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狂騒する自慰愛  作者: SEI
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 物心がつくよりも早くから。和正と奈月は同じ時を過ごしてきた。平凡な郊外型マンション。二人の家族は隣通しの住まいで親を含めて仲が良く、小さな頃から二人で遊ぶ事が多かった。いわゆる幼なじみ、というやつだ。奈月は和正の二つ年下で『二人はまるで兄弟みたいね』と母親が言っていたのを覚えている。お互いに兄弟が居ない一人っ子同士であった事もあり、和正自身も本当の妹のように奈月を大切に想ってきた。和正は幼い頃から奈月の事が大好きで、その想いは成長を遂げても変わる事は無かった。それはあまりにも自然な成り行きであった。恋というよりの愛に近い感情をお互いに持ち合わせながら、二人は普通の恋人達と同じように幸せな交際を続けていた。

 あの日の事を考えると、何度悔やんでも悔やみきれない。もしも時間旅行が叶うのであれば間違いなくこの過去を消し去りにいく事だろう。奈月と干川君を引き合わせたあの時の自分を。

 和正は大学二年生でそれなりのキャンパスライフを謳歌していた。サークルやゼミ活動、高校時代とは自由度がまるで異なる学園生活は非常に楽しいものであった。そんな中、和正には誰よりの仲の良くなった親友が出来た。それが干川君だ。

 あの日、和正は奈月にせがまれて大学へと奈月を連れてやってきた。奈月は来年同じ大学を受験する予定だったのだ。『来年は同じ大学に通えるね』とふわり微笑む奈月。そんな奈月にニヤけながら構内の案内をして、そして奈月と干川君を引き合わせたのだ。



「なあ、お前らも干川君の嗜好……知ったんだろ?」

 和正は俯いた顔をあげる事なく氷華達に言葉を投げかけた。

 干川君の嗜好、気に入った女を監禁しその自由を奪うというどこまでも利己的で理不尽な愛。氷華は短い肯定の言葉を発して頷いた。

「俺はこいつ、奈月とは恋人同士だったんだ。それをぶちこわしたのが、あいつだ……ッ」

 その声は震え、嗚咽するかのように掠れていた。

「俺は突然姿を消した奈月を必死で探したよ、そりゃもう必死になってな。警察にも届けた。奈月が行きそうな場所の全てをかけずり回ったりもした。……だけど見つからなかった。今思えば見つかるはずはなかったんだ」

 和正は自嘲気味に口端を吊り上げた。

「それから一月程経った頃、奈月から電話があった。そして干川君のマンションへ行ったんだ。そこで見た光景には目を疑ったよ。頭がおかしくなったかと思った」

 氷華はあのマンションに行った時の事を思い出していた。干川君宅に放置された四肢の欠けた女の屍体。あれがもし氷華の知り合い、例えば典子だったとしたら。氷華には想像する事しか出来ない事ではあるが、そう考えると狂気に走ったこの男の感情も理解できない事もない。

「だから、復讐したって事か……」

「……ッ! 違う! 復讐なんかじゃない! 俺はそんなつもりじゃない!」 

 得心してポツリ呟いた氷華の言葉に、和正は過剰に噛み付いた。怒り、とは少し違うように見える。

「違うって……なにが違う言うの、復讐じゃなかったらなんの為にあない事してたって言うのよ」

 干川君の身体は見るも無惨な目に遭っていた。その両足は被害にあった女達と同じく断たれており、全身に爪傷、切傷、噛み傷、他にも理解出来ない傷跡などを負っていた。その左手など全指が千切られ、かさぶたではなく膿で固まった肉団子のようになっていた。あんな状態になるまで惨い事をしておきながら今更なにが違うと言うのだろうか、氷華は疑問をそのまま口にした。

「違う、やったのは俺じゃない、奈月だ……」

 和正は目線を奈月に落とした。その膝元で眠りこける奈月、その顔はあどけない無邪気な寝顔にしか見えない。とてもそんな事をするような子には見えない。だが、和正が嘘を言っているとも思えない。

「奈月は、奈月は干川君に監禁されて、そして……蹂躙されて狂っちまったんだ」

「狂う?」

「ああ……これは奈月じゃないんだ」

 奈月は狂ってしまった。精神分裂。精神に多大なる負荷を受けた者に起こる症例だ。奈月の精神は傷つけられ、自己を守る為に異なる人格を生み出したのだ。今現在、奈月の精神を支配しているのは和正が愛したかつての奈月ではない。全く異なる別人格なのだ。

