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脱鼠の如く  作者: 朝森雉乃
第三章:丈と氷
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泥をすすれ

「それで、俺に帆河家までの案内をしろというのか」

 四日後、穴倉にやってきた斎栄は、即刻断りたいといわんばかりに、蛾を噛み潰したようなしかめ面をした。私は奴を組み伏せたくなる衝動をぐっとこらえた。

 ただでさえ、ヒイクに頼みごとをするくらいなら尻尾に結び目が出来る方がましなのだ。それを最大限譲歩しているというのに、こうも失礼な態度を取られるなど、堪えがたいにも程がある。しかし、私も氷雲も、ヒイク社会へのつてなど他に持っていなかった。栄に頼るしかないのである。

 由依花はといえば、同席はしてくれたものの、盤桜家としてこれ以上斎家に貸しを作るわけにいかないと口をつぐんでいる。いったいどんな約束をしたのか知らないが、栄は私と氷雲の二匹で説得するしかなかった。

 氷雲は、栄に対して悪感情を持っていないから、断られるとは微塵も思っていないらしい。にこにこと笑いながら、すでに帆河瀬穏に会った時にどう声をかけるか、妄想をふくらませているようであった。そんな弟を見ると、つい毒気を抜かれてしまう。私は深呼吸をすると、もう一度栄に向かって提案を繰り返した。

「君も知っての通り、今は私も氷雲も秤山家から疎んじられている。だが、今だけだ。亮雲の暴走を止めて、チュダイ社会に平穏が戻れば、我々は必ずまた秤山家での地位を保証される。そうした暁には、斎家を応援して、佐樹草家を没落させる助力もしよう。だから今、我々に前足を貸してはくれまいか」

 栄はいけ好かないヒイクだが、決して頭が悪い訳ではない。すでに盤桜家と密接な関係であり、その上秤山家とも互助関係を築けば、斎家に益ありと判断すると私は踏んでいた。

 だが、栄はひとしきり唸ったあと、首を横に振った。

「だめだ。協力できないな」

 なにが不満なのだ! 私は叫びかけて、あわてて頬の内側をかみしめた。

「私が秤山家に戻ったら、いいだろう、縄張りも好きなだけ分けてやる。ヒイクに対して無礼なことをしたチュダイは罰するようにする。それから」

「なにをいってもだめだ。協力しないのではなく、できないといっただろう」

 栄がすっと尻尾を振り抜いた。瞳に賢さが漂っているのを見て、私は口をつぐんだ。

「そもそも、お前が事態を鎮静できるかという問題ですらない。問題は斎家の若さだ。帆河家とは交流がない。お前のいうように、帆河瀬穏に取り次いでやることはできないからだ」


 あっけに取られていると、栄は前足の爪を口に入れて、なにやら空を見つめだした。ぶつぶつとつぶやいているのだが、口が歪んでいるせいでさっぱり聞き取れない。

「あれは、栄さんが策を考えている時の仕草です」

 由依花がぽつりといった。今度こそ驚いて、私は栄を改めて見た。栄はヒイクである上に、高慢ちきでいけ好かない、成り上がりの無法ヒイクの賢しらなどら息子である。自らの家の弱みをあっけらかんと認めるような雄だとは思っていなかった。それが、私の無茶な提案をすげなく断らないどころか、必死に策を編もうとするとは、想像だにできなかったのだ。

 私がたじろいで一歩下がると、氷雲に尻が当たった。氷雲はびっくりしたように飛びのいて、穴倉の壁際にたまった雨水に落ちてしまった。

「む、悪いな氷雲」

 濡れ鼠になった氷雲を助け出してやっていると、栄がチュッと声を上げた。

「そうすれば、少なくとも……いや、だが……そうだな。おい、お前ら」

 一度見直したことに胸くそが悪くなるほど、栄の声には傲慢な響きが戻っている。だが、もはやそれだけで頭に血を上らせるほど奴を見下すこともできなかった。振り向けば、栄はまるで関東ヒイクの王にでもなったような得意顔でこちらを見ていた。

「そうだ、お前ら、這いつくばれ。泥をすすれ。浮浪鼠に身をやつせ。そうすれば、帆河の縄張りまで連れていってやれないこともない」

 やはり前言撤回の撤回である。私は栄の首根っこに、あと一押しすれば皮を破るところまで爪を立てた。かほど無礼な物言いには、もはや勘弁まかりならない。奴の鼻先で歯をむき出して、鼠生最大の威嚇をかました。

