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脱鼠の如く  作者: 朝森雉乃
第二章:カゲリ
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恐怖心、決心、そして変心

 もちろん、魔窟の出口など、私も檻の中にいるのだから分かりようがない。呆れかえって氷雲にそう伝えようとしたが、しかしこれは私にとっても大きな問題であることに気づいた。檻から抜け出しても、部屋から出られないのではどうしようもないではないか。

「まずいな。家主が帰ってきた時、お前がいたのではなかなかにまずい」

 私がつぶやくと、氷雲は震えあがって金網にしがみついた。しかし、むしろ私としては、今の自分のつぶやきが一つの答えを導いたことに満足した。

「氷雲、少し耳を貸せ」

 つまり、ヒカリがこの部屋に帰ってくるということは、ヒカリがこの部屋を出入りしているということである。ならば我々チュダイの使う出入り口がどこにあるのか分からなくなってしまっても、ヒカリが使う出入り口を使わせてもらえばよいのだ。幸い、私はヒカリが外出する時に向かう方を覚えていた。

 私がそちらへ行ってみろと指示すると、氷雲は私の方を時々振り返りながらヒカリ用の出入り口へ向かった。しばらくして戻ってきた氷雲の表情は不安げであった。

「行き止まりだったよ。でもちょっとだけ外の空気の匂いがした」

「そこで正解だ。氷雲、それは行き止まりではなく、扉というものだ」

「トビラ?」

「出入り口をふさいでいる開閉出来る壁のことだ。この檻の戸と似たようなものだな。我々の力では開けられないが、家主が帰ってきた時を見計らってそこから飛び出せば、お前は外へ出られるはずだ」

 私のいっていることが分かったのか分かってないのか、氷雲は難しい顔をしていたが、人間とすれ違うということを聞いて飛び上がった。

「待ってよ兄ちゃん、僕が人間の横を走るの? 出来ない、出来ない! 人に見つかったら殺されちゃうっていつも父ちゃんがいってたもん。怖いよ、怖い、怖いってば!」

「落ち着け、私は殺されていないだろう」

「でも母ちゃんは死んじゃった!」

 氷雲が叫んだ。

 母上は、氷雲がようやく乳離れした頃に亡くなっている。人間のせいだと父上から聞いている。傍若無鼠の我が父が唯一怖れたものがあるとすれば、それは人間だろう。

 目を強くつぶってうずくまる氷雲にどんな言葉をかければよいのか、私は逡巡した。


 氷雲は、母上のことをあまり覚えていない。乳の味も抱かれた時の温もりも、記憶としては曖昧だと聞いた。母上の優しい声やしとやかな仕草は、なおさら覚えていないだろう。

 母は偉大な存在だった。

 母はいつも父の三歩後ろを歩くねずみであった。それはつまり、父が起こした問題や、好きなだけ引っかき回して放り出した騒動や、収まりかけていたところに横やりを入れて以前よりも事を大きくした動乱の関係者に対して、謝り、なだめすかし、非難を一身に浴びながら許しを得て、父を守り、家族を守り、秤山家を守った鼠ということである。その献身と滅私の精神は関東チュダイの中でも尊敬を集めていて、秤山家が首の皮一枚で家名を保ち続けたのには、母への篤い信頼が大きく功を奏していた。

 それが、あっけなく亡くなったとあって、その衝撃は家族のみならず、全関東にあまねく広がった。野放図で自分勝手たる我が父、秤山封雲でさえ落ち込んだという衝撃も、全関東にあまねく広がった。

 しかし、封雲はしばらく落ち込んでいたと思ったら、ほとぼりも冷めきらぬ間に、以前よりもはるかにハチャメチャな振る舞いをし始めて、それはひどいものだった。関東チュダイの誰しもが、母は父の最後の手綱を握っていたのだと改めて知った。

