旅立ち
サリアは溢れんばかりの期待と興奮を抑えられずにいた。
もちろんのこと、昨晩はまともに眠れなかったし、食事も普段より喉を通らなかった、といっても人並み以上には食べているのだが……
そして、ついに待ちわびたこの日の朝がやってきたというのだ。
それで落ち着けというのは無理な話だ。
サリアは可愛らしい装飾が施されたベッドから飛び起き、桃色生地に花柄が刺繍されたカーテンを思いっきり開ける。
そして、しっかりと日が昇っていることを確かめ、それが確認できた途端に部屋の扉を開けて廊下へと飛び出る。
勢いよく廊下に出たのはいいものの、寝間着姿であったことに気づき、すぐさま着替えに戻った。
そして食事の間、普段よりもかなり早くその場に到着し、一気にその間に繋がる大扉を押し開けた。
「おはよーゲツヤ、レミーナ。調子はいい?私はすこぶる元気だよー。」
元気いっぱい、今のサリアにはその言葉が最も似合う。
誰もがそう思うくらいの明るく大きな声を持って、食事の間に既にいるゲツヤとレミーナに挨拶を交わした。
「おはようございますお嬢様。」
対するレミーナの返答はというものの、やはり礼儀作法に則った美しい振る舞いを見せながらの返事。
だが、側から見れば分からないが実のところレミーナも心なしかいつもより楽しげな表情を見せていた。
朝から笑顔がきらめく食事の間、そこにおいて唯一曇りがかってる点があるとすればゲツヤくらいなものだった。
サリアとレミーナが挨拶を交わす中、ゲツヤは一瞬だけそちらの方に眼差しを向けたがすぐにそっぽを向いていた。
ワクワクやドキドキといったような期待に胸を膨らましているかのような雰囲気は一切醸し出すことなく、一貫して無表情であった。
そう、今日こそが旅立ちの日。
巡礼の旅の出発の日なのであった。
朝食を終え、しばらく時間が経った。
所変わって、玄関。
若い男がすすり泣く声が玄関どころか屋敷中に響き渡っている。
「うぅ……ううっ…娘がこんなにも早く家を離れるとは〜……」
一人娘の旅立ちにセルジュークの心は嬉しさと寂しさが同居しているかのようであった。
その瞳からは涙が零れ落ち、泣き声を上げすぎたことで声がかすれ始めている。
「心配はしないでお父様。ゲツヤとレミーナも一緒ですし、すぐに終わらせて帰ってきますわ。」
サリアはいつも通りの自信満々な振る舞いをして見せ、セルジュークを安心させようとする。
そしてセルジュークを少しでも悲しませないようにと自分の寂しさは胸の内にしまっていた。
サリアからの慰めに似た言葉を受け、なんとか泣くのを抑えたセルジュークは、レミーナの両肩に手をかける。
「レミーナ、サリアのことを頼んだよ〜。」
それは最も信頼できる使用人へのたった一つといってもいいほどの頼みであった。
「かしこまりました、領主様。この命に代えても、お嬢様はお守りいたします。」
その願いに応えるべく、レミーナは力強い返事を返す。
主人が自分に寄せる信頼にレミーナは嬉しさを感じ、その期待を裏切らないよう粉骨砕身努力することを心に誓った。
そんな話をしているうちに、セルジューク邸前に馬車が一台止まった。
それはサリアたちの出発を意味していた。
「それじゃあ、頑張ってくるわね。」
サリアはセルジュークとの別れの挨拶を済ませ、馬車に乗り込む。
「では、行って参ります。」
レミーナは最後まで礼儀正しく振る舞い、主人への敬意を表しながら別れを告げる。
その光景を見守り、最後にゲツヤが馬車に乗り込もうと振り向く。
すると、今までゲツヤが感じたことのない気配を持つ誰かが後ろからゲツヤの肩に手を置いた。
そしてゲツヤの耳元で囁いた。
今まで一度もこの世界で耳にしたことのない、どこか懐かしい声で……
「よくこの世界に来た。再び逢えるときを待っている、影峰月夜……」
それを聞き咄嗟に振り向いたが、そこにいたのはいつも通りふざけたような笑みを浮かべたセルジュークのみであった。
ゲツヤはその言葉を言い放った者が誰なのか、そして一体どういう意味なのか理解ができなかった。
そうして呆然と立ち尽くしていたところ、サリアに呼ばれて馬車に乗り込む。
乗客全員の乗車を確認したのか、騎手が合図を出す。
「それでは出発致します。」
騎手が手綱を握り、ゆっくりと馬車が加速してセルジューク邸を後にする。
揺れ動く馬車の中、サリアはいつまでも通った道を眺めていた。
いや、道ではなくセルジューク邸をひたすら見つめていたのであろう。
そしてセルジューク邸が見えなくなった頃、父親との長い別れに対するサリアの悲しみは抑えが効かなくなった。
耐えに耐えていたが、ついに堪えきれずその瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
その涙を拭おうとレミーナがハンカチを手渡すものの、それをサリアは拒否した。
「ありがとうレミーナ。でもいいの、ここで全部涙を流さないとまた泣いちゃうから……家を思い出したりして泣くのは今日でおしまいにするから。」
それはサリアにとって精一杯の決意を表した言葉であった。
それを聞きレミーナも少し目に涙が溜まり始めていた。
その一部始終を眺め、ゲツヤは自身の過去を想起する。
親しい人との別れ、それがいかに辛く悲しいものなのかは今のゲツヤには分からない。
ただ一つ言えることは、その当時は延々と泣き続けていたということぐらいだ。
あの時の不愉快な感触がいまだに忘れられない。
愛する者たちをこの手にかけたあの感触を……
三人が向かう先はルナヒスタリカ王国の東側、王国でも三本の指に入るほど繁栄している街であるサザンカである。
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ムードメーカーであったサリアがいなくなり、すっかり静かになってしまったセルジューク邸。
その最上階にあるセルジュークの個室。
数多くの骨董品や魔術用の道具が置き並べてあり、部屋のいたるところに魔法陣が刻印されている。
そこの窓からセルジュークは月を眺めていた。
「さぁ、こちらも準備を進めようじゃあないか〜」
いつも通り明るい笑みを彼は浮かべている。
そして、セルジュークは机上にあるテミスト城の間取り図へと目を移した。
その間取り図は一般人はおろか、大臣らですらその存在を知らない隠し通路がいくつも記入されている。
セルジュークはそれにあらかた目を通した後、それを机の引き出しの中へ大事そうに収納した。
セルジュークの瞳には光が灯っていない。
しかしその目つきは一世一代の覚悟を決めた者が宿すそれであった。
一方テミスト城、そこではつい先程入った情報により混乱が起こっていた。
「サザンカ周辺にて悪魔信仰者の動きあり。」
深い傷を負いながら、テミスト城に入城してきた警備兵、彼の倒れる間際の言葉である。
彼はいたるところに魔法による傷や裂傷を抱え込んでおり、治癒術師が懸命な治療を行ったにもかかわらずその命を落とした。
警備兵の男の命がけの伝言、この情報を聞いた王は急いで聖騎士を招集。
サザンカ方面への聖騎士軍出陣を勅命した。
やけに静かな夜の出来事であった……