3
「あ〜満たされた〜」
奈月の言葉によって今日も一日が終わる。この一室において一日の始まりと終わりを告げるのは太陽ではなく、奈月の役目となっていた。奈月が目覚めることにより干川君と和正の一日が始まり、奈月が寝入る事により一日が終わる。そうこの一室は完全なる奈月の為だけに存在する特殊空間なのだった。
奈月が寝静まるのを安らかな表情で見届け、和正は干川君の腕をとった。そして用意してきた点滴用の小さな袋にチューブを差し込み、先端に光る注射針を干川君の腕に沈み込ませた。干川君の生命を持続させる事も、和正の仕事であった。
だが干川君の様子を看るに、それも長くは続かなそうだ。
「ふんっ死にかけだな……」
点滴を送りながらぽつり呟く。干川君はドブネズミが腐ったような土気色の顔をしていてその瞳には生気を感じる事が出来ない。
「なあ、死んじまう前に聞いておきたい事がある、お前は奈月の両足をどこにやったんだ?」
和正は死人のように横たわる親友に冷淡とした声で尋ねた。
「奈月の、両足……?」
「ああ、そうだよ、無惨にもお前がぶった切った奈月の足を、お前はどこにやったんだ?」
改めて口にすると和正の心は波打った。ざわざわと感情の波が荒れていく。その波を必死で抑えようと和正は胸に手をあてた。
「ああ、奈月の足か。それなら……」
干川君はそんな和正の疑問をあっけなく教えてくれた。悪びれもせずしれっと、まるで当然の事であるかのように教えてくれた。
「やっぱりか……じゃあ奈月が今している事はお前の真似をしているって事か」
その答えは和正がうっすらと予想してあったものであった。奈月の両足、奈月が死んだ時には一緒に墓標に入れてあげようと和正は考えていたが、それは不可能なようだった。
干川君は言った。奈月の足を切断した後、それを奈月の目の前で食したらしい。食べ終わるのに三日かかった、などと無駄口を叩く干川君に和正は思わず「なぜそんな事を……」と尋ねた。
だが返ってきた言葉に和正は後悔した。「だって勿体ないだろ?」疑問符を浮かべて干川君はそう言ったのだ。だめだ、やっぱり話にならない。
「くそっ! お前のせいで奈月は! 奈月は!」
和正は頭を抱えて強く掻きむしった。爪が割れる程に、ガシガシ、ガシガシ、と何度も何度も強く掻きむしり続けた。和正の額につうっと血が垂れる。
「こんな事なら、早いところ奈月の腕も奪っておけばよかった……」
干川君が誰にいうでもなくポツリと呟いた。
「なん……だと?」
和正の動きがピタリと止まった。そしてわなわなと震え始める。憤怒の感情が燃え上がり和正が声を荒げる。
「今……なんて言った……? なんて言いやがった!?」」
和正は干川君の襟元に掴み掛かって罵詈雑言を吐きちらす。だが干川君はそれに反応する事なく、そして力なく寝ぼけたかのような口調で意味の分からない事をぼやくのであった。
「ああ、優花……優花に会いたい。俺がいなきゃ何も出来ないのに。ああ、優花、早く家に帰らなきゃならないのに……」
「なんだ、なんの話だ!?」
「ああ、優花……早く会いたい」
「急になに言ってやがる!?」
和正が問いただすと、干川君はゆっくりと怠惰に語りだした。
「優花は奈月の代わりだ、奈月はお前が連れ去っちまったからその代わりに俺の物にした女だ。ああ、早く帰らなきゃならないのに」
和正の背筋がぞっと震え上がった。奈月の代わり? まさか……。
「まさか……他の女にも同じ事をしたのか!」
「今度は両手も削いだから、もう逃げ出す事はない。余計な邪魔を呼ぶ事も出来ない」
「きっ貴様ぁ〜! なんで、なんでだ! なんでそんな事が出来る!? なんでそんな酷い事を平気な面して出来る!? お前はなにを考えているんだ!」
体中の血液が全て頭にのぼってきたかのようだった。蒸気が発散させるほど熱を頭に感じながら、和正は干川君の襟元を締め付け引っぱりあげた。干川君の身体がくの字になって起きあがる。
「愛しているからに決まっているだろ」
