プロローグ
雲ひとつない満月の夜だった。
そこは、大通りから外れた狭くて薄暗く、人通りなど皆無の路地裏。
普段ならば、決して声など聞こえるはずがない場所である、だがしかしこの日は違った。
怒りという名の感情に任せた叫び、常人なら少なくとも怯みはするであろう、大声が響いたのだ。
「おいてめぇ、痛い目に遭いたくなきゃ金だしな!そのあといっぱい可愛がってやるからよぉ!!」
「人通りの無いところに近づくな」誰しもが幼い頃に教えられたことがあろう一言。
いったいそれは何故か、悪党が巣窟とする可能性が極めて高いからだ。
普通誰でもわかるようなことである。暗い場所では悪事を働いても明るみに出にくい。それを分かって悪党らは好んで暗がりを住処とする。
だが、その教えに反する場所に響いた怒鳴り声は、その場に何者かが迷い込んだ、ということを告げている。
中肉中背で短い茶髪が特徴のこの男、彼こそが怒鳴り声を上げた張本人である。
彼は常日頃からこの近辺の路地裏に出没しては、迷い込んだ子羊を喰らっている、カツアゲの常習犯であった。
そんな彼の狩場、そこに一人の少女が迷い込んでしまったのだ。
肩まで伸びた黒髪に凍りつくような眼、そして一つとして感情を表に出さない人形のように整った顔。
カツアゲ常習犯は、この自分より背の低い165センチほどの背丈の少女をこの日の獲物と決めた。
明らかに自分より弱そうな少女の襟をカツアゲ常習犯は掴み持ち上げ、少女が逃げられないようにする。
ゆっくりと宙にあげられ、息も満足にできないであろう少女はピクリとも動かない。
それどころか、不思議とその顔には苦悶の表情一つすら浮かんでいなかった。
「……」
普通の人ならば、どうにかして逃げ、助けを求める以外の選択肢などない状況。
そんな中でも、少女は無表情と沈黙を貫いている。
持ち上げられた少女の冷ややかな瞳は、カツアゲ常習犯を写している。
「金を出す気は無い……ってか?舐めやがって、ぶっ殺すぞ!?」
物怖じしない少女の態度、それに苛立ちを覚えたカツアゲ常習犯が再び怒声を放ち、少女の襟を掴む手に込める力を強める。
カツアゲ常習犯は力を強めることで少女の恐怖心を仰ぎ金を出させようと画策する、しかし……
「殺す?ふっ……。」
少女は、左目を隠し肩まで伸びるその吸い込まれそうな漆黒の髪を揺らし、不気味に笑った。
その、この世の全てを嘲笑うかのような少女の表情はチンピラの心に恐怖を植え付ける。
まるで少女の笑みが自分の心臓……いや命そのものを撫で回し、弄んでいるかのような感覚。
彼女の笑みの何がそう感じさせるのかは分からない、だが身の危険が迫っている……ただそれだけは分かる。
脳から幾度となく危険信号が発せられる。
生まれて初めて味わった死の恐怖。
しかし幸いなことなのかどうか……カツアゲ常習犯がそれを感じたのはほんの短い時間であった。
一瞬のことだ。
カツアゲ常習犯は、音もなく、瞬時に、無駄なく喉に穴を開けられ、そして地面に倒れ伏した。
喉に生じた穴からは、辛うじて動いている心臓の拍動に合わせてドクドクと血が流れ出ている。
夜空の寒さが噴出した血の温もりをあっという間に奪い去っていく。
彼の首に風穴を開けた張本人、少女は死に絶えたカツアゲ犯を冷たく見下す。
どこから取り出したのだろうか、少女の手には血が滴るアイスピックが握られていた。
彼女はそれを振り、滴る血液を落とす。
アイスピックからは軽快な風を切る音が流れる。
彼女の手に握られたアイスピックという名の凶器は月光を反射して鈍く光っていた。
「10人目か……」
少女はそう呟いて、脚を動かし始める。
そして何事もなかったかのように大通りへと溶け込んだ。
どうしてなのか、彼女が路地裏から大通りに紛れ込んだことに気づく者は誰もいない。
