2話「記憶なき少女」
なんだか頭がぼーっとする。手足の感覚がまるで感じられなくてお風呂でのぼせた時みたいな感覚だ。
すごく大切なことを忘れている気がして、思い出そうとしてみるが謎の気怠さが酷くてズキズキと頭痛まで襲ってきた。
もやもやとした気持ちを抱えていると、遠くで誰かの話し声が聞こえる。 気になって重たい瞼をゆっくりと、ゆっくりと動かしてみた。
「…!よかった、目が覚めたのね。具合の方はどうかしら」
そこにはきれいな緑をした女性がいた。どうやら私の頭にのっかっている濡れたタオルを取り替えようとしてくれたところだったようだ。
何か言わなければと声をだそうとするが喉がひりひりとしてヒューヒューとか細い吐息しか出ず、思わず咳混んでしまう。
「ああだめよ、貴方血を流すほどの重症で倒れていたんだから…ちょっと待ってね、今水をとってくるから」
そういうと女性は水の張ったバケツを持つと、あわてて部屋を出て行った。
血を流して倒れていた…私が?そんな覚えなどなかったが、ふと頭に違和感を感じて手を置くと、ガーゼのようなものが巻かれていた。
どうやら血を流していたのは本当のようだった。
しばらくして先程の女性が戻ってきた。ただ先程と違うのは手元にコップ一杯の水があることと、女性の後ろには群青色の髪の男性がいたことだ。 男性は女性とは打って変わってどこか訝しげな目でこちらを見つめていて思わずどきりとしてしまう。
「ってこらハリー!あなたが助けたんでしょうが。仮にも怪我人で、しかもこんな年端もいかない女の子にそんな顔しない!」
その様子に気づいた女性は後ろの男性…ハリーさん?を小突いた。
いてっと小突かれたハリーさんはその部位をさすると今度は申し訳なさそうにこちらをみた。 そこには先程のような疑われているような気配は感じられなかった。
*
「あ、あの…助けてくださってありがとうございます…ここは?」
「ここは私の家、でこの青い男がハリー。あなたを禁足地で見つけて助けてくれたの。そして私はミナ、よろしくね。…それより本当に体のほうは大丈夫?まさか禁足地に人が倒れていたことなんて今までなかったから不安で」
「禁足地…?あのミナさん、禁足地というのは」
「別にさん付けしなくていいわよ。 とりあえずあなたにここまでの経緯を話すわ」
ハリーとミナの二人は、私が目覚めるまでの経緯を話してくれた。
私は、村の禁足地と呼ばれる立ち入り禁止の区域の中で倒れていたこと。 そこにやってきた犬のキャシーとハリーさんが見つけて助けてくれたこと。 キャシーはその後はハリーのベッドを占領して今も寝てしまっているという。先ほどまで疑り深い目でハリーが私を見ていたのは、幽霊とかだったらどうしようとかそういった理由とのことだったらしく、あの後すぐ悪かったと言って謝ってくれた。
「さて、私たちから話せることはここまで。次はあなたのことを聞かせてくれる? 例えば名前とか。」
名前…名前と口元に指先を当てながら考えてみて、はと気づく。わからないのだ、自分の名前が。
それだけではない。誕生日も、どこ出身なのかも、目が覚める前まで一体何をしていたのかも、自分にまつわる記憶の一切合切が思い出せなかった。
口元に当てたまま動かさなかった指が途端に小さく震えだす。
「もしかして…ないのか。記憶が」
その様子を見ていたハリーが身を乗り出してはっきりといった。
そうみたいです、と言いたかったのだが、震えのせいでそれすら伝えることはできなかった。ただゆっくりと彼らのほうを向くと、なんとなく察してくれたのか大丈夫よと、ミナに背中をさすってもらえた。
*
それから少しして震えが落ち着くと、ミナは窓の空を見てから「お腹すいたでしょう、そろそろ晩御飯にしましょうか、今から作ってくるからハリーはこの子の看病してあげて。」と言って部屋を出ていった。
ハリーと二人っきりになると、途端に変な沈黙が流れる。
「すみません」
とっさにそんな言葉が口から出てしまった。
「別に悪いことは何もしていないんだから、謝る必要はないだろ?」
「・・・・。」
言葉にできない申し訳なさを感じて俯いていると
