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病弱な幼馴染の一言が、取り柄のない私の全部だった  作者: 秋月 もみじ


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第9話 戻ってこないのか


「来なくていい」


 レイス様は、そう言った。朝食を運んだ時。彼は、まだ寝ていた。眠った状態で、つぶやいた。あるいは、朝の頭の中で、何か別のことを考えていたのかもしれない。でも、彼の耳は、赤くなっていた。


「かしこまりました」


 私は、朝食を置いて、部屋を去った。その言葉を、文字通りに、受け取ることにした。来なくていい。だから、行かない。


 台所で、朝食の準備をしていた。彼の昼食を。彼の夕食を。いつものように。でも、違う。手が、震えていた。マルタが、何か言いたげな顔をしていた。


「何ですか」


「いえ。先生が、お話ししたいことがあるのかな、と思って」


「何ですか」


「別に。ただ、表情がいつもと」


「そうなんですね」


 昼食は、運ばなかった。ヨハンが、運んだ。夕食も、マルタが、運んだ。彼が、私のことを探しているのか。それとも、その通りに、来なくていいという言葉を、そのままに、受け取っているのか。


 私には、わからなかった。そして、その「わからない」が、最も恐ろしいことだった。



 夜。彼の咳の音が、聞こえなかった。それは、いいことなのか。それとも、悪いことなのか。眠れなかった。まあ、眠れるはずもなかった。ベッドの中で、目を開き続けた。


 夜中の一時。私は、廊下に出ていた。レイス様の書斎の前。ノックしなかった。ただ、壁に背中を押しつけて、立っていた。部屋の中から、音がした。何かを、書いている音。羽根ペンが、紙を引きずる音。彼は、眠っていない。仕事をしている。書類を、書いている。だから、私は来なくていいのだ。彼の仕事が、全てだ。彼の領地が、全てだ。彼の病気が、全てだ。


 だから、私はここにいるしかない。冷たい床に、座った。石の冷さが、肌に沁みた。前世の実家の階段を思い出した。夜中に、眠れなくなった時。階段の踊り場に、座っていた。カーペットなし。石造りの階段。冷たかった。でも、その冷たさが、好きだった。何か、現実に、戻してくれるような。痛さが、引き戻してくれるような。


 同じように、ここで、座っていた。彼の部屋の外。朝まで。時々、彼の部屋から音がしなくなった。その時、爪が掌に食い込んでいた。彼が、眠ったのか。それとも黙っているのか。でも、時間が経つと、また、音がした。彼は、起きている。彼は、仕事をしている。彼は、私のことなど、考えていない。だから、ここにいてもいい。ここにいなくても、いい。何も、違わない。



 朝が来た。廊下で、ヨハン老執事に見つかった。


「ミーナ」


「おはようございます」


「ここで、一晩?」


「はい。来なくていいと、言われたので」


 ヨハン老執事は、深くため息をついた。


「来い」


 彼は、私の手を握った。温かい手だった。


「何もしていない。ただ、座っていただけで」


「わかっている。それで、いい」


「でも」


「来い。話さなければならないことがある」


 その言葉に従って、彼は、私をどこかに連れて行った。古い部屋だった。塚のような家具ばかりの、使われない部屋。でも、窓からの光は、きれいだった。


「ここは」


「昔の、レイス様の部屋だ。ここで、お前に、話さなければならないことがある」


「はい」


「『来なくていい』と言う時が、一番、来てほしい時だ。レイス様はな。前の婚約者様に、ああ言った時は、本当に帰ってしまった。何週間も経った後。あの人は、その言葉を、そのまま、受け取った」


「あ」


 その時、わかった。カタリーナが、いなくなったのは、彼が、「来なくていい」と言ったからなのか。


「あの人は、優しい奥さんだった。でも、レイス様の言葉の裏側を、読むことができなかった。だから、去ってしまった。あの人が、去った時、レイス様は、三日間、寝込んだ」


「……」


「もう、あの時のようなことは、起こらせたくない。あの人は、また、一人になりたくない」


「でも、ヨハン。私は、看護係です。彼の妻ではなく」


「わかっているか。あの人は、何を望んでいるのか」


「いいえ」


「あの人が、望んでいるのは、看護係の完璧さではなく、奥さんの温かさだ。その温かさが、彼を生かしている。その温かさがなければ、彼は、また倒れる」


「でも、そんなこと。感情を入れるべきではなく」


「感情を入れろ」


 ヨハン老執事は、はっきり言った。


「患者に感情を入れるな、というのは、医者の訓練だ。でも、ここはどこだ。病院ではなく、この領地だ。あの人は、患者ではなく、お前の旦那だ」


「……」


「違うのか」


「いいえ」


「では、できるか。試してみろ。あの人の言葉の裏側を、読んでみろ」


「……できるか、どうか、わかりません」


「でも、試してみるか」


「はい」


 ヨハン老執事は、微笑んだ。彼の目には、涙が、あった。



 夜中の二時。書斎の前に、立っていた。ヨハン老執事の言葉が、まだ耳に残っていた。「『来なくていい』という言葉の裏側を、読むんだ」。でも、どう読めばいいのか。その言葉は、本当に「来なくていい」なのか。それとも、「来てほしい。でも、来るなと言ってしまった」のか。


 ノックした。手が、震えていた。


「はい」


 彼の返事が、かすかに聞こえた。扉を開けた。彼は、デスクの前で、書類を整理していた。夜中なのに。


「何か」


 彼は、振り返らなかった。


「咳が、お聞きしませんでしたので。大丈夫かと」


「そうか」


「具合は」


「悪くない」


「そうですか」


 私は、動かなかった。通常なら、ここで去るはずだ。でも、私は、立っていた。


「何か」


 彼は、また、聞いた。


「あ……別に。ただ」


「ただ」


「来てみました」


 彼の背中が、かすかに震えた。


「そうか」


 彼は、デスクから身を起こした。杖を握った。


「来てくれたのか」


「はい」


 私は、言った。


「来ました」


 彼が、振り返った。月光が、彼の顔を照らしていた。彼の目には、涙が、あった。


 前世のアパートの玄関で、真冬に寝落ちしたことがある。夜勤明けで帰ってきて、靴を脱ぐ気力もなくて、そのまま玄関のタイルの上で朝を迎えた。あの時の石の冷たさと、今この廊下で感じる冷たさは、よく似ている。

 でも、あの時と違うのは、扉の向こうに誰かがいること。振り返ってくれる人がいること。


 まあ、それだけで十分だ。今は。


「そうか」


 彼は、つぶやいた。


「よかった」


「……」


「戻ってきてくれたのか」


 その時、わかった。ヨハン老執事の言葉が、全部、本当だったのだ。彼は、廊下に座っていた私を、知っていたのか。それとも、知らなかったのか。どちらでもいい。今、彼は、私が戻ってきたことを、喜んでいる。それだけが、全てだ。

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