第3話 吃水線の嘘
船は、嘘をつく。
船名も、旗も、積荷証も、金で塗り替えられる。
だが、吃水線だけは水に嘘をつけない。
夜明け前。
シューチンは机いっぱいに船荷証を広げていた。
昨夜、茶箱の二重底から出てきた帳簿。
夫へ見せた二枚。
そして、見せなかった一枚。
蝋燭の火が短くなるたび、紙に書かれた数字の影が伸びる。
同じ船が、同じ日の同じ刻に、二つの港で記録されている。
一方では空荷。
もう一方では茶と綿を満載。
船名は違う。
だが、船腹の寸法と吃水の記録が同じだった。
「一隻の船が、二つの名を使っている……?」
いや。
帳簿の端に、さらに三つ目の印がある。
船ではなく、荷を受け取る場所を示す記号。
シューチンは小さな茶葉を紙の上へ置いた。
一枚目の船名。
二枚目の船名。
三つ目の無名の印。
茶葉を指で動かす。
港から、沖へ。
沖から、小舟へ。
小舟から、再び陸へ。
「おはよう、淑卿」
背後から声がした。
シューチンは、袖で一枚の船荷証を隠した。
林則徐は気づいたはずだ。
だが、何も言わず、盆を机の端へ置いた。
白粥と塩漬けの野菜。
「朝餉を持ってくる欽差大臣など、見たことがありません」
「妻が一晩中、寝台へ来なかったからな」
「公務を抜けてきたのですか」
「朝餉を運ぶのも公務だ。君が倒れれば、我が家の帳簿が崩壊する」
「国ではなく、家の心配ですか」
「国は部下が支える。家は君しか支えられない」
林は向かいへ座った。
目の下に、薄い影がある。
彼も眠っていない。
昨日の帳簿を役所へ持ち込み、限られた者だけで照合していたのだろう。
「偽造された私の官印は、まだ役所内で使われていない」
「外で作られた可能性は?」
「ある。だが印影の欠けまで似ている。近くで本物を見た者だ」
「あなたの机の近くに、敵がいる」
「敵と決めるのは早い」
「ほら。あなたは人を信じすぎます」
「君は疑う相手を増やしすぎる」
「疑われずに済む人間など、赤子だけです」
「赤子も泣いて人を動かす」
シューチンは、思わず笑った。
夫も口元を緩める。
けれど、視線は机から離れない。
「隠した紙を見せてくれ」
笑みだけが消えた。
「何のことです?」
「君は嘘をつくとき、右の袖口を押さえる」
シューチンは手を離した。
「三年で、よく学びましたね」
「君を三年しか見ていないと思うか」
婚約前。
茶商の娘が贈答茶の量目をごまかした役人を言い負かしたという噂を、林は聞いていた。
初めて会った日、彼は挨拶より先に秤を持ってきた。
この分銅は本物か、と。
シューチンは一目見て答えた。
中が空洞です、と。
あの時から、二人はこうして試し合っている。
「見せられません」
「私を信用していないのか」
「あなたを信用しているからです」
「便利な言葉だな」
「あなたが知れば、動く。動けば、公的な記録が残る。記録が残れば、偽の印を作った者へ届く」
「私に判断させず、君が決めるのか」
「今は」
林の指が、机の上で静止した。
怒ると声を荒げる人ではない。
だから、沈黙の方が痛い。
「昨日、半日の猶予を与えた」
「その半日で、船の場所が分かりそうです」
「船?」
シューチンは、隠していない帳簿の頁を開いた。
「同じ寸法の船が、別の名で記録されています。積荷も矛盾している。数字だけでは足りません。港で、実際の沈み方を見たい」
「許可できない」
「まだ頼み終えていません」
「港には密輸業者だけでなく、賄賂を受け取った役人もいる。昨日、君の部屋へ矢を射込んだ者も水路を使った」
