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狂騒する自慰愛  作者: SEI
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「わたし人肌って大好きなんだ」

 まるで綿毛でも吹くかのような優しい口調で彼女は囁いた。美しく艶やかな長い髪、ぱっちりと見開いた大きな瞳、そして肉感的でもぎたての果実を思わせるような魅惑的な唇。肌は白く透き通っているかの如く、その頬はほんのり桜色に染まっていて愛らしさに拍車がかかっている。もしも道端ですれ違ったのなら、万人が振り返ってしまうであろう程に美しい。

 彼女の名は細川 奈月ほそかわなつき

 奈月の吐息はとろけるほど甘く、周りの景色を桃色へと変えてゆく。

「ほら、こうして触れてると体温が直に伝わってきてまるで一つに繋がってるみたい。ふふっ……干川君の鼓動が肌を通じてわたしに流れ込んでくる」

 奈月はベッドに横たわる男の胸に顔を沈めて、至福の表情を見せる。その瞳は魅力的で魅惑的だ。見る者を間違いなく惑わせるような魔力を秘めている。

「ねえ、他人の体温ってどうしてこんなに気持ち良いのかな、干川君もわたしの体温感じてる?」

 そう言って奈月は男――干川君の手を取った。そして柔らかな手つきで包み込むとその指先を口の中へと誘い込んだ。卑猥で扇情的な音が部屋に響く。

「あはゃん、ねえ……わたしの口のなか暖かい? わたしの体温……あん、感じてる? ああん、ねえ、気持ちいい? わたしはすっごい、うん気持ちいいよ」

 ふっくらと柔らかそうな唇から白い舌を覗かせて、奈月は指先を執拗に嘗め続ける。奈月の口から生み出されたキラキラと光る液体が細い糸を引き、指先へと繋がり伸びてゆく。

「もう、だめ……だめよ……我慢出来ないの」

 脳にダイレクトで響くような甘言を吐き、奈月は干川君の瞳をみつめた。その頬は紅潮し、潤んだ瞳は抗う事が出来ない程に艶やかであった。

「ねえ、お願い……もう一回。干川君の欲しいの、干川君を感じて飲み込みたいの、ねえ良いでしょ?」

 桃色の吐息をはあはあと荒立たせ、奈月は懇願する。

「もう……だめぇ……」

 そして……

「――――!!」

 ぐしゃりと音を立てて指先を食いちぎった。人差し指だ。干川君のそれは奈月の唇に挟まれ、未だに動いているように見えた。

 それをむにむにと嘗め回しながら奈月は恍惚の表情を見せる。

「あ〜左手の指、無くなっちゃったか」

 干川君の手首を持って、奈月がくすくすと笑う。その手首の先にはもう指は一本、親指しか残されていない。そしてゴムを噛むような音が響きわたる。

「あふん、干川君の血が、肉が、身体の一部がわたしに流れ込んできてるよ。嬉しいな、嬉しいな、嬉しいな、あはっあははははははっ!」

 それを口に含んだまま、奈月は高らかに笑った。血が滴る。口端から溢れる大量の赤が、頬に、胸に、太ももにと奈月の身体を赤く染めてゆく。

 奈月は享楽に悦りながら顎を動かし続けた。ゴムを噛むような音が、やがてコリコリとした音へと変わり、奈月は口からそれを取り出した。

 かつて干川君の指だったそれは、もはや少量の肉を残した骨へと変わっていた。奈月はそれの端を指で掴んで眼前に持ち上げる。

「干川君を全部食べるからね、一片の欠片も残さずぜ~んぶっ」

 そして舌と前歯を器用に使って、骨から肉片をむしり取り食した。

 干川君は絶えず声を発する事なく、眼をそらしたまま虚空をただギッと睨めつけていた。

「んはああ……んん」

 やがて真っ白になったそれを愛おしそうに見つめ、存分に愛で終わると奈月はそれを突き出した。

「和正、これいつもの所に保管しといて」

 その先に居たのは、もう一人の男。

