第7話 たまたまだ
冬薔薇は、寒い時期ほど深い色になるらしい。
庭を歩いている時に気づいた。先週は淡い赤色だったはずの花弁が、今は深紅に染まっている。霜をかぶった花びらの端が、朝日を受けてきらきらと光る。しゃがんで一枚を指先で触れてみた。冷たくて、でも柔らかい。
「これ、いつ頃から咲いてたんですか」
隣にいたマルタに聞いた。
「あ、この薔薇ですか。半年くらい前に、旦那様が植えさせたんですよ」
半年前。
私の手が、花弁の上で止まった。
「旦那様が?」
「はい。あの方が庭のことに口を出すなんて珍しいのに。わざわざ苗木を取り寄せて、ここに植えろと」
半年前。それは、この政略結婚が決まった時期と重なる。
まあ、偶然かもしれない。偶然に決まっている。
「きれいですね」
「ほんと。奥様が来てから、ますますきれいに咲いてますよ」
マルタが笑った。最近、彼女はよく笑う。来た頃は手つきに迷いがあったけれど、今はリンデン茶を淹れる手順も覚えてしまった。
前世でスマホで調べた冬薔薇の育て方が、うっすら蘇った。寒さに当てると色が濃くなる。水はやりすぎない。乾燥した空気を好む。検索結果を見て「いつか育てたいな」と思ったことまで覚えている。結局、ワンルームのベランダでは日当たりが足りなくて、諦めたんだった。
それが今、目の前で咲いている。
しかもレイスが植えた花だという。
ヨハンさんに聞いてみた。
「あの冬薔薇のこと、何かご存知ですか」
ヨハンさんは少しだけ目を細めた。あの「全部知っている」目だ。
「旦那様は、苗木の選定をご自身でなさいました。わざわざ南方の農園から取り寄せて。品種の名前まで指定されておりましたね」
品種の名前まで。
たまたまでそこまでするか。
「奥様が来られる前から、あの区画だけは旦那様が世話を指示されていました。侍医にも、花粉が身体に悪くないか確認なさっていたそうです」
ヨハンさんはそれだけ言って、いつもの「左様でございますか」の顔で立ち去った。全部わかっていてこの情報を渡してくるのが、この人の恐ろしいところだ。
◇
夕方、庭で薬草の手入れをしていたら、レイスが杖をつきながらやってきた。
冬薔薇の花壇の前で、足を止めた。深紅の花を、黙って見ている。
「レイス」
名前を呼ぶと、振り返った。
「お前、この薔薇を見たか」
「ええ。マルタに聞きました。半年前に植えたって」
「……ああ」
レイスは花に視線を戻した。
「たまたまだ。前の庭番が辞めた後、空いた区画を埋めるために何か植えろと言っただけだ」
「そうなんですか」
「お前が好きだと言っていた花に、似ていただけだ」
え。
「私が好きな花をご存知なんですか」
レイスの耳が赤くなった。自分でもわかっているのか、杖を持つ手を持ち替えて、わざとらしく花壇の反対側を向いた。
「お前が子供の頃、垣根の向こうで眺めていた花があっただろう。あれに似ていたから。それだけだ」
十年以上前のことを、覚えている。
私が垣根の隙間から覗いていた花の種類を、覚えている。
まぶたの裏が、じんと熱くなった。
「ありがとうございます」
「だから、たまたまだと言っている」
耳はまだ赤い。嘘が下手な人だ。
風が吹いて、花弁がふわりと揺れた。蜂蜜に似た甘い香りが鼻をかすめる。冬の花なのに、こんなに甘い匂いがするとは知らなかった。
花びらに付いた霜が溶けて、小さな水滴になっている。レイスのローブの裾に、その水滴が一つ落ちた。レイスは気づいていない。
「レイス、裾に水が」
「ん? ああ」
拭こうとして手を伸ばしたけれど、レイスは先に手で払ってしまった。その動作がぎこちなくて、杖がぐらついた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ。裾が少し濡れただけだ」
「いえ、杖が」
「杖も大丈夫だ」
噛み合わない会話。でも、不快ではない。レイスは話を逸らしたい時に「大丈夫」を連発する癖がある。それは私の「大丈夫です」と同じだ。お互い、大丈夫じゃない時ほど大丈夫と言う。
「冬薔薇は、春に枯れる」
レイスが呟いた。
「季節が来たら、なくなってしまう花だ。だから今のうちに、ちゃんと見ておかないと」
「そうですね」
「ミーナ。お前は、大事なものを大事にしているか」
「……できるだけ」
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。杖の音を響かせて、屋敷に戻っていく。
少し足を引きずっていた。夕方は身体が重いのだろう。でも、わざわざ庭まで出てきた。
マルタが窓から見ていたらしく、台所に戻ると「旦那様、あの花壇の前で、いつも奥様を待ってるんですよ」と囁いた。
「待ってる?」
「はい。奥様が庭に出る時間、もう覚えてるんです」
まあ、レイスは記憶力がいいから。侯爵として領地の数字も全部頭に入っている人だから。私の行動パターンを覚えるくらい、別にどうということはない。
ないはずだ。
パウレッテが夕食のスープを温めながら、マルタと目を合わせてにやにやしていた。
見なかったことにした。
◇
夜。寝台に入って、目を閉じた。
前世の施設で教わったことが、頭の中で繰り返される。「患者との距離を保ちなさい。感情移入は判断を鈍らせる」。施設長の声だ。いつも穏やかだけど、その一点だけは真剣だった。
わかっている。レイスは私の看護対象だ。
政略結婚で来た身だ。この人の病を支えるのが役目だ。
それなのに。
「たまたまだ」と言ったあの人の赤い耳が、目を閉じても消えない。
前世で、好きだった人がいた。同じ施設の理学療法士。三年間、隣の部署で一緒に働いた。「好き」と言えないまま、私が先に死んだ。
あの時も、「仕事の仲間だから」と自分に言い聞かせていた。
今も同じことをしている。
枕に顔を押し付けた。リネンの匂いがする。前世のアパートの枕より、ずっといい匂い。
レイスの声が、耳に残っている。
「大事なものを大事にしているか」
それが花のことなのか、別のことなのか。
わかりたくなかった。わかったら、もう「仕事だから」とは言えなくなる。
だから今日も、目を閉じて、深呼吸を三回。
前世の施設長なら「それでいい」と言ってくれただろう。
でも。
「たまたま」が嘘だったこと。
半年も前から花を準備していたこと。
品種の名前まで調べていたこと。
花粉が身体に悪くないか確認していたこと。
それが全部、嬉しかった。
嬉しいと思ってしまった自分が、少しだけ怖かった。
この気持ちに名前をつけたら、もう戻れない。
だからまだ、つけない。
でも、まぶたの裏の熱さだけは、消えなかった。
リンデン茶が冷めるまで目を閉じていて、気づいたら朝になっていた。




