第112話:ここまでだ、と誰かが言った
一歩踏み出した瞬間、両足の裏に数倍の重りが縫い付けられたような圧迫感を覚えた。
深度5,000メートル突破。
未整備のシャフトと断層を伝い、俺たちが足を踏み入れたのは、ギルドの観測記録にも存在しない第55層『重力断層の境界』だった。
頭上に広がる空間は、それまでの岩盤や空洞とはまるで異なっていた。
漆黒の空間に、幾重にも重なる青黒い歪みが陽炎のように揺らめいている。
空気そのものが目に見えない力でねじ曲げられ、音の伝わり方すら鈍く淀んでいた。
ピピピピピ、と甲高い電子音が連続して鳴り響く。
「先生、重力偏差が限界値を振り切っています! 通常重力の3.4倍、局所的な断層部では4倍を超えています! 計測器のセンサー基盤が歪み始めています!」
通信機越しに叫ぶ如月雫の声が、空間の乱れによってザラザラとした激しいノイズに呑まれかけていた。
手元の端末画面に走る走査線が、激しい電磁波と重力干渉によって波打っている。
「くっ、スワローのジャイロが効かない! 姿勢制御スラスタが熱暴走を起こしそうです! これ以上先へ飛ばしたら、気流に巻き込まれて機体が圧壊します!」
神崎葵の悲鳴に近い報告が続く。
上空を飛んでいた試作偵察機スワローが、見えない大気の下向きの奔流に叩きつけられ、木の葉のように激しく揺れ動いていた。
葵は即座に機体を反転させ、俺たちの頭上数メートルの低空まで退避させた。
「ぐっ、ううッ!」
隊列の先頭で、タケが押し殺した呻き声を漏らした。
構えた大盾の先端が、自重に耐えかねてガチガチと小刻みに震えている。
タケの膝が大きく軋み、玄武岩の床面を踏みしめるブーツの靴底がミシミシと音を立てていた。
大盾そのものの重量に加え、全身にかかる4倍近い重力負荷。
前衛として俊敏に魔獣の攻撃を受け流すどころか、その場に仁王立ちを保つことすら、彼の強靭な筋力をもってして限界に達しつつあった。
「タケさん!」
「だ、大丈夫だ、と言いたいところだが、笑えねえな、こりゃあ」
タケは額から吹き出す大量の汗を拭うこともできず、引き攣った笑みを浮かべた。
腕の血管が太く浮き上がり、握りしめたグリップの革巻きがギシギシと悲鳴を上げている。
異常は、タケだけに留まらなかった。
右側面を警戒していた一条岳の足元から、ドンッ、と不規則な破砕音が響いた。
「一条!」
振り返ると、一条が片膝を床につきかけていた。
道着風のコンバットローブの襟元から、浅く苦しげな呼吸が漏れ出している。
露出した首筋や前腕の皮膚に、赤紫色の斑点が浮き出ていた。
内臓や毛細血管を強烈な重力から保護するため、体内の生体魔力を無理に急循環させた結果、魔力回路が摩擦熱を起こし、生体組織に過負荷の鬱血を引き起こしていた。
「すまない、間宮。肉体が重力波の位相についていけていない」
一条は震える手甲で床を押し、無理やり上体を起こそうとした。
だが、その鋭利だった立ち姿からは、先ほどの神速のフットワークを繰り出す余裕は完全に失われていた。
「クソがっ! 油圧ホースが保たねえぞ!」
背後で、坂東宗一郎が怒声とともにV-RIGのサブアームを緊急停止させた。
バックパックの側面に這う高圧パイプの継ぎ目から、シュルシュルと細い白煙が吹き出している。
異常重力下で多関節アームを駆動させたため、作動油の内圧が安全弁の許容量を一瞬で突破し、シール材が破断しかけていた。
重装歩兵の坂東、近接肉体強化の一条、大盾前衛のタケ。
中層から深層にかけて幾多の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の探索者たちが、魔獣との交戦すら迎えていない段階で、この空間の環境圧そのものに押し潰されようとしていた。
その中で、俺だけが平然と大地に立っていた。
魔力変換効率92パーセント。
体内の微細魔力循環を全身の細胞、骨格、作業着の繊維一本一本に至るまで均等に同期させる。
外から押し寄せる重力波のベクトルを、皮膚表面の極微細な魔力振動で受け流し、下方向への圧力を左右へと巧みに逃がしていた。
道具の歪みをコンマ数ミリ単位で知覚する解体屋の技術。
全身のロスをゼロにする身体操作だけが、この狂気の重力場と奇跡的に調和していた。
「この先は、人間がチームを組んで足並みを揃えて潜れる領域じゃねえな」
タケがぽつりと呟いた。
大盾の石突きを床の亀裂に突き立て、ようやく両腕の力を抜いたタケが、荒い息を吐きながら俺を見据えた。
「ここまでだ」
その言葉は、静かに、けれど迷いのない響きを帯びて重力断層の闇に落ちた。
「タケ、俺の魔力循環を外側に広げれば、全員を覆う結界を作れるかもしれない」
俺が言うと、タケは首を横に振った。
「馬鹿言え。そんな薄っぺらい傘を差して、お前の魔力をすり減らしてどうする。俺たちが足枷になって、深層の主の前に出た時にお前が動けなくなったら全員野垂れ死にだ」
