激震
三月十一日 午後
市のスポーツセンターで行われている地区大会は、既に大詰めを迎えていた。試合会場の入り口に掲げられたトーナメント表では、勝田の名前から伸びた赤線と、別ブロックの方から伸びている赤線とが、最上段、決勝戦の位置でぶつかっている。対戦相手は、勝田が今までに幾度となく対戦したことのある、佐伯だ。佐伯とは道場同士の合同稽古でしか関わる機会はなかったが、それでもこの十年近く、毎月のごとく顔を合わせ、竹刀を向けあっている。お互いの戦法、細かな癖、弱点さえも知り尽くしている相手だ。実力、対戦成績ともに伯仲していて、ライバル;好敵手同士と呼んでも差し支えないかもしれない。
二人の、下馬評通りの頂上対決に、会場は大入りの様相を呈していた。今までで敗退した選手たちはもちろん、他の地区の選手たちも、観客の中に見受けられる。
「先輩、あと一つ、がんばってきてください」
試合に向けて、防具を準備し始めた勝田の後ろから、浦津が言う。上位大会へ行けるのは上位三名であり、もう上位大会への進出が決まっている勝田に、「勝ってください」などと言わず「がんばってください」と言うところが彼らしい。当の浦津は、個人の部、団体の部共にすべて午前中で敗退していて、午後は勝田の試合を観戦するのみだ。本人としては気が抜けているところだろうが、決勝に臨む勝田の手前、それを悟られないように振る舞っている。
「おう」
勝田は、言葉少なに返事をした。浦津は、それが強い集中のしるし;徴だと解釈したらしい。が、勝田にしてみれば、その解釈には些かの誤解を感じずにはいられなかった(もちろん、そのように思われていた方が都合のよいことは間違いないのだが)。彼の正直な心境はと言えば、すでに上位予選への出場も果たしているのだし、今までの試合でそれなりに疲労も溜まっていて、ただ、この試合を早く終わらせてしまいたいというだけだ。佐伯との試合は、いつも熱戦になりやりがいがあるのだが、その分疲れる。それに、佐伯に対して負けるのであれば、自分でも納得出来るんじゃないかという気がした。
この試合は捨てて、上位予選に全力を向ければいいや、という、かけひきを優先させる気持ちが、勝田の中では支配的になっていた。
一方で、対戦相手の佐伯はどうかというと、勝田とは対照的に、誰が見てもそうと分かるぐらい、道着の下から戦意を漲らしており、彼の応援団も、最下部の地区予選には場違いに思えるぐらい、昂奮した声援を佐伯に送っていた。それを眼にした後に、勝田が、改めて自分の足下を見返すと、妙に、いたたまれない気持ちがしてならなかった。経験から言って、直前にこんな感傷的になる試合なんて言うのは、負けるに決まっている。
ちょうど両者の準備が整った頃、試合開始の時間がやってきた。佐伯がまず、アクセル全開といった勢いで揚揚と立ち上がり、それにつられて、尻を蹴り上げられるように、勝田が立ち上がった。洞察力に富んだ人が見れば、もう既に勝敗は言うまでもないかもしれない。
しかし、そのためにあっさりと試合を棄権できるものでもない。勝田は、床に貼られた立ち位置を示すガムテープの上に立って、帯刀の状態で佐伯と対峙し、礼をした。視線は、相手から離さない。頭を上げ、竹刀を構えながら、蹲踞をする。その時、勝田は佐伯の眼を直視した。彼は、相手の手の内を読み、その上こちらの意図を断定させないために、試合中と試合前、できるだけ相手の目を直視するようにしている。もちろん、ある程度の相手であれば、同じようににらみ返してくる。これは、感情を殺した視線をもってしての、にらみ合いだ。この間彼の目が捉えているものは、相手の目に現れる表面的な意図だけで、それ以上奥のものを捉えようとはしないし、このにらみ合いだけで、彼が感情的になると言うこともほとんどない。
