少年の成長
少年は心を鉄に変えようとしていた。恐れを封じ込めなきゃいけないから。恐怖するのも仕方ない。眼前に立ちはだかるは、己の背丈の倍はある体高を持った化け物なのだから。
この世に生を受けてから出会った外敵の中でも、この鬼蜘蛛を超える威圧感を纏ったものはいなかった。五感が、身体が、本能が歴代最強の敵だと警鐘を鳴らしている。
だがしかし、それら五感、身体、本能は決して逃げろとは脅迫してこない。むしろ「警戒しろ、迎え撃つぞ」と臨戦態勢を整えさせんとしている。
少年は恐れている、目の前の強敵に生を奪われることを。少年は知っている、しかして一方的な虐殺を被るわけではないということを。少年は感じている、戦えると、己は搾取されるだけの被食者ではないことを。
歴代最強の敵を前に、少年は歴代最高の戦いを繰り広げられる自信がある。自らを信じる、勝利するに欠かせない心持を形作る。そのために恐怖を鎮めるという工程を挟むのだ。
決意は固まった。怯まない、臆さない。一心不乱に戦いに臨む覚悟ができた。死を恐れるな、恐れれば死が迫る。
なぁに、最悪は着ている肩当や胸当てで攻撃を受ければいい。被弾を恐れず、それでいて最小に、そう心掛ければ死には追い付かれない。
少年は生まれつきの三白眼をさらに鋭く研ぎ澄ます。銀色の前髪が風に揺れる。一人と一匹の間に緊張が走る。
少しの静寂を挟み、覚悟を決めたペルセースはゆっくりと腰の剣に手を伸ばす。
「かかってこい、この虫野郎!」
「ギシャアアアアアアアアアア」
ペルセースの啖呵、それを鏑矢とし彼と鬼蜘蛛との戦いの火蓋が切って落とされた。
見るからにひ弱で臆病、知恵も回るようではない。そんな人間なら餌とするのもたやすいというもの。鬼蜘蛛は人の子を喰らうべく、牙に毒を滴らせる。
戦華と幻刃は蜘蛛が恐れを抱くほどの存在感を放っていた、しかしペルセースは違う。そんな外にあふれ出るほどの威圧感は持たない。
つい先日までただの冴えない少年だったのだ、無理もない。彼女らは死線を潜った数が違うのだ、無理もない。
しかし、逆に威圧感がないことがペルセースを若干有利な状況に押しやった。ペルセースは警戒心を最大限に高め、対する鬼蜘蛛は完全に舐めてかかっていた。
ペルセースの実力を完全に見誤ったのだ。彼はそこまで弱者ではない。一般の女子供の類とは歴然たる差があるのに、蜘蛛はペルセースの実力をその程度、あってもそれより少し上程度にしか思っていなかった。
弱者を狩るなら余計な思考は要らない。ただ自らの巨躯に全てを委ね、突き進むだけでいい。雑魚はそれだけで屠れる。スナック感覚で喰らうのに最適な戦法だ。
この銀色をしたヒト科のオスも、たやすく胃袋の足しにできると踏んでいた。8本の脚を交互に蠢かせ、2つの眼を使って今夜のご馳走を品定めする。
鬼蜘蛛は目が2つある。目を2つに絞ることで、視界のぼやけを最小限に抑えられるように進化した。多ければ多いほど視野は広くなるが、視界はぼやける。少なければその逆だ。
敵から逃げるためじゃなく、敵を倒すため、鬼蜘蛛はより攻撃性能の高い方へと進化を遂げた。
ペルセースまでの距離感はおおむね正確、あとは目標目掛けて突っ走るだけ。強靭な脚を思いっきり動かし、大地を蹴り飛ばす。ペルセースと鬼蜘蛛との距離はあっという間になくなった。
迫りくる毒牙。ゼロ距離まで迫った蜘蛛がペルセースの首元を狙って目をぎらつかせる。滴る毒液はペルセースのすぐ横に落ちて、地面を溶かす。ペルセースの額に汗が滲みだす。
(あれを食らえばひとたまりもないな……)
その威力を目の当たりにして固唾を飲む。その牙が迫っているのだ、即座に対処をしなければ次に溶解するのは自分だ。ペルセースは頭を最大出力で働かせて何とかしのぐ術を模索する。
ただ幸いにも、敵の攻撃は単調な牙の攻撃だけ。敵は油断している。ここはどうにかして一撃を浴びせなければ。
ついに喉元まで迫った毒牙、あと数センチもすればペルセースの命は肉と共に溶けてなくなる。生と死のはざま、ペルセースは落ち着いて腰に下げた水王の剣を引き抜く。
「水剣流・吹送流」
牙が迫ったその瞬間、ペルセースは剣から発した水の流れに乗って、牙から逃れる。そして一旦逃れたら、すぐさま水流をUターンさせて鬼蜘蛛に斬りかかる。
水流がUの軌道を描いて敵から逃れ、即座にカウンターを決める技、吹送流がペルセースの選択だった。
ペルセースは目を凝らす。どこを狙うべきか、そしてどこが動いてくるか。
いきなり視界から消えた銀髪の少年、それに戸惑う鬼蜘蛛は、どうにか逃すまいと臀部から糸を出して360度回転を試みる。
しかし、そんなその場しのぎの方法は通じない。ペルセースの観察眼はなんとなくではあるが、次の動きを見透かしている。
「はああああああああ!」
敵の次に起こす行動は糸を射出しながらの左回転。左の一番前方の脚に体重を掛けようとしているのも分かった、ならば。
ペルセースは水王の剣を両手で持ち、そこにありったけの力を籠める。狙うは左前足の節目。そこを切り崩せば敵は体勢を崩すはず。
