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とある大学のカフェテラス。屋外に設置された白いテーブルの一つに水鏡 氷華は腰を下ろしていた。時刻はまだ午前中、まさに授業の時間真っ最中なので辺りにはあまり人がおらず、席はポツリポツリと寂しく閑散としている。
氷華はテーブルの上に置かれたアイスコーヒーを意味なくストローでかき混ぜながら、ふうっと小さく溜め息をついた。
「遅いなあ……今日は本当に来るのかなあ」
氷華は悩んでいた。それは自分ではどうにも出来ない悩み。人が悩む時というのは大抵どうしようもない事に対してのみだ。解決への糸口があれば後はそれに向けて努力すれば良い。だがどうすれば解決へと導けるのか、それがわからなければどうしようもない。だから氷華は悩んでいる。
どうすれば彼女の為に手助けが出来るのか、氷華にはわからなかった。それは彼女の感情を共感出来ないのが原因の一つなのかもしれない。彼女の力になってあげたい。だけど彼女の事が理解出来ない。そんな二重背反もあって氷華は悩んでいるのだ。
「氷華ちゃん?」
顔を上げるとそこには氷華の待ち人、杉山 典子がいつの間にか現れていた。そう、彼女こそが氷華が頭を悩ませ助力してあげたいと願う相手なのであった。
「典子!」
氷華はパッと立ち上がり弾んだ声をあげて名前を呼ぶ。
「久しぶり、ごめんね、今まで連絡しないで……ってええ?」
氷華は申し訳なさそうに謝る典子の言葉を遮り、両腕でぎゅっと抱きしめた。二人の身長は同じくらいなので正面から抱き合うと氷華の鼻先に柔らかい典子の髪がサラリと触れた。
「もう! このばか、うちがどれだけ心配したと思っとるん? 毎日心配で不安で……寂しかったんだからねっ」
「うん……ごめんね、なかなか心の整理がつかなくて一人でじっくり考えようと思ってさ、ごめんね、ずっと連絡しないで……って氷華ちゃん、ちょっと力強すぎ、いっ痛いよ。ぐう〜苦しい〜」
氷華は典子の身体にまわした両腕をさらに力を込めて抱きつき、ぐいぐいと締め付ける。
「うちを心配させた罰なんだから、典子、ちゃんと反省しとるん? ごめんなさい言うまで離さへんからな」
「ふえ、私謝ろうしてたよね、いまからちゃんと謝ろうと……」
「うっさい! ほら謝りい、ごめんなさいってちゃんと言いっ!」
「ああん〜ごめんなさい! 氷華ちゃんに心配かけてどうもすいませんでした〜」
「よし、許す」
そう言って氷華は両腕のしがらみを解いた。
「もうっ氷華ちゃんたら……」
悪態をつきながらも典子は嬉しそうだった。
再会を喜んでから二人は席に着いた。典子もアイスコーヒーを頼み、二人は向かい合って色んな事を話した。これまでの空白を埋めるかのように会話を弾ませた。
「それで、もうふっ切れたん?」
そして和やかな談笑が一段落し、氷華は単刀直入にそう尋ねた。氷華にはオブラートに尋ねたり、まわりくどい言い回しが苦手で好きでもなかった。だからこんな直球でしか聞く事ができない。
「う、う〜ん、もう大丈夫だよ。いつまでもうじうじなんてしてられないからね」
典子は傍目にも大丈夫ではないのがわかる様な声で応えた。無論それくらいは氷華にもわかった。空元気なだけなのだと。
典子はここ二週間程、学校を休んでいた。身体の調子が悪かったわけではない。学校側からしてみればずる休みという事だ。氷華は心配して何度も電話をかけていたが、ほとんど連絡のとれない日々が永らく続いたのだ。それはなぜか、氷華がそれを知ったのは最近の事だった。
その原因というのは、いわゆる恋愛事情というやつだ。他人からしてみればなんともばからしい事。実際氷華もそう思った。だが本人にとってはなにより重要な事だったのだろう。
典子とその相手はまだ恋人同士ではなかった。その一歩手前という関係であった。その相手が突然にして姿を消したとの事だった。典子に何も言わず、本当にすっと消えるように姿を消したらしい。家を尋ねても、彼の友人に尋ねても何も手がかりはなく、もう一ヶ月余りが経つ。
