苦しみのオーケストラ
早朝。
晴天の気持ちのいい朝。
小鳥がさえずり、人々は深い眠りから目覚めて街の1日が始まる。
そんないつも通りの光景の中、宿場「テーラー」の1つの部屋に外の風景に似つかわしくない苦しみの音が響く。
「ゴホッ……ゴホッゴホッ」
激しい咳が静かな部屋の中で繰り返される。
咳が聞こえるたびに、その発生源である少女の、腰まで伸びた金髪が激しく揺れる。
それは風が吹いたときのような美しい揺れではなく、少女の受けている苦しみを表現するかのような髪の乱れであった。
継続的に苦しみが襲いかかる。
その苦しみのたびに真っ赤な飛沫が飛ぶ。
朦朧とした意識の中、己に降りかかっている痛みにサリアは苦しんでいる。
このままだと死ぬ、サリアはそう思った。
あまりの苦しみに状況が読み込めず、今ここがどこで自身が誰なのかすらあやふやだ。
ただ1つ彼女が分かるのは、この苦しみは決して夢ではないということくらいであった。
体が刻一刻と蝕まれて少しずつ、少しずつ、しかして早く命を奪いさろうとしていることを実感する。
苦しみの魔の手は決して遠くない。
このままだといずれは届いてしまう。
そうしていつか届けば、この朦朧とした意識も消え、サリア=メナスも消え去ることはわかりきっていた。
「お嬢様、お嬢様!!」
銀髪の美少女、レミーナが何度呼びかけようとサリアが目を覚ます気配はない。
自分の主人たるセルジュークの娘であるサリアを守れない自身の脆弱さに彼女は歯痒さを覚える。
咳をするたびに吐血して高熱を出しているサリアの苦しみは壮絶なものだ、それはこの光景を見れば痛いようにわかる。
助けなければ……そうは思うものの残酷な現実がレミーナを襲う。
「お嬢様は……赤息病です……」
赤息病というのは、ここ2、3年で急に発生し出したまだまだ研究の進んでいない未知の病である。
勿論のことだが、特効薬はおろか、症状を和らげることすらできない。
そんな絶望的な状況の中、レミーナはたった1人の希望にかけてみることにした。
「ゲ……ゲツヤ君ならサリアお嬢様を魔法で治療できるのではないでょうか?」
これまで常識離れの魔法を使って見せてきたゲツヤならあるいは……そんなレミーナの淡い期待は脆くも崩れ去ったのだった。
「すまない……そんな魔法は使えない」
ゲツヤがこの世界に来て得た知識の中に、回復系の魔法のことは一切含まれていなかった。
実力的な面ではいまやすっかり全幅の信頼を置くことのできるゲツヤ、彼にも不可能。
その事実はレミーナをさらに深い絶望へと叩き落とした。
赤息病は未知の病、しかしただ1つだけ分かっていることがある。
それは発症から8日目にその命がまるで、春の雪解けのように跡形もなく、儚く失われる ということだ。
8日、それは余りにも短い時間。
八方ふさがりであった。
「苦しそうだな……」
ゲツヤがサリアの苦しむ姿を見て感じたのは〈楽〉……ではなかった。
どこにもぶつけようのないその衝動は今までに感じたことのないものであった。
とにかく何かにぶつけたい。
ゲツヤの心は荒れ狂っていた。
レミーナが絶望に打ちひしがれ、ゲツヤが感情を荒ぶらせている、そんな中サリアの苦しむ姿を見て部屋を大慌てで飛び出したメーナは、客間を掃除していた頼れる父のもとへ駆け抜けた。
血を吐き、高い熱を発している、その病状を聞いたメーナの父は、掃除を放棄し娘の案内する客室まで走った。
大きな足音をたてて廊下を駆け抜ける。
客室が並ぶ区域まで来たそのとき、彼は1つの異常に感づいた。
どこの客室からも咳が絶え間なく聞こえてくるのである。
終わりを知らないその咳は、彼にここが地獄への道かと思わせた。
咳、咳、咳。
苦しむ人の叫びともいえるその咳は共鳴し、廊下を震わせた。
それはあまりにも汚く不調和な聞くことも苦痛なオーケストラの演奏のようであった。
所々から聞こえてくる泣き声……ベッドのシーツで鼻をすすり泣きじゃくるその声はただでさえ絶望的な中、さらに彼の心を痛めつけた。
それからしばらくたち、宿屋のフロントまで多くの客が押し寄せた。
宿の店主に人々が涙を流し、その声を荒げ、怒りに満ちた形相で訴えかける。
集団で赤息病にかかり、宿の従業員は一切かかっていない、そんな状況下では疑われても仕方のないことであった。
その訴える人々の中にはもちろんレミーナの姿もあった。
しかし店主は何も言えない、いや何も言ってはならない。
店主は客の安全という当たり前のことすら守れなかった自分に責任を感じ、その責任に今にも押しつぶされそうになっている。
赤息病発症者はサザンカ内の病院へと搬送された。
しかし、驚くべきことに赤息病患者が他にも多発しているのであった。
病院内は、終わることのない苦しみに首を締められている患者で溢れかえっていた。
宿の仕業でないと分かりある程度宿内の騒動が落ち着いた頃、客室で静まり返った空気の中、ただひたすら時間を無駄に過ごすゲツヤたちのもとを店主が訪れた。
夢のまた夢、お伽話のような夢。
そんな暖かく、優しい虚飾に包まれた御伽噺、店主はそれにすがりついたのだ。
「す……すみません、1つ伝えておきたいことがあるのですが……」
(私の所に来るな、近寄るな、誰も……何も……)