が、佐伯との試合はいつも例外だった。彼の眼からは、安易な直視を許さない、煌煌たる眼光が放たれている。そして、勝田との試合となると、佐伯の瞳には、表面的な意図だけでなく、本来分厚いものによって内部に隠されているべき、意志というようなものが、はっきりと現れるのだ。勝田はいつも、その光に気圧されそうになる。
佐伯と勝田とで比べてみれば、どの点を取ってみても、そのほとんどが正反対だった。例えば、戦術に関しても、勝田が愚直なほどのパワー派で、相手の隙を見逃さない速攻を心がけ、鍔迫り合いからの引き技を勝ち技と決めているのに対し、佐伯はそれと対照的な
(その闘志に満ちた眼光が作り物ではないかと疑わせるほどの)技巧派で、打突時の歩数や剣先の高さに至るまで、常に相手より優位に立つために計算しているのだ。臨機応変の小技と、進退自在な足技で相手の隙を作り出し、その上にも幾多に段階を踏んだ攻めで、確実に一本を取りに行く。このように描くと、勝田は佐伯に対して勝ち目がないように見えるが、まだ、佐伯のそう言ったプレイスタイルは完全ではなく、総合的に見たところでは、勝田のパワーと敏捷性が勝っている分、両者とも戦績は互角なのだ。
勝田は、蹲踞から立ち上がり、中段に構えるまでの間に、改めて自分と佐伯とを分析した。そしてやはり、この試合で自分が佐伯に勝ち得ないことを明確に知る。佐伯の、ある種異様な闘志が、二人の間の均衡を崩しているのだ。勝田には、なぜこれほどまでに佐伯が気負っているのか、その理由が分からなかった。どうせ勝田も佐伯も、この決勝に勝とうが負けようが、次の大会へ行けるのだし、日頃からよく試合をしていたが、二人の間に特別な敵対心もなかったはずだ。が、それは単なる勝田の主観であって、佐伯は実のところ、勝田に対して特別な勝負心を持ち続けていたのかもしれなかった。
審判長が宣告を下す構えをし、両者準備が整ったのを確認すると、声高に、
「始め!」
と、試合開始を宣言した。勝田と佐伯が、少しずつ、間合いを捉えにすり寄る。両者とも中段に構え、剣先がふれあうほどに近づく。観客は試合会場を取り囲み、両者の一挙一動を見つめている。
勝田の剣先がその場に静止し、その延長が佐伯の喉元を一直線に貫いているのに対し、佐伯の剣先は、羽虫が羽ばたくように、上下、左右と細かく揺れ、その行き先を定めない。佐伯のこの構えはいつものことであったが、これを前にするたびに、勝田は、これが一種の挑発であるように思えた。佐伯は試合中、口こそ固く結んでいるが、
「どこにでも打ち込んでこいよ。何がきても応じてやる」
と言う気勢が、勝田にはありありと読み取れた。眼など見る必要はない。剣先が語っているのだ。普段であれば、勝田はこんな挑発に乗ったりしない。それがこちらの隙を誘う手だと言うことが分かりきっているからだ。
だが、この決勝戦の中で、この佐伯の構えを見ていると、ふと、これが佐伯との最後の試合になるかもしれない、という考えが頭に浮かんだ。
それなら、今まで培ってきた、自分の最高の一撃で勝負してみても良いかもしれない。
気合いが全身を駆け巡っていった。彼は、負けをも良しとしていた感傷的な気分が、一瞬にしてこんな大胆さを産むことに驚く。
勝田は、剣先の高さを変えぬまま、佐伯へと半歩すり寄った。覚悟さえ決まれば、佐伯の変幻自在な受けを打ち破るのは、簡単であるように思えた。佐伯は、こちらの隙を誘い出すために、自らの隙を、ほんの僅かなだけ作り出しているのだから、その隙を、佐伯が応じられないほどの、渾身のパワーとスピードで攻めればいい。無論、ただ力に任せて面を打ちに行くとか、そういうことではなくて、幾度もフェイクを重ね、鍔迫りをした上で、だ。佐伯を表する愚直という表現は、技術的な側面に劣っているというわけではない。ただ、その意図が、単純で正直なのだ。
一瞬、鼻で生暖かい空気を吸った後、静かに呼吸を止める。そして、何かを爆発させるかのように怒声を張り上げ、右足を更にもう半歩進める。剣先が小さく揺れ、佐伯の剣先をかすめた瞬間。そこにはどちらの剣先も存在していない。静かに空気を切り裂く二本の竹刀。