「そうだ手掛かりといえば! 持ってた荷物に何か書いていないか」
ずっと眉間にしわを寄せて考えてくれていたハリーはポンと手を打つと、椅子から飛び起きた。
かと思うといそいそとそばに置いてあった、ショルダーバッグと木のような茶色い杖を私に差し出した。
「これは?」
「お前が倒れていた時に一緒に持っていたものなんだ。 返すことをすっかり忘れていたよ。」
少し小ぶりのショルダーバックをよく見るとファスナーのところに小さなネームプレートが付いていた。
「『柳』…?」
もしかしたら、これが自分の名前なのだろうか。確かに違和感などはこれといって感じなかったし、なんだか手になじむような感覚がする。
「あ、あの!ハリーさん私の名前わかりました、柳です。 多分!」
「おー!…って多分か。でもまぁ名前がわかってよかったよ。いい加減なんていうべきか悩んでいたからさ、早くバッグの中みて他にもヒントがないか探そうか。柳」
やなぎ、柳かぁー。へぇ、柳ねぇ、と嬉しそうに何度も言うので、ちょっと照れ臭くなっていそいそとショルダーバッグのファスナーを開く。
中をのぞくと、ぱっと見て薄い布のペンケースと手帳サイズのリングノートだけだった。
ペンケースの中身やリングノートの中も取り出して色々と見たが、残念なことに自分の記憶に関する情報は見つからなかった。
というかそもそもこれは自分のものなのだろうか。
「どうだ?なんかきっかけになりそうなものはあったか」
他になにかないかとゴソゴソとショルダーバッグの中身を探るとカサっとした音とともに紙のようなものに触れた。
おそるおそる取り出すと、綺麗に折りたたまれた一通の手紙のようなものが入っていた。
なんだなんだと椅子を引いてきたハリーさんとともにゆっくりと手紙を開く。
そこには一見記号のような文字のような黒く印刷された字が並べられていた。 見たこともないような文字に首をひねっていると、横からひょいとハリーさんがその手紙を取り上げた。
「ふーん…ええと、柳。これ『星の果てで待つ』って書いてあるぞ。」
「星の果て?…ってどこなんでしょう」
うーんとハリーさんは腕を組んで考えていたが、「わからん!」ズバッといわれてしまった。
手紙を返してもらってもう一度みる。
茶色の厚い紙に、書かれたというよりは印刷されたようなその文字に触ったりもしてみるが、特にこれといった変化はなかった。
「すみませんハリーさん。記憶が思い出せそうなものは何もなかったです」
「そっか…。いやでも、柳っていう名前が分かっただけでも十分すぎる収穫だと思うぞ?」
あと、柳は謝りすぎだな!とビシッと言われてしまい、それにまた謝りそうになってバッと口元を抑えた。
引かれただろうかと、ゆっくりとハリーさんのほうを見ると、彼はポカンと私を見てたかと思うと眉をハチの字にして、優しく微笑んだ。
「それに、もう名前もわかったんだし俺にもさん付けしなくていいよ。敬語も慣れてないから普通にしてくれたほうが俺としては助かるんだけど…どうかな?。」
「は…えっとじゃなくて、…わかった…あり、が、とう?」
ハリー、とあまりにたどたどしい物言いをしたので変に恥ずかしくなって頭をかいた。
こりゃしばらくかかるなとハリーは溜め息を一つはいた。
*
どうやらハリーにとってはシャーペンをみるのは初めてだったらしく中を分解して構造とかをみながらずっと「なんだこれ」「うわすげぇ」と感心していた。
話すうちにわかったことだが、私の記憶はどうやら自分に関するもの限定でなくなっているらしく、シャーペンについての説明はすんなりとできた。
シャーペンを知らないということでなんとなく感じていたが、どうやらここは日本ではなさそうだ。というか地球でもない、変な…世界?のようなものだと思う。一応確かめるためにハリーにここがどこなのか尋ねると「ここはエスタシア王国で、南西部のトトリって村だ」と丁寧に地図まで描いて教えてくれたが、聞いたことのない単語ばかりなのと、思ってた以上にハリーの地図が雑すぎて余計に頭が混乱するだけだった。国というよりはぐにゃぐにゃのひし形ではないんだろうか、それ。