「なん……だと? 愛している?」
「愛しているから全てを委ねて欲しいと思う、捧げて欲しいと思う。誰にも盗られたくない。自分一人だけの物にして全てを独占したい。そう思う事のなにが可笑しい?」
「……くっ狂ってやがる。こんな奴だなんて知らずに俺はお前の事を親友だなんて思っていたなんて」
和正は襟元から手を離し一歩後ずさりした。やけどしそうな程熱をもった頭が今度は逆にすっと冷たくなってしまった。
「正気じゃない……完全にイカレてる」
「俺がイカレてる? なにを言うんだ、俺は普通だ、イカレてなんかない! ただ愛しただけだ、お前の方がよっぽど異常じゃないか!」
干川君が急に声を荒げた。その瞳は見開かれ干川君の怒りが伺える。先ほどまでは死んだ魚のような目をしていたというのに。
「なん……だと……? 俺が異常だって?」
「そうだ、お前はいったいなにをしているんだ? お前も奈月を愛しているんだろ? その為にお前はなにをしている? なんだこれは? 俺を閉じ込めて奈月に好き放題やらせてお前はいったいなにをしているんだ? おまけに俺の両足まで奪いやがって、なんだ? 腹いせのつもりか、惚れた女を盗られた復讐のつもりか? トチ狂うのもいい加減にしろ、筋違いにも程があるってもんだろ」
「だっ黙れ、この狂人がッ!」
「もう一度聞く、お前はなにをしているんだ? 奈月の事が好きなんだろ? その為にお前はなにをしているんだ?」
「お、俺は奈月の為に……奈月の望む事を叶えてやろうと……」
「それだけか? 奈月に愛されたい、そうは思わないのか? その努力を一切せずにお前はなにをしているんだ? こんな事を続けてなんの意味がある」
「黙れって言ってるだろ! この野郎……イカレてるくせに常識人ぶった事言いやがって……!」
和正は干川君に飛びかかりその剥き出しのままの首に襲いかかった。両手に力を込める。憎しみをのせた両の手がギシギシとその首に食い込んでいく。
「お前さえ……お前さえ存在なければッ! 俺と奈月はずっと幸せでいられたんだッ! お前さえ……お前さえ現れなければッ! 俺たちはずっと、ずっと……!」
もぞり、と毛布が動く音がした。その音に気付き和正はピクリと動きを止め、指先にかかる力をゆっくりと抜いた。そして首から手を離すと干川君が苦しそうに咳き込んだ。ゴホンゴホンと咳き込みながらも干川君が言葉を吐き出す。
「ごほっごっごほっ……はあはあ……。俺はお前の事を今でも親友だと思ってるんだがな」
「…………」
部屋の太陽、奈月が目を覚まし今日もまた一日が始まるのであった。
辛い……まるで拷問のようだ。頭が朦朧としてきた。少しでも油断すると目蓋が閉じて、二度と開かなくなりそうだ。なんとか意識を保とうと左手で腕の皮膚をぎゅっとつねってみる。痛い、確かに痛いが脳みそを覚醒させるには至らない。
なぜこうも大学の講義というものはこうも退屈なのだろうか。氷華は左方に座る典子へと視線を移した。典子は背筋をピシっと伸ばして、どんな一言も逃さない、と言った真剣な眼差しでダラダラと講釈をたれ続けている教授に集中している。
「典子……あとは任せた」
睡魔の誘惑に負けた氷華は、机に覆いかぶさるように上体を預け、両腕を枕に瞳を閉じた。
「ちょちょっと、氷華ちゃん?」
典子が呼ぶ声がして何度か肩を揺すられたが、氷華はそれに反応する事なく眠り続けた。
昼休み、構内は教室から流れ出てきた学生達が溢れ賑わっていた。ワイワイガヤガヤとそれぞれ気の会う友人達と昼食を供にしている。氷華と典子もその例外ではない。キャンパスの東部に位置する円形芝生、手入れの行き届いた芝生にぺたんと座り込んで、二人は隣り合って食事をしていた。
「もう、氷華ちゃんいきなり寝ちゃうんだもん、びっくりしたよ」
手作りのお弁当箱をパカッと開きながら、典子が愚痴るように言った。典子のお弁当はいつもと同じく可愛らしい出来映えだった。掌に乗るくらい小さな二段箱に、色とりどり鮮やかな配色の野菜や煮物が、これまた綺麗に仕分けられている。典子の昼食はいつも持参してきたお弁当だ。毎朝自分で作って持ってきているらしい。氷華が初めてそれを聞いた時は目玉が飛び出す程にびっくりしたものだった。
