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いつからだろう。こんな気持ちに気づいたのは。氷華が典子を想う気持ち、それは単なる好きではなくもっと特別な好きであった。異性に対する思慕の念、それと同質の感情を典子に対して抱いていた。典子に近寄るとドキドキする。その手に触れたいと思う、抱きしめてその鼓動を全身で感じたいと思う。そのぷるぷるとした唇にキスしたい、その瞳をもっと近くで、もっと近くで……! 氷華は典子の横顔を食い入るかのように見つめていた。
「氷華ちゃん?」
「ふぇ?」
「どうしたの、そんなにじっと見て。私の顔に何かついてる?」
真剣な眼差しで授業に聴き入っていた典子が突然振り返り、氷華は驚き慌てふためく。
「なっなんでもないよ? ちょ、ちょっとぼっとしてただけやから」
心臓がいつにも増して活発な鼓動を始める。動揺を隠しきれない。典子の視線に気恥ずかしさを感じ、氷華は教卓へと視線を移したのだが。
「授業終わったよ?」
典子が少し呆れた様子でそう言った。教卓の教授は資料の片付けを始め、気の早い生徒達は早々と席を立ち始めていた。
「あ、あぁ……そっか」
「氷華ちゃん最近なんか変じゃない?」
典子はそのか細いあごに人差し指を添えて小首を傾げた。そして大きな瞳で氷華の顔を覗き込んでくる。小鳥のような愛らしいその仕草に氷華の鼓動はさらに高鳴る。
「えっ、そっそんな事ないよ?」
「そうかなー? なんだか最近おかしいよ?」
「あっいや……とっとにかくもう授業終わったんだから帰ろうよ、あ~今日も疲れたわ~」
氷華は話を遮るように大きく伸びをして、席を立ち上がった。
「う~ん」
典子は腑に落ちない、といった様子であったがそれ以上問い詰めてくる事はなかった。
そして教室を出た。先程の授業は四限目で、今日の授業はもう残っていない。後は帰るだけだ。下校に流れる人混みの中を、二人も例に漏れる事なく続いてゆく。
「氷華ちゃん、今日予定ある? 良かったらわたしの家に来ないかな?」
横を歩く典子がおずおずといった様子で言った。
「えっ、典子ん宅?」
「うん、最近学校以外で氷華ちゃんと話してないな、って思って」
典子はなかなかに内向的な性格をしている。どういう事かと言うと一人でいるのが好きなタイプで、あまり遊びに誘ってくれる事は多くない。いつも氷華が強引に誘い、それに付き合う、そんな感じが二人の関係だった。だから典子に誘われ氷華は少しびっくり、そして嬉しくてたまらなかった。
「い、行く行く、典子ん宅! 久しぶりだな〜」
そう言葉を発してから氷華は思い出したかのように「あっ……」と苦い言葉を漏らした。
「ごめん、今日用事があるんだった。ごめんな、せっかく誘ってくれたんに」
両手を顔の前で合わせて謝ると、典子は「良いよ、良いよ、そんな謝らないで」と笑ってくれた。氷華の好きな笑顔だ。
「それで用事ってなにかあるの?」
「えっと、それは……」
そんな事、とても典子に伝えられるような事では無い。氷華が自宅でやっている事、そんな事典子には絶対に教えられない。でもこれは典子の為にやっている事、少し後ろめたい気持ちは確かにあるが、氷華は確信をもってそう思っている。典子の為だ、と。
「別にたいした事じゃないよ、ちょっとした事だから」
「そう? ……氷華ちゃんやっぱり最近変だよ、最近いつもそんな感じではぐらかす。なにかあったんじゃないの?」
いつもであれば、典子は詮索する事なくただ頷くだけなのであるが今日は違っていた。確かに最近の氷華は学校帰りは毎日実家へと寄っていて、典子と帰り道を一緒する事もなくなっていた。妙に思われても無理ない事かもしれない。
「なんでもないて、そんな心配そうな顔すなや」