その時勝田は、佐伯の竹刀が上段に振り上げられた先で、その処理に迷いがあるのを見た。もちろんそれは、一秒の何分の一にも満たない小さな迷いだ。勝田は、それを見たとたんに、相手が手段を講じるよりも早く、面をめがけていた竹刀を右にずらし、閃光が走るかのごとく、無防備になっていた左胴を打ち抜いた。勝田の「胴オォウ!」と言う声が、あふれ出る気迫を伴って響き渡る。勢いで、勝田の体は佐伯の懐に潜り込むように回転し、目の前の体を押しのけるように、左後ろへ撥ね下がって残心を示す。竹刀を握る諸手に残るのは、完璧な手応えだった。誰も文句のつけようのない逆胴である。
審判団は全員、何の躊躇いもなく、勝田の背に結びつけられた赤色のたすきと同じ色の旗を掲げた。観客席から大きな拍手が起こる。その拍手の内には、まだ試合開始直後にもかかわらず飛び出した好打への驚きの色も含まれていた。改めて白線まで戻る勝田自身、驚きに似た、目の覚めたような心境だった。佐伯相手に、これほど技がうまく決まったことが、これまでに何度あっただろうか。それも、出鼻の一打で。
勝田の心の中では、この一打によってそれまでの逃避が滅却され、俄然激しい昂奮が巻き起こった。それは、自らのもてるすべての力を使った上で、相手に勝利したときの昂奮だ。彼の体中に、熱く煮えたぎるものが満ちていく。再び「始め」の合図がかかるときには、自分の勝利を確信しさえした。
試合が再開され、もう一度両者はすり寄っていく。勝田の掌では、未だ熱いものが血管を流れ、両手全体を火照らせている。が、しかし、こうして気がはやることで、警戒心が薄れていることに、彼は気がつかなかった。
やはり小刻みに揺れ始める佐伯の剣先に対して、勝田は、もう一度さっきの考え方が通用するような気がした。さっきと同じように間合いをつめ、気合いをはき出すと、竹刀を上段まで、水の流れのごとく滑らかに、そして素早く振り上げ、すべての足のバネを動員して、佐伯の面をめがけて跳ぶ。
が、しかし、竹刀が佐伯の面の高さまで振り下ろされたとき、既にそれは勝田の脇を通過しており、ぶつかったのは、佐伯の竹刀の先端であった。しまった、と、自分が打ち焦っていたことを悟るよりも早く、勝田の胴は真っ二つに割られていた。完璧な返し胴。なすすべもなく、残心を示すこともままならなかった勝田の耳には、佐伯の金切り声と、胴を打ち割られたときの、「パーン」という破裂音が響いていた。胴の防具は、最良の方向、力速さで打ち抜かれたとき、打ち抜いた者には痛快な、打ち抜かれた者には痛烈な響きを放つのだ。
やはりこれも、満場一致の一本だ。審判が旗を揚げるまでもないほどだった。観客席からまたも大きな拍手が起こったが、その響きはどこか騒然としていた。それ以上に愕然としたのも、勝田の心だ。先ほどの昂奮が一転、腹から苦いものが込み上げてくる。
普段の勝田であれば、相手に簡単に返し技を決められるような攻めをしたりはしない。しかし、今回はそうではなかった。まだ手の内に残る満足感のために、すべての警戒心を忘れ、このような結果に至ったのだ。それは自分でも信じられないことだった。そして、勝田が再度白線に立ち、佐伯と正対したとき、佐伯の面金の奥の瞳が、嘲うような微笑みを湛えているのを見て、彼は、ある恐ろしい想像を膨らまさずにはいられなかった。
佐伯は、今のような打ち焦りを誘うために、わざと一本目を完璧な形で取らせたのではないだろうか?
そう考えると、勝田は、佐伯の存在が、全く別の次元に行ってしまったように思われ、試合どころではないような気さえしてきた。少なくとも勝田は、剣道において、先ほどのように、対戦ごとの力の入れ方などはかけひきをすることもあるが、意図的に心理上のかけひきを行おうと考えたことはなかった。そうすることは、武道にあるまじきことだとさえ思っていた。それを、佐伯がこの試合でやってのけたのだとしたら?