「なにをされたのかはわからないし知りたくもない、だけどおそらく死ぬ程辛い目にあったんだろうな」

 和正は辛そうに下唇を噛み締めていた。

「その奈月は干川君を愛しているんだ。そう強要されたんだろう、そして愛情表現の方法がいたぶる事だったんだ。これも多分干川君の真似なんだろうな」

 ……なんて酷い……。氷華は思わず目眩を覚えた。この女の子、奈月は肉体を拘束され、両足を奪われ傷つけられ、さらにはその精神まで破壊された。救いようのない話である。だが一つ疑問が残る。

「あんたは……あんたはなにがしたかったの? 全然わからん、そんな別人格が望むままの手助けなんかしてあんたになんの得があんの」

 そう目的がわからない。納得がいかずに責めるような口調で問いただした。すると和正は珍妙な言葉で返事を返してきた。

「呪いを、呪いを解くんだ」

「はあ、呪い?」

「今の奈月は干川君が生み出した人格だ。奈月は干川君の呪いにかかっているだけなんだ。だからその呪いを解くんだ。

 元の奈月を取り戻そうと和正は尽力を注いできた。だがやがてそれは無理なのだと悟った。この干川君が生み出した呪いの産物ともいえる人格は、もうすでに奈月そのものであった。その呪いを解く方法、それを和正は考えた。それは奈月の手によって干川君を死に至らせる事。さらに肉体的にではなく精神的に。肉体の死滅だけでなくその精神まで根絶させる。そうすれば奈月にかかった干川君の呪いのような人格が解けるのではないか。昔の奈月が帰ってくるのではないか。和正はそう妄信していたのだった。

「俺は奈月の為なら、誰より大切な奈月の為ならなんだってやる。なんだってやってみせる。かつての奈月が帰ってくるなら何を犠牲にしたって構わない」

 そう言う和正の表情は決意に満ちていて力強いものであった。

 突然、和正が額を床にこすりつけた。土下座だ。

「頼むっ、この通りだ! もう少しで終わらせられるんだ。あと一歩、あとほんの少しすれば、干川君を全て終わるんだ。だから頼む、俺たちに干川君を返してくれ。俺たちには干川君が必要なんだ、頼む」

 切羽詰まった本気の嘆願であった。

「ちょちょっと……」

 頭あげてよ、そう言葉を繋げようとした時だった。高いソプラノ音、幼い少女のような声が、さらりと流れてきた。

「嘘つき」

 奈月の声だった。

「な、奈月、目が覚めたのか、大丈夫か? ケガはないか? 痛いところは?」 

 矢継ぎ早に質問を投げかける和正。過保護なほど心配をするその様子に、ただならぬ愛情が伺える。そして和正は、奈月の手をまるで宝物でも扱うかのように大切に握った。だがその手はすぐに振り放された。

「触んないで、気持ち悪い!」

 高い声をさらにかん高くして和正を拒絶する奈月。そして和正から距離を取った奈月は、氷華に向けて視線を飛ばした。

「なんか面倒臭い事になりそうだから寝たフリでもしてようと思ったけど、も〜我慢出来ない! いい、あんた、こいつが今まで言ってた事ほとんど嘘だからねっ」

 キンキンと脳に響いてくる声だった。頭痛がしてきそうだ。

「ほとんど嘘?」

「そう、こいつと私は確かに幼なじみだったけど、それ以外は全部嘘。ぜ〜んぶねっ! こいつと付き合ってた事もないし、好き合った事もないの。あ〜気持ち悪い、なんでこんな思い込みが出来るんかな〜。こいつはね、私のストーカーなの、さっき話してたのは全部こいつの妄想、もーそーなの」

「そっそうなの?」

 氷華は和正に視線を移し尋ねた。

「俺が嘘なんか言って何の意味がある? これは奈月じゃない、別人格なんだ」

「はあ〜? ばっかじゃないの? 別人格? 何それ、あんた今どんな思い込みになっちゃってんの? キモ〜キャハハ」

 なんだこれは……氷華の頭はパンク寸前だ。どちらの言う事が正しいのかその判断をつける事ができない。仮に奈月の言う事が正しいとしたら干川君をいたぶっていたのも和正なのだろうか。

「ああ、あれ? あれは……私がやってたの。えっなんでって……私の性癖よ、別に良いでしょ。干川君と私はね、前に付き合ってたのよ。干川君はSなだけだったけど私は両方いける口だから。……でちょっと我慢が効かなくなっちゃって、そういう感じよ」