「ごめん、ごめん。だってさ〜あんなだらだらと話されたら眠くなって当然じゃん。とてもじゃないけど真面目に聞いてられないよ」
氷華はサンドウィッチの包装を取りながら言い訳する。ちなみに氷華の昼食はいつもコンビニの総菜パンや今日のようなサンドウィッチだ。とてもじゃないが典子のように毎日お弁当の持参などできやしない。そもそも氷華にはまともな料理をした経験もない。
「う〜ん、意外と真面目に聞いてたら面白い事もあるよ? あの先生の授業はわりかし面白い方だと思うし」
「えぇ〜マジで言ってん? あんな授業のなにが面白いのよ」
「なにって言われると、そうだなぁ……。今日の授業だと嘘の見抜き方っていうの面白かったな」
「嘘の見抜き方? そんなのやってたっけ?」
「氷華ちゃんは寝てたんだから知ってる訳ないでしょ」
典子に責められるような目で見つめられ氷華は「ごめんなさい」と俯いた。そして「あとでノート見せてな」と眼前で手を合わせる。典子は少し渋るような仕草を見せたが、やがて了承してくれた。
「それで、嘘の見抜き方って?」氷華が尋ねる。
「ああ、うん、えっとねえ……」
典子がお弁当を脇に置いてバッグの中をゴソゴソとあさり始めた。氷華に説明する為にノートを取り出すつもりだろう。そんなに興味をもって尋ねた訳でなくちょっとした興味本位でしかなかったので、氷華は少し後ろめたさを感じたが今更そんな事も言えず、その様子を黙って待ち続けた。典子はバッグの中から目的の物を見つけ出すと、それを開いて意気揚々と話し始めた。
「え〜と、人間の顔というものは実は左右対称ではありません。人の顔は左側の方が表情が強調される傾向があって、相手の素直な感情が知りたければ顔の左側に注目した方が良いでしょう」
「ふ〜ん」氷華は、(知らなくてもどうでも良い情報だな……)と思いながらも相づちを打つ。
「それから相手の嘘を見破りたい時にはその相手の足に注目しましょう。これはね、ほら、ボディランゲージって言うじゃない? 手降りとかで意思を伝えようとするやつ。言葉が無しの状態だと顔、手、足の順で相手に思いを伝えられるんだけど嘘のサインが出やすいのは逆で足、手、顔の順になるんだって。嘘つこうって人は感情が出やすい顔とか手は意識しちゃってるから、足に注目すると良いって先生言ってたよ」
「ふーん……足ねえ」サンドウィッチをかじる、レタスが萎れていて新鮮さの欠片もない。
「それから言葉が短くなったり、手を隠そうとしたり、手で顔に触れたり、それから……」
「ああ〜ああ〜ああ〜、もうそれくらいで良いよ。ほら早くせんと昼休みの時間終わっちゃうしさ」
長々と話し始めた典子を遮り、氷華は声をあげた。
「うーん、そうだね」
典子は左腕の時計をちらり見てから手に持ったノートを鞄にしまい、脇に置いたお弁当箱を持ち上げた。
そして氷華がサンドウィッチの最後の一片を口に入れた時だった。氷華の携帯電話が震えながら電子メロディを奏で始めた。(着メロはもちろんドリカム)ディスプレイの表示を見ると実家の番号が表示されていた。氷華は「ごめんな」と典子に断わりをいれてからその場を離れ、典子から十分な距離をとってから電話を取った。
「もしもし……うん、うん、えっ本当に?」
電話の相手は牧からだった。氷華は話を聞いて「すぐ行く」と言って電話を切った。
「誰からだったの?」
典子の元に戻ると首を傾げて尋ねられた。氷華は思わず誤摩化しの嘘を告げる。
「え、ああ友達から。ちょっと緊急の用事で……」
「なにかあったの?」
「たいした事じゃないよ、とりあえずうちもう返るから午後の授業よろしくな。それじゃ」
氷華は脇に置いたバッグを拾い上げ早々にその場を後にした。背中ごしに典子が呼ぶ声が聞こえていたが気付かない振りをしてそのまま歩み去る。