 男はベッドのすぐ脇に立ち、ビデオカメラを携えていた。カメラが映すはもちろん奈月と干川君の両名。男はその二人の様子をただじっとカメラで映し続けていたのだ。

 その男――和正は無言でコクンと首を縦に振り、それを受け取った。

「はあん……し・あ・わ・せ……。満たされた~」

 奈月はそう言うと隣のベッドへと沈み込み、すぐに眠入ってしまった。幸せを噛み締めているかのような安らかな寝顔であった。


 そんな寝顔を見つめながら和正は心中で呟く、ああ……なんて美しいのだろう。

 和正はその美貌に惹き寄せられるようにふらふらと、ビデオカメラ片手に奈月の元へと向う。

「…………」

 しばしの間、和正は画面ごしにその姿を見続けていた。その瞳には哀愁のようなやるせない感情が伺える。

 やがて、和正は小さくふっと溜め息を漏らしビデオカメラのスイッチを落とした。





 ――きっと善悪を語れる人間は経験した事がないのだろう。みさかいがつかなくなる程の想いというものを。

 価値観は千種千別で不変でなどありえはしない。奈月は干川君を愛する事を全てと考え、俺は奈月に尽くす事を全てに考えているだけだ。かといって自分が正しいなんて思ってもいない。ただひたすら彼女の為に……それだけを考えて行動しているだけだ。正しくなんかなくて良い――



「ねぇどうして喋ってくれないの?」

 奈月はいつもの定位置に腰を下ろしてそう言った。定位置とは大の字になってベッドに寝倒れた干川君の腹の上だ。奈月はその上に馬乗りになって寂しそうな視線を送っている。

「干川君の声が聞きたいなぁ。干川の声を全身の肌で感じたいよぅ」

 奈月の猫なで声が響く。だがそれに答える者は誰もおらず――無論和正も無言でカメラを構えているだけである――奈月は不満気な表情を見せる。

「ねぇ悲鳴でも良いの。聞・か・せ・て? ほらぁ痛いでしょう、なんか喋ってよぅ」

 そう言って干川君の指先を膝で踏みつける。すると割れたソーセージみたいに固まり始めていた手先から血が滲み出してきた。新たに噴き出す鮮やかな赤と、凝り固まったどす黒い色が混じり合う。

「…………ッ!」

 干川君の表情が歪む。尋常でない痛みが走っている事だろう。古傷をえぐられるのは新たに傷がつくられるよりも何倍も痛い。だが干川君は依然として声をあげなかった。なぜならば無言でいる事は干川君に出来る唯一の抵抗なのだ。

 ちなみに干川君の四肢は何処にも固定されていない。ただベッドに大の字になって寝転んでいるだけだ。だが和正がその四肢を加工して抵抗する力を奪っているので緊縛されているのと同義ではある。つまるところ物理的抵抗は不可能、という事だ。

 そんな干川君に出来る抵抗はただ黙る事。今までの経験から干川君は理解っていた。何を言っても、例え罵詈雑言を吐き散らしても奈月を喜ばせるだけなのだ、と。だから黙る。苦し紛れの反抗ではあるが、干川君にはそれしか出来ないのであった。

 奈月の顔がさらに不機嫌なものへと変化してゆく。

 どうせなら悲鳴でもあげてもっと奈月を喜ばせれば良いものを……和正はカメラを構えながらそんな事を考え小さく舌打ちをした。

「”あ”あ”あぁ~!! なんで!? なんで言う事聞いてくれないの!? こんなに、こんなに想っているのに!!」

 突然奈月が悲鳴をあげた。眉をひきつらせ、憤怒の感情を爆発させている。そんな顔も美しい、怒った表情は和正もあまり見た事の無いものだ。カメラをさらに近づけ奈月を写し続ける。

 だが和正のそんな余裕は次の瞬間に吹っ飛ぶ事となるのだった。

 奈月が苛立ちまじりに干川君と唇を合わせた。その直後、奈月が「痛たッ」と言って顔をあげた。不信に思い奈月に視線を向けると……血が、奈月の豊やかな柔らかい唇に傷が付けられていたのだ。

「…………ッ!!」

 和正が驚愕して奈月に歩み寄る。あぁ! なんて事だ! 奈月の美しい唇に傷が!

