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脱鼠の如く  作者: 朝森雉乃
第二章:カゲリ
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影の有り様

 うつうつとした時間はのろく進むもので、次に由依花が来たのは一日後のことなのに、まるで三日は間が空いたように思えた。そのくせ考えはまだまとまっていないままで、この長い時間をいったいなにに費やしてしまったのか、とんと記憶がない。

 由依花は、まるでずっと前からそこにいたかのように、檻の前に爪の音ひとつも立てずに現れた。ちょうどヒカリがようやく家を出たところだったので、そろそろ来るのではないかと心構えはしていたのだが、氷雲の不用心な訪問に慣れてしまっていた私は心底驚いた。

「久しいな」

「ええ、昨日お会いしました」

 私は由依花から目をそらしたくなった。だが、もはや動揺は充分に知られているのだから、こんな些細な失態をごまかす必要もあるまい。そらしかけた目をもう一度由依花の黒々とした明眸に合わせると、事態を説明しようと息を吸った。

 しかし、私が口を開く前に、由依花がぱちりとまばたきをした。

「日の光を浴びた花は、そのうち雲が雨を降らせてくれると思っていました」

 責めるような口調ではない。むしろ、別れ際の言葉を改めて呼び起こしたのだから、これはなにやら意図があるようだった。その意図をはかり切れない自分の思考の鈍さを情けなく思いつつも、ともかく由依花が怒り狂っているわけではないことだけは分かった。

 由依花が正気を保っているのならば、なおさらに私もしっかりと弁明をしなければいけない。まずは事前に用意していた言葉を全て忘れて、由依花の調子に合わせることにした。

「日照りの日々は辛かっただろうに。待つしかできない花はしおれてしまったのか」

 どうやら、下手に考えた言い訳を述べ立てるより、この方が彼雌の気に入ったようだ。由依花は、私が乗ってきたことを喜んだように、前足でひげを押さえた。

「さいわい、その花は滝の近くに咲いていました。別の雲の雨に打たれる前に、水を分けてもらうくらいはできたのです」

 気のいい滝緒秋伍のことを思い出して、私はつい懐かしんだ。彼の棲みかを出てから、数えてみればまだひと月ほどしか経っていないのだが、いろいろなことがありすぎて、一年は昔のことのように思える。

「その滝は知っている。良い水が流れているな」

 だが、由依花は少し考えて、苦々しげに笑いながらいった。

「桜は秋には似合いません。山に咲いてこその花です」


 なにやら和やかな話の運びだったので、うっかり私も笑いそうになったが、すんでのところで喉の奥を引き締めた。いかに由依花が普段通りの振る舞いをしていても、彼雌の目は笑っていない。私を糾弾するために出向いてきているのだから、こちらがへらへらとしては分かってもらえるものも分かってもらえなくなる。私はひとつ咳払いをした。

 由依花も心得たもので、前置きはここまでとばかりに、尻尾を体に巻きつけると腰を下ろし、首を上にもたげた。その姿はさながら玉座におさまる家督の如くで、由木彦ではなく由依花が盤桜家の跡継ぎになったかのような風格であった。これこそ、秤山家の一族会議で亮雲が見せたものとは一線を画す、本物の風格といって差し支えないものであろう。私は改めて恭順の姿勢を取り、下から彼雌の目を見上げるようにした。だが、由依花はあくまで私を兄の友鼠として扱うつもりのようで、それから始まった問答は、上から見下す彼雌が敬語を使い、這いつくばる私がそっけなく答えるという、なんともちぐはぐな景色になった。

 ヒカリに捕まるところまでの事情を説明し終えても、由依花の表情は変わらなかった。しかし、私が檻の中で体験したことを語るうち、少しずつ彼雌の首が下がってきたのが分かった。ヒカリが魔窟を片付けたあと、私がたんすから落ちて気を失ったために逃げ出せなかったくだりを話すころには、彼雌の鼻すじが私からも見えるようになっていたのである。

「どうしてそんな無茶をしたのです」

 由依花の視線が私の鼻面を探った。さいわい、打ちつけたあざはもう治っていたから、みっともない姿を見せることはなかったが、心配をしてくれていることは嬉しかった。

 どうやら、由依花は鼠が出来ているようで、私が由依花との約束を果たせなかった事実は恨んでいても、私自身のことを恨んではいないようであった。罪を憎んで鼠を憎まずとはよくいうが、実際このふたつを分けて考えられる鼠はそう多くはない。私とて、この囚われの日々の中、ヒカリを恨まなかったか、亮雲を呪わなかったか、そう問われれば、当然首を縦に振ることは出来まい。

 ふと、私は饒舌になりかけた口をつぐんだ。私らしくない考えが脳裏をよぎったからだ。帆河瀬穏は、私に憎まれるような罪を犯しただろうか、と。だが、瀬穏のことを考えると頭が痛くなるのが最近のくせになっていたので、それ以上考えることが出来なくなった。