 栄は一瞬目を泳がせてひるんだものの、得意げな表情は崩さずに、すぐ私の目をしっかと見すえた。

「そう怒るな。俺が助けてやれることはほとんどない。だから見返りも、さっきお前がいっていたようなことは求めない。せいぜい、秤山家の者がヒイクに喧嘩を売る時は、佐樹草家の者を選んでくれれば結構さ」

 私はまたもあぜんとした。どうにも調子を狂わされる。一瞬気を緩めてみれば、爪を立てるほどのことでもなかったように思われて、いきり立ったのが恥ずかしくなった。

 栄は体をひねって私と距離を取ると、改めて得意げにいった。

「名を捨てて、下らないチュダイの誇りを捨てるんだ。ヒイクに混じるにはそれしかない」


 栄の企みはこうである。我々が素性も分からないくらい体を汚して偽名を名乗り、良くも悪くも破天荒な斎家の門を叩く。どうしても食べるものが得られないと嘆いて物乞いをするものだから、栄が連れてきたという筋書きである。栄が家督の斎新を説得し、二匹の家無し鼠に一夜の宿を与えることにする。翌日、栄が我々を斎家の縄張りの外へ連れ出すふりをして、そのまま帆河家の縄張りへ案内してくれるという寸法である。

「帆河の縄張りの中のことは面倒を見るわけにはいかない。せいぜいヒイクらしく振る舞って、帆河瀬穏に会う前に追い出されないようにするんだな」

 栄はそういって説明を締めくくった。

 直接帆河のところまで連れていってくれればいいものを、一度斎家に寄るのは、ヒイクとしての知識を我々に教え込む必要があるからだという。ヒイクの縄張りをチュダイ二匹がなにも知らないで歩き回るわけにはいかないから、栄の作戦はたしかに理にかなっていた。問題はふたつある。

「いくら愚鈍とはいえ、ヒイクどもも我々の正体に気づかないほど鼻が利かないわけではあるまい。私も氷雲も根っからのチュダイだ」

 ひとつ目の懸念を口にすると、栄は軽く肩をすくめた。

「それは問題あるまい。そもそも、ヒイクとチュダイに種として差はない。あるのは――」

「待て、差がないだと?」

 栄が突拍子もないことをいい出すので、私はつい尻尾を立てた。栄は片耳を折った。

「そもそも、ヒイクとチュダイは同じ種の生物なんだよ。差があるのは縄張りの違いと、それに由来する体臭の違いだけだ。だから念入りに泥浴びをしておけば勘付かれることは、おい、まさか気づいてなかったのか?」

 私が頭を抱えてよろめいているのを見て、栄が頓狂な声を出した。だが、私は栄に返事をすることもできなかった。どうしてそんなたわけたことがいえるのか。しかし一方で、私と栄がお互いにいうことを理解しあっていることや、チュダイである封雲とヒイクである帆河の雌の間に瀬穏という子が産まれていることを考えると、種が同じということを否定は出来なかった。少なくとも、私とヒカリでは、意思の疎通も、当然子を為すことも出来ない。

 振り返ると、由依花も氷雲も目を丸くしている。栄はやれやれと首を振った。

「ヒイク、チュダイというのは、仲の悪い派閥の名だ。そんなことも知らないで、その派閥の垣根を無くそうとしている帆河家と、なにを話しに行くというんだ?」


「話しにっていうか、会いに行くんだよ」

 おかしな雰囲気の中、氷雲が無邪気に声を上げた。私はシッと尻尾を振って氷雲が余計なことをいわないように黙らせた。

 帆河家が秤山家から婿を迎えようとしていることまでは栄に説明したが、帆河瀬穏と秤山家との血縁に関しては、まだ秤山家と帆河家しか知らない事柄である。いや、あと一匹、盤桜由木彦だけはなぜだか知り得たようだが、彼は誰にも話すまい。この血縁関係の事実を公表するのは避けたかった。すでに米粒ほどにまでなっている我が父の名誉が、遂に消えてなくなってしまうからだ。いくらなんでも、それはかわいそうというものである。

