表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編

風が僕を流していく

作者: nab42

 僕が使っていた大学ノートは、春花の書く丸っこい文字と、僕の書く不格好な文字で埋まっている。彼女の使っていた愛用のペンシルは、そのすぐそばに転がっている。

青色のペンシルが窓から入ってくる風に流され、勉強机から落ちそうになるのを僕は止めた。

 風になびかされ、壁に貼っているカレンダーが羽ばたく。今月はもう長月だ。

 夏の熱気はすでに消え、もう秋気を感じることが出来る。夜は鈴虫が鳴き、それを子守唄に僕はいつもベッドに入っている。

 そして、その隣にはいつも春花が寝ている。

 今は午後三時。僕らが一緒に使っている薄いブランケットをお腹にかけて昼寝をしている春花は、泣き疲れたせいなのか、薄い空気の間を飛んでいるかのようにときどき大きく呼吸をした。

 僕はその頭を撫でて、流れるように頬を擦る。

 ベッドに腰掛け、部屋にある大きな窓から景色を眺める。僕らが通っていた高校、大学に通っていた時に使っていた駅が遠くに見える。

 覚えているだろうか。僕らが出会った時のことを。うん。何もなかった。なんてことない、同じクラスだったっていうだけだ。でも、僕は覚えているよ。しっかりと、君のあの幼い顔を覚えている。覚えたての化粧をした少女の写真が、未だに僕の生徒手帳に入っている。時々それを見ると、なんだか懐かしくて、時の流れというのが少し窮屈に思えて泣けてくる。

 付き合って一年半。僕らは同じ大学に通うことになり、同棲を始めた。なぜだか君の親はそれを簡単に許してくれた。僕の親はなかなか許してくれなかった。親を説得するのに二ヶ月もかかったのはかなり意外だった。僕が一人っ子だからだろうか。自分があまりにも守られていると、その時初めて知った。

 それでもなんとか僕らは同棲を始めた。最初の方はとてもきつい生活だった。生活リズムは一緒でも、お互いの普段の過ごし方が違うと、気持ちのバランスが崩れる。それでしょっちゅう喧嘩をしていた。夏になるとエアコンの設定温度で争った。

 でも、お互いリモコンを譲り合ったのを覚えている。その年の冬には、そのことで言い合うことはなくなった。

 僕は講義のない空いた時間を本屋のアルバイトに割いた。同じように春花も、喫茶店で働いた。

 商店街の一角にあるそこは、僕のお気に入りの場所になった。アルバイトから帰る時、必ず寄った。木曜日と金曜日は君がいた。

 いつも僕はコーヒーとタマゴサンドを頼んだ。それを自慢の可愛いウエイトレスが持ってくる。本屋から持ってきた文庫本を読みながら、それを食す。行間を読むかわりに、僕は働く君を見ていた。

 店内に流れるジュリー・ロンドンの、煌びやかでハスキーな歌声が、煙草の煙に乗って僕に届く。それが昔からずっと変わっていないことを、深紅のテーブルとソファ、燻された壁が証明していた。

 人生で初めて愛した、素晴らしい喫茶店だった。……残念ながら、もう無くなってしまったが。

 もう一度、風が吹いた。カーテンが揺れ、またカレンダーが飛び立とうとする。

 ねぇ、春花。僕は君に何を与えられるんだろう。

 涼風を受けながら、春花が何かを呟いた。

 僕はその言葉を聞こうと耳を近づけたが、結局少しも聞き取れなかった。

 僕は眠気をおぼえ、彼女にならって寝ることにした。

 ベッドで横になっている彼女の隣に並び、お腹のブランケットを半分貰う。彼女の後姿が、僕の目の前に現れた。

 髪の毛に顔を埋める。シャンプーの香りと、微かな頭皮の匂いがする。彼女の右腕を、右手で擦った。体温は感じられず、ひんやりと冷たかった。代わりに自分の掌の熱さが分かった。

 君がノートに書いているものを、僕は毎日きちんと読んでいる。君も僕が書いたものに返事をしてくれている。交換日記なんて、初めてした。なかなか楽しくやっているよ。

 でも、同時に悲しくもある。本当なら君と直接会話したいんだ。

 君は自分のせいで僕が死んだと思っているんだろうけど。そんなことないんだ。泣いている君を見るのは、いつも辛いよ。

 一年前の六月だった。しとしと降る雨を避けながら、僕らは歩いていた。僕が傘を持ち、春花が買い物袋を持っていた。その中には、タマゴと食パンが入っていた。僕らは家で、喫茶店のタマゴサンドを再現するつもりだった。

 駅のロータリーを抜け、住宅街の広がる丘へと登る。彼女は四つ角で転んだ。僕はそれを助けようと、彼女の腕に手をかけた。そこで、僕らは車に轢かれた。少しの間だけ停車した黒いワゴンは夕闇に消え、僕らは残された。割れた卵が、買い物袋を黄色く濡らした。

 運よく、近くの公園にいた主婦が救急車を呼んでくれたそうだ。僕らは病院へと運ばれた。

 あの事件から、もう一年だ。正確に言うならば、一年二ヶ月と五日だ。

 僕が退院したあと、僕と春花はこの部屋に戻って来た。そして、また同棲が始まった。しかし、僕は彼女の声が聞こえなくなり、彼女もまた僕の声が聞こえなくなった。それで始まったのが、交換日記だ。

 最初の方は彼女が謝ってばかりだった。あそこで自分が倒れていなければ、僕が死ぬことはなかったって。

 僕はショックで言葉を失った。その文章を読んだ日、僕は大学に行ってもそのことばかりを考えていた。

 僕が死んだなんて、少しも思っていなかったのだ。

 同じ講義を受けている生徒と話が出来たし、本屋での仕事もなんなくこなせていた。自分が死んだなんて……。

 そして、僕は悩んだ。春花が大きな勘違いをしていること、それをどうすればいいか悩んだ。

 なぁ。春花。


 亡くなったのは君だよって、僕はどうやって伝えればいい?


 僕は目を開けた。彼女の頭から顔を離し、背中を合わせた。体を失った彼女の冷たさが背中に伝わる。

 もう少し、こうやって暮らしてみても悪くはない。ただ、悲しくて、辛くて、何が正解か分からない。君がずっと僕と暮らしてくれるのは嬉しい。でも、本当のことを知らない君はどうなのだろうか。寝る前も、君は僕が死んでいると思い、僕の声が聞こえなくて泣いた。それは辛いことだろう。でも、本当のことを知るのはもっと辛いことかもしれない。

 いずれにしても、僕は決断が遅すぎた。もう一年二ヶ月と五日だ。このまま彼女と死んでいくのも――いや、あそこで一緒に死ぬことこそが幸せだったのかもしれない。……結局、何かをするには遅すぎるのだ。

 部屋に風が入り、舞った。カレンダーの羽ばたき、ペンシルの着地音が聞こえた。

 僕はもう一度、春花の方を向いた。

 風にさらわれずに、きちんと春花はいた。僕はそれが嬉しくなり、思わず彼女を抱きしめた。そして、明日は明日の風が吹くと、男らしくない決断をする。そんな自分が情けなかった。

 いったい、どこまで行けるのだろう。果たしてどこに行くのだろう。

 人生と命の舵を、僕は自分で動かせない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