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脱鼠の如く  作者: 朝森雉乃
第四章:丈雲と瀬穏
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縄張り境の静寂に

 当初の予定とは案内鼠が違ったものの、氷雲と私は、ついに帆河家の縄張りまでたどり着いた。ここから先は透も詳しく知らない道である。

 噂に聞く限り、帆河家は、チュダイもヒイクもひっくるめて、関東鼠の中では最も特殊な家系であるといえよう。なにせその祖先にチュダイとヒイクの混血を認めているのだ。ヒイクながらにチュダイ並みの大柄な鼠が揃っていながら、気質は穏やかさを誇りとしている。他のどの家とも深く交流を持たないのは、チュダイとヒイクの不仲を嘆かない鼠を嫌うかららしい。つまりそれは、現状では関東ヒイクの全ての家と対立することを意味する。それゆえに、帆河家は嫁を迎えるにも婿を取るにも、せいぜい傍系の家のみに限られる。血統の純粋さに限れば、帆河家は他の追随を許さない。

 もしかすると、滝緒家の者とならば気が合う可能性もないではないが、今までに両家の交流があったという話は聞かない。もっとも、万が一付き合いがあったとして、滝緒の宗教狂いに辟易するだけかもしれないが。

「総じて、どうにも得体の知れない家であるというわけか」

 透から聞いた帆河家の評判も、チュダイの間でささやかれるものと大して変わり映えしない。私は首の後ろを掻きながら、しばしこれからどうするか思案した。

「帆河家の方々は荒事がお嫌いです。いきなり襲われるようなことはありませんでしょう」

 透は微笑んで一言つぶやくと、当然のように歩を進めた。

 私と氷雲は目を見合わせた。盤桜家の隠れ処で栄と話し合った計画では、案内は斎家の縄張りまでという約束だったからだ。いくら帆河が優しい気質といえどもここから先は危険が伴う。なりゆきで先導を頼んだ透に、これ以上我々と付き合う義理はない。

 しかし、そのことを私から切り出すことは出来なかった。なにせ、透に斎家を裏切らせたのは私である。いくら新が建前上透を我々の付き添いと認めてくれているとしても、少なくともしばらくは家に戻ることなど出来まい。まして、透があの家を疎ましく思っていると知っているのだ、どうして案内はもうよいと申し出ることが出来ようか。豆をサヤから出しておきながら、かじることすらせず捨ておくような非道である。

 氷雲も掛ける言葉が見つからないのか、ひょいと肩をすくめた。

「まあ、透さんと一緒に旅が出来るのはうれしいよ」

 あとを追って駆けていく氷雲の尻尾はピンと伸びている。つくづく氷雲を羨ましく思いながら、私も後に続いた。


 帆河家の縄張りはいやに静かで、なるほど新がいっていたようにひとかたならぬ雰囲気を漂わせている。この静けさを死臭と評したのかどうかは定かではないが、一匹の鼠ともすれ違うことなく夜を迎えてしまった。縄張りを保つよりも重大なことが起こっているのは、鋭い洞察眼を持つ鼠ならば気づいて当然であろう。

「今日はもう休みましょう」

 透はというと、やけに朗らかな様子で、我々二匹との旅を楽しんでいるように見えた。くるりと尻尾を体に巻きつけて、腰を下ろす姿にも余裕が感じられる。氷雲がじゃれて背中をこすりつけると、彼雌はまんざらでもなさそうに体を揺らした。

 どうにも透の態度は腑に落ちない。斎家の棲み処で良くしてくれたのは、彼雌が我々をヒイクだと思い込んでいたからだと思っていた。しかし、栄からことの顛末をつまびらかにされて、我々が嘘をついていたことを知ってからも、彼雌は変わらず氷雲を甘やかし、私に複雑な感情を込めた目を送ってくる。そこには一抹の軽蔑もなく、ヒイクがチュダイに取る態度としては、まさに奇異といっていい。

 もっとも、透が我々を疎んじないのは、氷雲にほだされたからと考えればさもありなん、むしろ悪感情を抱かれていないのは歓迎すべき事柄である。気にかかるのはまた別のことで、しかし、そのことについて透と言葉を交わすべきかどうか、私は決心がつかないでいた。