 和正は完全に我を失っていた。そして抑え切れない怒りを、無防備で横たわる親友へとぶつけた。

 ガツンと右拳を打ち下ろす。和正の怒りは干川君の鼻に命中し……どうやら鼻骨が折れたようだ。干川君の鼻は不自然にひん曲がり鼻血が勢いよく噴き出していた。

「……。なに、してるの?」

 奈月が壊れた人形のような声を絞り上げる。

「なにをぉ~してるの~!!」

 奈月は同じ言葉を、まるで全く違う言葉のように狂気めいた怒声で吐き出した。

 和正がビクンと全身を萎縮させ奈月に振り返る。

 ハサミが……振りあげられていた。先端が鋭く尖った金属製のハサミ――ベッド脇に置いてあった物だ。奈月はそれを右手で掴み取り、そして和正に向けて今にも振り下ろそうとしていうところだった。

 あぁ、ごめん奈月……和正は心中で呟く。

 そして和正はハサミが振り下ろされるのを逃げようとも避けようとも、いや目をつぶろうともせず待ち構えた。

 奈月に躊躇いはなかった、容赦なく、遠慮なく、奈月はハサミを振り下ろした。

――

 鮮血が舞った。線上の血飛沫が周囲に撒き散らされた。

「ああ……うあぁ!」

 声をあげたのは干川君。恐怖に引き攣った表情で情けない声を発した。

 和正の左眼底には金属製の冷たいハサミが突き刺さっている。ビクンビクンと何故か不規則なリズムで血飛沫が噴き出し続けていた。

「あんたなに邪魔してくれてんのよ!!」

 怒りの全く治まっていない奈月は、さらに電気スタンドを手に取って振り回す。

「あんた! ガンッ! 逆らおうっての!? ガンッ! ふざけんな! ガンッ! ふざけんな! ガンッ! ふざけんなぁ~! はぁはぁ……死ね! この役立たず! 出来損ない! 死ね! 今すぐ死んじゃえ!」