対する鬼蜘蛛は未だペルセースの姿を確認できていない。どこへ消えたのか探す動作すら見せないのは状況が全くもって呑み込めていないからだ。突然人間が視界から消えたことなぞ今までなかった。故に何が起こったのか予想すらつかない。
そんな無防備な蜘蛛に攻撃が通らないはずがない。最高級の剣を握ったペルセースは、最低の耐久度の節目を一気に切り裂いた。
ドシンッと大きな音を立てて、黒い脚が一本だけ持ち主から別れた。元居た場所からは若干緑っぽい、ほぼ無色透明な液体があふれ出している。
「ギァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
どうしてか発声器官を得てしまった巨大蜘蛛の叫び声が森中を埋め尽くした。一本、歩脚を失った。痛みはない、だが脚を失ったという衝撃と喪失感から叫ばずにはいられなかった。
痛覚こそ持たない蜘蛛だが、巨大なモンスター、鬼蜘蛛は下手に知能、感情の類を有している。それが仇となってしまっている。冷静な判断を欠き、力量を見極められず、そして現在はひどく取り乱している。
だが、この蜘蛛だってB級に坐するモンスター。すぐさま反撃の狼煙を挙げた。
脚を奪い、追撃を狙うペルセースが左方に攻め入ろうとしているのを確認、すぐさま鬼蜘蛛は糸を出し、身体を左回転させた。
ペルセースはそれを見切れなかった。攻撃に集中するあまり、観察眼の精度が落ちていた。敵の隙を突こうと攻めに没頭すると、視野が狭まりかえって不利になる。彼はまさしくその状況に陥った。
功を焦りすぎたのだ。気づいたときにはペルセースのすぐ横に糸が迫っていた。伸ばした糸を薙ぎ払う、単純ながらも強力な範囲攻撃がペルセースに直撃する。
「くっ、水剣流・渦潮封月」
糸に対し、上から切りつける。剣と糸との接触点を中心とし、身体を上へと持ち上げて回転する技。しかし遅すぎた。技の発動は未然に終わり、ペルセースは糸の鞭に腹部を強打された。
「うげぇぇ」
胃の内容物が出てきそうなほど強力な一撃、しかし鬼蜘蛛の攻撃はそれで終わりではなかった。この強靭な鞭は粘着力が最大の売り。腹部を強打した後、糸はペルセースに引っ付き、絡まった。
「身動きが取れない……くそっ!」
どうにか糸から抜け出そうと藻掻く、しかし全く持って糸がほどける気配はない。それを見て鬼蜘蛛は上機嫌になる。下等な人間が歩脚を斬り落とした報いだと。
喰ってしまおうとゆっくりと、それでいて軽快に歩み寄る蜘蛛を横目に、ペルセースは必死に次の策を練る。水王の剣でも切れない硬く粘っこい糸、いったいどう攻略したものか。
そうこうしているうちに蜘蛛はこちらに迫ってくる。あと数秒の内にどうにか抜け出さねば、ペルセースは餌となるのは確実だ。
「もっと剣の腕があれば、あの程度の糸をこの剣で切れないわけないのに。」
剣の性能を生かしきれない自身の不甲斐なさを嘆くが、すぐに頭を切り替える。そんなことをしている余裕はない。不要な思考を全て燃やし尽くす。
「そう、いらない考えは燃やしてしま……そうか、燃やせば!」
咄嗟に思いついた策をペルセースはさっそく実行に移す。蜘蛛の糸は熱に弱い。糸自体が焼失せずとも、粘り気は熱による変性で効力を失うはず。
「そうと決まれば、火魔法!」
最低級しか使えないが、今はそれで充分。火力不足からか、予想通り糸を焼ききれはしなかったが、粘性自体は除去できた。これなら、とペルセースは糸を振りほどく。
間一髪だった。ペルセースは鬼蜘蛛の毒牙を皮一枚で避けきった。ギリギリで糸から逃れたペルセースは、横っ飛びで蜘蛛から距離をとる。確実に寿命が縮まったであろうと心臓をバクバク鳴らせている。
ふと違和感を覚え、異音を鳴らす右の肩当に目をやる。そこには、逃げる刹那に滴り落ちた蜘蛛の猛毒がジュージューと音を立てて、凄まじい勢いで厚い鉄の板を溶かす姿があった。
「うぉああああ!」
あと少し気づくのが遅れたら、ペルセースの肩は溶けてなくなっていただろう。故に肝が冷える。ゾッとする。またしても死がそこまで迫っていたのだという実感が、ペルセースの恐怖を呼び起こさんと奮闘する。
それを何とか鎮め、体勢を立て直す。敵をしっかりと正面に見据え、剣をギュッと握り締める。鬼蜘蛛はまたもや逃した獲物を次こそは仕留めん、と襲い掛かる気満々である。
もうこの蜘蛛に油断はない。二度も逃げられた挙句、脚も奪われた。間違いなく、この男はただの餌ではなく敵である。スイッチを切り替えて、喰らうためではなく、殺すための殺しを行う態勢へと移行した。
それを観察眼によって察知したペルセースは、ならばこちらもと言わんばかりに剣を握り直す。一つ深呼吸をして気持ちを切り替える。
ここからは両者全力。油断も侮りも一切ない、真剣の殺し合いが始まる。鬼蜘蛛は全力で殺しにかかり、ペルセースは全身全霊を以て受け流す準備ができた。
第二ラウンド、野生の攻めと英知の技術とのぶつかり合いが今、幕を開ける。




