黎明の時
ぽかん、とした。それ以外にいいようがない。確かにヒカリは、シュンタロウに未練たらたら、なんなら私のことさえシュンタロウに見間違えるほどの色惚けを発揮していたが、人間とはかくも阿呆になれるものなのか。
私なら、たとえ相手が由依花だとしても、逃げられた雌にもう一度すり寄られれば、まず何かあると疑う。それは悪意かもしれないし、あるいは助けを求められるのかもしれないが、ともかく純粋な好意でよりを戻そうとしているのではないことは、ヒゲを見るより明らかである。これほど前足放しで喜ぶなど出来ようはずもない。
しかるにヒカリと来たら、鼻歌交じりで布団を転げたり、奇声を上げて枕を潰したりとはしゃぎ放題、ついにはうるさくしすぎたのか部屋の外からいさめられて、部屋の真ん中でうなだれながらも気持ち悪く含み笑いをしたほどであった。
断じて、断じて! これを氷雲に見せたかったわけではないのだ。
私は、氷雲が隠れている物影を流し見た。もこもこと袋の山が動いて、氷雲の鼻面、続いて首元までが、すぽんと飛び出した。気味悪く薄ら笑いを続けているヒカリを見た彼の目は真ん丸になり、続いてぐるりと回って私の方を向いた。その目に浮かぶ感情は、人間への恐怖というより、意味不明なものへの恐怖と興味、といった方がしっくりくるだろう。氷雲は、その表情で、はっきりと私にこう問いかけていた。
ナニアレ?
私は目を閉じて、ゆっくりと首を振った。氷雲に何を伝えたかったのか、今となってははっきりとわからない。私も分からない、ということだったのか、良いから隠れていろ、ということだったのか。もしかすると、これ以上見てはいけない、と幼い弟の目を両前足でふさぎたかったのかもしれない。
とにかくヒカリは、氷雲の人間像を根底から、いや、それよりももっと深い奥底から、しっちゃかめっちゃかにひっくり返したに違いなかった。
ふいに、ガシャン、と檻を揺らされて、私の心臓は檻の天井ほどまでも飛び上がった。見上げると、瞳に爛々と衝動を燃え上がらせたヒカリと目が合った。
「そうとなったら、この部屋を掃除しないとね。シュンタロウがまた来るんだもんね。汚い部屋にシュンタロウを上げるわけにいかないもんね。ね、カゲリ」
私はたじろいだ。頬を上気させながら息を荒くしているヒカリは、我々チュダイよりも獣のように見えた。
ヒカリが、魔窟を、掃除する。
三つの言葉のつながりを理解するのに、数瞬かかった。そして、理解した瞬間、私は氷雲に向かって叫んだ。
「すぐそこから出るんだ!」
もちろんヒカリには「チュッ!」としか聞こえず、いつものように都合よく解釈する。
「そうだよね、カゲリ。善は急げだよねー!」
氷雲はぽかんとしたまま、袋の山から首を出しっぱなしにしている。私はヒカリの気を引くために、ぐるぐるとその場で回った。そして鳴き続けた。
「氷雲、そこはすぐに片づけられてしまう、逃げろ!」
「あら、カゲリ。あんたも嬉しいの?」
「お前の惚れたはれたに興味なんかあるか!」
「えへへ、ありがとう、カゲリー」
ようやく、氷雲が袋の山を出て、部屋の扉の方へ向かったのを見て、私は息を切らしながら回るのをやめた。目が回り、天地がさかさまになる。ぐったりとした私を、ヒカリは無礼にもわしづかみにして、檻の手入れの時に移される小さなかごへと放りこんだ。それを今度はヒカリの頭よりも高く持ち上げると、たんすの上に投げるようにして置いた。
「じゃあ、カゲリはちょっとどいててね」
浮かれた口調でいうと、ヒカリは先ほどまで氷雲が隠れていた袋の山から二つ袋を取り上げて、その足で扉の方へと向かった。私は氷雲が上手く隠れていることを願った。
悲鳴は聞こえず、ガシャコン、という音が鳴った。しばらくして、ヒカリは戻ってくると、また袋を持って出ていく。ガシャコン……ガシャコン、ガシャコン……ガシャコン。ヒカリは鼻歌交じりに時折目を閉じながら、あの足の踏み場もないような魔窟を、驚くほど迷いなく片づけていった。
「氷雲! 今しかない! 外に出るんだ!」
のどがちぎれんばかりに張り上げた私の声は、氷雲に届いたはずだ。部屋からごみというごみがなくなり、ヒカリが雑巾で床を拭き始めた頃になっても、ヒカリが氷雲を見つけて悲鳴を上げることはなかった。それでも、ヒカリがピカピカになった部屋の真ん中で突っ伏して寝てしまうまで、私は緊張が解けなかった。
夜が明けていた。




