゃないか」
二人が同時に応えた。夫に対して言ったわけではなかったのに、返事をしたので笑ってしまった。息子が来てくれたことに嬉しくなったワタシは他の人の作品もワタシが解説できるものはしながら一緒に見て回った。だいたい全体の三分の二を見終わった辺りで、同じ同好会に参加している高橋さんが市民ギャラリーに入ってきた。
「こんにちは、高橋さん」
「こんにちは。今日は旦那さんと一緒なんですね」
「そうなんですよ。今日は天気がよかったから――」
ワタシ達は高橋さんとしばらく立ち話をした。それから、そのまま別れて市民ギャラリーの続きを見ていた。立ち話をしている間に息子は帰ってしまったようで、いなくなっていた。高橋さんは自分の作品を見ると満足気に頷いた後、帰っていった。忙しいのかもしれない。ワタシ達はゆっくりと一周した。一周が終わると夫はまたワタシの作品を見たがった。ワタシはさっきよりも丁寧な説明を交えた。満足するくらい見ると来た道を戻って、マンションへ向かって行った。
部屋に行く前に郵便受けに寄り、中身を確認した。ロビーで、保育園くらいの息子を連れた母親とすれ違い、挨拶をした。なぜか分からないが少し胸が痛んだ。いつもの要らないチラシが何枚かと珍しくこのマンションからのお知らせが入っていた。マンションの二十周年記念のマグカップを配っているということらしい。これまた珍しいと思った。このマンションに住んでもう十五年くらいになるけど、十周年記念の時にはこういうようなことをやった覚えはなかった。このマンションの大家さんは釣りばっかりしている道楽者らしいので、単に興が乗っただけなのかもしれない。お知らせの紙に気付いたのがエレベーターの中でのことだったので、部屋に戻る前に最上階の大家さんの部屋に立ち寄った。玄関のチャイムを鳴らすと大家さんの奥さんが対応してくれた。用件を伝えると、大家さんを呼んできてくれた。大家さんは、立方体の箱を持ってきて渡してくれた。
「今日は、お二人でお出かけですか」
「えぇまぁ、少し散歩に」
「仲がいいですね。自分たちも子どもがいないから二人で暮らしているのですけど、なかなか二人で出かけたりとかが少ないので羨ましいです」
エピローグ
「本日のニュースです。また都内のマンションの一室で孤独死と見られる死体が発見されました。この死体は死後二か月と見られており――」
自分がマンションの大家をやっているかだろうか、こういうニュースを目にする度にいつもびくっとしてしまう。
「怖いニュースね。うちのマンションにはいないといいけど」
「そうだよな。ありがたいことに今マンションは満室だけど、その弊害で名前を覚えていない住人も多くなってきたしな」
「せめて、全員の生存確認ができればね」
「一応郵便受けが溜まっている人はチェックしているけど、あまりいい生存確認とは言えないね」
「でも、いつまでも溜まっているってわけじゃないんでしょ。何日分かまとめて受け取ろうとする人もいるわけだし」
「いや、一人だけずっと溜まりっぱなしの人がいるよ」
どうすれば確認できるのか考えた結果、何か記念品を渡して来てもらえばいいんじゃないかという話になった。ただ全員が来てくれるかどうか分からないところではあったが、来なかった人にはこれから注意を払っていけばいいという結論に至った。マグカップ配布をマンションの全室に対して一斉に行うとこちらが対処できない可能性があったので、階ごとに一週間ずつ日にちをずらして行った。
結果から言えば、途中階が離れた知り合いのいる人がなぜ自分の家にはないのかと批判があったりもしたが、一人を除き全員がお知らせの紙を出してから五日以内には記念品を取りに来た。やはりその一人は最初予期していたように郵便受けが溜まりっぱなしになっている例の人だった。
その504号室の人は、中口さんという六十歳の男性で自営業をしていると賃貸契約書には書いてあった。あまり外に出ない人なのかもしれない。家賃は毎月しっかり払われている。ガス、電気、水道も止まってはいない。どちらも口座からの引き落としだから決定打に欠けるものではあるが、生きてはいるのだろうと思われる。こちらから急に部屋の前に行って、チャイムを鳴らしているかどうか確かめることができれば早いのだけど、用件が用件だけに二の足を踏んでしまう。お知らせの紙を入れてから一週間が経過した時には、少し遅いなと思いつつ、ちょっと気にかかる程度だった。六階の人たちにお知らせの紙を配りつつ待つ。このころはまだ夕飯の時に話題に上がるようになるくらいになっていた。二週間が経過した。最上階の一つ下の七階の人たちにお知らせの紙を配り始める。さすがに焦りが見え始める。釣りをしている時も家でテレビを見ている時にも顔についた大きなシミのように気が付くと心配するようになる。外から帰ってきた時に504号室の郵便受けを確認するようにするが、外からではお知らせの紙を受け取ったのか受け取ってないのかすら判断が付かず余計に焦るようになる。二週間も半ばになると、全員が受け取りに来ていて残すは504号室の人だけになった。賃貸契約書のコピーを一日に見る回数が増えたように思う。
「もしかしたら、仕事で忙しくて来れてないだけなのかもしれないよ」
「確かに、それにもしかしたら面倒に思っているだけな可能性もあるね」
何かにつけてこう気を紛らわせようとした言い訳のようなものを思いついたら言い合うのがお互いに癖になっていた。最初は全員来るか分からないけど、取り敢えずやってみるかということで始めたのに、いざ始めてみて残り一人になるとこんなに心配するとは思いもしなかった。
三週間が経過した段階で忘れている可能性も考慮してもう一度お知らせを504号室に投函した。今度は郵便受けに入れるのではなく、504号室のドアの隙間に挟むことにする。もしこれで取りに来なくても挟まった紙がなくなっているようであれば生きているとして、もう追及するのは辞めようともお互いに決めていた。
結論から言うと、504号室の人はドアに投函してからすぐに取りに来てくれた。仕事のやり取りを一切インターネット上でやっているから郵便受けの中身を改めようという習慣がなくなっていたと言っていた。こんな人もいるのだと目から鱗だった。全く人騒がせなことだ。待つ身はつらい。