そう言って典子の頭に手をのせた。柔らかくサラサラとした髪をそっと撫でてみる。気持ちが抑えられなくなりそうだ。
「……?」
いつまでもそうしてる氷華に疑問に思ったのか、典子が不思議そうな顔で見上げてくる。はっとしてその手をおろす。
「とにかく、今日はごめん。また誘ってよ、それじゃ」
二人はすでに校門へと来ていた。氷華はそう言って典子と反対方向、実家へと向かう方向へと向かって走って行った。
まさか典子がその後を尾行してくるなんて事は、氷華には予想さえ出来なかった。
絶対におかしい……
普段から真面目とは言い難い氷華ちゃんではあるけれど、最近の様子は絶対におかしい。授業中はともかく休み時間であってもぼんやりとしていて、その顔も少しやつれた気がする。
なにか隠し事をしている。それはもう間違いがないと典子は考えていた。嘘を吐かれている、そう感じる事も最近は増えた。氷華ちゃんが自分で判断して、きちんと考えてそうしているのだろうとは思い深く詮索はしてこなかった。だけどあまり気分が良いものではない。なぜ相談してくれないのだろう、なぜ嘘を吐くのだろう。もしかして自分に関係のある事情で悩んでいるのだろうか。そう思った時頭に浮かんだのは干川君の事だった。
あの日、氷華ちゃんが慌てた様子で電話をしてきて以来、氷華ちゃんから干川君の話題が出る事は無くなった。もしかしたらなにかわかっているのかもしれない、それをなにかの事情で内緒にしているのかもしれない。
氷華ちゃんの事は信用している。氷華ちゃんが判断して話してくれないのであれば、それを詮索するのはその信用を疑う行為だ。絶対にしてはいけない事だと思う。だけど干川君の手がかりが掴めるかもしれない。そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。
……私はなにをしているんだろう、自分の信じている友達を尾行して、疑って、自分自身を恥ずかしく思う。だけど止められなかった。
氷華は京王線駅へと向かって行った。二人が通う大学は最寄りの沿線が二つあり、氷華と典子が普段通学で使うのは、中央線。つまり氷華は家に帰るつもりではないという事がわかる。先ほど言っていた『用事』があるのだろう。典子はその後をこっそりと尾行し続けた。
何駅か電車に揺られて、やがて氷華が駅構内へと降りた。その後を見失わないように典子も後を付いてゆく。とことことこ、と傍から見れば可笑しな怪しい尾行で後を付いてゆく。道行く人に変な目で見られたが氷華に見つかる事はなかった。氷華は一度も振り返る事なく、迷いない足取りで前に進むだけだったからだ。気のせいかその背中には余裕がないかのように思えた。
どこに行くのだろうか、その疑問は駅に降りた際に予想がついていた。氷華の実家だ。典子は中学、高校時代に何度か訪れた事がある。氷華は実家があまり好きではないようだったので数回しか訪れた事はないが、この周辺であったのは間違いない。
とことことこ、と親鳥に付いてゆくヒヨコのような足取りで尾行する。やがて大きな屋敷のような建物の前で氷華が足を止めた。典子は十メートル程離れた電信柱に身を隠し、その様子を伺う。なにかインターホンのような物を操作すると中から黒い人が姿を現し、氷華は中へと入っていった。
「あっ……」
声をかけるタイミングを逸してしまった。陰から身を乗り出し。氷華の元へ駆け寄ろうとしたが、既に遅かった。氷華の姿は既に門の向こう側へと消えていて、門も閉まってしまった。
「どう、しよう……」
典子は頭を悩ませた。門の前で立ち止まり、ぐるぐるとその場で二の足を踏む。インターホンを押そうか、そう思ったがなんだか気まずい。古城の鉄柵のような正門、刑務所のそれのように高くそびえた塀、そして監視カメラが幾重にも怪しく光っている。そんな正門を前にして典子は完全に萎縮していた。
