第8話 私は——看護係なんだ
「楽になる」と言ってもらえて、嬉しかったはずだった。
夜の紅茶の時間だった。窓の外には月が出ていて、銀木犀の枝の影が壁に模様を作っている。レイスがカップを置いて、何気なく言った。
「ミーナがそばにいると、楽になる」
「そうですか」
「ああ。ここ数日でわかった。お前がいると、発作が起きにくい。咳も減る。不思議だが」
嬉しかった。嬉しかったはずだった。
なのに、その瞬間、前世の施設長の声が頭の中に割り込んできた。
「あなたは患者を安心させる天才ね」。ナースステーションの蛍光灯の下で、コーヒーを飲みながら。あの人はいつも穏やかに、でも一番大事なことは真剣に言った。
「でも気をつけなさい。安心させるのと、依存させるのは違うから」
ああ。
そうか。
この人が「楽になる」と言うのは、前世のおばあちゃんが「安心する」と言ったのと同じだ。
私の力じゃない。私の「仕事」だ。介護士としての、患者を安心させる技術。それが今世でも発動しているだけで、これは能力であって、感情じゃない。
……感情じゃ、ないよね?
「だから、なるべくそばにいてくれないか」
「はい。大丈夫です」
大丈夫。まあ、大丈夫。仕事として、そばにいる。それだけのことだ。
◇
翌日から、何かがおかしくなった。
レイスの部屋にお茶を持っていく。いつもと同じ。蜂蜜入りのリンデン茶。スプーンで軽くかき混ぜて、カップを差し出す。
いつもと同じ動作のはずなのに、手が、ぎこちない。スプーンが皿の縁に当たってカチン、と音がした。
「……どうした」
「いえ、何でも」
食堂で一緒にパン粥を食べる。レイスが「今日の蜂蜜は多いな」と言う。「すみません、量を間違えました」と答える。間違えたのは嘘だ。量はいつも同じだ。ただ、手元を見ていなかった。レイスの横顔を見ていた。
いや。
違う。患者の顔色を観察していたんだ。介護士として。顔色を見るのは仕事で、横顔を見ていたのとは別の行為で。
別の行為だ。
別の。
◇
夕方、庭で薬草の水やりをしていたら、オルガさんが領地の薬草園からハーブの苗を届けに来た。
「元気かい、新妻さん」
「元気です。まあ、元気というか」
「その顔で元気とは言わんだろう。くまができてるよ」
指摘されて、頬に手を当てた。確かに昨夜はあまり眠れなかった。
レイスの咳の音が聞こえてくるたびに目が覚めて、扉を開けようとして、やめた。それを三回繰り返したら朝になっていた。
「旦那様の具合は」
「……よくなっています。私がそばにいると、発作が減るみたいで」
「そりゃ結構なことだ」
オルガさんは乾燥ハーブの束をどさっとテーブルに置いた。ラベンダーと何かの葉。匂いが鼻にくる。前世の薬局の漢方コーナーに似た匂い。
「でも、あんた自身の具合はどうなんだい」
「大丈夫です」
「大丈夫って言う時が一番大丈夫じゃないってのは、医者の常識だよ」
返す言葉がなかった。
◇
その夜。
レイスの部屋で、夜の紅茶を一緒に飲んでいた。彼の咳は確かに少ない。呼吸も穏やかだ。
でも、私の方は、全然穏やかじゃなかった。
手元のカップに映る自分の顔がぼんやり見えた。くまができている。オルガさんの言う通りだ。
「ミーナ。何かあったのか」
「いえ」
「嘘だ。ここ二日、お前は変だ」
「変……ですか」
「お茶を淹れる手が震えている。話す時、目が合わない。いつもの"大丈夫です"が三倍増えた」
全部見抜かれている。
この人は病弱だけど、観察力だけは恐ろしく鋭い。
「……レイス」
「ああ」
「私、看護係ですよね」
「何だ突然」
「政略結婚で来て、あなたのそばにいて、発作を減らして。それが私の役割で。つまり、看護係、ですよね」
レイスが黙った。
長い沈黙。暖炉の火が爆ぜる音だけが聞こえる。
「……お前が、そう思うならそうだろう」
静かな声だった。怒っていない。怒っていないのに、何かが壊れた音がした。
まぶたの裏でもない。胸でもない。もっと深い、名前のつかない場所が、ぎしっと軋んだ。
部屋を出た。
その夜、レイスの発作が起きた。
咳の音が聞こえて、駆けつけた。前回と同じだ。書斎の椅子から崩れ落ちそうになっている。
身体が動いた。気道確保。体位変換。声をかける。
前回はできた。自動的に、手順通りに。
でも今回は、手が、動かない。
スプーンをカチンと鳴らしたあの手と同じ手だ。ぎこちなくて、鈍くて。レイスの肩を支える指に力が入らない。
前回は「患者」を支えていた。今は「レイス」を支えている。その差が、手を狂わせる。
「ミーナ」
レイスの声。かすれている。
「大丈夫、大丈夫です。すぐに楽になりますから」
嘘だ。大丈夫じゃないのは私の方だ。
この人の顔が苦しそうに歪むのを見ているのが、仕事として辛いのか、それとも。
発作は前回より長かった。
侍医が来るまでの十分間、私はレイスの手を握っていた。握っていたのは医療行為だ。患者の不安を軽減するためだ。それ以上の意味はない。
ないはずだ。
侍医が処置を終えて、レイスが眠りに落ちた後。
その手を離した瞬間、指の跡が掌に残っていた。私の手にも、レイスの手にも。強く握りすぎた。プロの介護士は、こんな力で握らない。
「奥様、お休みになってください」
マルタが声をかけてくれた。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないですよ。顔、真っ白です」
まあ、そうだろう。
部屋を出た。
廊下を歩いた。自分の部屋に入った。扉を閉めた。
壁に背中を押し付けて、座り込んだ。
看護係。看護係だ。私はそう言った。自分で言った。
違う違う違う。
そうじゃない。そうじゃないのに。
じゃあ何なんだ。何がそうじゃないんだ。
この人のそばにいたいのは仕事だからで。
パン粥を作るのは患者の栄養管理で。
冬薔薇がきれいだと思ったのは庭の手入れの一環で。
「たまたまだ」が嘘だと嬉しかったのは。
嬉しかったのは。
何。
何で。
何でだ。
前世の施設長の声がまた聞こえる。「感情を入れてはいけない」。わかってる。わかってるよ。六年間ずっとそうやってきた。プロだった。プロとして死んだ。
なのに、この人が「楽になる」と言った時の声が、消えない。掌の指の跡が、消えない。
私は看護係だ。
看護係として、ここにいる。
それが、この人のためだ。
床の石が冷たかった。前世のアパートのフローリングより、ずっと冷たかった。
その冷たさだけが、確かだった。