氷華はその典子の相手に会った事が何度かある。なんともちゃらちゃらとした風貌の、あまり信用出来ない男だったと認識している。だからこの話を聞いた時、「ああ、きっと他の女でも出来たんだな」っとすんなりそう思ってしまった。おそらく典子もわかってしまったのだろう。自分が捨てられてしまった事に。
そして典子が家に引きこもって今日まで二週間が経ったという事だ。だが今日で終わりだ。氷華は決心する。うちが典子を元気づけてやろう、と。
「よし! んじゃ今日は何処か遊び行こ! めいっぱい楽しんでぱ〜と遊ぼ、典子どこ行きたい? なんかしたい事ないん?」
氷華は立ち上がり典子の手を取った。
「え、でっでも学校は? 午後から心理学の授業あるでしょ?」
「今まで散々ずる休みしてたくせに何言うてんの、良いじゃん、久しぶりに会えたんやから今日くらい付き合ってくれたて」
「うう……確かにそうだけど、でも……」
典子は躊躇いがちに返事を返す。典子は基本的に気真面目な性格をしているのだ。今回の件もその性格が拍車をかけたのかもしれない。氷華は、そんな典子を強引に誘う。
「ほ〜らっ! 行こっ! さっさと用意して」
強く手を引くと典子は諦めたように顔を緩める。決して嫌がっているという訳ではなく、どこか嬉しそうな表情だ。
「ん〜わかったよ。そうだね今更な感じするよね」
「そうこなくっちゃ」
氷華は満面の笑顔を返しその手を離した。
「それじゃ二人してさぼりという事でっ」
そして二人は用の無くなった校舎を後にした。
歓楽街へと来ていた。平日の昼間だというのに氷華達と同じくらいの年代の若者が溢れていた。よく見ると大学のキャンパスで見かけた事のあるような人も居る。ここは氷華達が通う大学生達にとって主流な遊び場なのだ。
「で〜典子はなんかしたい事ある?」
氷華は語尾を不自然な程にアクセントを上げ典子に尋ねる。これは氷華がとても機嫌が良いという証拠の癖である。
「う〜ん、そうだなあ……」
典子は一差し指を顎にあて首を傾げた。非常に可愛らしい仕草であった。氷華はふふっ、と笑みを漏らす。
「典子は可愛いからナンパでもされるんじゃない? ちょっとかっこいい男でも探してアピってみよか?」
——あう……
冗談まじりの言葉であった。氷華は何気なく言っただけであったが典子は顔を一変させてしまったのだった。男関係の話題はまだタブーのようだ。氷華はそれに気づき強引に話題を変換させた。
「あ、ええっと……そうだ! クレープでも食べよ! うちが奢るから一緒に食べ行こ?」
「クレープ? う、うんそうだね。行こう、私食べたいよ、うん」
典子は陰鬱な表情を必死に隠そうと努力しているのだろう。どこかぎこちない返事をして、ぎこちない笑顔を返す。
「はは、それじゃ行こか」
対する氷華も元気をなくしていた。ああ失敗しちゃったな、と後悔しているのであった。
それから二人はぶらぶらと歓楽街を歩いたり、買い物をしたりと二人きりの時間を過ごした。お互いに男の話を話題にはあげなかった。今日はただ純粋に、嫌な事を忘れて楽しもう、そう思っていたのだろう。
だが氷華が思っている以上に典子は苦しんでいたようだ。それを氷華は気付かされる事となる。
それから二人してカラオケ屋にやって来た。典子は歌う事が大好きだと知っていたので、きっと典子の気も少しは良くなるだろう。そう思っていた。典子も喜んでいたので、何も問題などないかと思っていた。
しかし……
曲を入れて典子がマイクを持って歌い始める。そして気分よく歌っていたと思ったのに、典子は急に歌うのを辞め、泣き崩れてしまった。
本当に突然だった。ポロポロと大粒の涙を流し始めたのだ。
訳がわからなかった。突然の事態に動転し氷華はこう言う事しかできなかった。
「どっどうしたの!?」