 つまり、透はなぜ、一匹で出奔するような真似を是としたのかということだ。聞く限り、彼雌には明という妹がいるはずで、透は妹を守ってやれなかったと悔いていた。おそらく、斎家に養子に入ることそのものが、透、明姉妹にとって耐えがたい出来事だったのだろう。そんな状況の中で、どうにか立場を悪くしないために、新や栄に徹底的に媚びることを選んだ彼雌が、今さら妹を見放すとも思えなかった。

 私は氷雲と透がじゃれ合っているのを見ながら、ついひげを噛みそうになるのをじっとこらえた。透はきっと思惑を持って我々についてきている。その思惑が、今のところ我々の目的と合致しているだけに過ぎない。信用ならない鼠ではないだろうが、彼雌には彼雌の目的があることだけは常に意識しておく必要がある。

 氷雲が遊び疲れて寝てしまうと、透はあくびをひとつ噛み殺した。私は居心地の良い場所を探すふりをして、彼雌からさりげなく視線を外した。

 今はこれ以上、透の事情を慮ってやる余裕がない。この静かで広い縄張りの中で、どうやって帆河瀬穏までたどり着くかを考えなければならなかった。


「やみくもに歩いても仕方あるまい。帆河家の本家に向かうにはどちらへ行けばよいのか、目星はついているのか?」

 翌朝、起きて早々出発しようとする透に、私は声を掛けた。栄は斎家と帆河家に付き合いがないとはっきりいっていた。ならば、透も本家の場所を知るはずがない。いったいどうするつもりなのか、彼雌の考えを推し量りたかったのだ。

 透は首をわずかにかしげて、逆に私に問いかけるような目をした。

「ともかく縄張りの中心に向かえば、誰か鼠と会うこともありましょう。そうしたら道を尋ねればいいのではないのですか?」

 なるほど、もっともな答えだ。瞳にも、騙そうとしているような濁りはない。なぜこのような当然のことを気にしているのかというような、いぶかしげな口調である。

 だが、その行動にはいささか問題がある。現家督を幽閉しているという本家へ、帆河家でもその分家でもない鼠を案内してくれる鼠はいないはずなのだ。道案内を頼みでもすれば、案内するふりでそのまま追い出されればいい方、最悪の場合帆河家に害を為す者として、どこかへ閉じ込められた挙句に飢え死にさせられるかもしれない。はるばるやってきて、そんな結末は是非とも避けたいものである。

 もちろん、家督である帆河淵芳がもうろくして、家の者に軟禁されていることなど、帆河家と秤山家の鼠しか知らないのだ。透がきょとんとしているのも無理はない。一瞬躊躇したが、私は透に帆河家の現状について知っていることを打ち明けることにした。会議で話を聞いていなかった氷雲に、改めて説明することも兼ねてである。たったひとつ、帆河瀬穏が父上の隠し子であることだけは伏せた。そのせいで、帆河家が秤山家の長子たる私に婚姻の話を持ち掛けてきた理由については曖昧になってしまった。

 だが、透はそれを追及するほどうっとうしい鼠ではなかったらしい。私の話が終わると、彼雌はほうとため息をついた。

「帆河瀬穏さん、なんと哀れな……あ、いえ、丈雲さんのことを悪くいうつもりはないのです。つがう鼠を他鼠に決められるのは、とても痛ましいと思います」

 私は思わず苦笑いをもらした。

「お前がいうと、妙な迫力があるな」

「あら、そうでしょうか? きっと、昨晩の銀月にあてられたのでしょう」

 透は婉然と微笑んで、私の肩にそっと前足を置いた。


 その前足は、たしかに透が私への憐れみを示したものである。しかるに、私の気分は曇ることがなかった。透に同情されるのと、栄に鼻で笑われるのと、どちらもヒイクから見下されていることに変わりはないというのに、腹から怒気がこみ上げないのである。

 己自身の感情の齟齬に戸惑っていると、透はすぐに火傷をしたかのように腕をひっこめた。どうやら私の困惑を表情から読み取ったようで、気まずそうに目をそらしている。そういう顔をされると、なぜか私も気まずい思いをしてしまうものだから不思議である。なにかいいわけをするべきかと思案していると、横から氷雲が脇腹をつついてきた。