佐伯の掌で踊らされていたという屈辱以上に、自分の剣道観を真っ向から打ち破られたという敗北感が彼を襲った。勝田がこの大会を最後に剣道をやめることは、佐伯も知っている。もしかすれば、佐伯は、今まで互角に渡り合ってきた勝田を、最後の試合で、計画通りに叩きのめすことを楽しみにして、あのように目を輝かせていたのではないだろうか
それは勝田の浅慮な想像でしかなかったが、それだけでも彼は、打ちのめされて、深い敗北の谷底へと落とされたような気持ちになった。
勝田の落胆など尻目に、また試合は再開された。けれど、勝田は今までのように、間合いをつめて先手を取ろうという気にはなれなかった。そしてそれを見越したかのように、佐伯はじりじりと間合いをつめてくる。
この後の展開が、一方的な佐伯の攻め試合であったことは、素人目にも明らかだった。勝田は、佐伯の攻めにどうすることも出来ないまま、ひたすら受けに回ることになった。そのままずるずると試合は続き、両者一本を取った状態のまま、開始後五分のアラームが鳴らされ、「止め」の宣告の下、二人は白線まで戻った。
佐伯はまだ、額に汗を浮かべながらも、涼しい顔をしていたが、勝田は、今に吐き出すんじゃないかと言うほどに肩で息をし、顔中に脂汗を滴らせていた。一方的な防戦ほど、気分が晴れないまま体力を消耗するものはない。勝田の疲労はもうピークに達しようとしていた。このまま続ければ、佐伯が打ち勝つのは目に見えており、勝田自身、こんな後味の悪い試合は早く終わらせてしまいたいと思っていた。が、それを嘲うかのように、佐伯は微妙な力具合で勝ちを引き延ばし、延長までもつれ込ませたのだ。
当然、佐伯が自分に対して、特別な恨みを抱いているのではないかという思いが、勝田の頭をよぎった。そうでなければ、佐伯がこれほど執拗に、勝田の隙を打ち損じるはずがない。一瞬、佐伯の背後に座る、佐伯が所属する道場の師範が視界に入った。その表情は、
「もうそれぐらいにしておいてやれよ」
とでもいうかのような。引きつった苦笑いを浮かべているように見えた。
順序通りに、試合は再開される。しかし、勝田には既に、戦意がほとんど残っていなかった。視線は散漫であり、竹刀を握る両手には、相手を打ち崩す打突ができるだけの握力が込められていなかった。
それを察したのだろうか。佐伯は、一歩踏み込むと、流れるように竹刀を回転させ、勝田の竹刀を巻き上げた。巻き上げは、普通は鍔迫り合いから間を取るときに、相手の竹刀を文字通り巻き上げ、相手の手から竹刀を落とさせる技だ。剣道の試合では、竹刀を手から離した時点で、離した選手に反則が言い渡されるが、それが宣告される前に竹刀を落とした相手の打突部を打ち込むと一本となる。だが、この技の難易度は高く、試合の流れの中でこれを成功させることは難しい。とはいえ、勝田の竹刀は、力の入っていなかった両手から何の抵抗もなく飛ばされ、あっけにとられた勝田は完全に無防備になった。が、佐伯は、簡単に打ち込むことが出来たはずなのに、そうしなかった。ただ、その場に立ったまま、竹刀の先を勝田の胸元に突きつけていたのだ。
「止め!」
審判長が、両方の旗を揚げ、そう宣告した。観客席は再び騒然となり、あちこちからどよめきが起こった。巻き上げは、最近の公式戦では滅多に使われなくなった上に、それがうまく決まったときには、撃ち合いの剣道とはまた違った迫力が出るために、見る者のリアクションも変わってくる。
勝田は、飛ばされた竹刀を拾いに行きながら、いとも簡単に、決まらないはずの技をかけられたみっともなさと、一本を取るのではなく、ただ勝田に衆人環視の中で恥をかかせた佐伯への怒りとで、抑えようもなく、憤然となっていた。
一体どれだけ俺を叩きのめせば満足するんだ!