 栄はひげをぴくりと動かしたが、なにも聞かずに話を先に進めた。

「まあいい。ともかく、あとは偽名だ」

 栄の案についての、もうひとつの懸念がこのことである。

 チュダイにとって、名は単に個別の識別のためにのみ付けられるのではない。先祖代々の習わしに従い、必ず家特有のしきたりに則って付けられる。秤山家であれば、先祖の神話的な活躍をその精神に宿すべく、必ず天候に関する言葉を含む名を授けられる。それゆえに、家の代表である家督がすべての者に名をつける。そしてその名において己が誇りを培ってゆくものであり、おいそれと変えたり偽ったりするものではない。たしかに私は一度カゲリという通名を用いたが、他鼠をだますために偽るということとは話が別であった。

 私は一歩栄に近づいた。

「名は丈雲、氷雲のままでは駄目なのか?」

「あまりにチュダイ的過ぎる。ヒイクにはありえない名前だ。知っているさ、チュダイが名を誇りにしていることは。だからチュダイとしての誇りを捨てろといっているんだ」

 栄はにべもなく答えた。きっぱりとした態度にはやはり傲慢が滲んでいたが、チュダイの名の事情を勘案した上での提案である。必要なことだと認めざるを得なかった。私はそれでも受け入れがたかったが、うしろで氷雲がそわそわしているから、あきらめてうなずいた。

「分かった。どんなものなのだ、ヒイクらしい名前というのは」

「そうだな。帆河と近しい家で舵谷(かじや)家というのがいるから、苗字はそれとしよう。名前は、最近よく聞く名前にでもするか。おい、(みやび)風流(かざる)、どっちがいい?」

「もっとましな名はないのか!」

「くっくっ、冗談だろうが。丈雲、お前は(たける)。氷雲は(こおり)で問題ない。よくいる名前だ」


 舵谷丈。我が鼠生三つ目の名前は、思ったよりも肌馴染みが良さそうである。

 実際に斎家におもむくのは明後日と決まった。栄は我々二匹に、暇があれば泥浴びをしておくようにといい置くと、めずらしく由依花となにも話さずに穴倉を出ていった。

「栄さんは、なにかに熱心になると、他のことを忘れてしまいがちですから」

 由依花がこともなげにいった。なんでも、私を檻から出す算段を整えている時も、事務的な話しかしなくなったのだそうだ。由依花は奇妙な表情をしていたが、チッとひと鳴きして気持ちを切り替えていた。

 ちなみに、前にもいったとおり、私と氷雲は今由依花の世話になっている上、亮雲から隠れていなければいけなかったから、暇だけは充分に持っていた。ヒイクになり済ますには匂いの問題がやはり重大だから、由依花が食料を運んでくる時をのぞいて、できる限り泥浴びをするようにした。そのせいで、毛並みはごわつき、つやも失われてしまったが、宿無しの鼠を演じるにはまだまだ小ぎれいだ。私は氷雲と相談の末、亮雲につけられた傷のあたりの毛を少しちぎって、みすぼらしさを演出した。氷雲の爪使いがひどかったのが逆に幸いして、まるで本当に烏に襲われた後のような見た目である。

 由依花は、来るたびにみすぼらしくなる私たちを心配そうな目で見ながらも、口調はつとめて明るく振る舞っていた。また、我々が偽名に慣れることもできたのは、常に舵谷兄弟の名で呼んでくれた由依花の功績であろう。

 いよいよ出立の日、訪れた栄は我々の変貌ぶりに、ほう、と息をもらした。

「変装は充分のようだな。あとは、道すがら泥だまりを見つけたら必ず浴びるようにしながら、少しずつチュダイくささを抜いていこう」

 ついに、この穴倉を出る時が来たのである。私は由依花に歩み寄った。

「この一週間、世話になった。今はこうして礼をいうことしかできないが、また会おう。その時には」

 ここまでいったところで、由依花が首を振った。

「分かっています。言葉で伝えてもらうより、本当にそうしてくださる方が、乙雌は嬉しいものですよ」

 私はうなずくと、背を向けた。氷雲と栄とともに穴倉を出ると、うしろから小さく、だが、たしかに、由依花の声が聞こえた。

「いってらっしゃい、丈雲さん」

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