「だから行くのです」
「淑卿」
「公的な視察船を出せば、相手は荷を移します。官夫人の輿でも同じ。薬売りの舟なら、誰も見ません」
「薬売りに化けるつもりか」
「阿秀の母親が使っていた服を借ります」
「もう準備しているではないか」
「あなたなら許すと思っていました」
「私の命令を聞く気は?」
「結婚した日から、ご存じでしょう」
林は額へ手を当てた。
ため息なのか、笑いを隠したのか分からない。
「護衛を二人、遠巻きに付ける」
「目立ちます」
「見失わない距離だ。これ以上は譲らない」
「では、私もそれ以上は求めません」
「帰ったら、隠した紙について話すこと」
「検討します」
「約束しろ」
シューチンは粥を一口食べた。
「冷めています」
「淑卿」
「帰ってから、話します」
何を、どこまで。
そこは言わなかった。
林は見抜いていたが、それでも頷いた。
信じたのではない。
彼女に選ばせた。
そのことが、シューチンの胸を少しだけ重くした。
◇
朝の珠江は、陸より先に目を覚ます。
櫂が水を叩く。
魚籠がぶつかる。
船頭が怒鳴り、商人が値を叫び、子どもが舟から舟へ飛び移る。
大きな帆船。
平たい艀。
花船。
漁船。
役人の巡視船。
洗濯物を屋根代わりにした家船。
水面の上に、もう一つの街があった。
シューチンは粗い藍色の上衣を着て、髪を布で覆っている。
隣の阿秀は、薬籠を膝に置いていた。
「奥様、背筋が伸びすぎです」
「曲げると腰が痛いわ」
「薬売りの女は、そんなに良い姿勢で座りません」
「では、あなたが主人で、私を雇ったことにして」
「私が奥様を?」
「何か問題が?」
「旦那様に殺されます」
「則徐は人を殺しません」
「では、ものすごく長い説教をされます」
「それは死ぬより辛いかもしれないわね」
阿秀が笑い、櫂を押した。
舟は市場の脇を抜ける。
彼女の動きは軽い。
陸の屋敷で盆を運ぶときより、ずっと自然だった。
「母上も、この辺りに?」
「もっと下流です。今は伯父の舟と繋いで暮らしています」
「お兄さんは」
阿秀の櫂が、一瞬だけ水を深く掻いた。
「荷運びです。沖の大きな船から、小舟へ」
「どんな荷を?」
「なんでも」
答えが早すぎる。
シューチンは顔を見た。
阿秀は川面だけを見ている。
問えば、話すだろう。
だが今は、船を見つける方が先だ。
シューチンはそう判断した。
信頼しているから、待てる。
その判断が、後にどれほど高くつくかを、この時の彼女は知らない。
「帳簿の船は、あれですか」
阿秀が顎を上げた。
外国船が並ぶ向こう。
一隻の大きな船が、帆を半分だけ畳んでいる。
積荷証にある船名は、シー・ラーク。
だが船尾に書かれた名は、マリアンヌ。
白い塗料の下に、さらに別の文字が透けていた。
「近づきすぎないで」
「どこを見ます?」
「水と船が触れている線」
船腹には、積荷の重さを知るための目盛が刻まれている。
荷が重ければ、船は深く沈む。
軽ければ、上がる。
帳簿では空荷。
ならば、水面はもっと下の目盛を指すはずだった。
けれど船は、腹を重く水へ沈めている。
「満載です」
阿秀が言った。
「茶と綿、と証書にはあるわ」
「茶なら、荷下ろしの人足が集まります。綿なら雨を避けて覆いを掛ける。でも、何もしていない」
船の周囲に、荷役の気配がない。
代わりに、小舟が一艘、船腹へ寄った。
荷は積んでいない。
三人の男が乗り、中央に小さな鉄箱がある。
船から小舟へ、何かが渡された。
鉄箱だけが重くなった。
「銀です」
阿秀が呟く。