勝田はそう思いながら、引っ掴むように竹刀を拾い上げ、促されるままに白線に立った。審判長が、勝田に反則を言い渡す。(反則は二回言い渡されると、一本取られたことになる)勝田は、整然と、中段に構える佐伯を、鋭い目つきでにらみつけた。しかし、それで勝田はハッとした。佐伯の眼は、真っ直ぐに勝田の瞳を見つめる眼は、激しい怒りに燃えていた。
「どうしてそんなやる気のない構えで試合をしているんだ。あの最初の全力はどこへいった!」
佐伯の瞳は、厳しく勝田を責め付けていた。佐伯は、勝田が本気でこの勝負に臨んでいないことを、既に見抜いていたのだ。勝田は、両側の頬を一度に平手打ちされるような思いだった。勝田は、それまで、彼の建前によって偽られた闘志によって、この予選を戦っていたのだ。最後の大会を、納得できる結果で終わらせたい、という建前で。これが本心からの闘志であれば、上位大会への進出が決まったから、決勝戦は力を抜いてもいい、などという考えが起こるはずはないのだ。佐伯との、この好敵手との対決に、全力を賭けて臨もうと思うはずなのだ。少なくとも佐伯はそうであった。彼は、自身のもてる一切の能力をもっ;以てして、勝田との試合を楽しもうとしていたのだ。
勝田は、自分が今までどれだけ盲目だったかということに憤慨した。そして目が覚めるような思いと共に、今からの試合時間を、しきり直して、出せる限り、全力で、佐伯も満足するほどの、いや、彼自身が満足できる試合をしなければいけないと思った。
勝田は、目蓋を閉じ、全身の迷いをそっくりはき出すように、大きく深呼吸をした。頭の頂点から足の先まで、新しい、メラメラと燃える闘志が、透き通るような熱を発し始める。すべての感覚が細分化され、整理され、さらに簡略化され、やがては限りなく無に近づいていく。彼の自我は、鉄の塊が水の中を沈んでいくように、何の抵抗もなく心の中を沈降していった。そして彼は見た。宇宙の始まりのように、無限のエネルギーを放つ彼の中心を。
再び彼が眼を開いたとき、そこに音というものは存在しなかった。においも、味も、触感もなかった。ただ、自分と、佐伯が存在し、対峙していることだけが分かる。
勝田が一度も経験したことのない、極度の集中によって不必要なものがすべて取り払われた世界。その中で、佐伯の瞳は、満足そうに輝いていた。
試合が動き始めた。審判の声が聞こえたのではない。感覚がそう告げたのだ。お互いの体が、じわり、じわりと近づいていく。その動きは、不自然なほどにゆっくりで、その一つ一つが、確かな技術と経験に裏づけされている。途端、どちらかの竹刀が宙高く突き上げられた。もう一方の竹刀も、それを追って跳ね上がる。そして、その二つはまったく同時に振り下ろされる。どちらの竹刀も、相手の面へと吸い込まれていった。が、あまりに両者同じ軌道を描いたために途中でぶつかり合い、相殺されて押しとどまり、鍔迫り合いに突入する。勝田の面金と佐伯の面金とが、互いに擦れあうほどに、両者は接近し、それぞれの闘志をぶつけ合った。幾度となく、両者の気合いが、荒々しい雄叫びとなって宙へ放たれていく。
それは、長い、とても長い鍔迫りだった。二人とも、互いの気迫の中に、微かな隙も見つけ出すことが出来なかったのだ。本来、長引く鍔迫り合いを良しとしない審判らも、あまりの気魄に、制止をかけることができない。
そのまま二人は、完全に動きを止め、相手の出方を窺っていた。いや、自分の出方を探し続けていた。その間中、観客らは息を呑んでその拮抗を見つめていた。
