第6話 完璧な微笑みと完璧なドレス
「あら、この方がレイス様の奥方?」
その人は、完璧な微笑みと完璧なドレスで、玄関に立っていた。銀色の装飾が、光の中で揺れている。アルヴァーン領のシンボルが、彼女の胸に止められていた。公式な訪問だ。
「初めまして。カタリーナ・フェルステン公爵令嬢です」
声は、砂糖をたくさん入れた紅茶のようだった。甘い。美しい。でも、どこか作られたような。唇が、絶対に動き過ぎることなく、完璧な角度で上がっている。
「ミーナ・パウルセン申し上げます」
私は、深く頭を下げた。
「あら、これはミーナさん。噂では、レイス様が病気の時の世話を……」
「ええ。そうです」
「病人の世話、大変でしょう。特に、あの人のように、気難しい方は。私にはとても耐えられなかったわ」
彼女は、笑った。その笑顔は、完璧だった。歯が、白い。唇が、完璧に色づいている。でも、目は、何も見ていない。それは、見るべき対象を、決めているのかもしれない。彼女のドレスを見た。刺繍が、細かい。前世の私は、こんな高い服は、触ったことがない。デパートのウィンドウで見たことはあるが。その刺繍の技術は、すごかった。一つ一つの糸が、完璧に並んでいる。銀色と、淡い青の糸。その組み合わせで、冬の薔薇が描かれている。誰が、こんなことをしたのか。何週間かけて、このドレスを作ったのか。
愛を込めて、作られたのか。それとも、義務で、作られたのか。
「でも、あなたみたいに若い奥方なら、頑張れるわね。若さは、大事。あたしももう若くないし」
彼女は、自分の完璧さを、謙遜した。でも、その謙遜も、完璧だった。
「ところで、レイス様はいらっしゃいますか。少しお時間をいただきたいのですが」
「ご体調のため、今はお休みになっています」
「そうですか。では、また今度。お伝えください。エドワード殿下がお久しぶりのご挨拶をしたいと」
エドワード。第二王子。この領地を欲しがっている人。
「かしこまりました」
「あ、そうそう」
彼女は、帰り際に、もう一度、私を見た。その視線は、今度は、何かを見ようとしていた。
「レイス様のお役に立てるよう、どうか最善を尽くしてください。ここの執事さんや召使いさんにとって、新しい奥方というのは、つらいこともあるかもしれません。でも、もう前の人のことは、誘い水のように流れていますから。あたしも、新しい場所で、頑張ります」
「……ありがとうございます」
「では、失礼します」
彼女は、さっさと去った。ドレスの裾が、白いタイルの上を滑る音。その音は、重かった。重い生地。高い刺繍。完璧な仕立てが、一歩一歩、重さを増す。玄関を出る時、彼女は、後ろを振り返った。レイス様の部屋の窓が、ここから見える。その窓に、ほのかに灯りが見える。彼女は、それを見た。口の端が、動いた。その瞬間、彼女の完璧さが、ひび割れるように見えた。そして、馬に乗って、去った。
◇
夜。レイス様に、訪問について伝えた。
「そうか」
彼は、何も言わなかった。
「エドワード殿下からの、お使いだそうです」
「そうか」
彼は、もう一度、そう言った。そして、書斎に戻った。彼が、まだ本当に回復していないことは、わかっていた。医者は、「もう一週間は、完全な安静を」と言った。でも、彼は、書斎に戻りたいと言った。「仕事が溜まっている」と。その仕事が、何なのか。誰からの手紙が、どのくらい溜まっているのか。
私には、知る権利がない。でも、その夜から、彼の様子が、変わった。マルタが、台所で、ため息をついた。
「その人、昔の奥方じゃないですか」
「そうなんですか」
「前に、村で見たことあります。馬に乗ってる姿。きれいですよね。でも、ずっと変わらない。昔も今も」
「そうですね」
「ミーナさん、あの人より、きれいですよ」
マルタは、そう言った。でも、それは嘘だ。カタリーナは、完璧だった。私は、完璧ではない。でも、その後、パウレッテが、台所の奥からパンを出した。いつもより、一枚多く。ヨハンは、紅茶の準備をしながら、「レイス様は、今日も食堂で召し上がるかな」と言った。それは、あることを願う声だった。昨日までの様子が、続くことを。でも、それは、続かなかった。
◇
翌日の朝。レイス様は、食堂には現れなかった。朝食のトレイを、書斎に運んだ。彼は、デスクの前で、何かの書類を読んでいた。手紙か。公式な文書か。
「おはようございます」
「そうか」
返事は、短かった。彼の顔は、いつもより、蒼白だった。夜、眠ったのか。
◇
二日後。カタリーナの訪問から、二日が経つと、レイス様の様子が、ひどく変わった。夜の咳が、増えた。書斎から出ようとしない。食堂にも出ない。朝食も、夜食も、すべて書斎で済ませている。医者は、「ストレスの影響だろう」と言った。
医者が去った後、私が訊いた。
「何が起きましたか」
「何も」
レイス様が答えた。何も、ではない。彼は、何かを、背負った。こめかみがじんじんした。それは、カタリーナの訪問から、始まったことは、確実だ。エドワード。その名前だけで、十分だった。
まあ、第二王子が、この領地に目をつけている。そして、カタリーナは、その伝言者だ。
◇
三日目の朝。ヨハンが、私を台所に呼んだ。
「ミーナ。何か気づいたことはあるか」
「……いいえ」
「そうか。あの人は、何か重い荷物を、背負ったのだ。昨日から」
「はい。そう見えます」
「でも、何なのかは、わからない。あの人は、話さない」
「そうですね」
ヨハンは、深いため息をついた。
「昔は、彼女が来ると、あの人は、もっと悪くなった。三日間、寝込んだこともある」
ヨハン老執事は、長い間、この家にいた。彼の記憶には、前の奥方の時代も、含まれている。
「でも、今回は、違うかもしれない」
「なぜですか」
「お前がいるからだ」
◇
一週間後。夜中。私は、廊下に出ていた。レイス様の書斎の外。またしても、彼の咳を聞きながら。
今回は、ノックしなかった。ただ、壁に寄りかかって、聞いていた。咳の音。その後の、深い呼吸。そして、また咳。彼の部屋の窓は、ほのかに光っていた。あかりが、まだ点いている。彼は、寝ていない。何かを、書いている。手紙か。返事か。朝になるまで、仕事をするのか。
その時、書斎の窓の方から、かすかな光が走った。青白い光。咳の直後。またそれだ。あの光。今度は、違う感覚だった。それは、魔法ではなく、病気だ。彼の身体が、何かに侵されている。その何かが、光を放つ。
ため息をついて、廊下を去った。明日。明日は何か、別の方法を考える。でも、今は、ただ眠る。でも、眠らなかった。朝まで、廊下の冷たい床を感じながら、彼の側にいた。
ヨハンの言葉が、反響していた。「お前がいるからだ」。完璧なカタリーナの言葉は、間違っていなかった。「病人の世話は、大変」。でも、その大変さが、やめられない。それは、何なのか。仕事だ。それ以上に考えてはいけない。




