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病弱な幼馴染の一言が、取り柄のない私の全部だった  作者: 秋月 もみじ


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第8話 私は——看護係なんだ


「楽になる」と言ってもらえて、嬉しかったはずだった。


 夜の紅茶の時間だった。窓の外には月が出ていて、銀木犀の枝の影が壁に模様を作っている。レイスがカップを置いて、何気なく言った。


「ミーナがそばにいると、楽になる」


「そうですか」


「ああ。ここ数日でわかった。お前がいると、発作が起きにくい。咳も減る。不思議だが」


 嬉しかった。嬉しかったはずだった。


 なのに、その瞬間、前世の施設長の声が頭の中に割り込んできた。

 「あなたは患者を安心させる天才ね」。ナースステーションの蛍光灯の下で、コーヒーを飲みながら。あの人はいつも穏やかに、でも一番大事なことは真剣に言った。

 「でも気をつけなさい。安心させるのと、依存させるのは違うから」


 ああ。


 そうか。


 この人が「楽になる」と言うのは、前世のおばあちゃんが「安心する」と言ったのと同じだ。

 私の力じゃない。私の「仕事」だ。介護士としての、患者を安心させる技術。それが今世でも発動しているだけで、これは能力であって、感情じゃない。


 ……感情じゃ、ないよね?


「だから、なるべくそばにいてくれないか」


「はい。大丈夫です」


 大丈夫。まあ、大丈夫。仕事として、そばにいる。それだけのことだ。



 翌日から、何かがおかしくなった。


 レイスの部屋にお茶を持っていく。いつもと同じ。蜂蜜入りのリンデン茶。スプーンで軽くかき混ぜて、カップを差し出す。


 いつもと同じ動作のはずなのに、手が、ぎこちない。スプーンが皿の縁に当たってカチン、と音がした。


「……どうした」


「いえ、何でも」


 食堂で一緒にパン粥を食べる。レイスが「今日の蜂蜜は多いな」と言う。「すみません、量を間違えました」と答える。間違えたのは嘘だ。量はいつも同じだ。ただ、手元を見ていなかった。レイスの横顔を見ていた。


 いや。


 違う。患者の顔色を観察していたんだ。介護士として。顔色を見るのは仕事で、横顔を見ていたのとは別の行為で。


 別の行為だ。


 別の。



 夕方、庭で薬草の水やりをしていたら、オルガさんが領地の薬草園からハーブの苗を届けに来た。


「元気かい、新妻さん」


「元気です。まあ、元気というか」


「その顔で元気とは言わんだろう。くまができてるよ」


 指摘されて、頬に手を当てた。確かに昨夜はあまり眠れなかった。

 レイスの咳の音が聞こえてくるたびに目が覚めて、扉を開けようとして、やめた。それを三回繰り返したら朝になっていた。


「旦那様の具合は」


「……よくなっています。私がそばにいると、発作が減るみたいで」


「そりゃ結構なことだ」


 オルガさんは乾燥ハーブの束をどさっとテーブルに置いた。ラベンダーと何かの葉。匂いが鼻にくる。前世の薬局の漢方コーナーに似た匂い。


「でも、あんた自身の具合はどうなんだい」


「大丈夫です」


「大丈夫って言う時が一番大丈夫じゃないってのは、医者の常識だよ」


 返す言葉がなかった。



 その夜。


 レイスの部屋で、夜の紅茶を一緒に飲んでいた。彼の咳は確かに少ない。呼吸も穏やかだ。

 でも、私の方は、全然穏やかじゃなかった。


 手元のカップに映る自分の顔がぼんやり見えた。くまができている。オルガさんの言う通りだ。


「ミーナ。何かあったのか」


「いえ」


「嘘だ。ここ二日、お前は変だ」


「変……ですか」


「お茶を淹れる手が震えている。話す時、目が合わない。いつもの"大丈夫です"が三倍増えた」


 全部見抜かれている。

 この人は病弱だけど、観察力だけは恐ろしく鋭い。


「……レイス」


「ああ」


「私、看護係ですよね」


「何だ突然」


「政略結婚で来て、あなたのそばにいて、発作を減らして。それが私の役割で。つまり、看護係、ですよね」


 レイスが黙った。


 長い沈黙。暖炉の火が爆ぜる音だけが聞こえる。


「……お前が、そう思うならそうだろう」


 静かな声だった。怒っていない。怒っていないのに、何かが壊れた音がした。


 まぶたの裏でもない。胸でもない。もっと深い、名前のつかない場所が、ぎしっと軋んだ。


 部屋を出た。


 その夜、レイスの発作が起きた。


 咳の音が聞こえて、駆けつけた。前回と同じだ。書斎の椅子から崩れ落ちそうになっている。

 身体が動いた。気道確保。体位変換。声をかける。

 前回はできた。自動的に、手順通りに。


 でも今回は、手が、動かない。


 スプーンをカチンと鳴らしたあの手と同じ手だ。ぎこちなくて、鈍くて。レイスの肩を支える指に力が入らない。

 前回は「患者」を支えていた。今は「レイス」を支えている。その差が、手を狂わせる。


「ミーナ」


 レイスの声。かすれている。


「大丈夫、大丈夫です。すぐに楽になりますから」


 嘘だ。大丈夫じゃないのは私の方だ。

 この人の顔が苦しそうに歪むのを見ているのが、仕事として辛いのか、それとも。


 発作は前回より長かった。

 侍医が来るまでの十分間、私はレイスの手を握っていた。握っていたのは医療行為だ。患者の不安を軽減するためだ。それ以上の意味はない。


 ないはずだ。


 侍医が処置を終えて、レイスが眠りに落ちた後。

 その手を離した瞬間、指の跡が掌に残っていた。私の手にも、レイスの手にも。強く握りすぎた。プロの介護士は、こんな力で握らない。


「奥様、お休みになってください」


 マルタが声をかけてくれた。


「大丈夫です」


「大丈夫じゃないですよ。顔、真っ白です」


 まあ、そうだろう。


 部屋を出た。


 廊下を歩いた。自分の部屋に入った。扉を閉めた。


 壁に背中を押し付けて、座り込んだ。


 看護係。看護係だ。私はそう言った。自分で言った。


 違う違う違う。

 そうじゃない。そうじゃないのに。

 じゃあ何なんだ。何がそうじゃないんだ。


 この人のそばにいたいのは仕事だからで。

 パン粥を作るのは患者の栄養管理で。

 冬薔薇がきれいだと思ったのは庭の手入れの一環で。

 「たまたまだ」が嘘だと嬉しかったのは。


 嬉しかったのは。


 何。


 何で。


 何でだ。


 前世の施設長の声がまた聞こえる。「感情を入れてはいけない」。わかってる。わかってるよ。六年間ずっとそうやってきた。プロだった。プロとして死んだ。

 なのに、この人が「楽になる」と言った時の声が、消えない。掌の指の跡が、消えない。


 私は看護係だ。

 看護係として、ここにいる。

 それが、この人のためだ。


 床の石が冷たかった。前世のアパートのフローリングより、ずっと冷たかった。

 その冷たさだけが、確かだった。

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