レミーナは部屋を訪ねてきた人物を内心拒絶する。
その訪ね人、この宿の店主は恐る恐る客室に入って来た。
ドアをゆっくりと開け、静かに音を立てぬよう閉じる、そのまるで周囲に悟られないようにしているかのような行動はレミーナの怒りの琴線に触れた。
「で……いっ……、出ていって!!」
「そ、そんな怒鳴らずに……娘、メーナから聞きました、あなた方なら信用ができると。」
「うるさい……うるさいうるさいうるさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい!!!!!!!」
(早く……お願いだから1人にしてよ……)
そんなレミーナの願いを店主は聞き入れてくれなかった。
いや、むしろレミーナに一筋の光をもたらしたのだった。
「赤息病を治せるかもしれないです。」
「「「え……えぇ!!」」」
その場にいた人(レミーナを含め、メーナとアティス)はそのあり得ない言葉に驚いた。
「で……でも赤息病は不治の病、治せるわけありませんよ……」
そう、治せないのだ。万に1つもないのだ。
レミーナはそう学んだし、学んでから治療法の開発に成功したなどという話も聞いたことはなかった。
それはアティスにも分かっているのか、驚きはしたもののとっさに冷静に返っていたようだ。
メーナは絶望から解放されたかのように喜んでいたが……
「私の先祖、この宿を建てた人がいまして、そのご先祖様は今からしても不思議な知識といいますか、発想といいますか、まあとにかく変わった人だったらしくて……」
「それで、そのご先祖様がどうかなさったのですか?」
「はい、ご先祖様の残した記録書に〈万能薬〉なるものの記述がございまして、なんでも、その薬は服用すると傷や病をたちまち治してしまうそうです。」
「それで、その〈万能薬〉とやらはどうすれば手に入るのですか?」
「サザンカから西に少し進んだ先にあるピュロン山の頂上付近に稀に生息するファルマコ草というクルクルと丸まった不思議な草から作れるそうです。」
「本当ですか?」
「確実とまでは言えませんが、ただ何もしないよりかはと……」
レミーナは胡散臭い、そう思いながらもこのたった一筋の光明に賭けるしかない、そう考えた。
この本当であるはずのないお伽話に頼ってしまうほど今のレミーナは冷静でなく、絶望の真っ只中にあったのだ。
ピュロン山に向かう、それが決定すると同時に探索の準備に取り掛かった。
聞く所によると、ピュロン山には魔物が生息しているらしく、下手に山を登ろうとすると命を落としかねないとのことであった。
ゲツヤはそれを聞き、怯えはしないものの警戒心を解かないようにと心に刻んだ。
どうしてか、ゲツヤの左腕は茶髪の猫耳をぴくぴくと動かす少女メーナに占領されている。
べったりと引っ付いて離れる様子のないメーナは、ゲツヤたちについてくるつもりのようであった。
ゲツヤの後ろでセカセカと準備している兄のアティスもついてくるようだ。
どちらも身長140ほどの小柄だが果たして自分の身くらいは自分で守れるのだろうか、とゲツヤは疑う。
ゲツヤはそんな今まで気にしたこともないようなことを気にする今の自分に多少なりとも違和感を感じていた。
その違和感は気持ち悪くはなく、むしろ少し心地よいと思えるものであった。
しかし、病床のサリアを思い出すたびに心の底から湧き出るこの感情の荒ぶりは心地よくなかった。
「この子たち、ついて来ようとしてるみたいですけど……?」
ゲツヤの疑問を先に聞いてくれる、気が利いていて頼りになる、流石はレミーナといったところである。
「この2人はまだ兄が15歳、妹が14歳と幼いですが、実力は確かです。きっとあなた方の助けになるでしょう。」
この店主はよほど息子、娘を信頼しているのだなとゲツヤは感じた。
「ボクの火魔法は最強ーー!にーちゃんの反射魔法も最強ーー!2人揃えば絶対に負けないもんねー!」
「あたしは補助魔法しかできないから、攻撃はヨロシクね!」
(まあ、本人たちも自信に満ち溢れているようだし、万が一の時は俺が動けばいい)
この世界に来てしばらくたちゲツヤが相当強い部類に入っていることが分かった。
この2人くらいなら簡単に守れるだろう、そんな自身が少なからずゲツヤの中に存在していた。
「それでは、行って参ります……お嬢様、必ずお助け致します!」
必ず救うという決意、何としてでも助けるという覚悟、レミーナは断固たる心情でサザンカの門から外へと歩みでた。
レミーナは守護人としての役目を果たせなかった。
その罪滅ぼしをする。
それだけが絶望に抗う原動力であった。
幼い頃からの付き合いであるサリアに、上下関係のある中だとしても、深い親愛をレミーナは持っていた。
そんな幼馴染ともいえるサリアの消失、それだけは許せない。
そうさせることとなった自分を許せない。
レミーナは自分への怒りを糧にピュロン山への道のりを進むのであった。
その後ろをついて行くゲツヤはこの荒れ狂う感情を魔物にぶつけるべく、殺気を高め、背中にメーナ、頭にアティスを乗せ一歩一歩、その目的地まで続く草原を駆け抜ける。
その先に待つかもしれないたった1つの希望を信じて……