 私がそんな父に付き合いきれるわけもなく、面倒事は封風叔父に全て押しつけ、まだ幼かった亮雲と氷雲の世話をしながら、時たま父が陽気に家に帰るのを疎ましく思っていた。氷雲が、初めのうち父を「封雲おじさん」と呼んでいたほど、家に帰ることは少なかった。

 だから、氷雲は両親というものにそれほど情を抱いていないとばかり思っていた。

 氷雲は、そのくるりんとした尻尾をぷるぷると震わせながら、私の方をちらりとも見ないで、前足で耳のあたりを押さえて突っ伏している。幼い頃からよくやる仕草で、こうなると落ち着くまではなにをいっても聞こえなくなってしまう。仕方がないので、檻のすき間から尻尾を伸ばし、せめてもの慰みとして背をさすってやった。

 やがて、尻尾がきゅっとつかまれたので振り返ると、氷雲はおどおどと地面に目を這わせていた。

「ねずみにチュダイとヒイクがいるように、チュダイにも秤山と盤桜がいるように、人間にもいろいろいる。私を捕まえたヒカリという人間は、私にサラミを与えてくれる。氷雲よ、お前は、お前自身で人間を知らないから怖いのだ」

 私は氷雲にある提案をした。尻尾をつかむ氷雲の前足に力がこもった。


 つまり、私は氷雲とヒカリを引き合わせたかったのだ。

 人間へ恐怖心を抱いていては、氷雲のこれからのチュダイ鼠生にかかわる。今は何とかなるとしても、氷雲が家族を持つ頃になれば、いつも留守宅だけに忍び込めるとも限らない。その時になって、人間のいるところからは食べ物を頂戴できないとなったら、まだ見ぬ義理の妹や甥姪は飢えてしまうだろう。そんなことを良しとする私ではない。

 だがもちろん、直接出会わせるには、氷雲にも、ヒカリにも心の準備が足りなすぎる。まずは氷雲にこの部屋に隠れていてもらって、ヒカリが私の世話をするところを見守ってもらうわけだ。そして、ヒカリがチュダイを殺す人間ではないこと、人間とねずみでも心を通じ合わせられることを見て、少しでも人間への認識を改めるようにと氷雲にいい含めた。

 氷雲はまだ恐怖に引きつった顔をしていたが、私が自信満々に振る舞っているのを見て少しは落ち着いた様子だった。私の提案を聞いて、もし見つかったらどうしようと目を泳がせていたが、この魔窟にいる以上隠れる場所だけは充分にあると私がいったのには納得をしていた。それでも、決心を固めたのは窓から差す光があかね色になってきた頃だった。

「そもそも、人間を怖がってちゃ、ここから出られる見込みがないもんね」

 少しやけっぱちな声音でもあったが、氷雲は気合を入れて自分にいい聞かせていた。

 そうしているうちに、ヒカリがいつ帰ってもおかしくない時間になっていたので、私は氷雲に隠れるよう促した。そして、氷雲が檻の近くの袋の山に頭を突っ込んで満足したのを見て、わざと大声で笑った。

「氷雲、お尻、お尻ぃ、ひっひひ」

 頭隠して尻尾隠さずとはこのことだ、と諭して、仕返しも済んだところで、改めてちゃんと隠れさせると、まるでそれを待っていたかのように扉がガシャコンと鳴った。

 ヒカリの帰宅である。

 改めて氷雲に静かにするよう警告の鳴き声を上げて、それからヒカリの足音に耳を澄ませた。いつもよりも足音が大きく、慌てているように思えたからだ。もしかして、氷雲の尻尾を見られていやしないか。ひやりと悪寒が走ったが、部屋に飛び込んできたヒカリは、氷雲の隠れた袋の山に見向きもしないで、まっすぐ私の檻の前に来てしゃがみこんだ。

「カゲリ! 聞いてよ! シュンタロウが、シュンタロウが私とより戻したいんだって!」

 満面の笑みである。

「やっぱり、私のことが忘れられないんだって! やった! やった! えっへへへ!」

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