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脱鼠の如く  作者: 朝森雉乃
第一章:とんずら丈雲
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盤桜家の棲み処

 そうして結局、迷いは拭い切れぬまま、盤桜家の棲み処までやってきてしまった。

「ええい、ただ旧友と会いに来ただけではないか」

 自らを鼓舞するために声を出すと、私は歩を進めた。懐かしい、由木彦とふざけ合った日々がなにもかも昨日のように思い出される。だが、見知った道を進むうち、昔とはさまざまなことが変わったことを痛感せざるを得なかった。いたずらにかじった歯跡も、宝物と称したくずを隠した秘密の場所も、記憶の中にはあるが、さて実際にたどり着こうとしても右か左か分からない。かろうじて本家の方向が分かるのみで、その記憶を辿って歩くしかない。

 進んでゆくうち、盤桜家の者がちらほらと見え隠れするようになった。さすがに道中のように飛びかかってくる阿呆はいない。何匹か、私に会釈をして通り過ぎたチュダイもいた。彼らは私を秤山家のお尋ね者だと分かっていながら黙認をしているようだ。ひとまず安心である。亮雲の声が掛かっていないか、掛かっていたとしても私を突き出して懸賞米を得ようという浅ましい考えの者が盤桜家にはいないのか、ともかくここではこそこそする必要もない。私はぐうっと背筋を伸ばして、尻尾を思う存分しならせ、全身のコリをほぐした。

 奥へ進むと、ますます見知った顔が増えてくる。中には私に声をかけてくるチュダイもいた。昔いたずらを吹っ掛けた連中である。餓鬼くさい行いの数々を思い出し、申し訳ない気持ちになりながら、会釈を返して先へ進む。そしてついに、本家の棲まいにたどり着いた。

「失礼する」

 声をかけると、顔を見せたのは若い雄チュダイであった。彼は素っ頓狂な声を上げた。

「あれぇ、丈雲の兄ちゃん。ひっさしぶり! ちょい待ってて、由木()ぃ呼んでくる」

 よく見れば盤桜家の次弟、由有葉(ゆうは)である。小さいころにいろいろと悪知恵を吹き込んで、由香里に叱られたことがあったが、今や立派な雄になっていた。

 ぱっと奥に向かおうとする由有葉を呼び止めて、私は今日は由木彦に会いに来たのではないことを告げた。すると若造はいやに含みのある笑みを浮かべた。

「えっ、まさか今日は姉ちゃん? あはっ、じゃあ上がんなよ。へへ、姉ちゃん喜ぶよ」

 なにやら気になることをいうが、ともかく由有葉について進んでいく。ついに由依花と逢う時が来たのである。緊張を押し殺そうと前足を握りしめていると、前方に由依花の姿が見えた。由有葉に声をかけられて見返った姿はまさに芍薬、美しさはいや増すばかりである。

 そしてなんと、私を見るなり、信じられない速さで首筋に跳びついてきたのであった。

「ああ、丈雲さん! 丈雲さん! 心配したのですよ! なぜあんな大それたことを!」


 惚れた雌が、久しぶりに会ったとたん首にかじりついてきて、動揺しない雄がいるだろうか。私は大きく一はねした心臓が飛び出さないよう口を強くつぐんで、由依花の体を両前足で押しのけるだけで精いっぱいだった。

「な、なにをしたというのだ、私は久しぶりに会いに来ただけだ」

 私はどもりながらも、その聡明な瞳に涙を浮かべる由依花に見惚れざるを得なかった。

「とぼけないでください。はあ、ご無事でよかった! もうお会いできないとばかり思っていました」

 由依花は首を振りながら、もう一度私にしがみついた。ここで、私はようやくたどたどしいながら彼雌の背中をなでてやったのである。前にいる由有葉のにやにやとした視線が邪魔くさいが、由有葉は気を利かせて立ち去るつもりはないようだった。

「なんだかわからんが、心配をかけてしまったようだな。悪かった」

「もうそんなことはよいのです。本当ですよね、本当の丈雲さんですよね。丈雲さんが死んでしまったら兄が悲しみます」

 由依花の何気ない一言である。私は背中をなでる手を止めた。ため息をこぼしそうになったが、たとえ惚れた雌になんとも思われていなかろうが、一途に信じるのが雄というものだ。泣きそうになどなってはいない。

 それよりも、気になるのは由依花がこれほど取り乱す理由である。なにやら、私は死ぬかもしれぬ大それたことをやってのけて、それでしばらく世間から姿を消していたことになっているようだ。だが、身に覚えがないのは、読者諸賢もご存知かと思う。

 私が首をかしげていると、横の由有葉が口を開いた。

「それで? 丈雲の兄ちゃん。ヒイクにはどんなことをされた? やっぱりいやらしい手口で拷問されたりするの? よく逃げてこられたよね! それとも、佐樹草筒次に一発お見舞いできた? 斎新の鼻はあかせられたの?」

