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Phase.1 知られざるロマンスと出会い

 伝説の歌姫サラ・ヴェスプッチ来る。

 リス・ベガスにそのニュースが駆け巡ったのは、開幕戦が始まろうと言う三月の下旬のことだった。私とクレアは年明けからの大仕事を終えたばかりで、珍しく二人で外の店でビールを飲もう、と言う話になったのだ。何しろすっかり陽気も良くなってきた。春の低気圧が吹き荒れたその夜はうんざりするほどの大雨で、辛くも大仕事を終えた私たちは、ソルトピーナツをかじりながらゆっくりと祝杯を挙げていたのだ。

 最近新調したと言うカウンターのモニタを見ていたクレアが、思わず声を上げた。過去の録画ではない。リス・ベガス、クラブパレスホテルから生中継だ。長いヨーロッパツアーから帰ってきた彼女がイベントで五年ぶり、初披露の新曲を披露している。この春に封切になる、大作映画の主題歌だ。若いクレアがチャンネルを替えないで、と言うのも、無理もない話である。

 もはやわたしたちリスの間だけではない。彼女は掛け値なしのスターだ。九オクターブの美声と美貌は、まるで衰える気配を見せない。まさに、あの頃のままだ。いや、歌唱力とサウンドこそあの頃とは段違いの別物になっているが、芯に秘めた強さは、まったく変わっていない。彼女こそ、ボイス・オブ・リス・ベガスだ。

「五年ぶりだな。…彼女からいつもの依頼が来るんじゃないか、スクワーロウ?」

 私は、ビールのグラスから顔を上げた。雨露を払って、余計な人間が入って来たのだ。飛ばし屋ウサギのバーニーだ。

「今日は打ち上げなんだ。仕事の話は、よしてくれないか。それも、昔の仕事だ」

「いつものって、まさかスクワーロウさんに?サラ・ヴェスプッチがですか?」

 新人が喰いついてきた。このみすぼらしい探偵にまさか、とか思ってるに違いない。余計なお世話だ。

「いつもの、ってのは、適切じゃなかったかな」

 紙幣を置くと、バーニーはキャロットジュースのウォッカ割りを注文した。

「何しろ、五年ぶりだ」

「若い相棒に、妙な誤解を持たれたら困る。うちはもう、十年以上も前から左前の、しがない貧乏事務所なんだからね」

「駆け出しの頃のお得意なんだろう?」

「ええっ、やっぱりスクワーロウさんの?今のっ、本当に本当に本当ですかっ!?」

 ったく、いい酒の肴を見つけたと思ったのか、クレアの目が輝いていた。私は仕方なく、少しだけ話すことにした。

「言葉を正確にしてくれよ?私は駆け出しじゃなかった。彼女が、駆け出しの頃だ」

 サラ・ヴェスプッチはまだ地方から出てきたばかりのいわば山出しで、当時の大物歌手たちのバックコーラスのオーディションに通ったり、レッスン代を捻出するためにこの辺りのカジノや酒場で働きだしたところだった。

「彼女を発掘したのは、ヴェルデの母親…元銀幕スターだったビアンカ・タッソだったんだ。しけた店でウェイトレスをして、たまに小さなホールで歌う程度だったサラはそれで、一流のプロモートを受けてこの掃き溜めから羽ばたいた、ってわけだ」

 バーニーは片眉を持ち上げると、やってきた飲み物を口にした。

「ビアンカに、サラを紹介したのはスクワーロウじゃなかったのか?」

「よしてくれ。逆だよ。私は、ビアンカを介して彼女に会った」

 私は皿に手を伸ばすと、ミックスナッツを頬張った。

「もう、いいかい?別に、これ以上、面白い話は何もないんだ」

「そーんなあ!スクワーロウさん、まだまだこれからじゃないですかあ!サラ・ヴェスプッチですよ!?いつもの依頼ってなんですか!?いーじゃないですか!もっと、教えてくださいよう!」

 クレアは、やたらと食い下がって来る。普段は優秀なパートナーなのに、うっとうしいったらない。その姿は、私が理想とするハードボイルドなレディとは程遠い。ったくどうしてこんなにミーハーなんだろう。

「なあ、あんた、サラ・ヴェスプッチと知り合いなのかい…」

 うんざりしていると、クレアの背後にいつの間にか、気配を潜めて誰かがたたずんでいた。それはかなり草臥(くたび)れた表情の老齢の、白山羊だった。

 うつろな瞳に、弛緩(しかん)した表情。私は一瞬ぎょっとしたが、ドラッグをやっている様子ではない。度の強い分厚い黒眼鏡に、着ている革ジャンもジーンズも、清潔で真新しいものだ。犯罪者の面影はなさそうだ。きっと、引退して人生に張り合いがなくなった、会計士か何かだ。

「失礼ですが、あなたは?」

 私はつい、改まった口を利いてしまい、それからすぐに後悔した。なにせ、酒場の行きずりだ。ちょっとした酒呑み話をするのに、IDカードは必要ない。しょぼくれた街の探偵であろうと、公認会計士であろうと、ここでは平等、それが楽しく過ごすルールなのだ。

「いや、私は…その、つい」

 気の毒なことに、山羊はみるみるうちに顔色を変えた。それを見て、さすがに私は申し訳ないと思った。

「大した話じゃないんですよ。…仕事で昔、関わったことがある、と言うだけの話です。私はずっと、この街で仕事をしているので」

 私は(つくろ)うように言うと、バーテンに目配せをした。山羊が持ったグラスが空になりかけている。バーテンはティチャーズ・スコッチの瓶を取り上げて、手早く水割りを作った。

「ご旅行ですか?…もしかして、ベガスは初めて?」

 私が話しかけると、山羊の顔面麻痺は、ようやく快方に向かったようだった。

「ベガスは仕事では、何度か。でも遊びに来るのは、これが初めてかも知れない…」

「だったらこんなしょぼくれた店に来るのは、間違いだ。ここは安いだけが取り柄の酒場だ。旅行客ならヴェルデのホテルのラウンジバーの方がよっぽど、楽しめる」

「バーニー、よせ。どんな店で飲みたいかは、個人の自由だ」

 店をけなされたバーテンから私はグラスを受け取ると、山羊に渡してやった。

「せっかくの夜です。乾杯しましょう。私たちは仕事の打ち上げ、あなたは旅行中だ。どちらも楽しい時間です。私はスクワーロウ」

 すると山羊はようやく、笑みを見せた。

「ゴードン。…私は、オークリー・ゴードン」

「バーニーだ。悪かったよ、あんたの気をそぐようなことを言って」

 バーニーは大きく腕を拡げると、ゴードンをハグした。

「わたしはクレアです。このスクワーロウさんの助手をしています」

「小さな探偵事務所をやっています。あなたは?」

「会計士をしていました。ニャーヨークで、つい三か月前まで」

 こうして今夜の私たちはふいの珍客を交え、和やかな時間を過ごしたのだった。私たちが一体そこから何について話したのか、彼がどんなことを話したのか、と言うことまで。驚くことに私は、ほとんど憶えていない。その晩は疲れてはいたが、酒はそこそこ、ベッドに入るまでの記憶もしっかりしていたはずだと言うのに。

 私のような職業にしては、珍しいことだ。

(そうだ、オークリー・ゴードンだ)

 私がそのフルネームと、印象に残らぬ風采を思い出したときにはすでに、悲劇の歯車は動き出していたのだ。



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