小舟は岸へ向かわず、別の外国船の陰へ消えた。
荷が下りていないのに、銀だけが動く。
では、売られた物はどこにある。
シューチンは、船の沈み方をもう一度見る。
飲料水。
乗員。
帆と予備材。
帳簿にある茶と綿。
すべてを足しても、あの深さにはならない。
余分な重さは、標準的な阿片箱に換算して数百箱。
「この船は、港へ荷を運ぶために来たのではない」
「では?」
「港の外に置かれた倉庫よ」
沖で停泊する。
阿片を小舟へ少しずつ移す。
代金の銀だけを受け取る。
陸の倉庫なら役人が封鎖できる。
船なら、危険を感じた瞬間に錨を上げられる。
「受取船……」
「帳簿にある三つの名は、同じ船ね」
「でも、登録旗がありません」
阿秀の言う通りだった。
船尾に旗はある。
だが、港の登録簿に記された印と違う。
名前を三つ持ち、どの名でも存在しない船。
幽霊のように、帳簿の隙間だけを渡る。
「奥様」
阿秀の声が低くなる。
「後ろの舟。さっきから同じです」
振り返らない。
シューチンは薬籠の蓋に映る水面を見た。
細長い舟。
男が二人。
漁具も荷もない。
櫂の動きはゆっくりだが、距離が変わらない。
「巡視役人ではないわね」
「なぜ?」
「役人なら、あの税船を避けない」
追う舟は、前方の巡視船を見て進路を変えた。
官の目を避ける者。
だが、密輸船の方へはためらわず近づく者。
「阿秀。逃げられる?」
「川で私に聞きますか?」
彼女の口元が上がった。
「しっかり掴まってください」
櫂が水を強く打つ。
小舟が横へ滑った。
追跡者も速度を上げる。
阿秀は岸へ向かわない。
洗濯船が並ぶ狭い水路へ突っ込んだ。
頭上に、濡れた布が幾重にも張られている。
白。
藍。
赤。
風をはらんだ布が、視界を塞ぐ。
「布を上げて!」
阿秀が叫ぶ。
知り合いらしい女たちが、一斉に綱を引いた。
濡れた布が落ち、追う舟の男たちへ覆いかぶさる。
怒声。
櫂が船縁へぶつかる音。
阿秀はその隙に細い水路を抜けた。
「見事ね」
「奥様は箱の重さ。私は川の逃げ道です」
「帰ったら褒美を」
「お菓子でお願いします」
息を整えながら、二人は古い石壁の陰へ舟を寄せた。
ここからなら、幽霊船を別の角度で見られる。
シューチンは阿秀から小さな望遠鏡を借りた。
父の店で外国商人から譲られた品だという。
円い視界。
揺れる水面。
大船の船腹。
塗り重ねられた三つの船名。
その奥に、もう一隻の小型カッターが見えた。
細身で、速そうな船。
甲板に、一人の女が立っている。
黒いドレス。
黒い手袋。
朝の港には、あまりにも場違いな姿。
女も、真鍮の望遠鏡をこちらへ向けていた。
円い視界の中で。
青い目と、正面から合った。
偶然ではない。
女はシューチンを見ている。
探していた者を、ようやく見つけたように。
阿秀が囁いた。
「西洋人の女……?」
シューチンは答えなかった。
黒い女が、望遠鏡をわずかに下げる。
右手が光った。
金の指輪。
印面は、菱形。
中央に、三本の茶葉。
茶箱の二重底から出てきた、半分の封蝋と同じ紋章。
女の唇が動く。
二つの短い音。
ファウンド・ユー。
意味は分からない。
だが、狩人が獲物を見つけたときの言葉だと、表情で分かった。
シューチンは望遠鏡を下ろさない。
逃げる理由はない。
袖の中には、女の名がある。
夫へ見せなかった紙片。
会社の決定権を持つ、二十五歳の女。
シューチンは、帳簿の署名を声に出した。
「E・アシュフォード」
遠い甲板で。
女が、笑った。