典子はとても喋れる状態ではなく、ただ泣き続けるだけであった。そんな典子を動揺しながらもそっと抱きしめた。
「どうしたん、典子? 落ち着いて、ほらゆっくり呼吸して、す〜はあ〜……てな」
典子の涙は止まる事を知らず、流れ続け、やがて典子はぽつりぽつりと途切れながらの言葉を絞り出し始めた。
「ひん、ぐすん、どうして……どうして、私は勇気が出せなかったんだろ、臆病でもし断られたらとか考えて……会えなくなるなんて、ひっく、事に比べたらなんでもない事だったのに、そんな事も考えられなかったなんて、なんてばかだったんだろ……なんで伝えられなかったんだろ……」
典子の胸に刻まれた後悔の念が、一度それを口にすると留まる事なく溢れてきたようだ。
歌が流れる。
DREAMS COME TRUE~LOVELOVELOVE~
『ねえどうして、すごくすごく好きな事、ただ伝えたいだけなのに、ルルルルル、うまく言えないんだろう。ねえせめて夢で会いたいと願う夜に限って一度も、ルルルルルル、出てきてはくれないね。二人、出会った日が少しづつ思い出になっても……愛してる、愛してる……LOVELOVE愛を叫ぼう、LOVELOVE愛を呼ぼう』
典子は氷華の腕の中で悲鳴のような声を振り絞る。
「氷華ちゃん……私だめだよ……どうしても干川君の事忘れられない、伝えたいの、私の気持ちを……、もう嫌われてたって良い。伝えなきゃ終わる事も出来ないの、会いたい、会いたい、会いたい! 干川君に、 会いたいよ〜氷華ちゃんっ」
「典子……」
今まで氷華には、傷ついた典子の為に何をすれば良いのかわからなかった。大好きな友達の為にどうすれば力になれるのかわからず、だからずっと悩み続けてきた。ただ時間の経過を待つしかないのか、と己の無力さに嘆きもした。だが会わせるというだけなら、それは氷華にも手助けが出来る事である。再び会ってその後うまくいくとは思っていなかった。だからそんな事は無意味だと思っていたが、典子がただ会って伝えたい、そしてきちんと終わらせたい、とそれだけを思っているのであれば意味はある。なによりこんなにも泣きながら再会を願う典子の望みを叶えてあげたい、そう思った。
「典子、うちに任せてよ。干川君とやらを見つけてきてあげるから」
氷華は典子の頭を優しく撫でながら穏やかな口調でそう言った。
「知ってるでしょ? うちに出来ない事なんてほとんどないんだから、探し人なんてそんなの例え指名手配犯だって一週間で見つけ出せるっての、だから安心しいよ」
そう言って典子をぎゅっと抱きしめた。その腕の中で典子は躊躇いがちに声を絞り出す。
「でも……でも……そんなの、大丈夫なの?」
「典子はもっとうちの事頼ってくれて良いんだよ? 遠慮なんていらんから、うちに任せて安心して待っててよ」
「本当に……本当に干川君にまた会えるの?」
「うん、約束するよ」
氷華は優しく微笑みかける。すると典子は「ありがとう、ありがとう」と涙を流しながら何度も言い、そして最後に「ごめんね」と漏らした。
「典子はうちの大事な親友だからね」
そう言って氷華は頬を伝う涙を拭ってあげた。
氷華は家に帰って、さっそく干川君の捜索を始めた。かといって私立探偵のように自らの足で探す訳ではない。ただ電話を一本、実家へとかけただけである。
氷華の実家はいわゆる極道の家系であった。そこの一人娘である氷華が頼めば、人間一人を探すくらいの事は難なく可能だ。
氷華は小さい頃の事を思い出していた。氷華が典子と出会った、中学生の頃の事を。
人の噂はどこからでも駆け巡るもので、氷華の家系の事はいつの間にか皆が知っている共通の常識になっていた。いじめ……そう言っていいだろう。水鏡氷華は中学生の頃いじめにあっていた。
疎まれ、避けられ、忌み嫌われる、当時十四歳であった氷華には誰一人味方はおらず、孤独を強要された学生生活を氷華は送っていた。取り巻く全ての人達が氷華を拒絶していた。友達なんか一人もいなかった。教師も氷華の事をまるで存在しないかのように扱われ、氷華はいつも一人きりであった。
