其の七
album
「何も知らない方が幸せな事もあるのよ」
「えっ?」
「だから、お願い。柑菜ちゃん」
たちこめる霧の中に佇む少女。鴉朱村中学校と同一の白い制服に身を包んでいる。顔は濃霧のためかぼやけていた。
その少女と向かい合うように柑菜はいる。先程まで見掛けていた少女とは違い、何処か懐かしさを覚える顔。
少女は柑菜から離れ、足元にある沼地へ足を踏み入れた。濁り、何も見えない沼に少女の体が段々と沈んでいく。
「ま、待って!」
沈む少女に手を差し伸べようと柑菜は急いで駆け寄る。そんな手も虚しく、沼は何事も無かったように少女を飲み込んだまま、水面を揺らし終えた。
柑菜の頬を伝う涙が沼に溢れ落ちる。
「……ここは?」
虫の鳴き声が入り込む見慣れた空間が目に映り込む。横たわる体を起こす柑菜。体に掛けられた毛布から抜け出して、障子の開いた庭先に目をやる。
辺りは暗闇に包まれており、時々、蛍の光が淡く浮かびあがった。
「柑菜さん! 目が覚めたの?」
静寂を打ち消す甲高い声。その声の主へ柑菜は体を傾けた。淡い桃色の浴衣に袖を通した鈴が笑顔を向ける。
柑菜も、いつの間にか白い浴衣を着ており、夜風と共に鳴り響く風鈴の音色が、夏の暑さを和らげていた。
「私は……いつ霧塔家に戻ったの?」
「帰りが遅いから、鈴と駐在さんで様子を覗きに行ったの。そしたら、柑菜さんが道端で倒れていて驚いちゃった」
縁側に足を出して座る柑菜の隣に、鈴も腰を下ろした。手に持ったお盆を廊下へ置き、冷えたお茶を柑菜に差し出す。
柑菜と霧塔が学校へ向かう途中に出会った警察官が、夜更けに霧塔家へ立ち寄ったらしい。それから学校へ向かい、柑菜を発見したとの事。
それから死んだように眠り続けた柑菜。あれから一日経ったという。
「じゃあ、あの時の警察官が運んでくれたのね?」
「うん」
「鈴ちゃん、あの……霧塔は? それに……」
口篭る柑菜。
意識を失うまで探していた二人の安否が気になるのか。足をバタつかせていた鈴の顔を、真面目に覗き込む。
「葵お兄ちゃん? 今、学校で花火を打ち上げるお手伝いをしているよ?」
「えっ?」
意外な言葉が返ってきて、目を大きく見開く柑菜。急いで霧塔家に柑菜を運び入れた後、暫くしてから霧塔も戻ってきたのだという。
「蒔野さんは?」
「ん? 誰それ?」
鈴は何も聞かされていないようで、首を傾げている。何がどうなっているのか、柑菜はただ驚くばかりであった。
「そういえば柑菜さん。何で葵お兄ちゃんの事、下の名前で呼ばないの? 恋人なのに?」
そんな様子に気付かない鈴は、無邪気に柑菜を覗き込む。縁側で語らう二人の様子は、仲の良い姉妹のようである。
「“葵”って女性みたいじゃない? 余り呼ばれるの好きじゃないみたいだから。鈴ちゃんが“葵お兄ちゃん”って呼ぶのには驚いたけど」
突飛な質問に、思わず笑顔が戻る。鈴は頷きながら、不意に立ち上がると、先程柑菜が寝ていた部屋に入り何かを取り出してきた。
少し色褪せたアルバムを両手に抱えて、再び柑菜の側へ戻ると、それを手渡した。
「何これ?」
「柑菜さん、鈴ね“天宮”って名前にずっと気になる事があったの。これは、まだ葵お兄ちゃんが鴉朱村に居た学生時代のアルバムだよ」
手渡されたアルバムをめくると、少し色褪せた写真が並ぶ。現在と変わらない森や、民家が多く健在していた風景も写っている。まだ幼さが残る霧塔の姿も。
そんな中の一枚に柑菜の手が止まった。
「それ、そこに写る三人の一人、柑菜さんじゃないかな?」
鴉朱村の中学生らしい女生徒が三人、笑顔で肩を並べている。いつかの夢で見掛けた姿がそこにあった。
「昔から、鴉朱村で行方不明になった生徒がいる話しは噂になっていて、お母さんから聞いたの。そして、その写真の人達だって教えて貰ったの」
「えっ?」
強い風が吹き抜ける。木々の葉が重なり合う音と共に遠くでは、夜空に大輪が咲き始めた。
闇の色を染め変える物音に鈴の無垢な瞳が輝きを増す。柑菜は静かにアルバムを閉じて、庭先からその様子を眺めた。
「鴉朱村、最後の花火だよ。綺麗でしょ?」
「そうね。……ね、鈴ちゃん。私、もう一度学校の方へ行こうと思うの」
立ち上がる柑菜を下から覗き込む鈴。どこか険しい顔をする柑菜を心配そうに。花火を間近で見るためなのかと問うが、首をただ横に振る。
「向こうには霧塔がいるから大丈夫よ。一緒に戻るから」
家の人が出払い、留守を預かる身の鈴。家から離れられず、心配しながらも玄関先から柑菜を見送った。
闇に溶けるよう白い浴衣姿が消えていく。下駄の鳴る音だけを残して。何かを呼び覚ます鴉朱村の花火は打ち上げられ続けていた。
霧塔家からの裏道を登る柑菜の足元には、手に持った灯りが揺らめく。森の隙間からは所々、祭りのために用意された提灯の灯りが浮かびあがっていた。
夜空の明るさと共に、柑菜の心から暗闇に対する恐怖心が次第に薄れていく。不意に立ち止まった先。鈴と共に眺めていた庭先へ目を配らせた。
「やっぱり……」
どこか哀しげな表情を見せ、再び歩を進める。鈴から聞かされた普段通りの霧塔。
消えた蒔野の行方。そして、何かを思い出した柑菜。三人が居た場所へと。
今回は鈴について。霧塔の呼ぶ名前が統一出来ていなかったので、訂正をしました。
「葵お兄ちゃん」が正しいものになります。
「鴉朱村」は、残すところ一・二話の更新のみとなり、もう少しで完結します。
ここまで読んで頂き、有り難うございました。