しかしここまで来て何もせずに帰る訳にもいかない。勇気を出してインターホンを押そう。そして氷華と話をしなければ、そう思うのだが、なかなか行動に踏み出せず典子はその場で無為に時間を過ごしていた。
すると、突然背後から声をかけられた。
「あの、典子さんですか?」
「は、はゃう!?」
驚いて振り向く、するとそこには四十代半ばくらいの男性がいた。顔には皺がよりその頭は禿げあがっている。
「ああ、やっぱりそうだ。お久しぶりです」
その男は深々と頭を下げ、その禿げた頭頂を典子に向けてきた。
「あ……えっと……?」
典子は首を傾げて、思案する。誰だったろうか、思い出そうと頭をフルに回転させる。そして思い出した。
「あ、どどうも……お久しぶりです」
典子が中学生だった頃、一人で氷華の家を尋ねた事があった。いわゆるアポイント無しでだ。そしてその際にこの男の人に門前払いされて泣かされた事があった。そういえばあの日を境にここに来る事なくなったんだっけ。
「氷華さんに御用ですか?」
「え、ああ、はい、約束してないんですけど……」
「そうですか、では」
その禿男は典子が何度も押すのを躊躇していたインターホンを難なく押し付けた。そして何言か話しかけると、正門のロックが外れる音がした。そして門を開くと「どうぞ」と言って典子を促してきた。
「あの、良いんですか? 入ってしまって」
典子が上目遣いに尋ねると、禿男はにっこり笑って答えた。
「もちろんですよ、あの日以来典子さんはフリーパスで通せ、って命令されましてね。実はあの時の件で氷華さんにしこたま怒られたんですよ、面目ない話です……。そうだ、改めて謝罪させてください。あの時は大変失礼をしてしまって。本当にすいませんでした」
禿男が再びその頭を下げてきた。
「そんな、やめて下さいよ、全然気にしてませんから」
典子としては申し訳ない気持ちでいっぱいだ。自分の父親と同じくらいの年代の男性に、頭を下げられるなんて気まずいにも程がある。
「本当にすいませんでした、それでは私は失礼致します」
禿男はそう言って頭を下げると、門の外へ出て行ってしまった。どうやらこの屋敷に用事があった訳ではないようだ。わざわざ典子の為に門を開けてくれたのだと分り、典子はますます申し枠ない気持ちになった。今度お礼にお菓子でも作ってもってこようかな、そんな事を考えていた時だった。
「……あれ?」
遠く、遥か遠く―ーかと言って庭の一番奥なのだが――に氷華の姿が見えた。その後ろには牧の姿もある。
「おーい、氷華ちゃ〜ん!」
ぶんぶんと手を振り氷華の名を呼ぶ。だがその声は届いていないようだ。遠くに見える氷華はその声に反応する事なく、最奥に見える小屋へと入っていった。
「ああ、行っちゃった……」
ガクッとうなだれその手を下ろす。しょうがないあそこまで行ってみよう、そう思った典子は氷華が入って行った小屋へと向かって歩き出した。
庭先を歩き小屋へと向かう。改めて見てみるとかなりの距離だ。遥か先に見える小屋は手の平くらいに小さく見える。その距離は百メートル以上は裕にあるだろう。それに加えて庭先には大きな庭池があり、それを迂回しなければならなかった為、かなり歩かなければならなかった。
「はぁはぁ……やっと着いた……」
ようやくたどり着いた時には、もう息も絶え絶えになっていた。その小屋の壁に背中を預け一息つく。
それにしてもこの小屋はなんなのだろうか、物置にしては住居から離れ過ぎている。大きさは四方5メートル程とかなり小さいが、その造りは堅固なものだ。鉄コンクリートで出来た建物は正方形の形をしていて屋根は平たく、まるで学校の体育用具室のようだ。
息を整えた典子は、その扉に手をかけそっと開いた。
「氷華ちゃーん……?」
開くと同時にそう名前を呼んでみた。だが中には誰もいなかった。室内は薄暗く、小さな小窓から入るわずかな太陽光だけが辺りを頼りなく照らしている。