その背中を見ながら典子は寂しそうな声で呟く。
「嘘吐かれるのって嫌だよね……」
氷華の嘘を、典子はマニュアル通りに見破っていた。
一目見て善良な市民の家宅ではないとわかるたたずまい。氷華の実家は古くからの家並みと振興住宅が混合して同居するこの一帯で、一際異彩をはなって存在している。圧倒的な敷地面積の周囲を、刑務所のごとく高くそびえ立った煉瓦造りの塀が覆い、その上部には鉄条網が張り巡らされている。正門には古城にあるような豪奢で大きな鉄柵。塀や門のいたる所に監視カメラが設置されており、他者の立ち入りを拒んでいる。
中へと入ると牧が出迎えてくれた。玄関口で氷華の姿を認めると背中に手をまわし恭しく頭を下げてきた。
「氷華さん、おかえりなさい」
「ああ、うん……ただ、いま」
言いたくない言葉だった。氷華は自分の実家が嫌いだった。それは幼い頃の事を考えれば当然の事だ。家柄の事で氷華は辛い思いをする事が少なくなかった。だから大学に入ると同時に家を出て、それ以来ここには足を踏み入れなかった。だが「ただいま」と言うと、ここが自分の本来の家だと認めてしまうような気がして本当は言いたくなかった。だが「おかえり」と言われたら「ただいま」としか言いようがない。
「それで、さっきの電話だけど詳しく説明してよ」
「こんな所ではなんですから、どうぞ中で」
牧がそう言ってすっと右手を家奥へと向けた。氷華は少し躊躇ったが、牧に従い靴を脱ぎ捨てた。
牧の後を付いてゆくと客室用の居間へと通された。腰を下ろして開口一番に氷華は気になる事を牧に尋ねた。
「今パパはいんの?」
会いたくなかったからだ。実はここに来るまでずっと抱えていた不安であった。別に恐いとかそんな理由ではない。他人から見れば鬼のように見える存在であるかもしれないが氷華にとっては赤子よりも非力な父親だ。氷華を溺愛しきっていて何でもいう事を聞いてくれるし、何でもしてくれる。扱いやすいかと言われれば扱いやすいとも言えるが面倒臭いともいえる父親なのだった。
「今出かけてますよ」
牧がすぐ側に座り込みながらそう言うのを聞いて氷華はほっと息をつく。
「今日中には帰って来ないかと思います。残念でしたね」
「そうやね。んっでさ、さっきの話の続き早く聞かせてや」
「はい、わかりました」
氷華が尋ねると、牧は顔をしかめて語りだした。口にするのも嫌悪するかのような苦い顔だった。
そして氷華は干川君の居場所と現状を知った。驚きを隠せない。口を挟む事も疑念を抱く事も出来ず、ただ呆然として耳を傾けていた。そして牧の説明を聞き終わり、ようやく氷華は口を開いた。
「つっつまり、女を監禁してた干川君が、今度は逆に……監禁されてるって事!?」
「簡単に要約するとそういう事です。それに至る動機や契機は全くわかりませんし、理解出来るものでもないでしょうけど」
「くっ……典子の奴、よりによってとんでもない男に惚れたわね……」
氷華は恨めしそうに親指を噛んだ。
「まったくです。それにしても干川という男は本当に何者なんですかね、調べれば調べる程理解不能ですよ」
理解不能、確かにその通りだ。本当になんなのだろうこれは。己が拘束される事も一種のプレイというやつなのだろうか。一歩間違えば典子もこの男に巻き込まれ、蹂躙される事になっていたのかもしれない。そう考えると背筋が凍るような悪寒がしてくる。
典子と干川君を会わせたくなんかない。条件反射でそう思う。だけど典子の恋心を綺麗に終わらせるため、干川君には助力してもらわなければならない。それはもちろん力づくでもという事だ
「牧、それで居場所はわかったんだよね」
尋ねると牧はコクリと首を縦に振った。そんな牧に続けて命令を告げる。牧は「了解です」と言って全て了承してくれた。するべき話を全て終え、氷華は立ち上がった。
「なんかうち疲れたわ、一旦家に帰って寝てくる」
牧が車で送ると言ってくれたが、なんだか一人になりたい気分だったのでそれを断り、氷華は一人実家を跡にした。