 私が頭を押さえてうずくまると、由依花が尻尾をほどいて一歩近づいた。許してくれるのだろうかと見上げたが、やはり肝心なところは見逃してくれないのも彼雌であった。

「それで、なぜ檻から出ようとしながら、今さら迷っているのですか」


 特に説明をしなければならないことは、いつの日も説明をするのが難しいものだ。氷雲にヒイクへの嫌悪を説こうとした時もそうであったし、今もまたそうである。これといった理由はないものの、ヒカリのことを放ってはおけないような気がする。

 だが、シュンタロウのせいで、ヒカリがないがしろにされていようが、理知的に物事を考えられないようになっていようが、私になにができようか。かたや人間、かたやチュダイ。種族の差、意思疎通の壁。私が檻から出ないことで、ヒカリを正気に戻すことができるならまだしも、無力どころか、酒を飲んだヒカリに対しては逆効果になることすらある。

 つまり、頭で分かっていることは全て、私は逃げ出すべきだと理由づけているわけで、これを言葉で覆すには、由依花だけでなく自分のことも説き伏せなければならないのだ。

 しばしの沈黙ののち、私は肩をすくめた。

「分からない。私が臆病だからかもしれないし、死にかけていたところを救ってくれた人間への恩義かもしれない。今チュダイ社会に戻ったところで、私に良い役どころがないからかもしれないし、人間のことを好いてしまったからかもしれない」

 胸に張り裂けるような痛みを感じて、自分でも驚きながら、流れ出る言葉を留めることが出来なくなった。

「信じてくれとしかいいようがない。誇り高きチュダイとしての矜持を見失っていると嘲笑ってくれてかまわない。ヒカリは私のことを愛おしそうに見つめたのだ。ヒカリは私に食事を与えてくれたのだ。ヒカリは私のために棲みかを整えてくれたのだ。ヒカリが私をカゲリと名づけた日から、私は、光のあるところに影があるべきと思ってしまうのだ」

 信じてくれと口にしながら、信じられないようなことを吐露して、しかしこれが今の私の本心なのだと、たしかに腑に落ちた。震える胸から温もりらしいものが全身に広がって、ここ数日感じるとなしに感じていたけだるさがすうっと消えていった。そうして、その温もりらしいものはゆっくりと私の瞳に集まって、一粒の涙として結晶したのだった。

 由依花は真面目な顔をして私の戯言を聞いていたが、転がり落ちた涙を見てはっと表情を変えた。そして、前足を檻のすき間から差し入れて、私の頬をそっと拭った。

「今のあなたはカゲリというのですね」

 由依花の口調は柔らかかったが、それが真実をいい当てていることは疑いようがなかった。聡明な彼雌は、私が思い悩んだ末にこぼした答えを、はっきりと受け止めてくれたのだ。

 私はこくりとうなずいた。


 帰宅したヒカリは、いつものように私の檻の前にしゃがんで、「カゲリ、ただいま」といった。

 シュンタロウとよりを戻してからは、一挙手一投足が浮ついていたヒカリだったが、ようやく落ち着いてきたようで、私のことを指で誘いつつかたわらの棚を探りだした。回し車を無心に駆けていた私がさっと寄ってやると、なんとも慈愛に満ちた目つきをした。

「賢いね。ご飯だって分かるんだね」

 サラミを手渡しで受け取るのも当たり前になって、付いてくる人間の匂いにも慣れきっている。こうして考えれば、私はもう野生を失っていたのだろう。気づかされてしまえば、なんとも味気のない答えである。

 私がうなずいた時の由依花の表情は、哀れみとも、失望とも見ることができた。あるいは、嘲るということを知らない由依花が、初めて覚えた蔑みの感情をどう表せばいいか分からずに、あんな表情になったのかもしれない。ともかく、私が由依花をひどく傷つけたことはたしかだった。

 愛する雌を傷つけてまで留まるべきだったのか、たしかめたくなって、私はヒカリの顔を見上げた。ヒカリは私と目が合うと穏やかに笑って、チッチッと舌を鳴らしてみせた。

 この顔が帆河瀬穏の幻影と重なって、疎ましくも悩ましい思いをしていたはずが、由依花に、いや、自分自身にも本心をさらけ出したからか、ヒカリの笑顔がどうにも心地良くてたまらなかった。私がここにいて良いと認めてくれるような温もりが、ヒカリのゆるんだ眉や、他愛のないことを語る口から伝わってくる。チュダイとしては間違っていようが、光と影の有り様としては間違っていないと、この温もりが証明しているではないか。

 私はサラミを食べ終えて、久しぶりに力のこもるようになった尻尾を、ぐうんとしならせた。我々チュダイにとって、こうして尻尾をのびのびと伸ばすことは、実に安心して、かつ自信に満ちていなければ、そうそうできないことである。

 ヒカリはそんな私を見て、珍しそうな顔をした。

「なんだか、気分が良さそうだね」

 ちーう、と相づちを返す。ヒカリが手で口元を押さえながら、くすりと息を漏らす。その姿が、どことなく由依花の、満足げにひげを押さえる仕草に似ていると思った。

 ヒカリの顔に、髪がひと房、はらりと打ちかかった。

「まったく、お馬鹿なねずみさんのくせに。カゲリは、私に捕まって平気なの?」

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