 振り向くと、氷雲はぱっと顔を輝かせた。

「じゃあさ、会った帆河家の鼠に、兄ちゃんは秤山丈雲だってことを明かせば、喜んで本家まで連れていってくれるんじゃないの?」

 氷雲はまるで、これが関東一の名案だとでもいいたげに、ひげをふんふんとうごめかせていた。

 あきれた弟である。私の正体は絶対に明かさないということを条件に、この道のりへ随行しているということを忘れたのだろうか。一喝叱りつけてやろうと息を吸ったが、その空気はそのまま、胸の中でむせるだけに使われた。

 それというのも、あろうことか透があっさりとうなずいたからである。

「道理です。ただ、お話を聞くに、秤山亮雲だと名乗ったほうが、ことはすんなりと進むのではないかと」

「待て、待て待て!」

 苦しい胸をなんとか押さえながら、私は声を絞り出した。

「なにをいい出すかと思えば、一番やってはいけないことを堂々と! 私が秤山家の者だと表明してしまえば――」

「ええ、帆河家の皆さまは待ち焦がれた婿殿の到来ですもの。諸前足を挙げての大歓迎をしてくださるはずですわ」

 透は私をからかって、栄に媚びていた時のねっとりとした声で言葉を継いだ。

「それでは私が逃げた甲斐がないではないか! 知らないヒイクの婿になんぞなりたくないからこうして必死になっているというのに、本末転倒も甚だしいぞ」

 私は悲痛に叫んだが、氷雲と透は笑みを浮かべながら目を見合わせるばかりだった。

「二対一で、作戦遂行決定じゃないかな、兄ちゃん?」


 愕然として言葉を失っていると、二匹は堪えきれないとばかりに吹き出した。

「失敬、丈雲さん。もちろん、本末転倒とおっしゃる意味は分かります」

 透は前足で口元を押さえながら、居住まいを正した。

「つまり、氷雲さんは、丈雲さんに帆河家の婿になれといいたいのではありません。帆河家の婿に、丈雲さんがなりすます、とでもいいましょうか」

 透が意味深ないい回しを使うと、氷雲が得意そうに尻尾を振りながら言葉を継いだ。

「そうそう、兄ちゃんは、帆河家へ婿に行くつもりはないんでしょ? だったら、それはそれでいいんだ。重要なのは、帆河家の鼠たちは兄ちゃんが婿に来ると思っているってことと、僕たちが帆河家の本家に行きたいっていうこと。この二点だけを考えれば、秤山の名前を出すのが一番早い。帆河家の鼠たちはようやくの婿の来訪を歓迎するし、僕たちは本家まで一直線で行ける」

 氷雲は言葉の端々に、わざと強調を入れながら話していた。そのおかげで、徐々に私も弟のいいたいことが分かるようになってきた。

「つまり、端的にいえば、正面切って帆河家に乗りこんで、瀬穏の目の前で婿になる気はないと宣言しろということか」

 氷雲は少しきょとんとしたあと、ゆっくりとうなずいた。

「うん、まあ、それでもいいかも。僕がいいたかったのは、帆河家で瀬穏さんと話したら、そのまま隙を見て逃げだせばってことだったけど」

 弟の驚く顔を見て、一番驚いたのは私である。たしかに氷雲のいう通り、目的を達した後に逃げるという選択は、私の得意とするところであったはずだ。氷雲もそのことを承知の上で策を提案しただろうに、当の私が逃げの作戦を考えもしなかったのである。

 とんずら丈雲と異名をいや悪名を馳せた私らしからぬ思考のほつれは、ただ一時の気の迷いであったのかもしれない。氷雲に指摘されればなるほどその通り、こっそり逃げる方が何倍も楽である。私と氷雲の二匹旅であったなら、この違和感を曖昧に笑い飛ばして、潜入後逃亡の作戦に舵を切っていたところだろう。

 それを許さなかったのは、当然三匹目の同行者、透であった。彼雌はあっけにとられ合っている我々兄弟の横で、前足同士をパンと叩き合わせた。

「丈雲さん、貴方を少しばかり見くびっていた私をお許しください。帆河家にも秤山家にも嘘をつかない道を歩もうというのですね。もっとも誠実で、もっとも困難な道を」

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