彼女はこうして、人生において10人目の殺人を犯したのであった。
誰にも見つかることのない完全犯罪として……
人を殺しても満たされることのない心。
そこにはポッカリと埋まることのない大きな大きな穴が空いていた。
翌朝、少女はごく当たり前のように高校へ登校
した。
否、少女ではない。制服は男物のブレザーである。
少女、もとい少年はその中性的な見た目から、女性と見間違われることが多々あった。
それを発端としたイザコザもあったのだが、仇なす者は皆殺しにしてきた。
その結果こそ、今の殺人者たる彼の存在そのものであった。
幾人殺せど、彼の心が揺れ動く気配は無かった。
当然この日も心的変化は一切ない。
いや、元より変化する心を彼は備え合わせていないのだ。
喜怒哀楽の欠如した少年、勿論のこと学校生活がうまくいくはずもない。
友人など当然のようにおらず、クラスメイトから名前すら覚えられていない。
挙げ句の果てには担任の教師にまで忘れ去られる始末。
運動、成績ともに学年でもトップの部類に入るが、それでもどうしてか彼の存在は空気のようなものであった。
少年のことを気に止めるものなどたった一人として存在しない、そしてその事を彼も気にしてなどこれっぽっちもいなかった。
かつて彼のことを気に留めていた両親や、たった1人の友人はもうこの世にはいなかった。
残ってるものといえば、数えてもいいか分からない、疎遠な親戚がいるくらいだろうか。
それが彼の孤独に拍車をかけているのかどうかはわからない。
だが少なくとも、そのことが彼に関わる事象の減少に繋がっているのは確かであった。
関わる人がいなければ、関わる事案も皆無となる。
故に、少年の送ってきた日々は一日一日にほとんど差異がない。
強いて言えば、殺人を犯した日だけ変化が訪れる。
それ故か、彼は殺人により何かが変わるやもしれないと思っていた。
それが例え逮捕、もしくは返り討ちにあって死に至るという結末であろうともだ。
しかしそんなことは一切なく、ただひたすらに同じ作業を繰り返し、やがては老いて死にゆくのを待つだけ。
どうしてか、彼には自身の未来がそうなることがはっきりと分かる。
感情が希薄な少年だが、このことに僅かばかり嫌気が差していた。
先の見えた人生、そこへ向かうだけである毎日の生活に何の意味があるのだろうか。
犯した殺人も、愉快犯ではなく何か被害を受けたから殺す、つまりは彼の中で正当防衛という形で考えられている。
最初の殺人を犯して以降、降りかかる火の粉への抵抗法は殺すことに拘った。
殺してしまえば次はないと。
人を殺すことで何かを得られるはずだと。
だが、10人殺して気付いた。
何も得られなかった、そしてこれからもなにも得られることはないのだと。
少年は人を殺すことへの抵抗がない故か、自分の命すらも軽んじていた。
いや、むしろ自分の命は他人のものより軽んじている。
生きていてもどうしようもない犯罪者。
死んでしまえば何もかも無くなる。
僅かな感情を揺さぶる虚無感も消し去ることができる。
それでいい、いや、それがいい。
学校の昼食時間が終わる頃、席を立ち、ふらりと歩み始めた少年は、ゆっくりゆっくりと校舎の屋上を目指す。
誰にも気づかれることなく、教室、学校にその存在は元から無かったかのように。
午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。
屋上に一際強い風が吹いた……その日1日は全く風が吹かなかったというのに。
強風が空へ身を投げ出した少年を運ぶ。
そう、死へ続く道へと。
少年は誰にも気づかれることなく学校の屋上から落下し、わずか16年という短い人生に終止符を打った。
彼の遺体はその後見つかることなく、それどころか一切捜索も行われることなく、彼の存在は闇の中に消えていった。