「あれ……確かに中に入っていったはずなのに……?」
軽く辺りを見渡す。狭い室内は隠れるスペースもなく、そもそも氷華が隠れる意味もない。きっと見間違えたんだろう、そう思って出て行こうとした時。
「あっ……」
階段を見つけた。地下室でもあるのだろうか。典子は先程見た氷華達の事を思い出す。見間違い……そんな事があるだろうか、いやない。間違いなく氷華達はこの小屋へと入っていった。それならばこの下にいるのだろう。
「氷華ちゃーん!」
今度は大きな声で呼んでみた。……だか返事は来ない。どうしよう……、典子は躊躇した。地下へと続く階段は、薄暗い室内よりもさらに暗く、なんだか嫌な空気が流れている気がした。だが、ここまで来て後戻りする事もどうかと思う。典子は意を決っして足を前に踏み出した。階段は思っていたよりも長く続いていた。これなら声が届かなかったのも納得がゆく。
「~~~~!!」
階段を降り終わったその時、氷華の鋭い怒声が聞こえて来て典子はビクッとその身を縮こませた。
「なっなに、なんなの?」
典子はその場で立ち止まり聞き耳をたてる。間違いない氷華の声だ。階段を降りた先には細い廊下が続き、その通路にはいくつもの扉がある。氷華の声はその中の一つから聞こえてくる。なにをしているのだろうか。
「あんたも大概しつこいなぁ! いい加減にせぇよ!」
こんな氷華の声は聞いた事がなかった。心臓を突き刺すかのような鋭い怒声。氷華の怒りがあらわに伝わってくる。なにをしているのかはわからない。だが穏やかな状況ではない事は間違いない。氷華が誰かを……拷問している?
典子は今この場に来た事を激しく後悔した。氷華がなにか隠していた?そんな事はわかっていた。なのになぜ隠していたのかまで考えがいかなかったのか。知られたくない事、それを詮索するなんて。
氷華は親友だ。それはなにがあっても変わらない。典子が考えていた事。それは氷華が酷い事をしているという事に対するショックよりも、ただそれを詮索している自分への羞恥だった。
気付かれないように立ちさろう……、そう思い典子はそっと踵を返した。だがそんな典子の耳に信じられない名前が、氷華の口から飛び出してきた。
「いつまで強情はる気や、もうこれ以上は本当に辛いで? しんどいで? 死ぬより辛い事って実際あるんやで? なぁ干川君。そろそろ素直になろうや」
氷華の声。まさか……そんな……?
典子の頭に電撃のような衝撃が走る。目の前が真っ白になり、そして無我夢中で目前の扉に手をかけた。
重く冷たい鉄の扉、典子は身体全体を使い押し込むようにして、その扉を開く。まばゆい光……まるで手術室の蛍光灯のような剥き出しの光が中から差し込む。典子は薄目がちになりながらも扉の向こう側へと視線を飛ばす。
「……なに……これ……?」
「……!? のっ典子!? なんで、なんでここに!?」
地下室の小部屋は八畳程の空間。壁面には見た事もないような拷問器具が並べられている。左手側に氷華の姿、その手には黒革の鞭が握られている。その後ろに牧の姿もあった。そして右手側には干川君の姿が見える。
唖然、忘失、そして驚愕。目の前の真実が信じられない。目の前の真実を受け入れられない。干川君は四五度斜めに立て掛けられた十字形の板の上に、まるでキリストのように磷付られていた。これまた同じように全裸にされている。その四肢は十字の先で結ばられており――いや足がないので両腕だけ――その全身はミミズ腫れでいっぱいになっていた。
典子は幽霊のようにふらふらと干川君の元へと歩み寄る。その顔は見間違えるはずもなく典子の愛した干川君そのものだった。
「どういう事……、どういう事なの!? 氷華ちゃん!?」
地下室に何度も反響するような大きな悲鳴で典子は叫んだ。