「やめろ……。やめろぉ~!!」

 干川君が若干震えながらも猛々しく声をあげた。

「いい加減にしろよ、このイカレ女が!! 和正!? 生きてんだろうな、おい返事しろ!」

 奈月は首だけをグルリンと動かして干川君に視線を戻した。

「やっと声が聞けた。ふふふっ干川君てそんな声も出せるんだね、新しい一面が知れて嬉しいよ。ふふふっ」

 奈月の表情は一変して笑顔へと移った。

「嬉しいな、嬉しいな」

 そう言って奈月は手に持った電気スタンドを和正の顔面めがけて投げ捨てた。

「このイカレ女が……和正を殺す気かよ」

「ああん、今日はおしゃべりなんだね。良い……良い、良いよ! もっと聞かせて? 干川君の声もっと聞きたい」

「くそっ会話にならない程イカレてやがる」

「ふふっ伝わってるよ? 干川君の声全身で感じていっぱい感じてるよ?」

 奈月は全身でその喜びを抱きしめるかのように両腕を抱えて震えていた。

「…………ッ」

 干川君は思わず言葉を飲み込む。言葉を発する事で奈月を喜ばせるというのが気に入らないのだろう。

「あぁ~またお黙り? もう……」

 奈月は頬を膨らませる。本当に怒っているのではなく、子供がすねた時に見せるような仕草だ。

「よくわからないけど干川君は和正が殴られるのが嫌なんだ」

「当たり前だ! 和正は、和正は俺の親友なんだ!」

「なるほどね~」

 そう言うと嬉しそうな声でふふっと笑った。

「ねぇ干川君……こ・こ・舐めて?」

 そう言って奈月は自らの唇を指差した。干川君に噛まれた時に出来た傷跡のある位置だ。

「痛くしないでね? 優しく丁寧にじっくりと、そう、その舌使ってたっぷりと舐めてくれる? そうしたらもう和正の事殴らないであげるよ」

「くっふざけん……」

「ちなみに断ったらもっと酷い事しちゃうかもしれないけどね」

 クスクスと本当に楽しそうに笑った。

「……わかった。なんでもしてやる」


 地べたに頬を擦りつけながら、和正の目に写るは、最愛なる女性と最高の親友とのキスシーン……

 大海に一人取り残され漂っているかのような、孤独で虚しい思いが和正を締め付ける。すぐ近くなのに届かない、絶対的な壁の向こう側に存在している。己の存在を希薄に感じる程、惨めな気分であった。眼底にハサミを突き刺されるよりも、電気スタンドで殴られ続けるよりも和正にとっては辛い光景だ。

「あ~満たされた~」

 奈月の一日が終わったようだ。この言葉は奈月がいつも寝入る前に使う定型文。奈月はいつものようにそう言って隣のベッドに沈み込んだ。

「……和正、おい和正! 大丈夫かよ?」

 干川君が奈月の様子をおそるおそる伺いながら尋ねる。

「和正? おい、しっかりしろよ!」

「…………」

 和正はそれに答える事なく静かに立ち上がる。囚人のような重い所作であった。肉体的にも精神的にも堪えているのだろう。

「和正! お前……病院、早く手当しないと!」

「うるさい、騒ぐな。奈月が起きる」

 それは初めての事だった。

 三人がこの一室に閉じこもり、異常な生活が始まってもう一週間が経つ。その間、和正は終始無言を保っており、そして和正が言葉を発するのはこれが初めての事だったのだ。

 和正はかつての親友に向けてさらに言葉を続ける。

「ばかやろうが、俺の心配なんてしなくて良いんだよ。お前は奈月を喜ばせる事だけ考えてりゃそれだけで、それだけで良いんだ」

「お前なに考えてんだよ……なんであんなイカレ女に従ってんだよ! どういうつもりだ!?」

「どういうつもり、だと?」

 和正の顔がぴくりと引きつく。いまにも爆発しそうな噴火山を思わせるような表情に変わる。奥歯がすりきれそうな程に、強く強く噛み締めているのだろう。ギリギリと奥歯が擦れる音が聞こえてくる。

「もう口を開くな、お前と話が通じるとは最初ハナっから思っちゃいない。お前は俺が理解出来ないだろうし、俺にはお前が理解出来ねえ。俺とお前はどこまで行っても平行線だ」

 和正は床に転がったビデオカメラを拾い上げ、そして部屋を出ようと出入り扉へと向かい、干川君に背を向けた。

 干川君がなにか叫んでいたが和正は完全に黙殺し、振り返る事なく歩を進める。もう話す事はない、と言わんばかりの背中であった。

 出入り扉が開き、そして和正が外に出ると当然のように、再び部屋は密室へと戻されようとしていた。

 その扉が閉まる刹那……聞こえるか聞こえないか微妙な、ほんの小さな微かな声が部屋に響いた。

「お前さえ……お前さえ存在なければ……」

 怨念のこもっているような冷たい暗い声であった。



 やはり、干川君と話すべきではなかった。扉を閉め、それに背中を預けながら和正はそう思った。

 心の最奥、もう開く事はないはずであった感情が溢れてきている。嫉妬の感情。全てを奈月の為にと考えて、献身的に見返りも求めずただ奈月の為に……そう決心したはずなのに、結局のところ俺は、自分自身の為に行動しているだけなのかもしれない。だが抑えられない。どうしても考えてしまう。あいつさえ存在なければ、と。

「このままだと、俺は干川君を殺してしまうかもしれない……」

 そんな言葉を呟いて和正はその場を後にした。


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