氷華は自分の弱みを見せたくなかった。可哀想だなんて思われたくない。くだらない馴れ合いなんかするよりは一人でいる方がマシだ、と自分からも周囲の人達を拒絶するようになっていた。
単なる強がりだった。本当は辛かった、助けて欲しかった。だけど自分が拒絶されるという辛さから目を逸らす為に、自分が望んで一人でいるんだ、と強がる事しか氷華のは出来なかったのだ。
そんな頃出会ったのが典子だった。不思議な子だった。何が嬉しいのかつきまとわれ、執拗に話しかけてきたのだ。そして『氷華ちゃん』などとまるで普通の友達であるかのように氷華を呼ぶのだ。
当初は典子の事が苛ついて仕方なかった。氷華は典子を拒絶し、無視し続けた。そして全身から近寄りがたいオーラを発し典子を邪険に扱い続けた。
しかしそれでも典子は氷華につきまとい続けた。そしてとある拍子に、氷華は典子にブチ切れたのだった。
「いい加減しいや! なんでうちにつきまとうん? うざたいっちゅうのわからん? もううちに近づかんで!」
そして典子の頬をおもいっきり叩いてやった。絶対的な拒絶、これでこれからは典子も近づかないようになるだろう。そう思っていたが典子の口から出た言葉は「いやだ」の一言だった。
あまりのも意外な言葉に氷華は唖然としてしまった。「はあ?」と思わず言葉が漏れた。
「気付いてる? 氷華ちゃん、時々すごい寂しそうな目をするの。私わかるの、氷華ちゃん本当は普通の優しい女の子でただ強がっているだけなんだって。ねえ私と友達になってよ、辛い時助け合ったり、楽しい時一緒に笑ったり、そんな普通の友達になってよ」
叩かれた頬を痛むだろうに、そんな素振りも見せず典子は強い意志を込めた瞳でそう言った。
……なんて甘々な考え方する子なのだろう、頭の中がお菓子ででも出来ているのだろうか。なんでこうまで邪険に扱われておいて自分の事をこんなに受け入れようとしてくれるのか、世の中の人間全てが善人に見えているのかもしれない。きっとこんな子が将来詐欺とか悪い男とかに騙されたりするんだろうな、本当にばかな子だ、本当にばかな……
「……えっ?」
ぽろりと涙が流れた。
頭はねじくれた考えをしているというのに、それに反して涙が止まらない。一瞬ゴミでも目蓋に入ったのかと本気で思ったが、そうではなかった。止めどなく涙が溢れ、一旦溢れた涙は止まらず、氷華はとうとう号泣してしまったのだった。そんな氷華を典子は優しく抱きしめてくれた。あんなに暖かい気持ちになれたのは生まれて初めてだった。
「…………」
氷華は瞳を開いて思考を現在へと戻らせる。
そう、あの時からずっと典子は誰よりも大事な唯一無二の大親友。典子の為ならなんでもしてあげる。出来ない事でもしてみせる。
「典子はうちの大事な友達だからね」
今日典子に向けて言った言葉を、今度は一人呟いて氷華は眠りについた。
翌日、平日だったので氷華は普段通り学校へと向かった。今日は朝からの授業である。いつも朝の授業はさぼったり遅刻したりが常の氷華であるが、今日は定刻通りに家を出た。典子は今日も学校に来るかもしれない、そう思ったからだ。氷華よりも何倍も真面目な典子は普段通りであるならば必ず朝から授業に出席する。昨日の事があるからまた休むかもしれないが、来るかもしれない。そう思って今日は早くから家を出たのだった。
大学は氷華の家から電車とバスを乗り継ぎ一時間程の距離の場所にある。朝の通学としてはなかなか辛い距離と時間だ。
そして、やっとの事でもうすぐ大学に着く、という所で氷華の携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示されるは牧の文字。昨日干川君の捜索を頼んだ実家の組員だ。ちなみに氷華の許嫁筆頭候補でもある。(氷華は認めてはいないが)
「もしもし」と常套句で電話に応える。
――あっおはようございます。氷華さん今どちらですか?