鍔迫り合いが始まってからちょうど一分近くが経過したとき、ついに勝田が動いた。僅かな左足の後退から、竹刀がしなるほどのスピードで引き籠手を打ち込む。が、それは間一髪でいなされ、逆に佐伯は、打ち損じに生じた一瞬の隙を逃さず、喉突きを繰り出す。ピストルから放たれた弾丸のように、空間を切り裂き直進する白い光。勝田は寸前のところで竹刀を振り上げ、その軌道をずらすが、佐伯の竹刀は、軌道をずらされた後もなお直進し、勝田の、何にも覆われていない首筋をかすめ、両者の鍔がぶつかり合ったところで、また停止した。
そのときだった。佐伯の竹刀が止まるか、止まらないかの内に、突然鋭いものが、勝田を貫いた。瞬間、それは佐伯の繰り出した突きの衝撃かとも思われたが、聴覚に異常な刺激が与えられていることによって、それがあの警告音であることが分かった。
高く、鋭く、耳を刺すような、あの警笛―
勝田は思わず叫びそうになった。いや、ことによったら、叫んでいたのかもしれない。驚愕、そして悪寒が体中を突き抜けた。二週間前、夕闇に沈む道場の中で、突如勝田を襲った警笛が、今日この場で再び鳴り響いたのだ。
それはやはり、勝田の警戒心を鷲掴みにして揺り動かし、平衡感覚に影響を及ぼした。嵐の海に小さないかだ一つで投げ出されたような感覚。地面が上下左右に激しくうねり始め、あまりの恐怖に、その場に座り込んでしまいたくなる。全身から、冷たい汗が噴き出す。あのときと同じ衝撃。
いや、あのとき、あの道場の中とは決定的に異なっていることがあった。それは、恐怖に戦いているのが、自分だけではないと言うことだった。目の前の佐伯も、三人の審判団も、試合場を取り囲む観客らも、一様に何かへの恐怖を隠せずにいた。そしてそのどよめきが最高潮に達したとき、佐伯の背後の大扉が音を立てて開け放たれ、観客たちが、一斉にそこをめがけて雪崩れ込んだ。審判団たちも、今すぐにでもこの場を離れ、逃げだそうとしている。審判長が、二人に向かって何事かを叫んでいた。が、その言葉は二人の耳に届くことなく、混乱の中に紛れていく。
今この場で、何が起こっているのか、何も把握していないのは、今こうして竹刀を絡ませ、それを支えに立ち尽くしている、勝田と佐伯だけ、あるいは、勝田ただ一人のようだった。
突然、場内の照明が、激しく点滅をし始めた。勝田の視界を、佐伯の面と、闇とがめまぐるしく入れ替わる。警笛は、一切揺らぐことなく、頑として何らかの危機を知らしめている。
そのとき、あの日の道場でも眼にした物影が、視界が暗転するたびに忍びよるのを、勝田は見た。それは、繰り返される点滅の中で、確実に二人へと近づき、ついには佐伯へと重なり合う。
見るべきではないと分かりながらも、逃れることが出来ずに、佐伯の面金をのぞき込む。
……面金の奥にあったのは、ただ真っ黒に渦巻く闇だった。そしてそれは、形を持たぬままに、ニヤリとこちらへ笑いかけているのだ。
なぜ、ようやく実現した佐伯との全力の試合が、こんなことになってしまったのか、勝田には全く分からなかったが、「それ」を見てからの彼の行動は、すべて無心であった。ただ、この得体の知れない何かを、すぐにでも消し去らなくてはならないという本能的な意志があるのみだった。
未だ揺れ動く地面の上、竹刀を高々と振り上げ、同時に左足で後ろへ飛び退いた瞬間、すべての力を振り絞って、闇を覆う面金を、真上から真下へ、真っ二つに切り抜いた。それは、確かな手応えを帯びた面だった。竹刀は面金に当たってはじかれたが、そこから放たれたものは、確実に闇を二つに切り裂いていた。これによって影は四散し、二人の体は、両方とも衝撃で一メートルばかり飛んだ。
暫時、揺れが止んだ。警笛はまだ、細く伸びた尾ひれを耳の奥に引っかけている。許容値を超える力を発揮したことの反動で、あちこちが軋むように痛んだ。周りには、すでに審判団も観客も、一人としておらず、起き上がった勝田の視界にはいるのは、真向かいで仰向けに倒れている佐伯と、その中間、ちょうど二人が鍔迫り合いをしていた辺りに突き刺さった、天井から振ってきたと思われる鉄パイプだけだった。