 奈月は悪びれる様子もなく揚々とそう言った。

「とにかく! 干川君を返してよ。もう我慢出来ないんだから」

「そうだ、頼む。干川君を返してくれ。俺たちには干川君が必要なんだ!」

 二人は必死な形相で嘆願した。しかしそれは氷華にとって出来ない相談だった。

「……干川君は返せない」

「なんでだ!」

「なんでよ!」

 和正と奈月は言葉を重ねて同じ言葉を吐き出した。

「うちの大切な人の為には干川君が必要なの、全てが終わったらあんたらは解放してあげるから大人しくしてな」

 氷華は踵を返し二人に背を向けた。もう全てが面倒臭くなってしまった。

「牧、もう行くで」

 そして来た道をそのまま辿ってその場を後にした。背後で動物めいた奇声が響いていたが完全に黙殺し、氷華が振り返る事はなかった。




「干川君はどこ?」

「え……はい?」

「干川君はどこいるのか聞いてん、どこ!?」

 迷いない足取りで階段を上る氷華。振り返る事なく尋ねるその背中に、牧は奇妙な感覚を覚えた。なにかがいつもの氷華さんと違う、そんな感覚がした。

「その男でしたら別室で治療させてます、まだ話の出来る状態ではないかと……」

「だから、どこ!?」

 声を荒げる氷華。足を止めて半ばほど振り返り、鋭い眼光で牧を睨みつけた。その勢いに気圧され牧は言われるままに問いに答えた。

「は、離れの別室です」

「そうか、わかった」

 氷華はそう言うと再び前を向き歩き出してしまった。

「氷華さん、もしかして今から行くつもりなんですか?」

「…………」

 妙な不安に駆られ尋ねる牧。だがその言葉に返事は返って来なかった。牧は確信した。氷華は今精神的に不安定過ぎる。自分がフォローしなければ。無言で前を歩く氷華の後に付き添いながら、牧はそんな風に考えていた。


 この家には使われていない空き部屋がいくつもある。干川君を匿ったこの部屋もそのひとつだ。庭先に面した渡り廊下を歩き、氷華は観音開きで襖を勢い良く開いた。六畳一間、壁面には掛け軸やら壺といった飾り立てが施してあり、狭いながらも一応は客人用の間だ。その中央に布団が敷かれ、その上に干川君は寝かされていた。その脇には白衣を身に纏った医者らしき者が座り込んでいて、点滴や医療器具の詰まった鞄を携えていた。

「干川君の状態は?」

 開口一番、氷華はその医者に問いた。白衣の男は驚いたような目付きで氷華を見上げ、この子は誰だ、というような訝しんだ視線を向けていたが、氷華がこの家の実子だと知ると途端に態度を変えた。

「いや~危ないところでした。私の迅速な手当が無かったら間違いなく死んでましたよ。いやもう大丈夫、心配はいりませんよ、ええ、はい」

 この医者の名前は相沢 晴紀。水鏡家の子飼いの闇医者だ。相沢氏は自分を売り込もうと必死なようで、過剰な程にへりくだってペコペコと頭を下げている。

「そう、じゃあ起こして」

 そんな様子に構う事なく、氷華はそう告げた。

「あっいや、それはちょっと……。今は麻酔が効いていますから半日は目を醒まさないかと、すいません」

 氷華は呟くように小さな声で「そう……」と言葉を漏らすと、干川君の元へとずいっと歩み寄った。そして顔元に近づくとその頬を右手で力一杯にビンタした。

 バチンッという渇いた音が響く。

「氷華さん? なっなにを……」

 牧が呆気に取られたような声をあげる。突然の行動に面食らう。相沢氏も同じく呆然としていた。

「あんた、もう帰ってええよ」

 氷華がそう言うと相沢氏は「は、はあ……では」と言ってその場を後にした。従順な男だ。牧も出ていくように言われたが、牧はそれを断った。氷華は渋るような顔を牧に向けたが、出ていく事を強要はされなかった。