「だが!」
「間宮、タケの言う通りだ」
一条が立ち上がり、痛む腕を庇うことなく俺の肩に手を置いた。
「これは敗北ではない。我々は職人として、現場の限界を見極めただけだ。これ以上進めば、私はお前の背中を守る盾ではなく、お前の足首を掴む重りになる。武導を志す者として、それだけは断じて許されない」
一条の黒鉄の手甲が、俺の肩をぎゅっと強く握り締めた。
「お前の変換効率92パーセントの循環だけが、この異常重力を受け流せている。お前の刃でなければ、この深淵の先にある中枢核には届かない。一人で行け、間宮」
「一条」
「小僧!」
坂東がV-RIGのメイン電源を切り、スパナを工具ホルダーへ叩き込みながら前に出た。
「俺たちはここでお前の帰りを待つ足場を固める! この第55層を死守して、退路と通信中継の拠点を絶対に守り抜いてやる! 後ろの心配は一切するな!」
坂東が親指を立て、ギラリとした眼差しで笑ってみせた。
「お前は前だけ見て、サクッと一番いい肉を削ぎ落としてきな!」
「間宮さん」
葵がスワローを回収し、小さなショルダーバッグから銀色の金属ケースを取り出した。
ケースを開けると、青く発光する試作の予備バッテリーパックが収められている。
「アルス・テック社が開発した、レイヴン専用の高密度エーテルバッテリーです。如月さんと二人で、現場で最大出力まで過充電調整を施しました。これなら、どんな過酷な重力下でもレイヴンを動かし続けられます」
「雫も、ありがとう」
俺が受け取ると、雫がタブレット端末のデータを俺の携帯情報端末へと転送した。
「先生、第56層から先の重力断層マップと、ピラー中枢から漏れ出ている魔素の周期ログです。未踏領域ですから完全ではありませんが、空間の歪みが激しい危険座標はすべて赤色でハイライトしてあります。どうか、無理な踏み込みだけはしないでください」
雫の瞳には、現場へ同行できない技術者としての悔しさと、それを押し殺した強い信頼が宿っていた。
「みんな」
俺は仲間たちを見渡した。
誰一人として、絶望や恐怖で顔を歪めている者はいなかった。
下請け時代、俺はいつも一人だった。
誰も信じず、誰にも頼らず、ただ定時に生き延びて帰ることだけを考えていた。
だが今、俺の目の前には、己の限界を冷徹に見極め、自分の持ち場を死守することで俺を前へと送り出そうとする本物のプロたちがいた。
「分かった」
俺は背筋を伸ばし、深く頷いた。
「まず、ここに安全な前進拠点キャンプを設営しよう。タケさんと一条は体を休めてくれ。坂東、アンカーを打ってテントを固定するぞ」
「おうよ! 任せときな!」
俺たちは重力断層の境界からわずかに後退し、岩盤が安定した頑丈な洞穴を見つけ出した。
坂東のV-RIGから削岩アンカーを何本も壁面へ打ち込み、高強度の耐魔シートを展開して耐魔テントを組み上げる。
雫の結界発生器を中央に据え付け、葵がスワローの予備アンテナを洞穴の入り口に設置したことで、第55層における強固な前進拠点キャンプが完成した。
テントの中に入ると、重力偏差が和らぎ、タケや一条の呼吸も次第に落ち着きを取り戻していった。
準備が整い、俺はテントの入り口に立った。
腰には完全版アキュラ『天鷲』。
背嚢には4基の自律誘導端末『レイヴン』と、葵から託された予備バッテリー。
胸ポケットには、雫の観測データ端末と、母の形見と同じ工房で作られた真鍮の鈴の予備ストラップが収まっている。
タケが立ち上がり、右手を差し出してきた。
無言でその手を握り締める。
分厚く、タコだらけの無骨な掌。
何千回と大盾を構え、仲間を守り続けてきた男の確かな体温が伝わってくる。
続けて一条が、黒鉄の手甲を外した素手を差し出した。
汗に濡れたその手と固く握手を交わす。
言葉はなくとも、伝わってくる武導の魂があった。
最後に坂東が、油に汚れた手袋で俺の腕を力強く叩いた。
「小僧、17時の保育所のお迎えには、さすがに間に合いそうにねえな」
「ああ。今回は延長保育でも間に合わないな」
俺が苦笑交じりに答えると、男たちが一斉に低く笑った。
「当たり前だ」
タケが笑みを引っ込め、真剣な眼差しで俺を見据えた。
「遅れてもいい。どれだけ夜が更けてもいい。だが、鈴ちゃんを一人きりで待たせるんじゃねえぞ。必ず生きて帰ってこい」
「言われなくても、そのつもりだ」
俺は短く答え、仲間たちに背を向けた。
テントの外へ出ると、冷酷な重力断層の嵐が再び全身を包み込んだ。
だが、今の俺の足取りに、迷いや重さは欠片もなかった。
仲間たちが命がけで背中を支えてくれている。
そして地上では、愛娘が「まってる!」と笑って待っている。
俺は『天鷲』の柄を軽く指先で叩き、第56層へと続く暗黒の亀裂へと、単身足を踏み入れた。