慌てたような声だった。そして前置きもなく投げかけられる問いかけ。なんだろう、と少し疑問に思う。
「今あ? もうすぐ学校てとこやけど、どうした? 干川君見つかったんか」
――それはちょうど良かった。ではすぐ迎えに行きますんで校門の辺りで待ってて下さい、では。
プチッという電子音がして電話が切れた。
「はあ? 今からて、まさかあのえぐい車でかけつける気? っておーい。……あちゃ切れてる」
すでに通話相手のいなくなった電話に氷華は声を投げかける。
「なんだってのよ……?」
洪水のように学生達が流れる校門の前で、一人立ち止まって待ち続けていると十分程して牧が現れた。
その姿を見て氷華はあちゃあ……と頭を抱えた。
まず牧の見た目、単純なルックスとしては悪くない顔ではある。年は三十半ばで少しダンディな感じだし背も百八十近くある。だがその服装は……まあそのヤクザ屋さんルックですよ。黒スーツにワニ革の靴。やたらと黄金色に光る時計やら……オーラが一般の人とはかけ離れている訳で……。そして駆けつけた車が黒塗りのセンチュリー。
さらに牧は氷華に歩み寄り「お待たせしました」などと大きな声で挨拶するものだから恥ずかしくて仕方がなかった。
典子の為だ……我慢、我慢、と自分に言い聞かせる。
「さあ、車乗って下さい」
氷華は赤面した顔を俯かせて無言でこそこそと車に乗り込んだ。
「それで、どないしたん? なんかわかったんか?」
不満や苦言、言いたい事は沢山あったが、それを飲み込み氷華はストレートに本題について尋ねた。
「ええ、その前に聞きたいんですけど、氷華さんと干川という男といったいどういう関係なんですか?」
「はあ? 関係? なんでそんな事聞くの?」
「いいから教えて下さい」
牧はピシリとそう言い放ち氷華に答えを促す。良い年して嫉妬でもしているのだろうか。
「関係って言われても……うちとしてはあんま関係ない男なんやけど実は……」
そして氷華は干川君を探す事になった契機を説明した。
氷華の説明を聞き牧は「なるほど……」と言っていたが、なぜか腑に落ちない表情をしていた。
「でさあ、今どこに向かってるん? まさか干川君もう見つけたとか?」
「いえ、それはまだ……ちょっと説明し辛いんですが……とにかくもうすぐその男の家に着きますんで一緒に行きましょう」
「まさか普通に家に居たとかそんなオチ? だったら悪い事したねえ」
「…………」
氷華の言葉に応える事なく牧はただ苦い表情で運転を続けた。なんとなく不穏な空気を氷華は感じていた。なんだか重々しい空気に氷華自身も口を閉じ、車が目的地に到着するのを静かに待ち続けた。
牧が車を路肩に駐車させた。細い道路だったので交通標識には駐車禁止の文字があったが、牧はどこ吹く風といった様子だ。これまでこの車で取り締まれた事などないのだろう。当たり前といえば当たり前かもしれない。
「ここです」
その視線の先には、かなり高級そうなマンションがそびえ立っていた。典子から一人暮らしをしていると聞いていたので少し予想外の住まいであった。
「では行きましょう」
牧に促され氷華はその後を付いて行った。
干川君の部屋の前まで来た。扉の前で牧は立ち止まり、氷華に向かって妙な言葉を投げかけた。
「氷華さん、これから中に入りますけど決して大きな声は出さないで下さいね。人が来ると色々と……面倒な事になると思いますんで」
「ああ、わかった……」
牧の言葉は真剣さそのもので氷華は疑問には思ったが素直に頷いておいた。
「では、入りましょう」
牧がカチャリと扉を開いた。
良い部屋住んでんなあ、足を踏み入れて最初に、氷華はそう思った。
学生の一人暮らしにしては勿体ない程の広さの部屋だった。玄関から見えるキッチンは、三、四人が並んで調理が出来そうな程広く、収納棚にはあり余る程のスペースが設置されている。なぜか業務用のような巨大な冷蔵庫まである。
その奥にはパーティができそうな程、開かれた空間。中央に木製の大きなテーブルが置かれ、壁際にはやたらと高そうな電化製品が細やかに設置されていた。
奥には他の部屋がいくつかあるようだが、一見して特に変わった所もないように思えた。
「氷華さん、こっちの部屋です」
振り向くと牧がその部屋の一つに手をかけて氷華にむかって手招きしていた。その時には既に嫌な予感は確信めいたものになっていた。いったい部屋の中には何があるというのか。