 矢継ぎ早の質問は、全てどうにも答えようのないものばかりである。私は今一度由依花の体を押しやった。

「待て、なぜヒイクが出てくる? 私は、ここしばらく滝緒家に遊びに行っていただけだ」

 私がいうと、由依花も由有葉も毒気を抜かれたような顔になった。由依花がへなへなと地べたにへたりこんだ。

「では独断で帆河家と結託し、佐樹草家と斎家に殴りこんだというのは、どなたですか?」


 根も葉もない流言であることをもう一度説くと、由依花は更に大声をあげて泣いた。といっても、今度は泣き笑いである。「本当に、本当に良かったです」と繰り返ししゃくりあげながら、前足で子鼠のように涙を拭う姿は実に愛らしい。これほどまでに他鼠を思える者がいるだろうか。思わず私も涙ぐみ、くしゃみをするふりをしてそっと目尻をこすった。

 そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、悪友由木彦と、盤桜家家督である盤桜由香里がやってきた。私の姿を見たとたん腰を抜かすほど驚いて、由木彦などは「いつ戻ってきやがった、このひょうろく玉め!」と口汚く罵ってきた。もちろんそのあと、二匹にも由依花と同じようにもみくちゃにされたことは述べるべくもない。

 いったい、秤山家の者よりも、盤桜家にこれほど跳びつかれるとは思いもよらず、私は柄にもなく頭を下げて、心配をかけたことを詫びた。

「それにしても、そんな下らぬ噂の出どころはどこなのだ。だいたい、なぜ封風叔父や亮雲はそんな噂を野放しにしていたのだ」

 皆が一通り落ち着いてきたころ、私は状況を把握するために、気にかかっていたことを問うた。盤桜一家は互いに目を合わせて、それから由香里が一歩前に出た。

「丈雲くん、貴方は案外危うい立場になっていることをご理解なさい。発端にいったいなにがあったのかは知りませんが、一月も見ていなければ、鼠の世は大分様変わりします。いくら滝緒さんたちが良くしてくれたとはいえ、貴方自身の意識が変化を受け入れなければ、渡世感覚はすぐにずれてしまう。それこそ、家族とも行き違いが生じるというもの」

 嫌な予感に全身が総毛立つ。意志に反してぴくっと尻尾が動くのは、私の昔からの癖である。由香里は爪をじっと見つめている。

「ええ、そうです。私はその噂を亮雲くんから直接聞きました」

 由香里は、関東チュダイでも随一に頭の切れる美しい雌である。亮雲に騙された悔しさよりも、すでにその理由について思いを巡らせているようだった。おかげで、私も亮雲への怒りこそあれ、恨み言を口走るよりも奴の狙いを見極める方が先決であると気づかされた。

「しかし、亮雲は私に懸賞をかけていたはずだ。ここへ来る道中、胡乱な目をした連中に幾度も襲われたぞ。ヒイクの元に行ったという飛語を広めつつ、懸賞をかけるのは矛盾してはいまいか」

 私が考えを整理するために口を開くと、由木彦は目をぱちくりさせた。

「最近そういった懸賞の話は聞かないな。もっぱらヒイク博打しか話題に上らないぞ」


 由木彦だけではない。由香里も由依花も由有葉も口を揃えていうことには、亮雲が盤桜家に来た時、本当に心配そうに私がヒイクに喧嘩を売りに行ったことを報告したのだという。あまりに肩を落とし、涙さえ流しそうな亮雲を見かねて、由香里はとっておきのチーズを奴に振る舞ってやったとか。

「だが、だがしかし、秤山家の丈雲と、きゃつらは確かに私の名前を口にした。その名前に呼応して、さらに多くの者が私を追ってきた。確かに私には懸賞が掛けられているはずだ」

 私は動揺して、二、三歩後じさりをした。とっさに由香里を見ると、彼雌は目を閉じて考えているようだった。

「あなたの方が、亮雲くんのことを貶めようと嘘をついていることはないのですね?」

 由香里が目を閉じたまま、ぽそりとつぶやいた。相変わらず、全ての可能性を一度吟味する慎重さである。私はひげがぞわぞわする感覚を振り払おうと首を振った。

「なんなら、秋伍に問い合わせればいい」

「そうですね。では、あなたに懸賞が掛けられていることは信じましょう。ですが、それは表立ったものではない。この放蕩者の由木彦が知らないのなら、それは闇懸賞です」

「ちょっと母さん、随分ないい方じゃないか。でも、いうことには同意する。さっきの君の『襲われた』といういい方にしても、随分物騒じゃないか。鼠探しというレベルじゃない」

 由木彦も後ろ足で耳の後ろをかきながら、私へ強い目を向けた。

「もしかすると亮雲くんは、なにか企んでいるのかもしれないな」

 亮雲が一族会議で見せた堂々たる姿を思い出して、私は背筋が凍る思いだった。私はもう一歩後じさりをして、「闇懸賞だと」とつぶやくので精いっぱいだった。

 闇懸賞とは、対象者について生死を問わず、捕えてきた者に報奨を支払おうという懸賞のことである。世のはぐれ者どもしか知らないようなどす黒い噂でしか、その存在は口にされず、世間一般にはただの怪談でしかない。そんなものに、私が狙われ、しかも依頼者が弟であるなどと、すぐには受け入れがたい話である。

「闇懸賞をかけたのは、亮雲以外の者かもしれぬではないか」

 あまりに気が動転した私は、かすれた声で思ってもいないことを口走った。由依花が可哀想なものを見る目で私を見ている。この中で一番若い由有葉でさえ、厳しい顔で考え込んでいる。由香里が近寄ってきて、左右に泳ぐ私の目をぐっと覗き込んだ。

「私たちを騙した亮雲くんの狙いがどこにあるか、考えなければなりません」

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