自分でもなぜパニックになったりしないのかと思ったが、世界がうんぬんよりも記憶がないことのほうが重大すぎたのだろう。 異世界にいるという実感はわかないが、特別焦ることもなかった。 それよりもまずは
「記憶…一体どうしたら戻るんだろう」
と私がショルダーバッグのほかに持っていたとされるもう一つの荷物、変な木の杖を見ながらそう答えた。
この長さ120センチ程度の木の杖は先端がわっかのようなものになっている以外は全くこれといっていうことのない、ごくごく普通の杖だった。
魔法使いが持っているというよりは、正直なところお年寄りが歩くときに使ってそうな杖だった。 ただ一つ言うとするなら、この杖は見た目の割にかなり軽い。仲が空洞だったりするのだろうか。
そして当然だがこれに関する記憶も持っていなかった。 両手で持って構えたりもしてみるが、どこか不慣れな感じが自分ですらわかる。
「柳、それお前の杖じゃなかったのか」
シャーペンがよほど気に入ったのか、リングノートに変な記号を描いていたハリーがふと顔をあげてそういった。ペンとノートを椅子において立ち上がると、ひょいと杖を手に取り、くるくるとまわしたりして遊んでいる。
「なんだか昔話にでてくる人間の王様みたいな杖だなぁと思ってたけど。姿も栗毛で、目も金色だったからもしかしたらその王様だったりなんて思ってたんだけど…」
パシッとくるくるとまわしてた杖をつかむ。ハリーはこちらに背を向けていて今どんな顔をしているかはわからない。
「……」
そこまでいってハリーは突然黙り込んでしまった。 何かあったのかと声をかけるも、「いや…」とあいまいな返事を返すだけだ。
「ご飯できたわよー!...って何してるの貴方たち。」
しばらく謎の沈黙が続いた後、蹴破るかのように扉の向こうから漂ってくる美味しそうな香りと共に、ミナが笑顔でやってきた。
ハリーはスッと立ち上がると「ありがとう、これ返すよ」と私に杖を渡すと、「ちょっと煙草吸ってくる」とだけ呟いて部屋を後にした。
ミナはそんな様子のハリーを目で追っていたが、振り返ることなく外へ出ていったのを見届けると、私の方を見て、
「どう?なにか思い出せることはあった?」
「えと、はい。一応名前らしきものはわかったんですけど...」
「本当!?なになに教えて」
「柳っていいます。リュックに書いてあったんです」
「へぇーやなぎちゃんね。 ...ふむふむ、みたことのない字をしているし、珍しい名前だわ。.....だからこそ残念なんだけど、そういう珍しい名前の子が来てたっていう情報はここ最近ないのよね。」
「そうなんですか。...あ、あの、ハリーは」
「あら、もう敬語なしで会話できるようになったの!
いいのよ彼は。いつものルーティンだろうから。」
「ルーティン?」
「そう。彼煙草が昔から好きでね、何か考え事とか落ち着きたいときなんかはしょっちゅう吸ってるのよ。ホントは身体に良くないから安価だとしてもやめさせるべきなんだろうけど」
どうにかならないかしらねぇと、ミナは頬に手を当てて考え込む。
ミナの話を聞きながら、ふとハリーが出ていった扉に目をやる。
出ていくときのハリーの顔、なんだか怒っているような真剣に考えているような、思いつめた表情していたなぁ。
ひょっとしたら、私は知らないうちに何か失礼なことを言ってしまったのだろうか…。
そんな私の様子を見ていたミナは頬から手を離すと、
ゆっくりとした足取りで近づいてきて、それからぽすりと軽く私の頭を撫でた。
「柳ちゃん。貴方たちが何を話していたのかは知らないけど、ハリーは年下相手にちょっとやそっとで起こる人じゃないわ。 ささ、とりあえず今日は食べて早く寝る!怪我人の一番の仕事をこなしてもらわなくちゃ。 大丈夫よ、明日になってもまだハリーが機嫌悪かったら、今度は私があいつに一発お見舞いするだけだから」
そういって明るく笑ってくれたミナに少しだけ心が落ち着くと、ぐうぅと私のお腹が鳴った。
じゃあ、今から持ってくるわね。と言うとミナはまた部屋を出ていった。
一人きりになった部屋の中、することもなくて窓に目を向けた。
あれほど明るかった空はすっかり暗くなっていて、一寸先すら見えないような闇が広がっていた。