そして牧が扉を開いた。
中は寝室のようだった。干川君は几帳面な性格なのだろうか。部屋の中は年頃の男子の部屋にしては細かに整頓されている。というよりも生活するのに不自由なのではないかと思う程に家具やら物が排除された、生活感のない空間だった。
「……あれ?」
ベッドの上に視線を移す。そこにはマネキンが置かれていた。ひらひらとしたピンク色の衣装を着せられ飾られたマネキンがベッドに腰を下ろしていたのだった。そのマネキンは腕と足の部品が取り外されていて、所在無さげにベッドの外枠に立て掛けられている。
なんでこんな物が、と疑念に思い氷は一歩近寄り、そのマネキンを注視した。 そしてその正体を知った氷華の背筋は一瞬にして凍結し、小さく「ひっ!」と悲鳴をあげた。
それはマネキンなどではなかった。死んだ女の屍体であったのだった。
「まっ牧! なっなんなのこれ!? どういう事!?」
「そんな事私に聞かれても……むしろ私が聞きたいくらいですよ。今朝ここに押し入ったら時に発見したばかりなんですから」
氷華はもう一度、その屍体に視線を移した。両手足が切断されている。なんともえぐい光景だ。だが死因は四肢を切断された事が起因ではなさそうだ。その肌と表情を見ればわかる。おそらく餓死だ。肌はカサカサに乾きはて、その顔は苦しそうに萎れたままで硬直している。
「おそらくその男に監禁されていたんでしょうな」
牧がそう言った。「まっまさか〜……」と言って笑おうとしたが無理だった。顔の筋肉が痙攣をおこしたかのようにひきつく。
「それにしてもなんて変態な野郎だ……手足をぶっちぎって監禁するなんて人間のする所行とは思えん」
氷華の頭は混乱していて、思考がきちんと追いついてこなかった。ぐるぐると気持ちの悪い物が脳内を延々泳ぎ回っている。
干川君がこの少女の両手足を切断して監禁していた? あまりにも非現実的だけれども、なにより証拠が目の前にある。しかし、それならば干川君は今どこにいるのか。そうまでして監禁した少女を放ったらかしに、どこに行ったというのか?
全身を雷で打たれたかのような衝撃が全身を襲った。
瞬間、氷華は携帯電話を取り出し手早くコールさせる。相手はもちろん典子だ。もし典子の元に干川君から連絡が来ていたら……典子は喜んで会いにいくだろう。疑う事もなくうきうきと。それはありえない事ではないように思え、今まさに危機が迫っているかのように氷華は感じていた。
電話のコール音が鳴る。一、二、三……お願い、典子、出て……ッ!
――はい、もしもし。
いつもと変わらぬ典子の声だった。ほっと安心して脱力する。
「典子! 典子今どこいんの?」
――? 学校だよ、いつまでも休んでいられないからね。
「そうか、良かったあ……」
――どうしたの? なんか慌ててるようだけど。
「え? ええっと、それは……」
氷華にはどう応えてあげれば良いのかわからなかった。干川君の事を話すべきなのか、話さない方が良いのか。どちらの方が典子の為になるのか氷華にはわからなかった。
二、三秒ほど不自然な沈黙をしてしまう。
――もしかして干川君の事?
「ええ? い、いや、その事とは関係ない関係ない。ただ学校来てるのかな〜て思っただけだから」
――心配してくれたの? ありがとうね。
「あっそうだ、それから干川君についてはもう少し時間かかる思うよ」
――そっか……ごめんね、氷華ちゃん。
典子の声を聞き氷華は決意を固めた。何が典子の為になるかはわからない、だけど。
「典子……典子はうちにとっての大事な、一等大事な友達だから……」
――えっ? う、うん。急にどうしたの?
「だから……典子の為なら、うちはなんだってしてあげるよ」
――どうしたの、氷華ちゃん? なんか変だよ?
「なんでもない、それよりもう少うしたら学校行くから、そん時はノートとレジェメ見せてな。それじゃ切るよ」
そして氷華は牧に三つの事を伝えた。一つ目は、なんとしても干川君を見つけ出す事。二つ目に、見つけたら警察には知らせずに氷華の元へ届ける事、そして典子に護衛をつける事。
典子の為に……その想いは純粋なものだった。だが、その想いがやがて歪んでゆく事になろうとは、その時の氷華には知る由もなかった。