 そして氷華のビンタが続く。バチンッバチンッと容赦のないその音が何度か響いた後、干川君の顔がピクリと動いた。そしてその瞳が開き氷華を捉らえる。

「お久しぶり、干川君。うちの事覚えてる?」

「うぅ……うぐ……」

 まどろんだ眼で声をあげる干川君。身体が痛むのだろうか、眉を寄せて顔を歪ませている。

「典子の友達の……氷華さん、だったか」

「ええ、そうや、久しぶりやね。まぁ別に会いたなかったけどな」

「君が助けてくれたのか、ありがとう」

「……どうかな、助けた事になるのかな」

 氷華は意味深な返答を返す。

「えっ?」

 干川君の顔には疑問符が浮かんでいた。牧もまた同様で首を傾げる。氷華がどうするつもりなのか、まるでわからない。

「いきなりだけど頼みがあるんよ、典子の事」

 氷華は典子が今なにを考え、なにを望んでいるのか、その事情を余す事なく干川君に伝えた。

「典子の為に協力して欲しいねん、今の典子を救えるのは悔しいけどあんただけやから」

 氷華は切実に頼み込んだ。だがその頼みに返ってきた答えは予想外なものだった。

「嫌だね」

「そう、それじゃ……って、え?」

まさか断られるとは思っていなかった。氷華はその耳を疑った。

「なんで? なんでや、別にたいした事やないやないか、典子ときちんとお別れするだけで無理に、別に無理矢理付き合えとか言うてるんじゃないんやで!? なんでや!」

 氷華は攻め立てるように言葉を重ねた。

「俺が用済みになったらお前は俺を殺すんだろ?」

「えっ! なっな……! なに言うてんの」

 氷華の身体がビクンと反応を示した。図星だった。そんな氷華の目を見据えて干川君は淡々と言葉を続ける。

「その目だ。さっきまでずっとそんな目をした二人と一緒だったからわかる」

「~~~~!!」

 氷華は唇を噛み締めて声にならない声で呻いた。

「氷華さん……そうなんですか?」

 その様子に黙っていられなくなった牧が声をあげた。

「…………」

 氷華は口を閉ざし、返事はこなかった。その様子から察してしまった。牧が先程から感じていた妙な違和感。そういう事だったのか。しかしなぜ? 牧には皆目わからない。

 誰も言葉を発さなかった。三人が三人とも押し黙り、しばし沈黙の時間が流れた。


「あんた達の事は、和正って男に全部聞いたよ。えらい予想外の事ばかりで驚ろかされたけど、あの男には……なんか共感してもうたよ」

 沈黙を破り、氷華はポツリ言葉を漏らした。

「共感だと?」

 干川君が聞き直すかのように疑問を投げる。その言葉に氷華はゆっくり頷き言葉を続ける。

「そう、和正はうちに良く似てるの。和正は本当にあの子の事が大切だったんだろうね。あの子の為になら善悪なんか超越してしまうほどに。その想いが届かないとこまで、うちとそっくりや」

「……? 突然なんの話になってんだ?」

 干川君が疑問を投げかけるが、それは氷華に届いていないようだ。まるで夢遊病のようにどこか遠くを見据え、ぶつぶつと呟きを続けている。

「あんたが憎いよ、憎くて堪らない。うちの居場所をあっさり奪って、そして消えて、なんでうちはその場所に戻れないの? あんたなんか最初から存在なければこんな事考えもしなかったのに……ずっとずっと思ってた。典子を泣かせたあんたをぶっ殺してやりたいって。大切な典子を奪ったあんたが憎くて堪らない」

「なっなんなんだよ、お前……」

「今すぐ殺してやりたいよ。でもその前に、典子の為に、やってもらわなきゃならない事がある」

 すっと我に帰ったかのように、氷華の瞳に力が戻ってきた。

「牧、干川君を離れに連れてって」

「ええっと……本気ですか?」

「うん、全部うちがやるから。心配しないで」

「くっ……」

 牧は言葉を詰まらせた。『離れ』とは、この家にある拷問部屋の事だ。そこにはありとあらゆる器具や薬が整備されている。全部うちがやる、氷華は本気なのだろうか。氷華がこんな事を考えていたなんて、牧は少しもわかっていなかった。氷華にそんな事をやらせたくない。その行動を止めたい。だが牧の口からは「わかりました」と言う事しか出来ない。そんな自分が情けなかった。だがそれしか出来ないのだ。

 牧は干川君の身体を起こし、すっと肩に腕をまわした。

「おっおい、どこに連れて行く気だ!」

 干川君が怯えた声をあげた。怪しい雰囲気を感じ取っているのだろう。ロボットのように感情をなくし、淡々と干川君を担ぎ氷華の後をついてゆく。干川君には予想だに出来ない事だろう。まさかこれまで以上に酷い仕打ちがこの後待ち受けていようとは。


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